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<ブログ記事>

更新の頻度は特に決まっておりません。
小説やイラストが好きですが、こちらでは聖書について書かせていただきます。
おもに聖書から素敵な言葉をピックアップして、短いコメントを載せていきたいと思います。

・最終更新日2018年1月19日


普津沢(聖書:初心者で1年目です)のコメント    白河(聖書:初心者で教会にいっています)のコメント




2017年8月9日
ルカによる福音書・6章の27節より

『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

(当たり前のことなのかもしれませんが、はっとさせられてしまいました。とても素敵な言葉だと思います)





2017年8月10日
マルコによる福音書・7章の34節より

『そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。』

(イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒す場面です。自分の指を両耳に入れてはずし、唾をつけて聞こえない人の舌に触れて呪文のように言うあたりがまるで神様のようでとても印象深い場面でした)





2017年8月10日
ルカによる福音書・6章の41節より

『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか』

(まったくそのとおりだと思います。日々自分をかえりみながら気をつけていきたいですね)





2017年8月12日
マタイによる福音書・6章の1節より

『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる』

(良いことをするときには人目のあるなしは関係がないということでしょうか。日々澄んだ心でいたいものですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・12章の25節〜27節より

『体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』

(今日の礼拝の説教で聞いた言葉です。教会の中で信者たちが言い争いをしている場面です。信者たちはキリストの体となってそれぞれに役割があり、どれも無くてはならないんですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の10節より

『皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい』

(どんなことでも集団にいる限り、心を一つにして取り組まないと何もなりません。お互いの意見を尊重して一致団結して取り組むことが大切だと実感しました)





2017年8月13日
マタイによる福音書・7章の23節より

『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』

(自分に都合がよいときにだけ、神さまを頼るようなやり方では聞き入れてもらえないということでしょうか。日頃からのおこないが大切なのでしょうね)





2017年8月13日
マタイによる福音書・22章の39節より

『隣人を自分のように愛しなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉ですね。まったくそのとおりだと思います)





2017年8月15日
創世記・1章の1節より

『初めに、神は天地を創造された』

(聖書を開いたときに一番最初に目にとびこんでくる文章です。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年8月15日
マタイによる福音書・6章の24節より

『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』

(ここでいう富とはそのままお金のことと考えればよいのでしょうか。日々心を清くしていたいものですね)





2017年8月16日
ルカによる福音書・1章の30節より

『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっている男の子を産むが、 その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。』

(神から遣われマリアのもとにやってきた天使のガブリエルがイエスを産むという予告をする場面です。ヨセフの許嫁だったマリアですが、まだ少女でヨセフの顔すらも見たことがありません。初々しくて戸惑うマリアが印象にのこりました)





2017年8月16日
ルカによる福音書・15章の31節より

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

(この章のタイトルは「放蕩息子のたとえ」です。イエスが放蕩息子の話しを信者にした場面です。兄と弟の話ですが、弟は勝手に家を出て父親の半分の遺産を全部遊びにつかってしまったのです。その間、兄は父親のために孝行をして一生懸命働くのです。 それなのに、突然ふらっと現れた弟に父親は涙を流して抱きしめて祝福をするのです。私はこの話を何回読んでも理解ができません。 女遊びや贅沢な暮らしをし尽くして家族を捨てた弟なんか許せませんが、この物語を読んで、親はどんなことがあっても家を出て行ってもずっと子は子なんだと思いました。 親と子供目線はまったく違いますね。)





2017年8月17日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の19節より

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』

(もしいつか審判されるときがくるとするならば、もの知りであったり仕事ができたりすることよりも尊われるべきことがあるということでしょうか。それは聖書でいうところの十字架の言葉だったり、隣人を愛することだったり、そういうことなのかもしれませんね)





2017年8月17日
ヨハネの黙示録・12章の9節より

『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(聖書を読んでいてとてもおどろいたのですが、聖書では比喩としてではなく実在するものとして、悪魔の存在をはっきりと認めているようです。このことに関しては、もう少ししっかりと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月20日
ヤコブの手紙・4章の2~3節より

『得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』

(とても奥が深い言葉だと思います。エゴを捨ててということなのでしょうが、これは本当にむずかしいことですよね)





2017年8月20日
讃美歌493番・いつくしみ深い

『いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ』

(教会でお葬式をあげるときに必ず歌う曲です。「いつくしみ深き」とは、恵み深い神さまの慈しみを讃えている賛美歌という意味らしいです。 つらく、悲しいときでも、救い主なるイエスさまは私たちと共におられ、私たちを慰め、いたわって下さいます。 去年の11月から1月にかけて、教会の信者さんが3人もお亡くなりになりお葬式をあげました。みんなご高齢でした。 現在、2人の信者さんが長期の入院をしております。一人は肺に水が溜まっていて深刻な状況です。無事元気に戻ってきますことを祈っております)





2017年8月20日
讃美歌83番・聖なるかな

『聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なる神
主の栄光は 地に満てり
聖なるかな 主なる神』

(教会に初めて来て一番最初に聞いて印象に残った曲です。いつも礼拝の最初のときに歌います。キリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです)





2017年8月21日
フィリピの信徒への手紙・2章の6~8節より

『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』

(聖書ではたびたびこの内容のことがつづられています。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年8月21日
ペトロの手紙・2章の24節より

『そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました』

(おそらくキリストが十字架にかけられたのは、人々の罪の身代わりのための定めだったということでしょうか。聖書ではこの内容のこともたびたびでてきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年8月23日
ルカによる福音書・24章の7節より

『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』

(十字架にかけられたあとに墓に葬られたキリストのもとを訪れた婦人たち。その婦人たちに向けて天使が語った言葉です。キリストが復活されていたことにとてもおどろきましたが、もともと神様は天地を創造されたほかに、一番はじめの人間、アダムも土の塵(ちり)からお創りになりました。とするならキリストが死から復活されたこともおこりうるということなのでしょうね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年8月25日
マタイによる福音書・5章の39節より

『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉です。復讐するようなことがあってはならない、それを指し示している言葉のようです。こうありたいものですが、しばしば感情を抑えるのはむずかしいことですよね)





2017年8月27日
コリントの信徒への手紙(一)・10章の29節より

『「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです』

(「良心」という言葉はディズニーのピノキオに出てくるブルーフェアリーも言っていました。良心に従うのですよ、と言ってます。 この「良心」という言葉ですが奥が深いんです。上に書いています言葉は、コリントの教会の信者さんから良心とはなにかという質問が寄せられたときにコリントが答えた言葉なのです。 これを読んでわたしはいろいろと考えさせられました。自分にとっての良心と他人にとっての良心があるのですね。どっちをとるかは本人次第なのですが、できたら自分と他人が分かりあえる「良心」に従いたいです)





2017年8月28日
マタイによる福音書・10章の26節より

『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである』

(誰にも見られていない、誰にも知られていないと思っていることでも、神様は見ているということでしょうか。この文章の少しあとには、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている、といった言葉までがつづられています。なにかこう考えさせられるものがありますね)





2017年8月29日
ルカによる福音書・4章の35節より

『イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った』

(汚れた霊に取りつかれた男をいやすシーンです。前にもふれましたが聖書はサタンや悪霊の存在をはっきりと認めていますね。こうした霊に関する内容に対しては、もっと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月30日
ルカによる福音書・6章の27節より

『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』

(聖書ではこれと似た文面のものがしばしば出てきます。自己犠牲とでもいうのでしょうか、自分を抑えてでも人に親切にすること。なかなかむずかしいところもありますが、こうありたいものですね)





2017年9月1日
ルカによる福音書・6章の43節より

『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない』

(良い心があるところから良い言葉が語られ、また悪い心があるところから悪い言葉が語られるという意味のようです)





2017年9月2日
讃美歌6番・つくりぬしを賛美します

『つくりぬしを 賛美します
み前に進み ひれふし
ささげます 身もたましいも
きよい主のみ名を 感謝して』

(教会へいったときに毎回歌う曲です。この感謝にみちた讃美歌はアメリカの感謝祭の礼拝で必ずうたわれるもののひとつらしいです)





2017年9月2日
讃美歌258番・牧人ひつじを

『まきびとひつじを 見守るその夜
はじめて天使は ノエルを伝えた
ノエル、ノエル、ノエル、ノエル
主イェスは生まれた』

(イギリスのクリスマスキャロルです。この曲を毎年クリスマスのときに教会で歌って気持ちがホッとします。 この歌の内容ですが、新約聖書の一つでありますルカの福音書の第2章で見ることができます。羊飼い達が羊の群れの番をしていたその夜に、空から神の使いが現れるシーンが描かれています)





2017年9月4日
マタイによる福音書・6章の8~13節より

『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行なわれますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
私たちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください』

(ここでの「御名」とは神様をあらわす言葉です。神様は一人一人の心を見透かしておられるのですから、願いごとがあるときなどもくどくどと述べずに、このようにお祈りをすれば良いようです)





2017年9月6日
ルカによる福音書・17章の20~21節より

『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』

(これはイエス・キリストの言葉です。もしかしたら神の国は、人の目に見えないだけで、思いのほか近くにあるのかもしれませんね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年9月9日
ヨハネの黙示録・22章の18~19節より

『これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この予言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』

(ここでいう、これ、とは聖書のことを指しているようです。つまり聖書に対して、勝手な言葉や解釈などをつけたしてはならない、また故意ではなくても、言葉を省略したりしてはいけない、といった忠告をうながしているのでしょう。こうしたブログを書いている以上は、特に気をつけていきたいと思います)





2017年9月10日
使徒言行録・23章の11節より

『その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」』

(イエスに憧れるパウロは、イエスと同じように囚われ裁判をかけられたその夜の場面です。イエスがそばに立って言われたとのことですが、パウロの夢に出てきたということなのか、 生霊として現れたのかは分かりません。この話の続きはまだありまして次の聖書の言葉にも書きました)





2017年9月10日
使徒言行録・25章の10~11節より

『「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、 だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」』

(皇帝とはローマ皇帝のことです。パウロはフェリクス総督の都合のため2年間裁判を延期している間、ずっと諦めずに待っていました。 そして、任期を満了した総督が新しい総督フェストゥスに変わってから大きく事(こと)が動きました。 これは神様の力によって、あの時の夜に現れたイエスに言われたとおり、ローマへの道が開かれることになりました。そしてパウロはその道を進んで裁判で思い切ってローマ皇帝に上訴すると言いました)





2017年9月10日
讃美歌463番・わが行くみち

『わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに』

(この歌でもありますように、神様が開いてくださった道をただ、ひたすら、私たちは一筋に進んでいくべきだと思います)





2017年9月12日
マルコによる福音書・7章の20~23節より

『人から出て来るものこそ、人を汚(けが)す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、悪意、詐欺(さぎ)、好色(こうしょく)、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである』

(聖書ではこの内容のことがくりかえしでてきます。きれいな心をもちつづけることを日々意識していきたいものですね)





2017年9月13日
マルコによる福音書・8章の38節より

『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる』

(これはキリストの言葉です。ここでいう人の子とはキリスト自身のことです。父とは神のことです。恥じるとは恥ずかしく思うといったところでしょうか。聖書ではサタンや悪霊の存在を認めている一方で、このようにキリストのことはもちろん、天使の存在もはっきりと認めています。この文面そのものはキリストの再臨についてのシーンだと思いますが、これについては聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月15日
主の祈り

『天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
御心の天に成る如く
地にもなさせ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みに遭わせず、
悪より救い出し給え。
国と力と栄えとは
限りなく汝のものなれば成り。
アーメン』

(教会の礼拝の始まりのときに毎回必ず言う言葉です。最近気がつきましたがいろいろな洋画をみていますと、窮地に立たされたときに縋るように祈っている場面をみることがあります)





2017年9月15日
使徒信条

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン』

(教会の礼拝の終わりのときに毎回必ず言う言葉です。この言葉もなんだかエクソシストで聞いたように思います)





2017年9月15日
コリントの信徒への手紙・13章の4~7節より

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失(しっ)せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』

(聖書では“愛”という言葉も多く出てきますので、こちらに載せておきたいと思います。ここでいう不義とは正義、道義、義理に反することといったところでしょうか。※辞書参考)





2017年9月16日
コリントの信徒への手紙・15章の40節より

『また、天上の体と地上の体があります』

(聖書を読むにあたってキーとなる言葉だと思います。この文章の少しあとにはこうつづられています。『蒔(ま)かれるときは朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです』おそらくこれは地上の体から天上の体へと移りゆくことを指しているのでしょう。これに関しても聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月18日
マタイによる福音書・10章の29節より

『二羽の雀(すずめ)が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない』

(雀一羽の運命さえ神ににぎられているということなのでしょう。とても凄いことだと思います。※尚一アサリオンとは約300円のことのようです)





2017年9月19日
マタイによる福音書・10章の32~33節より

『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う』

(これはキリストの言葉です。たしかにそういうものなのだと思います。印象的でしたのでここに載せておきますね)





2017年9月20日
マタイによる福音書・18章の3節より

『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』

(この、心を入れ替えて子供のようにならなければ、という言葉に感銘を受けました。ここでいう子供とは純粋さを指しているのでしょう。日々こころがけていきたいものです)





2017年9月21日
ヨハネの手紙 一・4章の12節より

『いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです』

(この、いまだかつて神を見た者はいません、という言葉ですが、聖書にこうつづられている以上はそういうものなのだと思います。はっとさせられてしまったので、ここに載せておくことにしますね)





2017年9月22日
コリントの信徒への手紙・8章の4節より

『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています』

(ただ一人の神だけが、万物を創造できるということなのでしょう。のちのち忘れてしまわないように、ここに載せておきたいと思います)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」』

(パウロと他数名の囚人がローマに向けて航海をする話です。海が大荒れで命の危険もある大航海となります。 暴風に襲われ船が遭難したときにパウロが囚人たちに勇気づけて言ったときの話です。 逆境における強靱な精神をもつパウロですが、昨晩に天使がやってきてまた告げられるのです。その続きを下に書きました)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは(ローマ)皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」』

(前にパウロの枕元にイエスが現れ、そして今回も絶望に陥ったときに天使が目の前に現れました。 パウロは日頃からイエスの気持ちになったようにいつも動いていて信仰もとてもあついです。 彼の体の中にしっかり信仰が刻み込まれていますので、いざというときに力が発揮されるのです。 絶望に陥っても諦めない精神力が素晴らしいです)





2017年9月24日
讃美歌474番・わが身の望みは

『風いとはげしく なみ立つ闇夜も
みもとに錨(いかり)を おろして安らわん
われらのイェスこそ 救いの岩なれ
救いの岩なれ』

(今回の話に沿っているように思いましたので2番の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私もどんな逆境に立たされても決して望みを捨てず、強い信仰をもち強靱な精神を養いたいと思いました)





2017年9月25日
ヨブ記・38章の4~7節より

『わたしが大地を据(す)えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
誰がその上に測(はか)り縄(なわ)を張ったのか。
基(もとい)の柱はどこに沈められたのか。
誰が隅(すみ)の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた』

(これは神が人間のヨブに話しかけているシーンです。この1行目の “大地を据えたとき” とは、創世記における ”第一の日”、もしくは ”第三の日” のことを指しているようです(その両方に “地” についての文章がある)。そしてその大地が据えられたときには、すでに喜びの声をあげる天使たち(神の子ら)の存在があったということが、ここに記されています。ちなみに最初の人間であるアダムが創造されたのは ”第六の日” ですから、人間よりも先に天使たちが創造されていたことになります。これを抑えた上でまた創世記を読みなおしてみたいと思います)

<以下、創世記より一部引用>
・第一の日:初めに、神は天地を創造された。地は混沌(こんとん)であって、闇が深淵(しんえん)の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。
・第三の日:神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
・第六の日:神は御自分(ごじぶん)にかたどって人を創造された。※ここでの ”人” とはアダムのこと。





2017年9月26日
エゼキエル書・28章の12~17節より

『主なる神はこう言われる。
お前はあるべき姿を印章(いんしょう)としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。
お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉(こうぎょく)、紫水晶(むらさきずいしょう)
かんらん石、縞(しま)めのう、碧玉(へきぎょく)
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金(きん)で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。
わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。
お前が創造された日から
お前の歩みは無垢(むく)であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。
お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。
お前の心は美しさのゆえに高慢(こうまん)となり
栄華(えいが)のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし、
王たちの前で見せ物とした』

(エデンの園で最初に罪を犯した人間がエバであるのは有名ですが、同じエデンの園で先に堕落をし、罪を犯した天使がいたことはあまり知られていないように思います。ここでいう “お前” とはサタンのことであり、彼はもともとは翼をもった “ケルブ” という天使として創造されていました。彼は知恵に満ち、とても美しく、その身に着けている宝石の数からもかなり力のある天使だったようです。ちなみにエデンの園でエバを誘惑したのも、このサタンだと言われています(ただし創世記ではサタンを象徴する “蛇”としてつづられている)。このことを抑えておくことで、より創世記が読みやすくなるように思います)

<以下、ヨハネの黙示録・12章の9節より引用>
『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』
このように “蛇” を “サタン” の象徴としている内容が記されています。





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の17~20節より

『(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠(かんむり)を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦(あし)の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。』

(今回は十字架のはりつけの名場面をご紹介させていただきます。苦しみは人間の罪に対する「神の怒り」、「神の裁き」。人間に向けられるべき神の怒りが、イエスに向けられることになり、苦しみを受け神の子としてなりました。 十字架にかけられるまでに兵士たちは笑いながら彼に、屈辱と壮絶な痛みを与え続け、悲しみと絶望を浮かべる人々の見せしめにしました。つづきもあります)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の22~23節より

『イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。没薬(もつやく)を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。』

(没薬(もつやく)とは痛み止めのことです。いばらの冠をかぶせられ頭から血を流し、何度も棒で叩かれ背中にノコギリのような鞭を振るわれ、瀕死の重傷でしたが没薬(もつやく)を勧められても飲むことを拒みました。「痛み=神の怒り・裁き」だから彼はすべてを受け止めたのだと思いました)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の33~34節より

『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それ(十字架のはりつけ)が三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』

(十字架刑をおこなった時間は午前9時〜午後3時までの6時間です。大勢の人たちの前で十字架に釘付けにして、何時間も激痛を負わせ気絶しかけると気づけ薬で意識を戻し少しずつ体力を消耗させ死に至らしめる身も凍るような恐ろしい処刑です。 この場面は「パッション」という映画でも見られます。雨に打たれながらイエスは暗雲を立ち込めた空に向かい「アッパ!(お父さん)」と泣き叫び続けておりました。 ここに至るまでに何度か死刑を免れるチャンスはありましたがイエスは考えを決して否定をしませんでした。そして、神のお怒りを人間の子イエスがすべて受けました。 とても悲しいことですがイエスの尊さと一緒に忘れてはならないことだと思います。)





2017年9月28日
テサロニケの信徒への手紙・4章の16~17節より

『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります』

(聖書を読んでいてとてもおどろいた箇所です。ここには死者が、死んですぐに天国に行くのではないとつづられています。これから起こる神のラッパが鳴り響くまでは、復活しないということです。そしてキリストを信じて生きている者たちまでが、そのラッパを合図に空中に引き上げられて、いつまでも主と共にいることになるとつづられています。つまり死を迎えてからではなく、死を迎える前に、それも死者を含めた多くの人と一緒にキリストと会うということです。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月29日
創世記・3章の24節より

『こうしてアダムを追放し、命に木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣(つるぎ)の炎(ほのお)を置かれた』

(約束をやぶって、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムを、エデンの園から神が追放するシーンです。ここでいう “ケルビム” とは、天使 “ケルブ” の複数形をあらわす言葉です。つまりエデンの園にある命の木の実(=永遠に生きる者となれる実)を、複数の天使で守っているということです。神に反逆したサタンもケルブですから、かなり力のある天使たちが命の木を守っていることになります。私が聖書をはじめて読んだときは、この “ケルビム” という言葉の意味がわからず、そのまま読みとばしていました。まさか天使のことだとは思わなかったのです。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年9月30日
エゼキエル書・1章の4~10節より

『またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子(しし)の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲(わし)の顔を持っていた』

(これは人間であるエゼキエルが、ケルブ(天使)を目撃したときの文章です。おそらくですが四人のケルブがいて、それぞれが四つの顔と、四つの翼と、四本の腕を持っているということなのでしょうか。ここのところは何度読んでもその姿に確信がもてませんが、ただ天使というものの姿を想像する手助けにはなるように思います。これが神様が創造された天使なのだと思うと、感慨深いものがありましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月30日
イザヤ書・6章の1~4節より

『わたしは、高く天にある御座(みざ)に主が座(ざ)しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍(ばんぐん)の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた』

(これは人間であるイザヤが見た幻です。ここでは “ケルビム” ではなく “セラフィム” という天使が出てきています。ケルビムはエデンの園を守っている天使ですが、セラフィムは主が座しておられる御座の宙を飛び交っている天使のようです。この天使は、聖なる、聖なる、と言って神をたたえていますね。このこともここに載せておきたいと思います)





2017年10月1日
ヨハネの黙示録・4章の6~8節より

『また、わたしは見た。そして、玉座(ぎょくざ)と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠(ほふ)られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」』

(これは人間であるヨハネが目にしている(正確にはキリストの指示を受けた天使に見せられている)光景です。万の数万倍とは数億のことですから、それだけの天使が玉座の周りにいることになります。神様はこの地上とはべつに、天使たちを含めた天の国を創られているようです。とても興味深いのでここに載せておきますね。なお屠られた小羊とはキリストのことです)





2017年10月2日
エフェソの信徒への手紙・2章の1~3節より

『さて、あなたがたは、以前は自分の過(あやま)ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした』

(聖書には天の国にたくさんの天使たちがいるとつづられています。しかし一方でその天の国に属さないこの地上を支配しているのは、サタンであるともつづられています。そして人間のような肉体を持たないサタンを、ここでは “空中に勢力を持つ者” として表現されています。考えさせられる内容でしたので、ここに載せておきますね)





2017年10月4日
創世記・6章の4節より

『当時もその後(のち)も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった』

(ここでいう “神の子ら” とは天使たちのことです。つまり堕落して罪を犯すことになった天使は、サタンだけではなかったようです。こうして地上には天使と人間のあいだに産まれた “ネフィリム” が誕生することになりました。ちなみに神様はこのあとで、ノアの箱舟に乗った8人の人間を除いて、すべての者を地上からぬぐい去っています。もちろんネフィリムも死に絶えました。興味深い箇所でしたので、ここに載せておくことにします)

<以下、ユダの手紙・6節より引用>
『一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁(さば)きのために、永遠の鎖(くさり)で縛り、暗闇の中に閉じ込められました』
このように自分のいるべき場所を離れてしまった天使たちが、暗闇の中に閉じ込められているという文章があります。上記のことと関係があるのかはわかりませんが、ここに載せておきたいと思います。

<以下、民数記・13章の32~33節より一部引用>
『我々が見た民(たみ)は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出(で)なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない』
ここにつづられているように “ネフィリム” は巨人だったようです。巨人ゆえに、名高い英雄たち、と人間からは呼ばれていたのでしょうか。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません。





2017年10月5日
コリントの信徒への手紙・6章の19節より

『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

(ここでいう、あなたがた、とはキリストを信じている人たちのことのようです。言うなれば、キリストを信じている人の体には聖霊が宿ってくださるということなのでしょう。この “聖霊” については、これからも聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年10月6日
マルコによる福音書・10章の13~16節より

『イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』

(教会にお母さんたちが子供を連れてイエスに祝福してもらう場面です。 普通の元気な子供はどんな場所でも遊んだり大声を上げたりするものです。 弟子たちはそれが主イエスのお働きの邪魔になってしまうと思ったのか、 子供たちを連れて来た母親たちを叱りつけました。それを見たイエスが彼らに怒鳴りました。 私の通っている教会にたまに子供を連れてくる信者さんの夫婦がいます。 兄弟がツミキやミニカーを持って走らせたり大きな声を張り上げて走り回ったりするのです。 私は申し訳ありませんが牧師の説教がよく聞こえませんし落ち着かないのでうるさいと思ってしまうのですが、 それでも説教をしている牧師や座っている信者さんは何も言わずにいます。 やはり、聖書に書かれていますとおり、子供を受け入れなくてはならないと思うからかもしれません。 聖書の時代のイスラエルの人々にとって、子供とは「いまだ完全な人間になってはいない存在」とされていたようです。 大人になって初めて一人前の人間になるのである。 イエスは子供たちを“あるがまま”に受けとめ、慈しんで下さっていたと以前牧師がお茶会のときに話してくださったことがあります。 わたしもイエス様と同じようにあるがままの子供たちを受け入れて教会に迎えなければいけないと思いました。)





2017年10月7日
ヨハネの手紙 一・4章の1~3節より

『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者(にせよげんしゃ)が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公(おおやけ)に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です』

(霊には神から出ている “聖霊” と、それ以外の “悪霊” とがあります。その見分け方はなにもむずかしいものではなく、キリストのことを公に言えるかどうか、のようです。少し考えさせられるところがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2017年10月8日
ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(ここでいう “この書物の預言の言葉” とは、聖書に載っている “ヨハネの黙示録” のことです。ヨハネの黙示録は、ここに記されているとおり預言書になっています。さすがにその全文をここに載せるわけにはいきませんので、この言葉をピックアップして載せておきたいと思います)





2017年10月9日
ローマの信徒への手紙・1章の16節より

『わたしは福音(ふくいん)を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです』

(”福音” とは聖書に載っている “マタイによる福音書” “マルコによる福音書” “ルカによる福音書” “ヨハネによる福音書” の4つのことを指しています。これらはこの4人の方がそれぞれ視点者となって、イエス・キリストという人物を浮き彫りにするといった態をとっています。私は一度目から興味深く読むことができました。それですのでここに紹介しておきたいと思います)





2017年10月11日
ローマの信徒への手紙・3章の22~25節より

『すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです』

(聖書には “キリストを信じることにより” という文面がくり返しでてきます。聖書はとても分厚い本ですが、もしかしたらこの内容のことを一番伝えたいのかもしれません。ここにでてくる “キリスト・イエスによる贖いの業” とは、人間の罪の身代わりとして十字架にかけられて息絶えたことを指しているようです。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、というところも印象にのこりましたので、ここに載せておきたいと思います。※辞書参考:贖いとは、罪や過ちの償いをすることです)





2017年10月12日
ローマの信徒への手紙・13章の13~14節より

『酒宴(しゅえん)と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色(こうしょく)、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい』

(主イエス・キリストを身にまといなさい、という表現にぐっときました。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年10月13日
ヨハネによる福音書・14章の6節より

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」』

(ここでいう “父” とは神のことです。神のもとに行くには、キリストを知らなければならない、と聖書はつづっています。つまり、神さま、神さま、と祈るだけでは神へとつづく道は通れないのでしょう。聖書を読みなれている方にとっては当たり前のことなのでしょうが、キリストを意識して学んでいくためにもここに載せておきたいと思います)





2017年10月14日
創世記・7章の1~5節より

『主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面(おもて)に子孫が生き続けるように。七日の後(のち)、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした』

(これは神が大洪水を起こそうとしている前のシーンです。この洪水によりノアを含む計8名以外のすべての人間が死に絶えました。なぜこうしてノアの家族だけが選ばれたかというと、聖書には、ノアが神に従う人だったから、とつづられています。これは言い換えるなら、神に従わずに堕落しきった者たちを、その血筋もろともぬぐい去ったということです。神様のこうした厳しい一面も、聖書を読んでいると出てきますのでここに載せておきたいと思います)





2017年10月16日
ヨハネの黙示録・6章の12~14節より

『また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。

ヨハネの黙示録・8章の10~11節より

『第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星に名は「苦(にが)よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ』

ヨハネの黙示録・16章の17~18節より

『第七の天使が、その鉢(はち)の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就(じょうじゅ)した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった』

(かつて神は人間が堕落しきったためにノアの洪水を起こし、不法に満ちた人間たちをぬぐい去りました。そして聖書内のヨハネの黙示録において “すぐにも起こるはずのこと” として上記のことを予言しています(ちなみに引用したものは一部です。 “封印” “ラッパ” “鉢” それぞれが第一から第七まであります)。これらはもしかするとノアの洪水に匹敵するような大災害を指しているのかもしれません。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておくことにします)





2017年10月17日
ヨハネの手紙 一・5章の19節より

『わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです』

(ここでいう “悪い者” とはサタンのことです。聖書ではこの内容のことがたびたび出てきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月18日
ルカによる福音書・8章の29~31節より

『この人は何回も汚(けが)れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った』

(悪霊とは堕落した天使、つまりサタンの支配下にある天使たちのことのようです。ここに記されているように、その悪霊たちは人に取りつくことができます。しかし一方で彼らは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように、とイエスに願っています。つまりキリストの強さを知っていると同時に、”底なしの淵” という閉じ込められるような場所があることも知っているのでしょう。興味深いことでしたので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月19日
ヨハネの黙示録・13章の16~18節より

『また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である』

(ヨハネの黙示録とは預言書のことです。そしてその中ではかつてのノアの洪水に匹敵するような災害が予言されています。またそうした世の終末に向かうあいだで、上記のようにマイクロチップのことなのでしょうか、それらを埋め込まれて監視されるような社会が来ることも予言されています。さらには獣の数字とも呼ばれている、反キリストの中心的な人物を指している数字が六百六十六であることも記されています。ここは黙示録の中でもとても有名な箇所ですので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月20日
ヨハネの黙示録・12章の7~9節より

『さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(人類を惑わしてきたサタン一味も、大天使ミカエルを中心とする天使たちには勝つことができません。しかしこれは人類が皆、救われるということを意味してはいません。聖書でいう救いとは、神の存在を認め、キリストが行なってくれたこと(つまり人間の罪の身代わりとして十字架にかかり、葬られたこと)や、その彼が死から復活されたことを信じている者たちだけに与えられるものです。聖書を読むにあたり、この点は抑えておきたいことですので、ここに載せておくことにします)





2017年10月21日
申命記・22章の22節より

『男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない』

(ヨハネの黙示録を読むだけでも、神が全人類を守ってくれるわけではないということがわかります。上記の文章は申命記に載っている一例ですが、神はイスラエルの民とのあいだに、姦淫した者がいたら男も女も殺しなさい、といった契約を結んでおられます。このことからも神がいかに罪に対して厳しい方であるかが伝わってきます。ちなみにここでイスラエルという言葉が出てきていますが、聖書における神の民とはイスラエル人のことです。このことも含めてここに載せておきたいと思います)





2017年10月22日
コリントの信徒への手紙一・13章の2~3節より

『たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、わたしに何の益もない。』

(今日の教会の説教のテーマは「愛がなければ無に等しい」でした。 このお話はパウロが信者に教えている場面です。 信仰と、希望と、愛、この3つの中で最も大いなるものは、愛である、とこの上に書いた文章の先に書かれております。 このパウロの言葉を読んでいるかぎり、信仰のみ生きている者と、信仰と愛をもって生きている者とは格が違うように思います。 “信仰”は“人”に向かって語っている、“愛”は“神”に向かって語っている、そのぐらい違いがありますね。)





2017年10月23日
ヨハネの黙示録・21章の1節より

『わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった』

(これはサタンを含めたすべての悪霊たちが火と硫黄(いおう)の池に投げ込まれたあとの出来事です。神様はこのように天と地を新しく創造しなおす計画を持っているようです。そしてそこでは二度と堕落する天使も人間もあらわれない世界が永遠につづくとのことです。一体どんな世界なのでしょうね)





2017年10月24日
ヨハネの黙示録・22章の12~13節より

『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである』

<訂正前の誤ったコメント>
(これはヨハネの黙示録の中でも有名な、キリストの再臨、に関する文章です。ちなみにキリストの再臨は、サタンが火と硫黄の池に投げ込まれ、新しい天と地が創造されたあとに起こる出来事となっています。このことは抑えておいた方がいいように思います。※辞書参照:アルファとは最初のことであり、オメガとは最後のことです)

<10月28日 訂正後のコメント>
(上記の誤ったコメントの時系列は、サタンの敗北→新しい天と地の誕生→キリストの再臨、となってしまっています。正しい時系列は、キリストの再臨→千年王国→サタンの敗北→新しい天と地の誕生、となっています。大変申し訳ございませんでした。この点につきましては、聖書を読みなおして正しい知識を身につけたいと思います)





2017年10月25日
マタイによる福音書・24章の4~8節より

『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである』

<訂正前の誤ったコメント>
(キリストの再臨は、サタンが火と硫黄の池に投げ込まれ、新しい天と地が創造されたあとに起こる出来事です。それよりも前にキリストがこの地上に下りてくることはありません。このことを知っておけば “わたしがメシアだ” や “わたしがキリストの生まれ変わりだ” といった言葉に惑わされることもないのではないでしょうか。聖書を読むにあたり抑えておきたいことと思いましたので、ここに載せておくことにします)

<10月28日 訂正後のコメント>
(上記の誤ったコメントの時系列は、サタンの敗北→新しい天と地の誕生→キリストの再臨、となってしまっています。正しい時系列は、キリストの再臨→千年王国→サタンの敗北→新しい天と地の誕生、となっています。大変申し訳ございませんでした。この点につきましては、聖書を読みなおして正しい知識を身につけたいと思います)





2017年10月26日
コリントの信徒への手紙 二・11章の13~15節より

『こういう者たちは偽使徒(にせしと)、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義(ぎ)に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業(わざ)に応じた最期を遂げるでしょう』

(サタンに仕えている人間たちの中には、キリストを信じている振りをしたり、義に仕える者を装ったりしてくる者がいるようです。こうした反キリストの者たちに惑わされないようにするには、シンプルではありますが、聖書を歪曲せずに読む、ということが最も効果的なように思います。皆さんはいかが思いますでしょうか)





2017年10月28日

<訂正のご案内>
2017年10月24日と2017年10月25日の2つの記事に誤りがありました。本日それぞれのコメント欄にて訂正させていただきました。よろしくお願いします。





2017年10月29日
ヨハネの黙示録・19章の11節より

『そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる』

(ヨハネの黙示録の19章にあるこの文章がキリストの再臨をあらわしているようです。白い馬に乗っている方がキリストだということです。時系列でいいますと、この再臨は、神の怒りであるところの、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢、のすべてが過ぎ去ったあとに起こる出来事のようです。そしてキリストによる千年間の地上の統治へとつづいていきます。訂正の意味を込めまして、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月30日
エフェソの信徒への手紙・1章の13~14節より

『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国(みくに)を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖(あがな)われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです』

(キリストを信じている人には “聖霊” が宿ってくれると聖書は教えています。興味深いことですので、ここに載せておきますね。※辞書参考:贖うとは、罪のつぐないをするといった意味です)





2017年11月1日
ローマの信徒への手紙・8章の7~9節より

『なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません』

(キリストを信じている人には “聖霊” が宿ってくれています。そして聖霊が宿っているとき、その人は肉ではなく霊の支配下にあるとつづられています。この “聖霊” とは上記のように “神の霊” と記されることもあれば “キリストの霊” と記されることもあるようです。これは、神と、キリストと、聖霊とで三位一体(さんみいったい)と言われているように、それぞれの存在が切っても切れない関係にあることを意味しているようです。この三位一体については、これからも聖書を読んで考察を深めていきたいと思います。※辞書参照:三位一体とは、三つのものが本質において一つのものであること)





2017年11月2日
エフェソの信徒への手紙・4章の30節より

『神の聖霊を悲しませてはいけません』

(このように聖霊は単なる神秘的な力のようなものではありません。感情を持っていますので、悲しませないようにしたいものですね)





2017年11月3日
マルコによる福音書・3章の29節より

『しかし、聖霊を冒涜(ぼうとく)する者は永遠に赦(ゆる)されず、永遠に罪の責めを負う』

(これは文章そのままですね。キリストを信じることで一人一人に宿ってくださる聖霊。その聖霊を冒涜するようなことがあってはならないということです。※辞書参考:冒涜とは、言葉や行為によって侮辱(ぶじょく)を与えること)





2017年11月4日
エフェソの信徒への手紙・2章の8~9節より

『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです』

(ここに書いてあるとおり、人は自分の力では自己を救うことができません。それは “行い” によっても神様からの救いにあずかることはできないのです。神様は、だれも誇ることがないようにと、信仰のみを救いの条件とされています。そしてここでいう信仰とは、福音書に書いてあるとおりのキリストを信じることです。聖書を読むにあたり大事なことと思いましたので、ここに載せておくことにします)





2017年11月5日
ヨハネによる福音書・6章の37~39節より

『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣(つか)わしになった方の御心(みこころ)を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである』

(これはキリストの言葉です。ここでの “わたしに与えてくださった人” とは、キリストを信じている人たちのことを指しています。そしてキリストは、そうした人たちを一人も失わずに、終わりの日に復活させると仰っています。とても感慨深いことですので、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月6日
ヘブライ人への手紙・9章の27~28節より

『また、人間にはただ一度死ぬことと、その後(のち)に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです』

(人間はいずれだれもが死にますが、そのあとで裁きがあるようです。聖書にはそのことがはっきりとつづられていますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月7日
ルカによる福音書・10章の20節より

『むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』

(これはキリストの言葉です。このようにキリストを信じた人は、その名が天に記されることになっています。ここに名が書かれているといないとでは、それこそ死んだあとにおかれる環境が劇的にちがってくるようです。それですのでここに載せておきたいと思います)





2017年11月8日
ヨハネの黙示録・20章の12~15節より

『わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座(ぎょくざ)の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた』

(キリストを信じている人たちは、命の書に名が記されることになります。その一方でキリストを信じていない人たちは、上記のような裁きを受けることになっているようです。それとここでいう陰府とは、キリストを信じずに死んだ人々の魂が一時的に入れられている場所のようです。文面では海や、死や、陰府といった言葉が使われていますが、要するに、たとえどこにいようとも玉座の前に立たされる、という意味合いでとらえるとわかりやすいようです。内容が少しむずかしいところではありますが、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月9日
ヨハネの黙示録・13章の8節より

『地上に住む者で、天地創造の時から、屠(ほふ)られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう』

エフェソの信徒への手紙・1章の4~5節より

『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです』

(ここでいう小羊とはキリストのことです。キリストを信じている人たちは、この命の書に名が記されています。その一方でキリストを信じていない人たちは、上記のように命の書に名が記されていないばかりか、反キリストである獣を拝む(獣に従う)ようになります。そしてここで心にとめておきたいことは、この命の書というものが、すでに天地が創造される前から、人々の名が記された形で用意されているということです。これは要するにキリストを信じるようになる人たちは、遥か以前よりあらかじめ定められているということになります。こうしたことが可能なのも、神が全知の存在であるということにつきているのかもしれません。内容がむずかしいところではありますが、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月11日
ヘブライ人への手紙・4章の12~13節より

『というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄(こつずい)とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前(みまえ)では隠れた被造物(ひぞうぶつ)は一つもなく、すべてのものが神の目には裸(はだか)であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません』

(このように神は人の心を見通すことができます。この神に対して、私たちはいずれ迎える最後の審判で、自分のことを述べていかなければなりません。もちろんその審判は嘘や偽りなどでやりすごせるものではないでしょうから、日頃から聖書と向き合っておくことも大切なのではないかと思います。※辞書参考:被造物とは、神によって造られたもののことです)





2017年11月12日
テサロニケの信徒への手紙一・5章の14、15節より

『兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。 弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。』

(今日の教会の冒頭に牧師に話していただきました。この言葉は下に書いてあります言葉に関係してきます。お読みいただきましたら嬉しいです)





2017年11月12日
コリントの信徒への手紙一

9章の19節より
『わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。』

9章の20節より
『ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。』

9章の22節より
『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。』

9章の22~23節より
『すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。』

(今日の教会のテーマとなった話です。これは、イエスと全く同じことをする信仰のあついパウロが自分の信者に話をしている場面です。 話中に出てきます「奴隷」という言葉は聞こえがあまりよくありませんが、この話の意味では“その人のために尽くす”ということです。 だから、その人のために身をおく。相手が何を求めているかをしっかりと捉えるということです。これがパウロの生き方であって根本になります。 パウロはきっと、神様の恵みをあずかり不幸な人たちと共に喜びを感じたい。一緒に笑いたいという思いで尽くしているのだと思います。)





2017年11月12日
讃美歌411番・うたがい迷いの

『ひとりのキリスト わが主とあおぎ
うれいもなやみも たがいに背負い
ひとつのたたかい 共に苦しみ
ひとつのさんびを 喜び歌う』

(今回の話に沿っているように思いましたので3番目の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私も誰に対してもできることがあれば積極的に手助けをし、その人たちと困難を乗り越えて最後に一緒に笑えるようになりたいと思いました)





2017年11月13日
コリントの信徒への手紙 一・10章の14節より

『わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい』

ヨハネの手紙 一・5章の21節より

『子たちよ、偶像を避けなさい』

出エジプト記・20章の4~5節より

『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない』

(聖書にはこのように偶像を避けるようにとつづられています。大切なことのように感じましたので、ここに載せておくことにします。※辞書参照:偶像とは、神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもののことです)





2017年11月14日
フィリピの信徒への手紙・3章の19~20節より

『彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています』

(聖書内では、このようにキリストが救い主(=メシア)であるということがたびたび語られています。それですので、ここに載せておきたいと思います。ちなみにここでいう、彼ら、とはキリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちのことです。また、腹を神とし、とは食欲や肉欲におぼれているといった意味のようです)





2017年11月16日
ルカによる福音書・13章の3節より

『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』

(聖書には感心させられる言葉がありすぎて、こうした、悔い改める、といった真っ直ぐでシンプルな教えへの意識が、薄らいでしまうことがあるようにも思います(私自身がそうでした)。 “悔い改め” と “信仰” とは、どちらも欠かしてはならない「一枚のコインの両面のようなものである」という言葉も見かけましたので(ただし聖書内ではない)、ここに載せておきたいと思います。※辞書参照:悔い改めるとは、過去のあやまちを反省して、心を入れかえることの意味です)





2017年11月17日
テサロニケの信徒への手紙・4章の16~17節より

『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります』

コリントの信徒への手紙 一・15章の50~53節より

『兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります』

(今日はとても大切なことを書いてみたいと思います。まず上記の2つですが、これは今後起こるであろう “携挙(けいきょ)” と呼ばれる出来事について説いたものになっています。その内容はといいますと、神のラッパを合図に天から降ってきた主であるキリストと、神への信仰のある人々とが空中で出会い、そのまま天の国に導かれて永遠に過ごすといった神秘的なものとなっています。つまり一たび神のラッパが鳴らされれば、神を信じている人々は、天の国に入ることのできる体に一瞬のうちに変えられ、一般的な意味での肉体の死を経験することなく、天に導かれることになるのです。そしてここで私がつづっておきたいことは、神を信じずにいて、この一度しかない携挙(けいきょ)を逃してしまった場合、ヨハネの黙示録に示されている通りの、世界の終末に向かう過酷な環境のもとに身をおくことになるということです。おそらくですが神はこの苦しみを信仰のある人々へ与えないために、その人々を前以って天へと引き上げられるのだと思います。この “携挙” と呼ばれている出来事については、以前の2017年9月28日の記事でもふれていましたが、とても大切なことと思いましたので、もう一度ここに載せておくことにしました。※なお今回の記事ではテーマをしぼるために死者の復活にはふれていません)





2017年11月18日
マタイによる福音書・24章の36~44節より

『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼(うす)をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである』

(ここでいう、人の子、とはキリストのことです。そして「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」の箇所が、昨日の記事でふれました “携挙(けいきょ)” についての文章になっています。もし本当に神を信じず、この一度しか起こらない “携挙” を逃してしまった場合、ヨハネの黙示録に示されている7年間の世の終末期に身をおかれることになります。神様はこの苦しい期間から信仰のある人々を救うために、その人々を天へと引き上げられるのです。この “携挙” についての日時ですが、それは父である神のほかに知る人はありません(ただ1948年にイスラエルが建国し、1967年の六日戦争でエルサレムを奪還したことで、 “携挙” がいつ起きてもいい条件が整っているようです。※この点についても今後調べていきます)。このことからも私たちはいつ “携挙” が起きてもいいように、神様を想いつづけていくことが必要になってくるのです。とても大切なことだと思いましたので、ここに載せておくことにします。※なおヨハネの黙示録に示されている7年間の世の終末期についても、今後書いていきたいと思います)





2017年11月19日
コリントの信徒への手紙

二の10章の1節より
『面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る』

二の10章の10節より
『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいます』

一の9章の24節より
『あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。』

一の9章の26節より
『だから、わたしは、やみくもに走ったりしないし、空(くう)を打つような拳闘(ボクシング)もしません。』



(パウロの教会にたくさんの信者がいますが、その中で彼を悪く言う信者(アンチパウロ)がいます。 上から1つめと2つめの言葉は、パウロに対する信者の悪口です。その言葉が彼の耳にも入ります。 彼は信者宛に手紙を書くのですが、この時のパウロは少し感情的に思いました。 中身のない(空を打つような)言葉を語らないと聖書に書いております。 前の2017年11月12日の記事にも書きました通り、彼は福音の知識を備わっているだけではなく、 福音のために相手の気持ちになって尽くす。相手が何を求めているかしっかりと捉える。 それがパウロの生き方なんです。 でもどんなにいい事や素晴らしい事をしても、それは他の組織でも言えますが必ず派閥やアンチが出たりします。 自分のことを悪く言われて落ち込みますが、パウロは想いをはっきりと伝えて強く前に出ています。 私もちょっと言われただけでよく落ち込んだり自信がなくなったりしますが 最後まで芯をしっかりと持ち、堂々と前に出たいと思いました)





2017年11月20日
創世記・5章の21~24節より

『エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後(のち)、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった』

ヘブライ人への手紙・11章の5~6節より

『信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです』

列王記 下・2章の11~14節より

『彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣(ころも)をつかんで二つに引き裂いた。エリヤの着ていた外套(がいとう)が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた』

(上記の3つの内容は、どれも “携挙(けいきょ)” に似た出来事を言いあらわしています。もちろん天へと引き上げられたエノクもエリヤも、神への信仰があったのでしょう。尚エノクの年齢が三百六十五歳となっていますが、創世記当時の人間の寿命は今よりも遥かに長かったようです)





2017年11月21日
ヨハネの黙示録・4章の2~4節より

『すると、見よ、天に玉座(ぎょくざ)が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠(かんむり)をかぶった二十四人の長老が座っていた』

(これは人間であるヨハネが目にしている(正確にはキリストの指示を受けた天使に見せられている)光景です。時系列でいいますと、これからのちに黙示録につづられている世の終末期へとつながっていくことになります。上記の文章で注意深い点は、本来人間では立ち入ることのできない天の国に、それも神が座っている玉座(=統治者が座る椅子のこと)の周りに、二十四人の長老、と書かれている人々が座りこんでいることです。これは先日よりふれている “携挙” が起こったために、栄光の体に変えられた人間が、立ち入れないはずの天に立ち入っている、ということを証(あかし)しているように思われます。神への信仰を持っている人々は、いずれ天へと引き上げられ、この地上からはいなくなります。つまりキリストと結ばれていない人たちだけが、地上にのこされるのです。そしてここから七年間にわたる、艱難(かんなん)時代と呼ばれている、世の終末へと向かう険しい期間へとつづいていくことになります。※今後この艱難時代に起こる出来事について、順を追って書いていきたいと思います)





2017年11月23日
ヨハネの黙示録・6章の1~2節より

『また、わたしが見ていると、小羊(=キリスト)が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つ(=4人の天使のうちの1人)が、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者(=反キリストの中心となる人物)は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った』

テサロニケの信徒への手紙 二・2章の3~4節より

『なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者(=上記の白い馬に乗った反キリストの中心となる人物のこと)、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです』

テサロニケの信徒への手紙 二・2章の9~12節より

『不法の者(=上記の白い馬に乗った反キリストの中心となる人物のこと)は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです』

※引用した文の内容をわかりやすくするため、上記()内にて説明を付けたしてあります。

(これが艱難(かんなん)時代の幕開けといわれている箇所です。この第一の封印が開かれることで、まず神への反逆者であるところの、白い馬に乗った人物があらわれ、以後地上は戦争や災害に見まわれていくことになります。この人物の背後にはサタンがついていて、さまざまな奇跡のたぐいを交えながら、世界中の指導者や人々をあざむいて、世界を支配していくことが予想されています。わけてもこの人物がイスラエルとも同盟を結ぶことが聖書内では予言されています(ダニエル書:9章参照)。とはいえ、この人物とて、所詮はキリストの使いである天使が「出て来い」と誘いだしているわけですから、これも神の計画の範囲内だということなのでしょう。とにかく今回の記事でおさえておきたいことは、この第一の封印を開くことで、世界を支配するような反キリストの人物があらわれ、これをきっかけにして世の終末へと向かっていくということです。次回は第二の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月24日
ヨハネの黙示録・6章の3~4節より

『小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣(つるぎ)が与えられた』

(この第二の封印が開かれることで、地上から平和がなくなります。殺し合いをさせるや大きな剣といった言葉からも、これは戦争を指しているのでしょう。のちに地球の四分の一の人々、つまり18億人が亡くなると出てくるので、世界大戦規模の戦争なのだと思われます。次回は第三の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月25日
ヨハネの黙示録・6章の5~6節より

『小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤(はかり)を持っていた。わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな(=オリーブ油とぶどう酒には害を与えてはいけない)。」』

(この第三の封印が開かれることで、人々は食糧難に見まわれます。といっても第二の封印で世界大戦が起こされているのですから、世界中の人々が食糧に苦しむようになるのは当然のことと思われます。ここでいう1コイニクスとは1リットル程度のことのようです。そして1デナリオンが5000円程度とのことです。要するに1日の給料で1日分の食糧がやっと買えるといった状況を暗示しているように思われます。ただオリーブ油とぶどう酒には害を与えてはいけないといった内容からは、神様がある特定の人たちを救おうとしているようにも受けとれます。その救おうとしている人たちとは、おそらくイスラエル人のことであり、オリーブ油とぶどう酒は彼らの食生活にはなくてはならないもののようです。次回は第四の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月26日
フィレモンへの手紙

16節より
『奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。』

17節より
『わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。』



(前回はコリントの信徒への手紙という集団や公衆に宛てての手紙でしたが、今回は一個人に宛てた手紙の内容です。 フィレモンはパウロの良き協力者であり、主イエス・キリストを信じる信仰者であり、伝道の協力者でもありました。 彼の家を教会として提供してくれた人です。 その彼の奴隷人の中の一人、オネシモがお金を盗んで(これは定かではありませんが)逃亡し、オネシモをパウロが匿(かくま)って彼にオネシモを許して欲しいと懇願する手紙なのです。 当時の社会には奴隷制度がありました。 主に戦争捕虜が奴隷となり、売買の対象となっていたのです。 奴隷と言っても昔のアメリカの黒人奴隷のイメージとはかなり違っていて、 特に教養ある奴隷たちは家の子供たちの家庭教師のような仕事を与えられ、 家族の一員のように大事にされてもいました。 しかし基本的には、奴隷は主人が金を出して買った財産であり、 逃げ出したりしたら主人に損害を与えるわけで、厳しく罰せられ、 場合によっては殺されてしまうこともあったのです。 今やフィレモンと逃亡奴隷オネシモとの間にはそういう関係があることを知りつつ、 パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしています。 そして、フィレモンに、オネシモを、信仰の仲間として、兄弟として受け入れてほしいと願っているのです。 パウロが一人の弱い人のために、なりふりかまわず必死の想いで書いた手紙です。 このあと、フィレモンとオネシモがどうなったのか書かれていない所で終わっています)





2017年11月27日
ヨハネの黙示録・6章の7~8節より

『小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府(よみ)が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉(ききん)と死(=死病、伝染病のこと)をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた』

(この第四の封印が開かれることで、青白い馬に乗った「死」という者があらわれます。その彼には、陰府(=陰府とは、キリストを信じずに死んだ人々の魂を一時的に入れておく場所)が従っていて、地上の四分の一を支配することにより、多くの人々を滅びへといざないます。とはいえすでに第二の封印をきっかけに世界大戦規模の戦争が起こされているのですから、飢饉や死病などが蔓延して、多くの人々が亡くなることは想像できることのように思います(ただし引用した文中の、野獣、がなにを指しているのかは、今のところ結論が出せていません)。次回は第五の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月28日
ヨハネの黙示録・6章の9~11節より

『小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕(しもべ)である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた』

(以前より携挙(けいきょ)についてふれてきましたが、ここでは携挙後に、キリストを信じるようになった人々のことがつづられています。彼らは、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺されていく運命にあります。つまりキリストを信じているがために殉教(じゅんきょう)をとげていくのです。これは世界を支配している人物が反キリストであるために、キリストへの信仰を持つことが禁止され、それでも信仰を貫こうとした人たちが大勢殺されていくということなのでしょう。この時期においては、キリストへの信仰そのものが命懸けのものになっているのです。もちろん神様は殉教をとげた者たちをいずれ救われますが、上記のような彼らの問いかけには、もう少し待つようにと語っておられます。要するにこうした内容のことでさえも、神様の計画のとおりということなのでしょう。次回は第六の封印について書いていきたいと思います。※辞書参照:殉教とは、宗教上の信仰のゆえに迫害を受けて死ぬことです)





2017年11月29日
ヨハネの黙示録・6章の12~17節より

『また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地(ぬのじ)のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴(ほらあな)や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座(ぎょくざ)に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか』

(この第六の封印が開かれることで、神の怒りがいよいよ地に降りかかることになります。大地震が起こされ、太陽は暗くなり、星が地上に落ち、山や島がその場から消えてしまうほどですから、かなりの人たちが亡くなるものと思います。もともと神はノアの洪水のときでも、たくさんの人間を地上からぬぐい去っていますから、罪人に対してはこうした厳しい一面を持っておられます。それですので、このときになってなにを祈ろうとも、救われずに死んでしまう運命にある人はやはり死ぬことになるものと思われます。ただどれだけの人々が亡くなるかについてはふれられていないので、具体的にはわからないところではありますが。次回は第七の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月30日
ヨハネの黙示録・8章の1~2節より

『小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。そして、わたしは七人の天使が神の御前(みまえ)に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた』

(このように第七の封印が開かれることで、次は七つのラッパへと引き継がれていきます。次回は第一のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月1日
ヨハネの黙示録・8章の7節より

『第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹(ひょう)と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった』

(この第一のラッパが吹かれることで、地上の自然に打撃がもたらされます。結果としておそらく食糧難などが増し、日に日に死者も増えていくものと思われます。次回は第二のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月2日
ヨハネの黙示録・8章の8~9節より

『第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された』

(この第二のラッパが吹かれることで、海の三分の一に打撃がもたらされます。前回のラッパでは地上の三分の一が焼けていますから、どんどん人間の住みづらい環境になっていっているものと思われます。次回は第三のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月3日
ヨハネの黙示録・8章の10~11節より

『第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ』

(この第三のラッパが吹かれることで、川の三分の一に打撃がもたらされます。これによって人々の飲み水も苦くなり、多くの人が亡くなるとつづられています。次回は第四のラッパについて書いていきたいと思います。※辞書参照:苦よもぎとは、キク科の多年草のことで、においが強いようです)





2017年12月4日
ヨハネの黙示録・8章の12~13節より

『第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。また、見ていると、一羽の鷲(わし)が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」』

(この第四のラッパが吹かれることで、太陽、月、星、それぞれの三分の一が損なわれます。また引きつづきもたらされる、第五、第六、第七のラッパの恐ろしさを、一羽の鷲(=一人の天使)が宣言しています。次回は第五のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月5日
ヨハネの黙示録・9章の1~6節より

『第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星(=サタンのこと)が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵(=堕落した天使を閉じこめておく場所のこと)に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなご(=堕落した天使、すなわち悪霊のこと)の群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人(=神への信仰がなく、キリストと結ばれていない人のこと)には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く』

(この第五のラッパが吹かれることで、悪霊が直接人々に害をおよぼしてきます。これは精神的な苦痛というよりも、実際に肉体が苦痛にさらされる類いのものであると思われます。上記の内容からしますと、死を望みたくなるほどの苦痛のようです。ただキリストと結ばれている人々に害が加えられることはありません。次回は第六のラッパについて書いていきたいと思います)

※尚、ここに出てくる “一つの星” という言葉をサタン(=もともとは天使)として解釈していますが、これはのちのちにも、この底なしの淵から出てくる獣がいるため(黙示録11章7節)、鍵そのものを神がサタンに与え、悪魔をも神が利用していると考えるのが妥当なところのようです。ちなみに “星” を天使と解釈するのは、たとえばヨブ記38章7節の『そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた』などにも見られるとおりです。このあたりのことに関しては今後も聖書を読むことで、考察を深めていきたいと思います。





2017年12月6日
ヨハネの黙示録・9章の13~18節より

『第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前(みまえ)にある金の祭壇の四本の角(つの)から一つの声が聞こえた。その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。」四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。その騎兵の数は二億、わたしはその数を聞いた。わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫(むらさき)、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された』

(この第六のラッパが吹かれることで、このときのためにユーフラテスのほとりに拘束されていた、四人の堕落した天使が解き放たれます。彼らは二億の悪霊を従えて、人類の三分の一を殺してしまいます。尚ユーフラテス川とは、トルコ北東部の山地を源流としてシリアを通過し、イラクを経て最終的にペルシア湾に注ぐ河川のことです。次回は第七のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月7日
ヨハネの黙示録・11章の15~19節より

『さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」神の御前(みまえ)で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、こう言った。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕(しもべ)、預言者、聖なる者、御名(みな=神のこと)を畏(おそ)れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹(ひょう)が降った』

ヨハネの黙示録・15章の5~7節より

『この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋(まくや)の神殿が開かれた。そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布(あまぬの)の衣を着て、胸に金の帯(おび)を締めていた。そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢(はち)を、この七人の天使に渡した』

(この第七のラッパが吹かれることで、まず天にある神の神殿が開かれ、稲妻や地震が起こり、大粒の雹が降ります(黙示録11章19節)。その後、開かれた神殿より七人の天使があらわれ、最後の七つの災いであるところの七つの金の鉢(はち)を持って、一つずつ神の怒りを地上にそそぐことになります(黙示録15章6~7節)。次回は一つ目の鉢について書いていきたいと思います)

※尚、昨日の12月6日の記事を一部訂正しております。申し訳ありませんでした。





2017年12月9日
ヨハネの黙示録・16章の2節より

『そこで、第一の天使が出て行って、その鉢(はち)の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた』

(この一つ目の鉢が地上にそそがれることで、獣(=世界を支配している反キリストの中心人物のこと)と関わりを持っている人たちに悪性のはれ物ができます。ちなみにこの時代には、獣の六百六十六の刻印が右手か額に押されていなければ、物が買えないほどの監視社会になっています。2017年10月19日の記事でも書きましたが、獣に服従していなければとても生きていけない状況になっているのです。そのためこのはれ物の病(やまい)は、いたるところで見かけることになるかもしれません。もちろんこのような病にかかるのは避けたいことですから、獣の刻印だったり、獣の像だったりは、はじめからつきはなしておく、つまり受け入れておかないことが大切になってくるものと思います。次回は二つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月10日
ヨハネの黙示録・16章の3節より

『第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった』

(この二つ目の鉢が海にそそがれることで、海に棲む生き物がすべて死んでしまいます。ここまでくるといよいよ誰の目にも地球の終末が近いことが感じられるかもしれません。次回は三つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月11日
ヨハネの黙示録・16章の4~7節より

『第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源(みなもと)に注ぐと、水は血になった。そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、かつておられた聖なる方(=神のこと)、あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。この者どもは、聖なる者たちと預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました(=つまり反キリストたちによって処刑され殉教した者たちの代わりに、神が反キリストたちへの飲み水を血に変えることで裁いたということの意味)。それは当然なことです。」わたしはまた、祭壇(=殉教した者たちを言いあらわしている比喩)がこう言うのを聞いた。「然(しか)り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。」』

(この三つ目の鉢が川と水の源にそそがれることで、水が血になります。おそらく人間が口にできるものではないでしょうが、それでも渇きのために口にすることになるのかもしれません。というのも、あなたは彼らに血をお飲ませになりました、と書かれているからです。次回は四つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月12日
ヨハネの黙示録・16章の8~9節より

『第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜(ぼうとく)した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった』

(この四つ目の鉢が太陽にそそがれることで、太陽が人間を焼くほどの激しい熱を発します。ここまでくると彼らもこうした災いをもたらしている神の存在に気がつきますが、それでも悔い改めようとはせずに、神を冒涜する道を選んでしまいます。次回は五つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月13日
ヨハネの黙示録・16章の10~11節より

『第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇(やみ)に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜(ぼうとく)し、その行いを悔い改めようとはしなかった』

(この五つ目の鉢がそそがれることで、反キリストによって支配されている国が闇に覆われます。さらにはその国々の人々は舌をかんで死を願うほどの苦しみにおそわれます。しかしそれでも彼らは神を冒涜しつづけ、悔い改めようとはしませんでした。次回は六つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月15日
ヨハネの黙示録・16章の12~16節より

『第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角(=東)から来る王たち(=反キリストに支配されている国々の指導者たちのことと思います)の道ができた。わたしはまた、竜(=サタン)の口から、獣(=反キリストの中心人物)の口から、そして、偽預言者(=反キリストに忠実で、世に嘘をひろめる者のことと思います)の口から、蛙(かえる)のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるし(=悪霊によってもたらされる奇跡のこと)を行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たち(=国々の指導者たちのことと思います)のところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである(=つまり悪霊たちが、国々の指導者のところに出向き、“しるし”を示すことで士気を高めているのだと思います。というのも、地球の環境そのものが、すでに五つ目の鉢まで進行していることで壊滅状態に近く、軍を集めるのだけでも簡単ではないものと思われます)。――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである(=これは神の言葉であり、衣を身に着けて、というのは、信仰をもちつづけて、ということの喩え)。――汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所(=現在のイスラエルのメギドという地名の場所のこと)に、王たちを集めた』

(この六つ目の鉢がユーフラテス川にそそがれることで、川の水がかれて、地理的に反キリストの、いわゆる連合軍のような大軍が、イスラエルに押し寄せやすくなります。これをきっかけにして、神の大いなる日の戦い、つまりハルマゲドンの戦いと呼ばれている最後の戦いが、イスラエル人(=ユダヤ人)と反キリストとのあいだで起こることになります。次回は七つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月17日
ヨハネの黙示録・16章の17~21節より

『第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声(=神の声)が聞こえ、「事は成就(じょうじゅ)した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。あの大きな都(=エルサレムのことと思います:ゼカリヤ書14章4節参考)が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々(ほうぼう)の(=世界中の)町が倒れた。神は大バビロン(=神に敵対してきた宗教や政治、経済などを一語で言いあらわしたもの)を思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった(=つまり滅ぼした)。すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。一タラントン(=約35 kg)の重さほどの大粒の雹(ひょう)が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚(はなは)だしかったからである』

ヨハネの黙示録・19章の19~21節より

『わたしはまた、あの獣(=反キリストの中心人物)と、地上の王たち(=国々の指導者たち)とその軍勢(=反キリストに忠実な連合軍)とが、馬に乗っている方(=地上に再臨したキリスト)とその軍勢(=キリストと共に地上に降りてきた天使たち、ならびに携挙によって天に上っていた聖徒たち)に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるし(=奇跡めいたもの)を行った偽預言者(=反キリストに忠実で世に嘘をひろめる者、または偽のキリストの類い)も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄(いおう)の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方(=キリスト)の口から出ている剣(つるぎ)で殺され、すべての鳥(=これはそのまま猛禽類のことと思います)は、彼らの肉を飽きるほど食べた』

(この七つ目の鉢が空中にそそがれることで、神が、事は成就した、と宣言しています。そして地震を含め、すべての島や山が消え失せるといった世界中の地形が大きく変えられます。さらには大粒の雹も降りかかり、それでも生き残った人たちは神を冒涜しつづけます。それとこれらのどこかのタイミングで、キリストが地上に再臨し、キリスト自身がハルマゲドン(=現在のイスラエルのメギドという地名のこと)に集まってきていた反キリストの支配下にある軍隊と戦います。その結果上記のように反キリストたちは火の池に投げこまれます。それでは次回はサタンの敗北について書いていきたいと思います)





2017年12月19日
ヨハネの黙示録・20章の1~3節より

『わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の(=世界中の)民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである』

ヨハネの黙示録・20章の7~10節より

『この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ(=ゴグとマゴグとは神に逆らう勢力となる者たちを比喩的に表現したもの)を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い(=要するにハルマゲドンの戦いで神への信仰のない者たちは一度とりはらわれたが、千年の経過とともに、再びその数がふくれあがったということを意味している)。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(=聖なる者たちの陣営と愛された都とはイスラエルのことであり、中でもエルサレムのことのようです)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを(=解放されたサタンによって惑わされた人たちのこと)焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔(=サタン)は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(=反キリスト)と偽預言者(=偽のキリスト)がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる』

(ハルマゲドンの戦いの結末として、サタンは底なしの淵に千年間閉じこめられます。これによって地上は千年間キリストによって統治されることになります(=千年王国と呼ばれているようです)。その後、サタンは再び解放されることとなり、神への信仰を持てない者たちを惑わして、エルサレムを攻めようとします。しかし彼らは火に焼かれ、サタンも永遠に出てこられない火と硫黄の池に投げこまれます。そのときに焼かれた者たちも審判を経て、火の池へと送られることになります。そうして2017年10月23日の記事で書いた、新しい天と地の創造(つまり現在の天と地はなくなる)へとつながっていくことになります)





2017年12月20日
ヨハネの黙示録・21章の1~4節より

『わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き(=現在の天と地がなくなること)、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋(まくや)が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆(なげ)きも労苦(ろうく)もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」』

(これまで見てきた7つの封印、ラッパ、鉢とそれぞれの裁きがおわったあとで、このように新しい天と地が神によって創造されなおします。この世界では神と人が共に住み、もうそこには死も悲しみもありません。もちろん携挙によって死ぬことのない体に変えられた人たちも、ずっとキリストと共にいることになるので、この新しい世界で永遠に生きていくものと思います。まさに素晴らしい世界(楽園)がひろがっていますね)





2017年12月21日
ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『また、わたしにこう言った。「この書物(=ヨハネの黙示録のこと。広い意味では聖書)の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(ここ1ト月ほどヨハネの黙示録を見てきましたが、ここでひと区切りつけたいと思います。こうして集中して書いてきたのは、上記にある、秘密にしておいてはいけない、との言葉を受けて、一人でも多くの方にという想いからでした。次回からはまた思い思いに書いていきたいと思います)





2017年12月22日
ペトロの手紙 一・2章の20~21節より

『しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心(みこころ)に適うことです。あなたがたが召(め)されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡(あしあと)に続くようにと、模範を残されたからです』

(ここに、善を行って、と書いてありますが、これは大きな意味では隣人を愛すること、つまりは他人に親切にするということを指しているのだと思います。私も日々こうしたことを胸にあてながら過ごしていきたいものです。※辞書参照:召(め)すとは、呼び寄せるという意味です)





2017年12月23日
ペトロの手紙 一・5章の5節より

『皆互いに謙遜(けんそん)を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢(こうまん)な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです』

(これは自分を大きくせずに低くして、他人へ献身的にするようにということなのだと思います。日々こうありたいものですね)





2017年12月24日
創世記・2章の7節より

『主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』

(これは人類で最初の人間、アダムの誕生についての文章ですが、とても凄いことだと思います。私たち人間では、いくら土で人の形をつくってみたところで、それが命を持って動きだすことはありません。神様は本当に全知全能の方なのだと思います)





2017年12月25日
テモテへの手紙 二・1章の9節より

『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです』

(神様は、わたしたちの行いをご覧になったあとで、救うかどうかを決められているのではありません。それは前以って神様の計画と恵みによって定められているのです。このことは2017年11月9日に記事にした命の書についても同様です。そこに名前が書かれているかどうかは、神様の計画と恵みによるものなのです。そうであるとき私たちは、私たちを選んでくださった神さまへの感謝の気持ちをわすれてはならないのです。あらためてこう感じさせられましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2017年12月26日
ヘブライ人への手紙・13章の8節より

『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です』

(どことなく力を感じさせてくれる文章です。キリストが変わることがないからこそ、私たちは安心してキリストに歩み寄っていくことができるのかもしれませんね)





2017年12月27日
エフェソの信徒への手紙・5章の5節より

『すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲(どんよく)な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません』

(聖書において、偶像を礼拝することは貪欲であるとみなされます。そして上記にあるように、すべてみだらな者や、汚れた者や、偶像礼拝者は、天の国に入ることができません。大切なことと思いましたので、こちらに載せておくことにします。※辞書参照:偶像とは、神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもののことです)





2017年12月29日
ローマの信徒への手紙・8章の18節より

『現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います』

(ここでの “将来わたしたちに現されるはずの栄光” とは、将来私たちがキリストと共に永遠に過ごせる、その栄光のことを指しているものと思います。胸にひびく言葉でしたので、こちらに載せておくことにしますね)





2017年12月31日
エフェソの信徒への手紙・1章の13節より

『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです』

ヨハネの手紙 一・4章の2節より

『イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります』

(聖書に書かれているキリストを信じることで、私たちには “聖霊” が宿ってくださいます。そして私たちがそのキリストの存在を周囲に向かって発信していけるならば、その宿ってくださった聖霊は、まぎれもなく神様から出た、本物の聖霊ということになります。とても勇気づけられる内容だと思いますので、こちらに載せておくことにします。※なお上記の2つの内容は、すでに2017年10月7日と2017年10月30日の記事でふれていますが、次回より “霊” について書いていこうと思いますので、あらためてここで取り上げることにしました)





2018年1月1日
コリントの信徒への手紙 一・12章の7~11節より

『一人一人に “霊” (=聖霊のこと)の働きが現れるのは、全体の益(えき)となるためです。ある人には “霊” によって知恵の言葉、ある人には同じ “霊” によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ “霊” によって信仰、ある人にはこの唯一の “霊” によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力(=つまり外国語で神に関することを語れる力のこと)、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の “霊” の働きであって、 “霊” は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです』

(私たちに宿ってくださった聖霊は、ただの飾りもののようにして私たちの内側にとどまっているわけではありません。上記のように、私たち一人一人の、それぞれの役割に見合った力を与えてくれることで、手助けをしてくださっているのです。言い換えるなら、全体の益となるように、一人一人に形こそちがえど力を分け与えてくださっているのです。とても勇気づけられることですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月3日
ローマの信徒への手紙・8章の26~28節より

『同様に、 “霊” (=聖霊のことです)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 “霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執(と)り成してくださるからです。人の心を見抜く方(=神)は、 “霊” の思いが何であるかを知っておられます。 “霊” は、神の御心(みこころ)に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画(ごけいかく)に従って召(め)された者たちには、万事が益(えき)となるように共に働くということを、わたしたちは知っています』

(聖霊は、私たちに神様への祈り方を教えてくださいます。また万事が益となるように共に働き、私たちを助けてくださいます。とても勇気づけられることだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月4日
ガラテヤの信徒への手紙・5章の16~26節より

『霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません(=つまり霊に導かれているなら、神が定めた決まりごとに反しないということの意味)。肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫(かんいん)、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴(しゅえん)、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和(じゅうわ)、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう』

(聖霊が望むものと、肉が望むものとは対立関係にあります。肉が望むものの例として、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、といったものが挙げられています。さらにこれらを行う者は、神の国を受け継ぐことができないともつづられています。これは人間である私たちにとっては、本当に厳しい戒(いまし)めとなっています。ですが、こうつづられている以上は、私たちはキリストの十字架に、これらすべてのものを(=つまり肉が望むすべてを)あずけたのだという意志のもと、戦っていく必要があるように思います。その際には聖霊もまた私たちの内側から手助けをしてくださるのです。とても大切なことだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月5日
ヨハネによる福音書・14章の15~18節より

『あなたがたは、わたし(=キリスト)を愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父(=神)にお願いしよう。父は別の弁護者(=聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊(=聖霊)である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る(=携挙、もしくは艱難時代末期の再臨のこと)』

(これはキリストの言葉です。私たちがキリストを愛しているならば、神様は私たちの内に永遠に聖霊を宿してくださいます。ですので、この神様からの恵みにこたえるためにも、私たちはねばり強く “肉の業” と戦っていく必要があるのだと思います(肉の業については2018年1月4日の記事を参照のこと)。聖霊は一度宿ってくだされば、永遠にいてくださるのですから、たとえ肉の業に負けるときがあっても、悔い改めて、キリストの十字架への感謝と共に歩んでいくことが大切なのだと思います)





2018年1月6日
エフェソの信徒への手紙・4章の30節より

『神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖(あがな)いの日(=キリストが迎えに来てくださる日のこと)に対して保証されているのです』

(私たちの内に宿ってくださる聖霊は感情を持っています。キリストが迎えに来てくださるときまで、聖霊を悲しませずに(=つまり肉の業にながされずに)いくことが大切だと思います)





2018年1月7日
ローマの信徒への手紙・8章の5節より

『肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます』

(聖霊に従って歩み、聖霊に属することを考えながら歩んでいきたいものですね。とても印象にのこる文章でしたので、ここに載せておくことにします。※尚 “聖霊” についてまとめて取り上げてきましたが、ここでひと区切りつけたいと思います)





2018年1月10日
マタイによる福音書・16章の25節より

『自分の命を救いたいと思う者は、それを(=命を)失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』

(これはキリストの言葉です。一日一日この言葉を胸にあてながら歩んでいきたいものですね。とても大切なことと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月11日
ルカによる福音書・12章の4~5節より

『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方(かた)だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい』

(これはキリストの言葉です。この言葉が指している内容は、つまり私たちが死んだあとで天国に送られることになるのか、あるいは地獄に投げこまれることになるのか、その決定権を持っている神をこそ恐れるようにということなのでしょう。まったくそのとおりだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月12日
ルカによる福音書・14章の12~14節より

『昼食や夕食の会を催(もよお)すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会(えんかい)を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』

(これはキリストの言葉です。このように本当に困っている人たちに、手をさしのべられるような人になりたいものですね。印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月14日
ルカによる福音書・21章の7~19節より

『そこで、彼らは(=弟子たちは)イエスに尋ねた。「先生、では、そのことは(=世界の終末は)いつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民(たみ)は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに(=つまりキリストを信じている人たちに)手を下して迫害し、会堂や牢(ろう)に引き渡し、わたしの名(=キリストの名)のために王や総督(そうとく)の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証(あか)しをする機会となる。だから、前もって弁明(=言い逃れ)の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者(=つまり迫害する側の者たち)でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしが(=天におられるキリストが)あなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」』

(もし世の終末期における、この迫害の状況に遭遇することになったとしても、キリストを信じているという信仰を隠さないことが大切だと思います。それは上記にあるように、たとえ牢に入れられたり、殺されたりするようなことになってもです。なぜならその勇気ある信仰の姿が 『証し』 となって、天から見守ってくださっているキリストにとどくからです(現在キリストは天におられます)。それによって永遠の命をかち取ることにもつながるのです。また世の終末期を迎える前に、携挙(けいきょ)によって天に上る方たちも、これらのことを胸にあてておくことが大切なように思います)





2018年1月15日
マタイによる福音書・6章の14~15節より

『もし人の過(あやま)ちを赦(ゆる)すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない』

(私にはどうしても許せない人がいましたが、聖書にこのような言葉がありましたので、その人を許すことにしました。皆さんにももしかしたら許せなく思う人がいるかもしれませんね。これを機に一度考えなおされてみてはいかがでしょうか)





2018年1月16日
ヨハネの手紙 一・2章の1~6節より

『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父(おんちち=神のことです)のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(※ここでの弁護者と正しい方はキリストを指した言葉です)。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』

(上記には、「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません、と書かれています。もちろん偽り者にはなりたくありませんし、大切なことと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月17日
ヨハネの手紙 一・1章の5~10節より

『わたしたちがイエスから既(すで)に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子(みこ)イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺(あざむ)いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦(ゆる)し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません』

(聖書には、人はだれもが罪人であるということが書かれています。私も聖書を読むようになってから、いかに自分が罪と隣りあわせにいるのかを感じるようになりました。ですがここで闇の中におちてしまってはむなしいですから、キリストへの感謝の気持ちをもって、神との交わりを深められるように歩んでいきたいと思います)





2018年1月18日
コリントの信徒への手紙 一・15章の12~19節より

『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です』

(これはキリストの使徒であるパウロの言葉です。とても切実な内容で、胸にくるものがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月19日
ローマの信徒への手紙・2章の1~4節より

『あなたは、他人を裁(さば)きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐(あわ)れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛(じあい)と寛容と忍耐とを軽んじるのですか』

(自分自身を見直していくことが大事ですよね。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





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