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<ブログ記事>

更新の頻度は特に決まっておりません。
小説やイラストが好きですが、こちらでは聖書について書かせていただきます。
おもに聖書から素敵な言葉をピックアップして、短いコメントを載せていきたいと思います。

・最終更新日2017年9月24日


普津沢(聖書:初心者で1年目です)のコメント    白河(聖書:初心者で教会にいっています)のコメント




2017年8月9日
ルカによる福音書・6章の27節より

『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

(当たり前のことなのかもしれませんが、はっとさせられてしまいました。とても素敵な言葉だと思います)





2017年8月10日
マルコによる福音書・7章の34節より

『そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。』

(イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒す場面です。自分の指を両耳に入れてはずし、唾をつけて聞こえない人の舌に触れて呪文のように言うあたりがまるで神様のようでとても印象深い場面でした)





2017年8月10日
ルカによる福音書・6章の41節より

『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか』

(まったくそのとおりだと思います。日々自分をかえりみながら気をつけていきたいですね)





2017年8月12日
マタイによる福音書・6章の1節より

『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる』

(良いことをするときには人目のあるなしは関係がないということでしょうか。日々澄んだ心でいたいものですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・12章の25節〜27節より

『体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』

(今日の礼拝の説教で聞いた言葉です。教会の中で信者たちが言い争いをしている場面です。信者たちはキリストの体となってそれぞれに役割があり、どれも無くてはならないんですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の10節より

『皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい』

(どんなことでも集団にいる限り、心を一つにして取り組まないと何もなりません。お互いの意見を尊重して一致団結して取り組むことが大切だと実感しました)





2017年8月13日
マタイによる福音書・7章の23節より

『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』

(自分に都合がよいときにだけ、神さまを頼るようなやり方では聞き入れてもらえないということでしょうか。日頃からのおこないが大切なのでしょうね)





2017年8月13日
マタイによる福音書・22章の39節より

『隣人を自分のように愛しなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉ですね。まったくそのとおりだと思います)





2017年8月15日
創世記・1章の1節より

『初めに、神は天地を創造された』

(聖書を開いたときに一番最初に目にとびこんでくる文章です。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年8月15日
マタイによる福音書・6章の24節より

『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』

(ここでいう富とはそのままお金のことと考えればよいのでしょうか。日々心を清くしていたいものですね)





2017年8月16日
ルカによる福音書・1章の30節より

『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっている男の子を産むが、 その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。』

(神から遣われマリアのもとにやってきた天使のガブリエルがイエスを産むという予告をする場面です。ヨセフの許嫁だったマリアですが、まだ少女でヨセフの顔すらも見たことがありません。初々しくて戸惑うマリアが印象にのこりました)





2017年8月16日
ルカによる福音書・15章の31節より

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

(この章のタイトルは「放蕩息子のたとえ」です。イエスが放蕩息子の話しを信者にした場面です。兄と弟の話ですが、弟は勝手に家を出て父親の半分の遺産を全部遊びにつかってしまったのです。その間、兄は父親のために孝行をして一生懸命働くのです。 それなのに、突然ふらっと現れた弟に父親は涙を流して抱きしめて祝福をするのです。私はこの話を何回読んでも理解ができません。 女遊びや贅沢な暮らしをし尽くして家族を捨てた弟なんか許せませんが、この物語を読んで、親はどんなことがあっても家を出て行ってもずっと子は子なんだと思いました。 親と子供目線はまったく違いますね。)





2017年8月17日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の19節より

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』

(もしいつか審判されるときがくるとするならば、もの知りであったり仕事ができたりすることよりも尊われるべきことがあるということでしょうか。それは聖書でいうところの十字架の言葉だったり、隣人を愛することだったり、そういうことなのかもしれませんね)





2017年8月17日
ヨハネの黙示録・12章の9節より

『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(聖書を読んでいてとてもおどろいたのですが、聖書では比喩としてではなく実在するものとして、悪魔の存在をはっきりと認めているようです。このことに関しては、もう少ししっかりと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月20日
ヤコブの手紙・4章の2~3節より

『得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』

(とても奥が深い言葉だと思います。エゴを捨ててということなのでしょうが、これは本当にむずかしいことですよね)





2017年8月20日
讃美歌493番・いつくしみ深い

『いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ』

(教会でお葬式をあげるときに必ず歌う曲です。「いつくしみ深き」とは、恵み深い神さまの慈しみを讃えている賛美歌という意味らしいです。 つらく、悲しいときでも、救い主なるイエスさまは私たちと共におられ、私たちを慰め、いたわって下さいます。 去年の11月から1月にかけて、教会の信者さんが3人もお亡くなりになりお葬式をあげました。みんなご高齢でした。 現在、2人の信者さんが長期の入院をしております。一人は肺に水が溜まっていて深刻な状況です。無事元気に戻ってきますことを祈っております)





2017年8月20日
讃美歌83番・聖なるかな

『聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なる神
主の栄光は 地に満てり
聖なるかな 主なる神』

(教会に初めて来て一番最初に聞いて印象に残った曲です。いつも礼拝の最初のときに歌います。キリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです)





2017年8月21日
フィリピの信徒への手紙・2章の6~8節より

『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』

(聖書ではたびたびこの内容のことがつづられています。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年8月21日
ペトロの手紙・2章の24節より

『そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました』

(おそらくキリストが十字架にかけられたのは、人々の罪の身代わりのための定めだったということでしょうか。聖書ではこの内容のこともたびたびでてきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年8月23日
ルカによる福音書・24章の7節より

『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』

(十字架にかけられたあとに墓に葬られたキリストのもとを訪れた婦人たち。その婦人たちに向けて天使が語った言葉です。キリストが復活されていたことにとてもおどろきましたが、もともと神様は天地を創造されたほかに、一番はじめの人間、アダムも土の塵(ちり)からお創りになりました。とするならキリストが死から復活されたこともおこりうるということなのでしょうね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年8月25日
マタイによる福音書・5章の39節より

『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉です。復讐するようなことがあってはならない、それを指し示している言葉のようです。こうありたいものですが、しばしば感情を抑えるのはむずかしいことですよね)





2017年8月27日
コリントの信徒への手紙(一)・10章の29節より

『「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです』

(「良心」という言葉はディズニーのピノキオに出てくるブルーフェアリーも言っていました。良心に従うのですよ、と言ってます。 この「良心」という言葉ですが奥が深いんです。上に書いています言葉は、コリントの教会の信者さんから良心とはなにかという質問が寄せられたときにコリントが答えた言葉なのです。 これを読んでわたしはいろいろと考えさせられました。自分にとっての良心と他人にとっての良心があるのですね。どっちをとるかは本人次第なのですが、できたら自分と他人が分かりあえる「良心」に従いたいです)





2017年8月28日
マタイによる福音書・10章の26節より

『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである』

(誰にも見られていない、誰にも知られていないと思っていることでも、神様は見ているということでしょうか。この文章の少しあとには、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている、といった言葉までがつづられています。なにかこう考えさせられるものがありますね)





2017年8月29日
ルカによる福音書・4章の35節より

『イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った』

(汚れた霊に取りつかれた男をいやすシーンです。前にもふれましたが聖書はサタンや悪霊の存在をはっきりと認めていますね。こうした霊に関する内容に対しては、もっと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月30日
ルカによる福音書・6章の27節より

『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』

(聖書ではこれと似た文面のものがしばしば出てきます。自己犠牲とでもいうのでしょうか、自分を抑えてでも人に親切にすること。なかなかむずかしいところもありますが、こうありたいものですね)





2017年9月1日
ルカによる福音書・6章の43節より

『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない』

(良い心があるところから良い言葉が語られ、また悪い心があるところから悪い言葉が語られるという意味のようです)





2017年9月2日
讃美歌6番・つくりぬしを賛美します

『つくりぬしを 賛美します
み前に進み ひれふし
ささげます 身もたましいも
きよい主のみ名を 感謝して』

(教会へいったときに毎回歌う曲です。この感謝にみちた讃美歌はアメリカの感謝祭の礼拝で必ずうたわれるもののひとつらしいです)





2017年9月2日
讃美歌258番・牧人ひつじを

『まきびとひつじを 見守るその夜
はじめて天使は ノエルを伝えた
ノエル、ノエル、ノエル、ノエル
主イェスは生まれた』

(イギリスのクリスマスキャロルです。この曲を毎年クリスマスのときに教会で歌って気持ちがホッとします。 この歌の内容ですが、新約聖書の一つでありますルカの福音書の第2章で見ることができます。羊飼い達が羊の群れの番をしていたその夜に、空から神の使いが現れるシーンが描かれています)





2017年9月4日
マタイによる福音書・6章の8~13節より

『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行なわれますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
私たちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください』

(ここでの「御名」とは神様をあらわす言葉です。神様は一人一人の心を見透かしておられるのですから、願いごとがあるときなどもくどくどと述べずに、このようにお祈りをすれば良いようです)





2017年9月6日
ルカによる福音書・17章の20~21節より

『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』

(これはイエス・キリストの言葉です。もしかしたら神の国は、人の目に見えないだけで、思いのほか近くにあるのかもしれませんね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年9月9日
ヨハネの黙示録・22章の18~19節より

『これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この予言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』

(ここでいう、これ、とは聖書のことを指しているようです。つまり聖書に対して、勝手な言葉や解釈などをつけたしてはならない、また故意ではなくても、言葉を省略したりしてはいけない、といった忠告をうながしているのでしょう。こうしたブログを書いている以上は、特に気をつけていきたいと思います)





2017年9月10日
使徒言行録・23章の11節より

『その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」』

(イエスに憧れるパウロは、イエスと同じように囚われ裁判をかけられたその夜の場面です。イエスがそばに立って言われたとのことですが、パウロの夢に出てきたということなのか、 生霊として現れたのかは分かりません。この話の続きはまだありまして次の聖書の言葉にも書きました)





2017年9月10日
使徒言行録・25章の10~11節より

『「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、 だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」』

(皇帝とはローマ皇帝のことです。パウロはフェリクス総督の都合のため2年間裁判を延期している間、ずっと諦めずに待っていました。 そして、任期を満了した総督が新しい総督フェストゥスに変わってから大きく事(こと)が動きました。 これは神様の力によって、あの時の夜に現れたイエスに言われたとおり、ローマへの道が開かれることになりました。そしてパウロはその道を進んで裁判で思い切ってローマ皇帝に上訴すると言いました)





2017年9月10日
讃美歌463番・わが行くみち

『わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに』

(この歌でもありますように、神様が開いてくださった道をただ、ひたすら、私たちは一筋に進んでいくべきだと思います)





2017年9月12日
マルコによる福音書・7章の20~23節より

『人から出て来るものこそ、人を汚(けが)す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、悪意、詐欺(さぎ)、好色(こうしょく)、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである』

(聖書ではこの内容のことがくりかえしでてきます。きれいな心をもちつづけることを日々意識していきたいものですね)





2017年9月13日
マルコによる福音書・8章の38節より

『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる』

(これはキリストの言葉です。ここでいう人の子とはキリスト自身のことです。父とは神のことです。恥じるとは恥ずかしく思うといったところでしょうか。聖書ではサタンや悪霊の存在を認めている一方で、このようにキリストのことはもちろん、天使の存在もはっきりと認めています。この文面そのものはキリストの再臨についてのシーンだと思いますが、これについては聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月15日
主の祈り

『天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
御心の天に成る如く
地にもなさせ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みに遭わせず、
悪より救い出し給え。
国と力と栄えとは
限りなく汝のものなれば成り。
アーメン』

(教会の礼拝の始まりのときに毎回必ず言う言葉です。最近気がつきましたがいろいろな洋画をみていますと、窮地に立たされたときに縋るように祈っている場面をみることがあります)





2017年9月15日
使徒信条

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン』

(教会の礼拝の終わりのときに毎回必ず言う言葉です。この言葉もなんだかエクソシストで聞いたように思います)





2017年9月15日
コリントの信徒への手紙・13章の4~7節より

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失(しっ)せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』

(聖書では“愛”という言葉も多く出てきますので、こちらに載せておきたいと思います。ここでいう不義とは正義、道義、義理に反することといったところでしょうか。※辞書参考)





2017年9月16日
コリントの信徒への手紙・15章の40節より

『また、天上の体と地上の体があります』

(聖書を読むにあたってキーとなる言葉だと思います。この文章の少しあとにはこうつづられています。『蒔(ま)かれるときは朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです』おそらくこれは地上の体から天上の体へと移りゆくことを指しているのでしょう。これに関しても聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月18日
マタイによる福音書・10章の29節より

『二羽の雀(すずめ)が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない』

(雀一羽の運命さえ神ににぎられているということなのでしょう。とても凄いことだと思います。※尚一アサリオンとは約300円のことのようです)





2017年9月19日
マタイによる福音書・10章の32~33節より

『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う』

(これはキリストの言葉です。たしかにそういうものなのだと思います。印象的でしたのでここに載せておきますね)





2017年9月20日
マタイによる福音書・18章の3節より

『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』

(この、心を入れ替えて子供のようにならなければ、という言葉に感銘を受けました。ここでいう子供とは純粋さを指しているのでしょう。日々こころがけていきたいものです)





2017年9月21日
ヨハネの手紙・4章の12節より

『いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです』

(この、いまだかつて神を見た者はいません、という言葉ですが、聖書にこうつづられている以上はそういうものなのだと思います。はっとさせられてしまったので、ここに載せておくことにしますね)





2017年9月22日
コリントの信徒への手紙・8章の4節より

『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています』

(ただ一人の神だけが、万物を創造できるということなのでしょう。のちのち忘れてしまわないように、ここに載せておきたいと思います)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」』

(パウロと他数名の囚人がローマに向けて航海をする話です。海が大荒れで命の危険もある大航海となります。 暴風に襲われ船が遭難したときにパウロが囚人たちに勇気づけて言ったときの話です。 逆境における強靱な精神をもつパウロですが、昨晩に天使がやってきてまた告げられるのです。その続きを下に書きました)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは(ローマ)皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」』

(前にパウロの枕元にイエスが現れ、そして今回も絶望に陥ったときに天使が目の前に現れました。 パウロは日頃からイエスの気持ちになったようにいつも動いていて信仰もとてもあついです。 彼の体の中にしっかり信仰が刻み込まれていますので、いざというときに力が発揮されるのです。 絶望に陥っても諦めない精神力が素晴らしいです)





2017年9月24日
讃美歌474番・わが身の望みは

『風いとはげしく なみ立つ闇夜も
みもとに錨(いかり)を おろして安らわん
われらのイェスこそ 救いの岩なれ
救いの岩なれ』

(今回の話に沿っているように思いましたので2番の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私もどんな逆境に立たされても決して望みを捨てず、強い信仰をもち強靱な精神を養いたいと思いました)





<ブログ記事ここまで>

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