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<ブログ記事>

更新の頻度は特に決まっておりません。
小説やイラストが好きですが、こちらでは聖書について書かせていただきます。
おもに聖書から素敵な言葉をピックアップして、短いコメントを載せていきたいと思います。

・最終更新日2017年10月20日


普津沢(聖書:初心者で1年目です)のコメント    白河(聖書:初心者で教会にいっています)のコメント




2017年8月9日
ルカによる福音書・6章の27節より

『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

(当たり前のことなのかもしれませんが、はっとさせられてしまいました。とても素敵な言葉だと思います)





2017年8月10日
マルコによる福音書・7章の34節より

『そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。』

(イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒す場面です。自分の指を両耳に入れてはずし、唾をつけて聞こえない人の舌に触れて呪文のように言うあたりがまるで神様のようでとても印象深い場面でした)





2017年8月10日
ルカによる福音書・6章の41節より

『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか』

(まったくそのとおりだと思います。日々自分をかえりみながら気をつけていきたいですね)





2017年8月12日
マタイによる福音書・6章の1節より

『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる』

(良いことをするときには人目のあるなしは関係がないということでしょうか。日々澄んだ心でいたいものですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・12章の25節〜27節より

『体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』

(今日の礼拝の説教で聞いた言葉です。教会の中で信者たちが言い争いをしている場面です。信者たちはキリストの体となってそれぞれに役割があり、どれも無くてはならないんですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の10節より

『皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい』

(どんなことでも集団にいる限り、心を一つにして取り組まないと何もなりません。お互いの意見を尊重して一致団結して取り組むことが大切だと実感しました)





2017年8月13日
マタイによる福音書・7章の23節より

『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』

(自分に都合がよいときにだけ、神さまを頼るようなやり方では聞き入れてもらえないということでしょうか。日頃からのおこないが大切なのでしょうね)





2017年8月13日
マタイによる福音書・22章の39節より

『隣人を自分のように愛しなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉ですね。まったくそのとおりだと思います)





2017年8月15日
創世記・1章の1節より

『初めに、神は天地を創造された』

(聖書を開いたときに一番最初に目にとびこんでくる文章です。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年8月15日
マタイによる福音書・6章の24節より

『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』

(ここでいう富とはそのままお金のことと考えればよいのでしょうか。日々心を清くしていたいものですね)





2017年8月16日
ルカによる福音書・1章の30節より

『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっている男の子を産むが、 その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。』

(神から遣われマリアのもとにやってきた天使のガブリエルがイエスを産むという予告をする場面です。ヨセフの許嫁だったマリアですが、まだ少女でヨセフの顔すらも見たことがありません。初々しくて戸惑うマリアが印象にのこりました)





2017年8月16日
ルカによる福音書・15章の31節より

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

(この章のタイトルは「放蕩息子のたとえ」です。イエスが放蕩息子の話しを信者にした場面です。兄と弟の話ですが、弟は勝手に家を出て父親の半分の遺産を全部遊びにつかってしまったのです。その間、兄は父親のために孝行をして一生懸命働くのです。 それなのに、突然ふらっと現れた弟に父親は涙を流して抱きしめて祝福をするのです。私はこの話を何回読んでも理解ができません。 女遊びや贅沢な暮らしをし尽くして家族を捨てた弟なんか許せませんが、この物語を読んで、親はどんなことがあっても家を出て行ってもずっと子は子なんだと思いました。 親と子供目線はまったく違いますね。)





2017年8月17日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の19節より

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』

(もしいつか審判されるときがくるとするならば、もの知りであったり仕事ができたりすることよりも尊われるべきことがあるということでしょうか。それは聖書でいうところの十字架の言葉だったり、隣人を愛することだったり、そういうことなのかもしれませんね)





2017年8月17日
ヨハネの黙示録・12章の9節より

『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(聖書を読んでいてとてもおどろいたのですが、聖書では比喩としてではなく実在するものとして、悪魔の存在をはっきりと認めているようです。このことに関しては、もう少ししっかりと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月20日
ヤコブの手紙・4章の2~3節より

『得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』

(とても奥が深い言葉だと思います。エゴを捨ててということなのでしょうが、これは本当にむずかしいことですよね)





2017年8月20日
讃美歌493番・いつくしみ深い

『いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ』

(教会でお葬式をあげるときに必ず歌う曲です。「いつくしみ深き」とは、恵み深い神さまの慈しみを讃えている賛美歌という意味らしいです。 つらく、悲しいときでも、救い主なるイエスさまは私たちと共におられ、私たちを慰め、いたわって下さいます。 去年の11月から1月にかけて、教会の信者さんが3人もお亡くなりになりお葬式をあげました。みんなご高齢でした。 現在、2人の信者さんが長期の入院をしております。一人は肺に水が溜まっていて深刻な状況です。無事元気に戻ってきますことを祈っております)





2017年8月20日
讃美歌83番・聖なるかな

『聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なる神
主の栄光は 地に満てり
聖なるかな 主なる神』

(教会に初めて来て一番最初に聞いて印象に残った曲です。いつも礼拝の最初のときに歌います。キリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです)





2017年8月21日
フィリピの信徒への手紙・2章の6~8節より

『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』

(聖書ではたびたびこの内容のことがつづられています。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年8月21日
ペトロの手紙・2章の24節より

『そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました』

(おそらくキリストが十字架にかけられたのは、人々の罪の身代わりのための定めだったということでしょうか。聖書ではこの内容のこともたびたびでてきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年8月23日
ルカによる福音書・24章の7節より

『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』

(十字架にかけられたあとに墓に葬られたキリストのもとを訪れた婦人たち。その婦人たちに向けて天使が語った言葉です。キリストが復活されていたことにとてもおどろきましたが、もともと神様は天地を創造されたほかに、一番はじめの人間、アダムも土の塵(ちり)からお創りになりました。とするならキリストが死から復活されたこともおこりうるということなのでしょうね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年8月25日
マタイによる福音書・5章の39節より

『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉です。復讐するようなことがあってはならない、それを指し示している言葉のようです。こうありたいものですが、しばしば感情を抑えるのはむずかしいことですよね)





2017年8月27日
コリントの信徒への手紙(一)・10章の29節より

『「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです』

(「良心」という言葉はディズニーのピノキオに出てくるブルーフェアリーも言っていました。良心に従うのですよ、と言ってます。 この「良心」という言葉ですが奥が深いんです。上に書いています言葉は、コリントの教会の信者さんから良心とはなにかという質問が寄せられたときにコリントが答えた言葉なのです。 これを読んでわたしはいろいろと考えさせられました。自分にとっての良心と他人にとっての良心があるのですね。どっちをとるかは本人次第なのですが、できたら自分と他人が分かりあえる「良心」に従いたいです)





2017年8月28日
マタイによる福音書・10章の26節より

『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである』

(誰にも見られていない、誰にも知られていないと思っていることでも、神様は見ているということでしょうか。この文章の少しあとには、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている、といった言葉までがつづられています。なにかこう考えさせられるものがありますね)





2017年8月29日
ルカによる福音書・4章の35節より

『イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った』

(汚れた霊に取りつかれた男をいやすシーンです。前にもふれましたが聖書はサタンや悪霊の存在をはっきりと認めていますね。こうした霊に関する内容に対しては、もっと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月30日
ルカによる福音書・6章の27節より

『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』

(聖書ではこれと似た文面のものがしばしば出てきます。自己犠牲とでもいうのでしょうか、自分を抑えてでも人に親切にすること。なかなかむずかしいところもありますが、こうありたいものですね)





2017年9月1日
ルカによる福音書・6章の43節より

『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない』

(良い心があるところから良い言葉が語られ、また悪い心があるところから悪い言葉が語られるという意味のようです)





2017年9月2日
讃美歌6番・つくりぬしを賛美します

『つくりぬしを 賛美します
み前に進み ひれふし
ささげます 身もたましいも
きよい主のみ名を 感謝して』

(教会へいったときに毎回歌う曲です。この感謝にみちた讃美歌はアメリカの感謝祭の礼拝で必ずうたわれるもののひとつらしいです)





2017年9月2日
讃美歌258番・牧人ひつじを

『まきびとひつじを 見守るその夜
はじめて天使は ノエルを伝えた
ノエル、ノエル、ノエル、ノエル
主イェスは生まれた』

(イギリスのクリスマスキャロルです。この曲を毎年クリスマスのときに教会で歌って気持ちがホッとします。 この歌の内容ですが、新約聖書の一つでありますルカの福音書の第2章で見ることができます。羊飼い達が羊の群れの番をしていたその夜に、空から神の使いが現れるシーンが描かれています)





2017年9月4日
マタイによる福音書・6章の8~13節より

『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行なわれますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
私たちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください』

(ここでの「御名」とは神様をあらわす言葉です。神様は一人一人の心を見透かしておられるのですから、願いごとがあるときなどもくどくどと述べずに、このようにお祈りをすれば良いようです)





2017年9月6日
ルカによる福音書・17章の20~21節より

『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』

(これはイエス・キリストの言葉です。もしかしたら神の国は、人の目に見えないだけで、思いのほか近くにあるのかもしれませんね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年9月9日
ヨハネの黙示録・22章の18~19節より

『これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この予言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』

(ここでいう、これ、とは聖書のことを指しているようです。つまり聖書に対して、勝手な言葉や解釈などをつけたしてはならない、また故意ではなくても、言葉を省略したりしてはいけない、といった忠告をうながしているのでしょう。こうしたブログを書いている以上は、特に気をつけていきたいと思います)





2017年9月10日
使徒言行録・23章の11節より

『その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」』

(イエスに憧れるパウロは、イエスと同じように囚われ裁判をかけられたその夜の場面です。イエスがそばに立って言われたとのことですが、パウロの夢に出てきたということなのか、 生霊として現れたのかは分かりません。この話の続きはまだありまして次の聖書の言葉にも書きました)





2017年9月10日
使徒言行録・25章の10~11節より

『「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、 だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」』

(皇帝とはローマ皇帝のことです。パウロはフェリクス総督の都合のため2年間裁判を延期している間、ずっと諦めずに待っていました。 そして、任期を満了した総督が新しい総督フェストゥスに変わってから大きく事(こと)が動きました。 これは神様の力によって、あの時の夜に現れたイエスに言われたとおり、ローマへの道が開かれることになりました。そしてパウロはその道を進んで裁判で思い切ってローマ皇帝に上訴すると言いました)





2017年9月10日
讃美歌463番・わが行くみち

『わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに』

(この歌でもありますように、神様が開いてくださった道をただ、ひたすら、私たちは一筋に進んでいくべきだと思います)





2017年9月12日
マルコによる福音書・7章の20~23節より

『人から出て来るものこそ、人を汚(けが)す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、悪意、詐欺(さぎ)、好色(こうしょく)、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである』

(聖書ではこの内容のことがくりかえしでてきます。きれいな心をもちつづけることを日々意識していきたいものですね)





2017年9月13日
マルコによる福音書・8章の38節より

『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる』

(これはキリストの言葉です。ここでいう人の子とはキリスト自身のことです。父とは神のことです。恥じるとは恥ずかしく思うといったところでしょうか。聖書ではサタンや悪霊の存在を認めている一方で、このようにキリストのことはもちろん、天使の存在もはっきりと認めています。この文面そのものはキリストの再臨についてのシーンだと思いますが、これについては聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月15日
主の祈り

『天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
御心の天に成る如く
地にもなさせ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みに遭わせず、
悪より救い出し給え。
国と力と栄えとは
限りなく汝のものなれば成り。
アーメン』

(教会の礼拝の始まりのときに毎回必ず言う言葉です。最近気がつきましたがいろいろな洋画をみていますと、窮地に立たされたときに縋るように祈っている場面をみることがあります)





2017年9月15日
使徒信条

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン』

(教会の礼拝の終わりのときに毎回必ず言う言葉です。この言葉もなんだかエクソシストで聞いたように思います)





2017年9月15日
コリントの信徒への手紙・13章の4~7節より

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失(しっ)せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』

(聖書では“愛”という言葉も多く出てきますので、こちらに載せておきたいと思います。ここでいう不義とは正義、道義、義理に反することといったところでしょうか。※辞書参考)





2017年9月16日
コリントの信徒への手紙・15章の40節より

『また、天上の体と地上の体があります』

(聖書を読むにあたってキーとなる言葉だと思います。この文章の少しあとにはこうつづられています。『蒔(ま)かれるときは朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです』おそらくこれは地上の体から天上の体へと移りゆくことを指しているのでしょう。これに関しても聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月18日
マタイによる福音書・10章の29節より

『二羽の雀(すずめ)が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない』

(雀一羽の運命さえ神ににぎられているということなのでしょう。とても凄いことだと思います。※尚一アサリオンとは約300円のことのようです)





2017年9月19日
マタイによる福音書・10章の32~33節より

『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う』

(これはキリストの言葉です。たしかにそういうものなのだと思います。印象的でしたのでここに載せておきますね)





2017年9月20日
マタイによる福音書・18章の3節より

『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』

(この、心を入れ替えて子供のようにならなければ、という言葉に感銘を受けました。ここでいう子供とは純粋さを指しているのでしょう。日々こころがけていきたいものです)





2017年9月21日
ヨハネの手紙 一・4章の12節より

『いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです』

(この、いまだかつて神を見た者はいません、という言葉ですが、聖書にこうつづられている以上はそういうものなのだと思います。はっとさせられてしまったので、ここに載せておくことにしますね)





2017年9月22日
コリントの信徒への手紙・8章の4節より

『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています』

(ただ一人の神だけが、万物を創造できるということなのでしょう。のちのち忘れてしまわないように、ここに載せておきたいと思います)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」』

(パウロと他数名の囚人がローマに向けて航海をする話です。海が大荒れで命の危険もある大航海となります。 暴風に襲われ船が遭難したときにパウロが囚人たちに勇気づけて言ったときの話です。 逆境における強靱な精神をもつパウロですが、昨晩に天使がやってきてまた告げられるのです。その続きを下に書きました)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは(ローマ)皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」』

(前にパウロの枕元にイエスが現れ、そして今回も絶望に陥ったときに天使が目の前に現れました。 パウロは日頃からイエスの気持ちになったようにいつも動いていて信仰もとてもあついです。 彼の体の中にしっかり信仰が刻み込まれていますので、いざというときに力が発揮されるのです。 絶望に陥っても諦めない精神力が素晴らしいです)





2017年9月24日
讃美歌474番・わが身の望みは

『風いとはげしく なみ立つ闇夜も
みもとに錨(いかり)を おろして安らわん
われらのイェスこそ 救いの岩なれ
救いの岩なれ』

(今回の話に沿っているように思いましたので2番の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私もどんな逆境に立たされても決して望みを捨てず、強い信仰をもち強靱な精神を養いたいと思いました)





2017年9月25日
ヨブ記・38章の4~7節より

『わたしが大地を据(す)えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
誰がその上に測(はか)り縄(なわ)を張ったのか。
基(もとい)の柱はどこに沈められたのか。
誰が隅(すみ)の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた』

(これは神が人間のヨブに話しかけているシーンです。この1行目の “大地を据えたとき” とは、創世記における ”第一の日”、もしくは ”第三の日” のことを指しているようです(その両方に “地” についての文章がある)。そしてその大地が据えられたときには、すでに喜びの声をあげる天使たち(神の子ら)の存在があったということが、ここに記されています。ちなみに最初の人間であるアダムが創造されたのは ”第六の日” ですから、人間よりも先に天使たちが創造されていたことになります。これを抑えた上でまた創世記を読みなおしてみたいと思います)

<以下、創世記より一部引用>
・第一の日:初めに、神は天地を創造された。地は混沌(こんとん)であって、闇が深淵(しんえん)の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。
・第三の日:神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
・第六の日:神は御自分(ごじぶん)にかたどって人を創造された。※ここでの ”人” とはアダムのこと。





2017年9月26日
エゼキエル書・28章の12~17節より

『主なる神はこう言われる。
お前はあるべき姿を印章(いんしょう)としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。
お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉(こうぎょく)、紫水晶(むらさきずいしょう)
かんらん石、縞(しま)めのう、碧玉(へきぎょく)
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金(きん)で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。
わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。
お前が創造された日から
お前の歩みは無垢(むく)であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。
お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。
お前の心は美しさのゆえに高慢(こうまん)となり
栄華(えいが)のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし、
王たちの前で見せ物とした』

(エデンの園で最初に罪を犯した人間がエバであるのは有名ですが、同じエデンの園で先に堕落をし、罪を犯した天使がいたことはあまり知られていないように思います。ここでいう “お前” とはサタンのことであり、彼はもともとは翼をもった “ケルブ” という天使として創造されていました。彼は知恵に満ち、とても美しく、その身に着けている宝石の数からもかなり力のある天使だったようです。ちなみにエデンの園でエバを誘惑したのも、このサタンだと言われています(ただし創世記ではサタンを象徴する “蛇”としてつづられている)。このことを抑えておくことで、より創世記が読みやすくなるように思います)

<以下、ヨハネの黙示録・12章の9節より引用>
『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』
このように “蛇” を “サタン” の象徴としている内容が記されています。





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の17~20節より

『(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠(かんむり)を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦(あし)の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。』

(今回は十字架のはりつけの名場面をご紹介させていただきます。苦しみは人間の罪に対する「神の怒り」、「神の裁き」。人間に向けられるべき神の怒りが、イエスに向けられることになり、苦しみを受け神の子としてなりました。 十字架にかけられるまでに兵士たちは笑いながら彼に、屈辱と壮絶な痛みを与え続け、悲しみと絶望を浮かべる人々の見せしめにしました。つづきもあります)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の22~23節より

『イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。没薬(もつやく)を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。』

(没薬(もつやく)とは痛み止めのことです。いばらの冠をかぶせられ頭から血を流し、何度も棒で叩かれ背中にノコギリのような鞭を振るわれ、瀕死の重傷でしたが没薬(もつやく)を勧められても飲むことを拒みました。「痛み=神の怒り・裁き」だから彼はすべてを受け止めたのだと思いました)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の33~34節より

『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それ(十字架のはりつけ)が三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』

(十字架刑をおこなった時間は午前9時〜午後3時までの6時間です。大勢の人たちの前で十字架に釘付けにして、何時間も激痛を負わせ気絶しかけると気づけ薬で意識を戻し少しずつ体力を消耗させ死に至らしめる身も凍るような恐ろしい処刑です。 この場面は「パッション」という映画でも見られます。雨に打たれながらイエスは暗雲を立ち込めた空に向かい「アッパ!(お父さん)」と泣き叫び続けておりました。 ここに至るまでに何度か死刑を免れるチャンスはありましたがイエスは考えを決して否定をしませんでした。そして、神のお怒りを人間の子イエスがすべて受けました。 とても悲しいことですがイエスの尊さと一緒に忘れてはならないことだと思います。)





2017年9月28日
テサロニケの信徒への手紙・4章の16~17節より

『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります』

(聖書を読んでいてとてもおどろいた箇所です。ここには死者が、死んですぐに天国に行くのではないとつづられています。これから起こる神のラッパが鳴り響くまでは、復活しないということです。そしてキリストを信じて生きている者たちまでが、そのラッパを合図に空中に引き上げられて、いつまでも主と共にいることになるとつづられています。つまり死を迎えてからではなく、死を迎える前に、それも死者を含めた多くの人と一緒に神と会うということです。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月29日
創世記・3章の24節より

『こうしてアダムを追放し、命に木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣(つるぎ)の炎(ほのお)を置かれた』

(約束をやぶって、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムを、エデンの園から神が追放するシーンです。ここでいう “ケルビム” とは、天使 “ケルブ” の複数形をあらわす言葉です。つまりエデンの園にある命の木の実(=永遠に生きる者となれる実)を、複数の天使で守っているということです。神に反逆したサタンもケルブですから、かなり力のある天使たちが命の木を守っていることになります。私が聖書をはじめて読んだときは、この “ケルビム” という言葉の意味がわからず、そのまま読みとばしていました。まさか天使のことだとは思わなかったのです。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年9月30日
エゼキエル書・1章の4~10節より

『またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子(しし)の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲(わし)の顔を持っていた』

(これは人間であるエゼキエルが、ケルブ(天使)を目撃したときの文章です。おそらくですが四人のケルブがいて、それぞれが四つの顔と、四つの翼と、四本の腕を持っているということなのでしょうか。ここのところは何度読んでもその姿に確信がもてませんが、ただ天使というものの姿を想像する手助けにはなるように思います。これが神様が創造された天使なのだと思うと、感慨深いものがありましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月30日
イザヤ書・6章の1~4節より

『わたしは、高く天にある御座(みざ)に主が座(ざ)しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍(ばんぐん)の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた』

(これは人間であるイザヤが見た幻です。ここでは “ケルビム” ではなく “セラフィム” という天使が出てきています。ケルビムはエデンの園を守っている天使ですが、セラフィムは主が座しておられる御座の宙を飛び交っている天使のようです。この天使は、聖なる、聖なる、と言って神をたたえていますね。このこともここに載せておきたいと思います)





2017年10月1日
ヨハネの黙示録・4章の6~8節より

『また、わたしは見た。そして、玉座(ぎょくざ)と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠(ほふ)られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」』

(これは人間であるヨハネが目にしている(正確にはキリストの指示を受けた天使に見せられている)光景です。万の数万倍とは数億のことですから、それだけの天使が玉座の周りにいることになります。神様はこの地上とはべつに、天使たちを含めた天の国を創られているようです。とても興味深いのでここに載せておきますね。なお屠られた小羊とはキリストのことです)





2017年10月2日
エフェソの信徒への手紙・2章の1~3節より

『さて、あなたがたは、以前は自分の過(あやま)ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした』

(聖書には天の国にたくさんの天使たちがいるとつづられています。しかし一方でその天の国に属さないこの地上を支配しているのは、サタンであるともつづられています。そして人間のような肉体を持たないサタンを、ここでは “空中に勢力を持つ者” として表現されています。考えさせられる内容でしたので、ここに載せておきますね)





2017年10月4日
創世記・6章の4節より

『当時もその後(のち)も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった』

(ここでいう “神の子ら” とは天使たちのことです。つまり堕落して罪を犯すことになった天使は、サタンだけではなかったようです。こうして地上には天使と人間のあいだに産まれた “ネフィリム” が誕生することになりました。ちなみに神様はこのあとで、ノアの箱舟に乗った8人の人間を除いて、すべての者を地上からぬぐい去っています。もちろんネフィリムも死に絶えました。興味深い箇所でしたので、ここに載せておくことにします)

<以下、ユダの手紙・6節より引用>
『一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁(さば)きのために、永遠の鎖(くさり)で縛り、暗闇の中に閉じ込められました』
このように自分のいるべき場所を離れてしまった天使たちが、暗闇の中に閉じ込められているという文章があります。上記のことと関係があるのかはわかりませんが、ここに載せておきたいと思います。

<以下、民数記・13章の32~33節より一部引用>
『我々が見た民(たみ)は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出(で)なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない』
ここにつづられているように “ネフィリム” は巨人だったようです。巨人ゆえに、名高い英雄たち、と人間からは呼ばれていたのでしょうか。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません。





2017年10月5日
コリントの信徒への手紙・6章の19節より

『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

(ここでいう、あなたがた、とはキリストを信じている人たちのことのようです。言うなれば、キリストを信じている人の体には聖霊が宿ってくださるということなのでしょう。この “聖霊” については、これからも聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年10月6日
マルコによる福音書・10章の13~16節より

『イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』

(教会にお母さんたちが子供を連れてイエスに祝福してもらう場面です。 普通の元気な子供はどんな場所でも遊んだり大声を上げたりするものです。 弟子たちはそれが主イエスのお働きの邪魔になってしまうと思ったのか、 子供たちを連れて来た母親たちを叱りつけました。それを見たイエスが彼らに怒鳴りました。 私の通っている教会にたまに子供を連れてくる信者さんの夫婦がいます。 兄弟がツミキやミニカーを持って走らせたり大きな声を張り上げて走り回ったりするのです。 私は申し訳ありませんが牧師の説教がよく聞こえませんし落ち着かないのでうるさいと思ってしまうのですが、 それでも説教をしている牧師や座っている信者さんは何も言わずにいます。 やはり、聖書に書かれていますとおり、子供を受け入れなくてはならないと思うからかもしれません。 聖書の時代のイスラエルの人々にとって、子供とは「いまだ完全な人間になってはいない存在」とされていたようです。 大人になって初めて一人前の人間になるのである。 イエスは子供たちを“あるがまま”に受けとめ、慈しんで下さっていたと以前牧師がお茶会のときに話してくださったことがあります。 わたしもイエス様と同じようにあるがままの子供たちを受け入れて教会に迎えなければいけないと思いました。)





2017年10月7日
ヨハネの手紙 一・4章の1~3節より

『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者(にせよげんしゃ)が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公(おおやけ)に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です』

(霊には神から出ている “聖霊” と、それ以外の “悪霊” とがあります。その見分け方はなにもむずかしいものではなく、キリストのことを公に言えるかどうか、のようです。少し考えさせられるところがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2017年10月8日
ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(ここでいう “この書物の預言の言葉” とは、聖書に載っている “ヨハネの黙示録” のことです。ヨハネの黙示録は、ここに記されているとおり預言書になっています。さすがにその全文をここに載せるわけにはいきませんので、この言葉をピックアップして載せておきたいと思います)





2017年10月9日
ローマの信徒への手紙・1章の16節より

『わたしは福音(ふくいん)を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです』

(”福音” とは聖書に載っている “マタイによる福音書” “マルコによる福音書” “ルカによる福音書” “ヨハネによる福音書” の4つのことを指しています。これらはこの4人の方がそれぞれ視点者となって、イエス・キリストという人物を浮き彫りにするといった態をとっています。私は一度目から興味深く読むことができました。それですのでここに紹介しておきたいと思います)





2017年10月11日
ローマの信徒への手紙・3章の22~25節より

『すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです』

(聖書には “キリストを信じることにより” という文面がくり返しでてきます。聖書はとても分厚い本ですが、もしかしたらこの内容のことを一番伝えたいのかもしれません。ここにでてくる “キリスト・イエスによる贖いの業” とは、人間の罪の身代わりとして十字架にかけられて息絶えたことを指しているようです。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、というところも印象にのこりましたので、ここに載せておきたいと思います。※辞書参考:贖いとは、罪や過ちの償いをすることです)





2017年10月12日
ローマの信徒への手紙・13章の13~14節より

『酒宴(しゅえん)と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色(こうしょく)、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい』

(主イエス・キリストを身にまといなさい、という表現にぐっときました。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年10月13日
ヨハネによる福音書・14章の6節より

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」』

(ここでいう “父” とは神のことです。神のもとに行くには、キリストを知らなければならない、と聖書はつづっています。つまり、神さま、神さま、と祈るだけでは神へとつづく道は通れないのでしょう。聖書を読みなれている方にとっては当たり前のことなのでしょうが、キリストを意識して学んでいくためにもここに載せておきたいと思います)





2017年10月14日
創世記・7章の1~5節より

『主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面(おもて)に子孫が生き続けるように。七日の後(のち)、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした』

(これは神が大洪水を起こそうとしている前のシーンです。この洪水によりノアを含む計8名以外のすべての人間が死に絶えました。なぜこうしてノアの家族だけが選ばれたかというと、聖書には、ノアが神に従う人だったから、とつづられています。これは言い換えるなら、神に従わずに堕落しきった者たちを、その血筋もろともぬぐい去ったということです。神様のこうした厳しい一面も、聖書を読んでいると出てきますのでここに載せておきたいと思います)





2017年10月16日
ヨハネの黙示録・6章の12~14節より

『また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。

ヨハネの黙示録・8章の10~11節より

『第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星に名は「苦(にが)よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ』

ヨハネの黙示録・16章の17~18節より

『第七の天使が、その鉢(はち)の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就(じょうじゅ)した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった』

(かつて神は人間が堕落しきったためにノアの洪水を起こし、不法に満ちた人間たちをぬぐい去りました。そして聖書内のヨハネの黙示録において “すぐにも起こるはずのこと” として上記のことを予言しています(ちなみに引用したものは一部です。 “封印” “ラッパ” “鉢” それぞれが第一から第七まであります)。これらはもしかするとノアの洪水に匹敵するような大災害を指しているのかもしれません。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておくことにします)





2017年10月17日
ヨハネの手紙 一・5章の19節より

『わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです』

(ここでいう “悪い者” とはサタンのことです。聖書ではこの内容のことがたびたび出てきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月18日
ルカによる福音書・8章の29~31節より

『この人は何回も汚(けが)れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った』

(悪霊とは堕落した天使、つまりサタンの支配下にある天使たちのことのようです。ここに記されているように、その悪霊たちは人に取りつくことができます。しかし一方で彼らは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように、とイエスに願っています。つまりキリストの強さを知っていると同時に、”底なしの淵” という閉じ込められるような場所があることも知っているのでしょう。興味深いことでしたので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月19日
ヨハネの黙示録・13章の16~18節より

『また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である』

(ヨハネの黙示録とは預言書のことです。そしてその中ではかつてのノアの洪水に匹敵するような災害が予言されています。またそうした世の終末に向かうあいだで、上記のようにマイクロチップのことなのでしょうか、それらを埋め込まれて監視されるような社会が来ることも予言されています。さらには獣の数字とも呼ばれている、反キリストの中心的な人物を指している数字が六百六十六であることも記されています。ここは黙示録の中でもとても有名な箇所ですので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月20日
ヨハネの黙示録・12章の7~9節より

『さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(人類を惑わしてきたサタン一味も、大天使ミカエルを中心とする天使たちには勝つことができません。しかしこれは人類が皆、救われるということを意味してはいません。聖書でいう救いとは、神の存在を認め、キリストが行なってくれたこと(つまり人間の罪の身代わりとして十字架にかかり、葬られたこと)や、その彼が死から復活されたことを信じている者たちだけに与えられるものです。聖書を読むにあたり、この点は抑えておきたいことですので、ここに載せておくことにします)





<ブログ記事ここまで>

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