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<ブログ記事>

更新の頻度は特に決まっておりません。
小説やイラストが好きですが、こちらでは聖書について書かせていただきます。
おもに聖書から素敵な言葉をピックアップして、短いコメントを載せていきたいと思います。

・最終更新日2018年11月18日


普津沢(聖書:初心者で1年目です)のコメント    白河(聖書:初心者で教会にいっています)のコメント




2017年8月9日
ルカによる福音書・6章の27節より

『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

(当たり前のことなのかもしれませんが、はっとさせられてしまいました。とても素敵な言葉だと思います)





2017年8月10日
マルコによる福音書・7章の34節より

『そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。』

(イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒す場面です。自分の指を両耳に入れてはずし、唾をつけて聞こえない人の舌に触れて呪文のように言うあたりがまるで神様のようでとても印象深い場面でした)





2017年8月10日
ルカによる福音書・6章の41節より

『あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか』

(まったくそのとおりだと思います。日々自分をかえりみながら気をつけていきたいですね)





2017年8月12日
マタイによる福音書・6章の1節より

『見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる』

(良いことをするときには人目のあるなしは関係がないということでしょうか。日々澄んだ心でいたいものですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・12章の25節〜27節より

『体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。 あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です』

(今日の礼拝の説教で聞いた言葉です。教会の中で信者たちが言い争いをしている場面です。信者たちはキリストの体となってそれぞれに役割があり、どれも無くてはならないんですね)





2017年8月13日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の10節より

『皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい』

(どんなことでも集団にいる限り、心を一つにして取り組まないと何もなりません。お互いの意見を尊重して一致団結して取り組むことが大切だと実感しました)





2017年8月13日
マタイによる福音書・7章の23節より

『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』

(自分に都合がよいときにだけ、神さまを頼るようなやり方では聞き入れてもらえないということでしょうか。日頃からのおこないが大切なのでしょうね)





2017年8月13日
マタイによる福音書・22章の39節より

『隣人を自分のように愛しなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉ですね。まったくそのとおりだと思います)





2017年8月15日
創世記・1章の1節より

『初めに、神は天地を創造された』

(聖書を開いたときに一番最初に目にとびこんでくる文章です。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年8月15日
マタイによる福音書・6章の24節より

『あなたがたは、神と富とに仕えることはできない』

(ここでいう富とはそのままお金のことと考えればよいのでしょうか。日々心を清くしていたいものですね)





2017年8月16日
ルカによる福音書・1章の30節より

『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもっている男の子を産むが、 その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。』

(神から遣われマリアのもとにやってきた天使のガブリエルがイエスを産むという予告をする場面です。ヨセフの許嫁だったマリアですが、まだ少女でヨセフの顔すらも見たことがありません。初々しくて戸惑うマリアが印象にのこりました)





2017年8月16日
ルカによる福音書・15章の31節より

『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』

(この章のタイトルは「放蕩息子のたとえ」です。イエスが放蕩息子の話しを信者にした場面です。兄と弟の話ですが、弟は勝手に家を出て父親の半分の遺産を全部遊びにつかってしまったのです。その間、兄は父親のために孝行をして一生懸命働くのです。 それなのに、突然ふらっと現れた弟に父親は涙を流して抱きしめて祝福をするのです。私はこの話を何回読んでも理解ができません。 女遊びや贅沢な暮らしをし尽くして家族を捨てた弟なんか許せませんが、この物語を読んで、親はどんなことがあっても家を出て行ってもずっと子は子なんだと思いました。 親と子供目線はまったく違いますね。)





2017年8月17日
コリントの信徒への手紙(一)・1章の19節より

『わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする』

(もしいつか審判されるときがくるとするならば、もの知りであったり仕事ができたりすることよりも尊われるべきことがあるということでしょうか。それは聖書でいうところの十字架の言葉だったり、隣人を愛することだったり、そういうことなのかもしれませんね)





2017年8月17日
ヨハネの黙示録・12章の9節より

『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(聖書を読んでいてとてもおどろいたのですが、聖書では比喩としてではなく実在するものとして、悪魔の存在をはっきりと認めているようです。このことに関しては、もう少ししっかりと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月20日
ヤコブの手紙・4章の2~3節より

『得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです』

(とても奥が深い言葉だと思います。エゴを捨ててということなのでしょうが、これは本当にむずかしいことですよね)





2017年8月20日
讃美歌493番・いつくしみ深い

『いつくしみ深い 友なるイエスは
うれいも罪をも ぬぐい去られる
悩み苦しみを かくさず述べて
重荷のすべてを み手にゆだねよ』

(教会でお葬式をあげるときに必ず歌う曲です。「いつくしみ深き」とは、恵み深い神さまの慈しみを讃えている賛美歌という意味らしいです。 つらく、悲しいときでも、救い主なるイエスさまは私たちと共におられ、私たちを慰め、いたわって下さいます。 去年の11月から1月にかけて、教会の信者さんが3人もお亡くなりになりお葬式をあげました。みんなご高齢でした。 現在、2人の信者さんが長期の入院をしております。一人は肺に水が溜まっていて深刻な状況です。無事元気に戻ってきますことを祈っております)





2017年8月20日
讃美歌83番・聖なるかな

『聖なるかな 聖なるかな
聖なるかな 主なる神
主の栄光は 地に満てり
聖なるかな 主なる神』

(教会に初めて来て一番最初に聞いて印象に残った曲です。いつも礼拝の最初のときに歌います。キリスト教信仰の基本を讃美としたもので、個人の感情や、信仰体験でなく、神ご自身の本質を讃え、歌っているものです)





2017年8月21日
フィリピの信徒への手紙・2章の6~8節より

『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』

(聖書ではたびたびこの内容のことがつづられています。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年8月21日
ペトロの手紙・2章の24節より

『そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました』

(おそらくキリストが十字架にかけられたのは、人々の罪の身代わりのための定めだったということでしょうか。聖書ではこの内容のこともたびたびでてきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年8月23日
ルカによる福音書・24章の7節より

『人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか』

(十字架にかけられたあとに墓に葬られたキリストのもとを訪れた婦人たち。その婦人たちに向けて天使が語った言葉です。キリストが復活されていたことにとてもおどろきましたが、もともと神様は天地を創造されたほかに、一番はじめの人間、アダムも土の塵(ちり)からお創りになりました。とするならキリストが死から復活されたこともおこりうるということなのでしょうね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年8月25日
マタイによる福音書・5章の39節より

『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい』

(これは私でも聞いたことのある言葉です。復讐するようなことがあってはならない、それを指し示している言葉のようです。こうありたいものですが、しばしば感情を抑えるのはむずかしいことですよね)





2017年8月27日
コリントの信徒への手紙(一)・10章の29節より

『「良心」と言うのは、自分の良心ではなく、そのように言う他人の良心のことです』

(「良心」という言葉はディズニーのピノキオに出てくるブルーフェアリーも言っていました。良心に従うのですよ、と言ってます。 この「良心」という言葉ですが奥が深いんです。上に書いています言葉は、コリントの教会の信者さんから良心とはなにかという質問が寄せられたときにコリントが答えた言葉なのです。 これを読んでわたしはいろいろと考えさせられました。自分にとっての良心と他人にとっての良心があるのですね。どっちをとるかは本人次第なのですが、できたら自分と他人が分かりあえる「良心」に従いたいです)





2017年8月28日
マタイによる福音書・10章の26節より

『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである』

(誰にも見られていない、誰にも知られていないと思っていることでも、神様は見ているということでしょうか。この文章の少しあとには、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている、といった言葉までがつづられています。なにかこう考えさせられるものがありますね)





2017年8月29日
ルカによる福音書・4章の35節より

『イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った』

(汚れた霊に取りつかれた男をいやすシーンです。前にもふれましたが聖書はサタンや悪霊の存在をはっきりと認めていますね。こうした霊に関する内容に対しては、もっと聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年8月30日
ルカによる福音書・6章の27節より

『敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい』

(聖書ではこれと似た文面のものがしばしば出てきます。自己犠牲とでもいうのでしょうか、自分を抑えてでも人に親切にすること。なかなかむずかしいところもありますが、こうありたいものですね)





2017年9月1日
ルカによる福音書・6章の43節より

『悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない』

(良い心があるところから良い言葉が語られ、また悪い心があるところから悪い言葉が語られるという意味のようです)





2017年9月2日
讃美歌6番・つくりぬしを賛美します

『つくりぬしを 賛美します
み前に進み ひれふし
ささげます 身もたましいも
きよい主のみ名を 感謝して』

(教会へいったときに毎回歌う曲です。この感謝にみちた讃美歌はアメリカの感謝祭の礼拝で必ずうたわれるもののひとつらしいです)





2017年9月2日
讃美歌258番・牧人ひつじを

『まきびとひつじを 見守るその夜
はじめて天使は ノエルを伝えた
ノエル、ノエル、ノエル、ノエル
主イェスは生まれた』

(イギリスのクリスマスキャロルです。この曲を毎年クリスマスのときに教会で歌って気持ちがホッとします。 この歌の内容ですが、新約聖書の一つでありますルカの福音書の第2章で見ることができます。羊飼い達が羊の群れの番をしていたその夜に、空から神の使いが現れるシーンが描かれています)





2017年9月4日
マタイによる福音書・6章の8~13節より

『あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。

天におられるわたしたちの父よ、
御名(みな)が崇(あが)められますように。
御国(みくに)が来ますように。
御心(みこころ)が行なわれますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
私たちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください』

(ここでの「御名」とは神様をあらわす言葉です。神様は一人一人の心を見透かしておられるのですから、願いごとがあるときなどもくどくどと述べずに、このようにお祈りをすれば良いようです)





2017年9月6日
ルカによる福音書・17章の20~21節より

『神の国は、見える形では来ない。“ここにある”“あそこにある”と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』

(これはイエス・キリストの言葉です。もしかしたら神の国は、人の目に見えないだけで、思いのほか近くにあるのかもしれませんね。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません)





2017年9月9日
ヨハネの黙示録・22章の18~19節より

『これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この予言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』

(ここでいう、これ、とは聖書のことを指しているようです。つまり聖書に対して、勝手な言葉や解釈などをつけたしてはならない、また故意ではなくても、言葉を省略したりしてはいけない、といった忠告をうながしているのでしょう。こうしたブログを書いている以上は、特に気をつけていきたいと思います)





2017年9月10日
使徒言行録・23章の11節より

『その夜、主はパウロのそばに立って言われた。「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない」』

(イエスに憧れるパウロは、イエスと同じように囚われ裁判をかけられたその夜の場面です。イエスがそばに立って言われたとのことですが、パウロの夢に出てきたということなのか、 生霊として現れたのかは分かりません。この話の続きはまだありまして次の聖書の言葉にも書きました)





2017年9月10日
使徒言行録・25章の10~11節より

『「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、 だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します」』

(皇帝とはローマ皇帝のことです。パウロはフェリクス総督の都合のため2年間裁判を延期している間、ずっと諦めずに待っていました。 そして、任期を満了した総督が新しい総督フェストゥスに変わってから大きく事(こと)が動きました。 これは神様の力によって、あの時の夜に現れたイエスに言われたとおり、ローマへの道が開かれることになりました。そしてパウロはその道を進んで裁判で思い切ってローマ皇帝に上訴すると言いました)





2017年9月10日
讃美歌463番・わが行くみち

『わが行くみち いついかに
なるべきかは つゆ知らねど
主はみこころ なしたまわん
そなえたもう 主のみちを
ふみて行かん ひとすじに』

(この歌でもありますように、神様が開いてくださった道をただ、ひたすら、私たちは一筋に進んでいくべきだと思います)





2017年9月12日
マルコによる福音書・7章の20~23節より

『人から出て来るものこそ、人を汚(けが)す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、悪意、詐欺(さぎ)、好色(こうしょく)、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである』

(聖書ではこの内容のことがくりかえしでてきます。きれいな心をもちつづけることを日々意識していきたいものですね)





2017年9月13日
マルコによる福音書・8章の38節より

『神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる』

(これはキリストの言葉です。ここでいう人の子とはキリスト自身のことです。父とは神のことです。恥じるとは恥ずかしく思うといったところでしょうか。聖書ではサタンや悪霊の存在を認めている一方で、このようにキリストのことはもちろん、天使の存在もはっきりと認めています。この文面そのものはキリストの再臨についてのシーンだと思いますが、これについては聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月15日
主の祈り

『天にまします我らの父よ、
願わくは御名をあがめさせ給え。
御国を来たらせ給え。
御心の天に成る如く
地にもなさせ給え。
我らの日用の糧を、今日も与え給え。
我らに罪を犯す者を 我らが赦す如く、
我らの罪をも赦し給え。
我らを試みに遭わせず、
悪より救い出し給え。
国と力と栄えとは
限りなく汝のものなれば成り。
アーメン』

(教会の礼拝の始まりのときに毎回必ず言う言葉です。最近気がつきましたがいろいろな洋画をみていますと、窮地に立たされたときに縋るように祈っている場面をみることがあります)





2017年9月15日
使徒信条

『我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、
イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、
処女(おとめ)マリヤより生まれ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、
十字架につけられ、死にて葬られ、
陰府(よみ)にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがえり、
天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、
罪の赦し、身体のよみがえり、
永遠(とこしえ)の生命(いのち)を信ず。
アーメン』

(教会の礼拝の終わりのときに毎回必ず言う言葉です。この言葉もなんだかエクソシストで聞いたように思います)





2017年9月15日
コリントの信徒への手紙 一・13章の4~7節より

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失(しっ)せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』

(聖書では“愛”という言葉も多く出てきますので、こちらに載せておきたいと思います。ここでいう不義とは正義、道義、義理に反することといったところでしょうか。※辞書参考)





2017年9月16日
コリントの信徒への手紙 一・15章の40節より

『また、天上の体と地上の体があります』

(聖書を読むにあたってキーとなる言葉だと思います。この文章の少しあとにはこうつづられています。『蒔(ま)かれるときは朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです』おそらくこれは地上の体から天上の体へと移りゆくことを指しているのでしょう。これに関しても聖書をしっかりと読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年9月18日
マタイによる福音書・10章の29節より

『二羽の雀(すずめ)が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない』

(雀一羽の運命さえ神ににぎられているということなのでしょう。とても凄いことだと思います。※尚一アサリオンとは約300円のことのようです)





2017年9月19日
マタイによる福音書・10章の32~33節より

『だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う』

(これはキリストの言葉です。たしかにそういうものなのだと思います。印象的でしたのでここに載せておきますね)





2017年9月20日
マタイによる福音書・18章の3節より

『はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない』

(この、心を入れ替えて子供のようにならなければ、という言葉に感銘を受けました。ここでいう子供とは純粋さを指しているのでしょう。日々こころがけていきたいものです)





2017年9月21日
ヨハネの手紙 一・4章の12節より

『いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです』

(この、いまだかつて神を見た者はいません、という言葉ですが、聖書にこうつづられている以上はそういうものなのだと思います。はっとさせられてしまったので、ここに載せておくことにしますね)





2017年9月22日
コリントの信徒への手紙 一・8章の4節より

『そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています』

(ただ一人の神だけが、万物を創造できるということなのでしょう。のちのち忘れてしまわないように、ここに載せておきたいと思います)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。」』

(パウロと他数名の囚人がローマに向けて航海をする話です。海が大荒れで命の危険もある大航海となります。 暴風に襲われ船が遭難したときにパウロが囚人たちに勇気づけて言ったときの話です。 逆境における強靱な精神をもつパウロですが、昨晩に天使がやってきてまた告げられるのです。その続きを下に書きました)





2017年9月24日
使徒言行録・27章の22節より

『「天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。『パウロ、恐れるな。あなたは(ローマ)皇帝の前に出頭しなければならない。 神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』」』

(前にパウロの枕元にイエスが現れ、そして今回も絶望に陥ったときに天使が目の前に現れました。 パウロは日頃からイエスの気持ちになったようにいつも動いていて信仰もとてもあついです。 彼の体の中にしっかり信仰が刻み込まれていますので、いざというときに力が発揮されるのです。 絶望に陥っても諦めない精神力が素晴らしいです)





2017年9月24日
讃美歌474番・わが身の望みは

『風いとはげしく なみ立つ闇夜も
みもとに錨(いかり)を おろして安らわん
われらのイェスこそ 救いの岩なれ
救いの岩なれ』

(今回の話に沿っているように思いましたので2番の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私もどんな逆境に立たされても決して望みを捨てず、強い信仰をもち強靱な精神を養いたいと思いました)





2017年9月25日
ヨブ記・38章の4~7節より

『わたしが大地を据(す)えたとき お前はどこにいたのか。
知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。
誰がその広がりを定めたかを知っているのか。
誰がその上に測(はか)り縄(なわ)を張ったのか。
基(もとい)の柱はどこに沈められたのか。
誰が隅(すみ)の親石を置いたのか。
そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い
神の子らは皆、喜びの声をあげた』

(これは神が人間のヨブに話しかけているシーンです。この1行目の “大地を据えたとき” とは、創世記における ”第一の日”、もしくは ”第三の日” のことを指しているようです(その両方に “地” についての文章がある)。そしてその大地が据えられたときには、すでに喜びの声をあげる天使たち(神の子ら)の存在があったということが、ここに記されています。ちなみに最初の人間であるアダムが創造されたのは ”第六の日” ですから、人間よりも先に天使たちが創造されていたことになります。これを抑えた上でまた創世記を読みなおしてみたいと思います)

<以下、創世記より一部引用>
・第一の日:初めに、神は天地を創造された。地は混沌(こんとん)であって、闇が深淵(しんえん)の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた。
・第三の日:神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。
・第六の日:神は御自分(ごじぶん)にかたどって人を創造された。※ここでの ”人” とはアダムのこと。





2017年9月26日
エゼキエル書・28章の12~17節より

『主なる神はこう言われる。
お前はあるべき姿を印章(いんしょう)としたものであり
知恵に満ち、美しさの極みである。
お前は神の園であるエデンにいた。
あらゆる宝石がお前を包んでいた。
ルビー、黄玉(こうぎょく)、紫水晶(むらさきずいしょう)
かんらん石、縞(しま)めのう、碧玉(へきぎょく)
サファイア、ざくろ石、エメラルド。
それらは金(きん)で作られた留め金で
お前に着けられていた。
それらはお前が創造された日に整えられた。
わたしはお前を
翼を広げて覆うケルブとして造った。
お前は神の聖なる山にいて
火の石の間を歩いていた。
お前が創造された日から
お前の歩みは無垢(むく)であったが
ついに不正がお前の中に
見いだされるようになった。
お前の取り引きが盛んになると
お前の中に不法が満ち
罪を犯すようになった。
そこで、わたしはお前を神の山から追い出し
翼で覆うケルブであるお前を
火の石の間から滅ぼした。
お前の心は美しさのゆえに高慢(こうまん)となり
栄華(えいが)のゆえに知恵を堕落させた。
わたしはお前を地の上に投げ落とし、
王たちの前で見せ物とした』

(エデンの園で最初に罪を犯した人間がエバであるのは有名ですが、同じエデンの園で先に堕落をし、罪を犯した天使がいたことはあまり知られていないように思います。ここでいう “お前” とはサタンのことであり、彼はもともとは翼をもった “ケルブ” という天使として創造されていました。彼は知恵に満ち、とても美しく、その身に着けている宝石の数からもかなり力のある天使だったようです。ちなみにエデンの園でエバを誘惑したのも、このサタンだと言われています(ただし創世記ではサタンを象徴する “蛇”としてつづられている)。このことを抑えておくことで、より創世記が読みやすくなるように思います)

<以下、ヨハネの黙示録・12章の9節より引用>
『この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』
このように “蛇” を “サタン” の象徴としている内容が記されています。





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の17~20節より

『(兵士たちは)イエスに紫の服を着せ、茨の冠(かんむり)を編んでかぶらせ、「ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)」と言って敬礼し始めた。 また何度も、葦(あし)の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。』

(今回は十字架のはりつけの名場面をご紹介させていただきます。苦しみは人間の罪に対する「神の怒り」、「神の裁き」。人間に向けられるべき神の怒りが、イエスに向けられることになり、苦しみを受け神の子としてなりました。 十字架にかけられるまでに兵士たちは笑いながら彼に、屈辱と壮絶な痛みを与え続け、悲しみと絶望を浮かべる人々の見せしめにしました。つづきもあります)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の22~23節より

『イエスをゴルゴタという所―その意味は「されこうべの場所」―に連れて行った。没薬(もつやく)を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった。』

(没薬(もつやく)とは痛み止めのことです。いばらの冠をかぶせられ頭から血を流し、何度も棒で叩かれ背中にノコギリのような鞭を振るわれ、瀕死の重傷でしたが没薬(もつやく)を勧められても飲むことを拒みました。「痛み=神の怒り・裁き」だから彼はすべてを受け止めたのだと思いました)





2017年9月27日
マルコによる福音書・15章の33~34節より

『昼の十二時になると、全地は暗くなり、それ(十字架のはりつけ)が三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』

(十字架刑をおこなった時間は午前9時〜午後3時までの6時間です。大勢の人たちの前で十字架に釘付けにして、何時間も激痛を負わせ気絶しかけると気づけ薬で意識を戻し少しずつ体力を消耗させ死に至らしめる身も凍るような恐ろしい処刑です。 この場面は「パッション」という映画でも見られます。雨に打たれながらイエスは暗雲を立ち込めた空に向かい「アッパ!(お父さん)」と泣き叫び続けておりました。 ここに至るまでに何度か死刑を免れるチャンスはありましたがイエスは考えを決して否定をしませんでした。そして、神のお怒りを人間の子イエスがすべて受けました。 とても悲しいことですがイエスの尊さと一緒に忘れてはならないことだと思います。)





2017年9月28日
テサロニケの信徒への手紙 一・4章の16~17節より

『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります』

(聖書を読んでいてとてもおどろいた箇所です。ここには死者が、死んですぐに天国に行くのではないとつづられています。これから起こる神のラッパが鳴り響くまでは、復活しないということです。そしてキリストを信じて生きている者たちまでが、そのラッパを合図に空中に引き上げられて、いつまでも主と共にいることになるとつづられています。つまり死を迎えてからではなく、死を迎える前に、それも死者を含めた多くの人と一緒にキリストと会うということです。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月29日
創世記・3章の24節より

『こうしてアダムを追放し、命に木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣(つるぎ)の炎(ほのお)を置かれた』

(約束をやぶって、善悪の知識の木の実を食べてしまったアダムを、エデンの園から神が追放するシーンです。ここでいう “ケルビム” とは、天使 “ケルブ” の複数形をあらわす言葉です。つまりエデンの園にある命の木の実(=永遠に生きる者となれる実)を、複数の天使で守っているということです。神に反逆したサタンもケルブですから、かなり力のある天使たちが命の木を守っていることになります。私が聖書をはじめて読んだときは、この “ケルビム” という言葉の意味がわからず、そのまま読みとばしていました。まさか天使のことだとは思わなかったのです。ですのでここに載せておきたいと思います)





2017年9月30日
エゼキエル書・1章の4~10節より

『またその中には、四つの生き物の姿があった。その有様はこうであった。彼らは人間のようなものであった。それぞれが四つの顔を持ち、四つの翼を持っていた。脚はまっすぐで、足の裏は子牛の足の裏に似ており、磨いた青銅が輝くように光を放っていた。また、翼の下には四つの方向に人間の手があった。四つとも、それぞれの顔と翼を持っていた。翼は互いに触れ合っていた。それらは移動するとき向きを変えず、それぞれ顔の向いている方向に進んだ。その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子(しし)の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲(わし)の顔を持っていた』

(これは人間であるエゼキエルが、ケルブ(天使)を目撃したときの文章です。おそらくですが四人のケルブがいて、それぞれが四つの顔と、四つの翼と、四本の腕を持っているということなのでしょうか。ここのところは何度読んでもその姿に確信がもてませんが、ただ天使というものの姿を想像する手助けにはなるように思います。これが神様が創造された天使なのだと思うと、感慨深いものがありましたので、ここに載せておきますね)





2017年9月30日
イザヤ書・6章の1~4節より

『わたしは、高く天にある御座(みざ)に主が座(ざ)しておられるのを見た。衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍(ばんぐん)の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた』

(これは人間であるイザヤが見た幻です。ここでは “ケルビム” ではなく “セラフィム” という天使が出てきています。ケルビムはエデンの園を守っている天使ですが、セラフィムは主が座しておられる御座の宙を飛び交っている天使のようです。この天使は、聖なる、聖なる、と言って神をたたえていますね。このこともここに載せておきたいと思います)





2017年10月1日
ヨハネの黙示録・4章の6~8節より

『また、わたしは見た。そして、玉座(ぎょくざ)と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。天使たちは大声でこう言った。「屠(ほふ)られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」』

(これは人間であるヨハネが目にしている(正確にはキリストの指示を受けた天使に見せられている)光景です。万の数万倍とは数億のことですから、それだけの天使が玉座の周りにいることになります。神様はこの地上とはべつに、天使たちを含めた天の国を創られているようです。とても興味深いのでここに載せておきますね。なお屠られた小羊とはキリストのことです)





2017年10月2日
エフェソの信徒への手紙・2章の1~3節より

『さて、あなたがたは、以前は自分の過(あやま)ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした』

(聖書には天の国にたくさんの天使たちがいるとつづられています。しかし一方でその天の国に属さないこの地上を支配しているのは、サタンであるともつづられています。そして人間のような肉体を持たないサタンを、ここでは “空中に勢力を持つ者” として表現されています。考えさせられる内容でしたので、ここに載せておきますね)





2017年10月4日
創世記・6章の4節より

『当時もその後(のち)も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった』

(ここでいう “神の子ら” とは天使たちのことです。つまり堕落して罪を犯すことになった天使は、サタンだけではなかったようです。こうして地上には天使と人間のあいだに産まれた “ネフィリム” が誕生することになりました。ちなみに神様はこのあとで、ノアの箱舟に乗った8人の人間を除いて、すべての者を地上からぬぐい去っています。もちろんネフィリムも死に絶えました。興味深い箇所でしたので、ここに載せておくことにします)

<以下、ユダの手紙・6節より引用>
『一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁(さば)きのために、永遠の鎖(くさり)で縛り、暗闇の中に閉じ込められました』
このように自分のいるべき場所を離れてしまった天使たちが、暗闇の中に閉じ込められているという文章があります。上記のことと関係があるのかはわかりませんが、ここに載せておきたいと思います。

<以下、民数記・13章の32~33節より一部引用>
『我々が見た民(たみ)は皆、巨人だった。そこで我々が見たのは、ネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出(で)なのだ。我々は、自分がいなごのように小さく見えたし、彼らの目にもそう見えたにちがいない』
ここにつづられているように “ネフィリム” は巨人だったようです。巨人ゆえに、名高い英雄たち、と人間からは呼ばれていたのでしょうか。※聖書の初心者です。解釈がまちがっていましたら申し訳ございません。





2017年10月5日
コリントの信徒への手紙 一・6章の19節より

『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

(ここでいう、あなたがた、とはキリストを信じている人たちのことのようです。言うなれば、キリストを信じている人の体には聖霊が宿ってくださるということなのでしょう。この “聖霊” については、これからも聖書を読んで考察を深めていきたいと思います)





2017年10月6日
マルコによる福音書・10章の13~16節より

『イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。 弟子たちはこの人々を叱った。 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。 「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。 神の国はこのような者たちのものである。 はっきり言っておく。 子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』

(教会にお母さんたちが子供を連れてイエスに祝福してもらう場面です。 普通の元気な子供はどんな場所でも遊んだり大声を上げたりするものです。 弟子たちはそれが主イエスのお働きの邪魔になってしまうと思ったのか、 子供たちを連れて来た母親たちを叱りつけました。それを見たイエスが彼らに怒鳴りました。 私の通っている教会にたまに子供を連れてくる信者さんの夫婦がいます。 兄弟がツミキやミニカーを持って走らせたり大きな声を張り上げて走り回ったりするのです。 私は申し訳ありませんが牧師の説教がよく聞こえませんし落ち着かないのでうるさいと思ってしまうのですが、 それでも説教をしている牧師や座っている信者さんは何も言わずにいます。 やはり、聖書に書かれていますとおり、子供を受け入れなくてはならないと思うからかもしれません。 聖書の時代のイスラエルの人々にとって、子供とは「いまだ完全な人間になってはいない存在」とされていたようです。 大人になって初めて一人前の人間になるのである。 イエスは子供たちを“あるがまま”に受けとめ、慈しんで下さっていたと以前牧師がお茶会のときに話してくださったことがあります。 わたしもイエス様と同じようにあるがままの子供たちを受け入れて教会に迎えなければいけないと思いました。)





2017年10月7日
ヨハネの手紙 一・4章の1~3節より

『愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者(にせよげんしゃ)が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉となって来られたということを公(おおやけ)に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です』

(霊には神から出ている “聖霊” と、それ以外の “悪霊” とがあります。その見分け方はなにもむずかしいものではなく、キリストのことを公に言えるかどうか、のようです。少し考えさせられるところがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2017年10月8日
ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(ここでいう “この書物の預言の言葉” とは、聖書に載っている “ヨハネの黙示録” のことです。ヨハネの黙示録は、ここに記されているとおり預言書になっています。さすがにその全文をここに載せるわけにはいきませんので、この言葉をピックアップして載せておきたいと思います)





2017年10月9日
ローマの信徒への手紙・1章の16節より

『わたしは福音(ふくいん)を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです』

(”福音” とは聖書に載っている “マタイによる福音書” “マルコによる福音書” “ルカによる福音書” “ヨハネによる福音書” の4つのことを指しています。これらはこの4人の方がそれぞれ視点者となって、イエス・キリストという人物を浮き彫りにするといった態をとっています。私は一度目から興味深く読むことができました。それですのでここに紹介しておきたいと思います)





2017年10月11日
ローマの信徒への手紙・3章の22~25節より

『すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです』

(聖書には “キリストを信じることにより” という文面がくり返しでてきます。聖書はとても分厚い本ですが、もしかしたらこの内容のことを一番伝えたいのかもしれません。ここにでてくる “キリスト・イエスによる贖いの業” とは、人間の罪の身代わりとして十字架にかけられて息絶えたことを指しているようです。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、というところも印象にのこりましたので、ここに載せておきたいと思います。※辞書参考:贖いとは、罪や過ちの償いをすることです)





2017年10月12日
ローマの信徒への手紙・13章の13~14節より

『酒宴(しゅえん)と酩酊(めいてい)、淫乱(いんらん)と好色(こうしょく)、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい』

(主イエス・キリストを身にまといなさい、という表現にぐっときました。力を感じさせる言葉だと思います)





2017年10月13日
ヨハネによる福音書・14章の6節より

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」』

(ここでいう “父” とは神のことです。神のもとに行くには、キリストを知らなければならない、と聖書はつづっています。つまり、神さま、神さま、と祈るだけでは神へとつづく道は通れないのでしょう。聖書を読みなれている方にとっては当たり前のことなのでしょうが、キリストを意識して学んでいくためにもここに載せておきたいと思います)





2017年10月14日
創世記・7章の1~5節より

『主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。空の鳥も七つがい取りなさい。全地の面(おもて)に子孫が生き続けるように。七日の後(のち)、わたしは四十日四十夜地上に雨を降らせ、わたしが造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした。」ノアは、すべて主が命じられたとおりにした』

(これは神が大洪水を起こそうとしている前のシーンです。この洪水によりノアを含む計8名以外のすべての人間が死に絶えました。なぜこうしてノアの家族だけが選ばれたかというと、聖書には、ノアが神に従う人だったから、とつづられています。これは言い換えるなら、神に従わずに堕落しきった者たちを、その血筋もろともぬぐい去ったということです。神様のこうした厳しい一面も、聖書を読んでいると出てきますのでここに載せておきたいと思います)





2017年10月16日
ヨハネの黙示録・6章の12~14節より

『また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。

ヨハネの黙示録・8章の10~11節より

『第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星に名は「苦(にが)よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ』

ヨハネの黙示録・16章の17~18節より

『第七の天使が、その鉢(はち)の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声が聞こえ、「事は成就(じょうじゅ)した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった』

(かつて神は人間が堕落しきったためにノアの洪水を起こし、不法に満ちた人間たちをぬぐい去りました。そして聖書内のヨハネの黙示録において “すぐにも起こるはずのこと” として上記のことを予言しています(ちなみに引用したものは一部です。 “封印” “ラッパ” “鉢” それぞれが第一から第七まであります)。これらはもしかするとノアの洪水に匹敵するような大災害を指しているのかもしれません。聖書を読むにあたり重要なことと思いましたので、ここに載せておくことにします)





2017年10月17日
ヨハネの手紙 一・5章の19節より

『わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです』

(ここでいう “悪い者” とはサタンのことです。聖書ではこの内容のことがたびたび出てきますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月18日
ルカによる福音書・8章の29~31節より

『この人は何回も汚(けが)れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った』

(悪霊とは堕落した天使、つまりサタンの支配下にある天使たちのことのようです。ここに記されているように、その悪霊たちは人に取りつくことができます。しかし一方で彼らは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないように、とイエスに願っています。つまりキリストの強さを知っていると同時に、”底なしの淵” という閉じ込められるような場所があることも知っているのでしょう。興味深いことでしたので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月19日
ヨハネの黙示録・13章の16~18節より

『また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるのかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である』

(ヨハネの黙示録とは預言書のことです。そしてその中ではかつてのノアの洪水に匹敵するような災害が予言されています。またそうした世の終末に向かうあいだで、上記のようにマイクロチップのことなのでしょうか、それらを埋め込まれて監視されるような社会が来ることも予言されています。さらには獣の数字とも呼ばれている、反キリストの中心的な人物を指している数字が六百六十六であることも記されています。ここは黙示録の中でもとても有名な箇所ですので、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月20日
ヨハネの黙示録・12章の7~9節より

『さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた』

(人類を惑わしてきたサタン一味も、大天使ミカエルを中心とする天使たちには勝つことができません。しかしこれは人類が皆、救われるということを意味してはいません。聖書でいう救いとは、神の存在を認め、キリストが行なってくれたこと(つまり人間の罪の身代わりとして十字架にかかり、葬られたこと)や、その彼が死から復活されたことを信じている者たちだけに与えられるものです。聖書を読むにあたり、この点は抑えておきたいことですので、ここに載せておくことにします)





2017年10月21日
申命記・22章の22節より

『男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない』

(ヨハネの黙示録を読むだけでも、神が全人類を守ってくれるわけではないということがわかります。上記の文章は申命記に載っている一例ですが、神はイスラエルの民とのあいだに、姦淫した者がいたら男も女も殺しなさい、といった契約を結んでおられます。このことからも神がいかに罪に対して厳しい方であるかが伝わってきます。ちなみにここでイスラエルという言葉が出てきていますが、聖書における神の民とはイスラエル人のことです。このことも含めてここに載せておきたいと思います)





2017年10月22日
コリントの信徒への手紙一・13章の2~3節より

『たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、 たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、 誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、 愛がなければ、わたしに何の益もない。』

(今日の教会の説教のテーマは「愛がなければ無に等しい」でした。 このお話はパウロが信者に教えている場面です。 信仰と、希望と、愛、この3つの中で最も大いなるものは、愛である、とこの上に書いた文章の先に書かれております。 このパウロの言葉を読んでいるかぎり、信仰のみ生きている者と、信仰と愛をもって生きている者とは格が違うように思います。 “信仰”は“人”に向かって語っている、“愛”は“神”に向かって語っている、そのぐらい違いがありますね。)





2017年10月23日
ヨハネの黙示録・21章の1節より

『わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった』

(これはサタンを含めたすべての悪霊たちが火と硫黄(いおう)の池に投げ込まれたあとの出来事です。神様はこのように天と地を新しく創造しなおす計画を持っているようです。そしてそこでは二度と堕落する天使も人間もあらわれない世界が永遠につづくとのことです。一体どんな世界なのでしょうね)





2017年10月24日
ヨハネの黙示録・22章の12~13節より

『見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである』

<訂正前の誤ったコメント>
(これはヨハネの黙示録の中でも有名な、キリストの再臨、に関する文章です。ちなみにキリストの再臨は、サタンが火と硫黄の池に投げ込まれ、新しい天と地が創造されたあとに起こる出来事となっています。このことは抑えておいた方がいいように思います。※辞書参照:アルファとは最初のことであり、オメガとは最後のことです)

<10月28日 訂正後のコメント>
(上記の誤ったコメントの時系列は、サタンの敗北→新しい天と地の誕生→キリストの再臨、となってしまっています。正しい時系列は、キリストの再臨→千年王国→サタンの敗北→新しい天と地の誕生、となっています。大変申し訳ございませんでした。この点につきましては、聖書を読みなおして正しい知識を身につけたいと思います)





2017年10月25日
マタイによる福音書・24章の4~8節より

『人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである』

<訂正前の誤ったコメント>
(キリストの再臨は、サタンが火と硫黄の池に投げ込まれ、新しい天と地が創造されたあとに起こる出来事です。それよりも前にキリストがこの地上に下りてくることはありません。このことを知っておけば “わたしがメシアだ” や “わたしがキリストの生まれ変わりだ” といった言葉に惑わされることもないのではないでしょうか。聖書を読むにあたり抑えておきたいことと思いましたので、ここに載せておくことにします)

<10月28日 訂正後のコメント>
(上記の誤ったコメントの時系列は、サタンの敗北→新しい天と地の誕生→キリストの再臨、となってしまっています。正しい時系列は、キリストの再臨→千年王国→サタンの敗北→新しい天と地の誕生、となっています。大変申し訳ございませんでした。この点につきましては、聖書を読みなおして正しい知識を身につけたいと思います)





2017年10月26日
コリントの信徒への手紙 二・11章の13~15節より

『こういう者たちは偽使徒(にせしと)、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義(ぎ)に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業(わざ)に応じた最期を遂げるでしょう』

(サタンに仕えている人間たちの中には、キリストを信じている振りをしたり、義に仕える者を装ったりしてくる者がいるようです。こうした反キリストの者たちに惑わされないようにするには、シンプルではありますが、聖書を歪曲せずに読む、ということが最も効果的なように思います。皆さんはいかが思いますでしょうか)





2017年10月28日

<訂正のご案内>
2017年10月24日と2017年10月25日の2つの記事に誤りがありました。本日それぞれのコメント欄にて訂正させていただきました。よろしくお願いします。





2017年10月29日
ヨハネの黙示録・19章の11節より

『そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる』

(ヨハネの黙示録の19章にあるこの文章がキリストの再臨をあらわしているようです。白い馬に乗っている方がキリストだということです。時系列でいいますと、この再臨は、神の怒りであるところの、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢、のすべてが過ぎ去ったあとに起こる出来事のようです。そしてキリストによる千年間の地上の統治へとつづいていきます。訂正の意味を込めまして、ここに載せておきたいと思います)





2017年10月30日
エフェソの信徒への手紙・1章の13~14節より

『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国(みくに)を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖(あがな)われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです』

(キリストを信じている人には “聖霊” が宿ってくれると聖書は教えています。興味深いことですので、ここに載せておきますね。※辞書参考:贖うとは、罪のつぐないをするといった意味です)





2017年11月1日
ローマの信徒への手紙・8章の7~9節より

『なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません』

(キリストを信じている人には “聖霊” が宿ってくれています。そして聖霊が宿っているとき、その人は肉ではなく霊の支配下にあるとつづられています。この “聖霊” とは上記のように “神の霊” と記されることもあれば “キリストの霊” と記されることもあるようです。これは、神と、キリストと、聖霊とで三位一体(さんみいったい)と言われているように、それぞれの存在が切っても切れない関係にあることを意味しているようです。この三位一体については、これからも聖書を読んで考察を深めていきたいと思います。※辞書参照:三位一体とは、三つのものが本質において一つのものであること)





2017年11月2日
エフェソの信徒への手紙・4章の30節より

『神の聖霊を悲しませてはいけません』

(このように聖霊は単なる神秘的な力のようなものではありません。感情を持っていますので、悲しませないようにしたいものですね)





2017年11月3日
マルコによる福音書・3章の29節より

『しかし、聖霊を冒涜(ぼうとく)する者は永遠に赦(ゆる)されず、永遠に罪の責めを負う』

(これは文章そのままですね。キリストを信じることで一人一人に宿ってくださる聖霊。その聖霊を冒涜するようなことがあってはならないということです。※辞書参考:冒涜とは、言葉や行為によって侮辱(ぶじょく)を与えること)





2017年11月4日
エフェソの信徒への手紙・2章の8~9節より

『事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです』

(ここに書いてあるとおり、人は自分の力では自己を救うことができません。それは “行い” によっても神様からの救いにあずかることはできないのです。神様は、だれも誇ることがないようにと、信仰のみを救いの条件とされています。そしてここでいう信仰とは、福音書に書いてあるとおりのキリストを信じることです。聖書を読むにあたり大事なことと思いましたので、ここに載せておくことにします)





2017年11月5日
ヨハネによる福音書・6章の37~39節より

『父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降(くだ)って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣(つか)わしになった方の御心(みこころ)を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである』

(これはキリストの言葉です。ここでの “わたしに与えてくださった人” とは、キリストを信じている人たちのことを指しています。そしてキリストは、そうした人たちを一人も失わずに、終わりの日に復活させると仰っています。とても感慨深いことですので、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月6日
ヘブライ人への手紙・9章の27~28節より

『また、人間にはただ一度死ぬことと、その後(のち)に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです』

(人間はいずれだれもが死にますが、そのあとで裁きがあるようです。聖書にはそのことがはっきりとつづられていますので、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月7日
ルカによる福音書・10章の20節より

『むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい』

(これはキリストの言葉です。このようにキリストを信じた人は、その名が天に記されることになっています。ここに名が書かれているといないとでは、それこそ死んだあとにおかれる環境が劇的にちがってくるようです。それですのでここに載せておきたいと思います)





2017年11月8日
ヨハネの黙示録・20章の12~15節より

『わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座(ぎょくざ)の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた』

(キリストを信じている人たちは、命の書に名が記されることになります。その一方でキリストを信じていない人たちは、上記のような裁きを受けることになっているようです。それとここでいう陰府とは、キリストを信じずに死んだ人々の魂が一時的に入れられている場所のようです。文面では海や、死や、陰府といった言葉が使われていますが、要するに、たとえどこにいようとも玉座の前に立たされる、という意味合いでとらえるとわかりやすいようです。内容が少しむずかしいところではありますが、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月9日
ヨハネの黙示録・13章の8節より

『地上に住む者で、天地創造の時から、屠(ほふ)られた小羊の命の書にその名が記されていない者たちは皆、この獣を拝むであろう』

エフェソの信徒への手紙・1章の4~5節より

『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです』

(ここでいう小羊とはキリストのことです。キリストを信じている人たちは、この命の書に名が記されています。その一方でキリストを信じていない人たちは、上記のように命の書に名が記されていないばかりか、反キリストである獣を拝む(獣に従う)ようになります。そしてここで心にとめておきたいことは、この命の書というものが、すでに天地が創造される前から、人々の名が記された形で用意されているということです。これは要するにキリストを信じるようになる人たちは、遥か以前よりあらかじめ定められているということになります。こうしたことが可能なのも、神が全知の存在であるということにつきているのかもしれません。内容がむずかしいところではありますが、ここに載せておきたいと思います)





2017年11月11日
ヘブライ人への手紙・4章の12~13節より

『というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃(もろは)の剣(つるぎ)よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄(こつずい)とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前(みまえ)では隠れた被造物(ひぞうぶつ)は一つもなく、すべてのものが神の目には裸(はだか)であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません』

(このように神は人の心を見通すことができます。この神に対して、私たちはいずれ迎える最後の審判で、自分のことを述べていかなければなりません。もちろんその審判は嘘や偽りなどでやりすごせるものではないでしょうから、日頃から聖書と向き合っておくことも大切なのではないかと思います。※辞書参考:被造物とは、神によって造られたもののことです)





2017年11月12日
テサロニケの信徒への手紙一・5章の14、15節より

『兄弟たち、あなたがたに勧めます。怠けている者たちを戒めなさい。気落ちしている者たちを励ましなさい。 弱い者たちを助けなさい。すべての人に対して忍耐強く接しなさい。 だれも、悪をもって悪に報いることのないように気をつけなさい。 お互いの間でも、すべての人に対しても、いつも善を行うよう努めなさい。』

(今日の教会の冒頭に牧師に話していただきました。この言葉は下に書いてあります言葉に関係してきます。お読みいただきましたら嬉しいです)





2017年11月12日
コリントの信徒への手紙一

9章の19節より
『わたしは、だれに対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました。』

9章の20節より
『ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。』

9章の22節より
『弱い人に対しては、弱い人のようになりました。』

9章の22~23節より
『すべての人に対してすべてのものになりました。
何とかして何人かでも救うためです。 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。』

(今日の教会のテーマとなった話です。これは、イエスと全く同じことをする信仰のあついパウロが自分の信者に話をしている場面です。 話中に出てきます「奴隷」という言葉は聞こえがあまりよくありませんが、この話の意味では“その人のために尽くす”ということです。 だから、その人のために身をおく。相手が何を求めているかをしっかりと捉えるということです。これがパウロの生き方であって根本になります。 パウロはきっと、神様の恵みをあずかり不幸な人たちと共に喜びを感じたい。一緒に笑いたいという思いで尽くしているのだと思います。)





2017年11月12日
讃美歌411番・うたがい迷いの

『ひとりのキリスト わが主とあおぎ
うれいもなやみも たがいに背負い
ひとつのたたかい 共に苦しみ
ひとつのさんびを 喜び歌う』

(今回の話に沿っているように思いましたので3番目の歌詞を書きました。このお話と讃美歌を聞き終わったあと、私も誰に対してもできることがあれば積極的に手助けをし、その人たちと困難を乗り越えて最後に一緒に笑えるようになりたいと思いました)





2017年11月13日
コリントの信徒への手紙 一・10章の14節より

『わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい』

ヨハネの手紙 一・5章の21節より

『子たちよ、偶像を避けなさい』

出エジプト記・20章の4~5節より

『あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない』

(聖書にはこのように偶像を避けるようにとつづられています。大切なことのように感じましたので、ここに載せておくことにします。※辞書参照:偶像とは、神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもののことです)





2017年11月14日
フィリピの信徒への手紙・3章の19~20節より

『彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています』

(聖書内では、このようにキリストが救い主(=メシア)であるということがたびたび語られています。それですので、ここに載せておきたいと思います。ちなみにここでいう、彼ら、とはキリストの十字架に敵対して歩んでいる者たちのことです。また、腹を神とし、とは食欲や肉欲におぼれているといった意味のようです)





2017年11月16日
ルカによる福音書・13章の3節より

『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』

(聖書には感心させられる言葉がありすぎて、こうした、悔い改める、といった真っ直ぐでシンプルな教えへの意識が、薄らいでしまうことがあるようにも思います(私自身がそうでした)。 “悔い改め” と “信仰” とは、どちらも欠かしてはならない「一枚のコインの両面のようなものである」という言葉も見かけましたので(ただし聖書内ではない)、ここに載せておきたいと思います。※辞書参照:悔い改めるとは、過去のあやまちを反省して、心を入れかえることの意味です)





2017年11月17日
テサロニケの信徒への手紙 一・4章の16~17節より

『すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります』

コリントの信徒への手紙 一・15章の50~53節より

『兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります』

(今日はとても大切なことを書いてみたいと思います。まず上記の2つですが、これは今後起こるであろう “携挙(けいきょ)” と呼ばれる出来事について説いたものになっています。その内容はといいますと、神のラッパを合図に天から降ってきた主であるキリストと、神への信仰のある人々とが空中で出会い、そのまま天の国に導かれて永遠に過ごすといった神秘的なものとなっています。つまり一たび神のラッパが鳴らされれば、神を信じている人々は、天の国に入ることのできる体に一瞬のうちに変えられ、一般的な意味での肉体の死を経験することなく、天に導かれることになるのです。そしてここで私がつづっておきたいことは、神を信じずにいて、この一度しかない携挙(けいきょ)を逃してしまった場合、ヨハネの黙示録に示されている通りの、世界の終末に向かう過酷な環境のもとに身をおくことになるということです。おそらくですが神はこの苦しみを信仰のある人々へ与えないために、その人々を前以って天へと引き上げられるのだと思います。この “携挙” と呼ばれている出来事については、以前の2017年9月28日の記事でもふれていましたが、とても大切なことと思いましたので、もう一度ここに載せておくことにしました。※なお今回の記事ではテーマをしぼるために死者の復活にはふれていません)





2017年11月18日
マタイによる福音書・24章の36~44節より

『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼(うす)をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである』

(ここでいう、人の子、とはキリストのことです。そして「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」の箇所が、昨日の記事でふれました “携挙(けいきょ)” についての文章になっています。もし本当に神を信じず、この一度しか起こらない “携挙” を逃してしまった場合、ヨハネの黙示録に示されている7年間の世の終末期に身をおかれることになります。神様はこの苦しい期間から信仰のある人々を救うために、その人々を天へと引き上げられるのです。この “携挙” についての日時ですが、それは父である神のほかに知る人はありません(ただ1948年にイスラエルが建国し、1967年の六日戦争でエルサレムを奪還したことで、 “携挙” がいつ起きてもいい条件が整っているようです。※この点についても今後調べていきます)。このことからも私たちはいつ “携挙” が起きてもいいように、神様を想いつづけていくことが必要になってくるのです。とても大切なことだと思いましたので、ここに載せておくことにします。※なおヨハネの黙示録に示されている7年間の世の終末期についても、今後書いていきたいと思います)





2017年11月19日
コリントの信徒への手紙

二の10章の1節より
『面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る』

二の10章の10節より
『わたしのことを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちがいます』

一の9章の24節より
『あなたがたは知らないのですか。競技場で走るものは皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。』

一の9章の26節より
『だから、わたしは、やみくもに走ったりしないし、空(くう)を打つような拳闘(ボクシング)もしません。』



(パウロの教会にたくさんの信者がいますが、その中で彼を悪く言う信者(アンチパウロ)がいます。 上から1つめと2つめの言葉は、パウロに対する信者の悪口です。その言葉が彼の耳にも入ります。 彼は信者宛に手紙を書くのですが、この時のパウロは少し感情的に思いました。 中身のない(空を打つような)言葉を語らないと聖書に書いております。 前の2017年11月12日の記事にも書きました通り、彼は福音の知識を備わっているだけではなく、 福音のために相手の気持ちになって尽くす。相手が何を求めているかしっかりと捉える。 それがパウロの生き方なんです。 でもどんなにいい事や素晴らしい事をしても、それは他の組織でも言えますが必ず派閥やアンチが出たりします。 自分のことを悪く言われて落ち込みますが、パウロは想いをはっきりと伝えて強く前に出ています。 私もちょっと言われただけでよく落ち込んだり自信がなくなったりしますが 最後まで芯をしっかりと持ち、堂々と前に出たいと思いました)





2017年11月20日
創世記・5章の21~24節より

『エノクは六十五歳になったとき、メトシェラをもうけた。エノクは、メトシェラが生まれた後(のち)、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった』

ヘブライ人への手紙・11章の5~6節より

『信仰によって、エノクは死を経験しないように、天に移されました。神が彼を移されたので、見えなくなったのです。移される前に、神に喜ばれていたことが証明されていたからです。信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです』

列王記 下・2章の11~14節より

『彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。エリシャはこれを見て、『わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣(ころも)をつかんで二つに引き裂いた。エリヤの着ていた外套(がいとう)が落ちて来たので、彼はそれを拾い、ヨルダンの岸辺に引き返して立ち、落ちて来たエリヤの外套を取って、それで水を打ち、『エリヤの神、主はどこにおられますか』と言った。エリシャが水を打つと、水は左右に分かれ、彼は渡ることができた』

(上記の3つの内容は、どれも “携挙(けいきょ)” に似た出来事を言いあらわしています。もちろん天へと引き上げられたエノクもエリヤも、神への信仰があったのでしょう。尚エノクの年齢が三百六十五歳となっていますが、創世記当時の人間の寿命は今よりも遥かに長かったようです)





2017年11月21日
ヨハネの黙示録・4章の2~4節より

『すると、見よ、天に玉座(ぎょくざ)が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。その方は、碧玉(へきぎょく)や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた。また、玉座の周りに二十四の座があって、それらの座の上には白い衣を着て、頭に金の冠(かんむり)をかぶった二十四人の長老が座っていた』

(これは人間であるヨハネが目にしている(正確にはキリストの指示を受けた天使に見せられている)光景です。時系列でいいますと、これからのちに黙示録につづられている世の終末期へとつながっていくことになります。上記の文章で注意深い点は、本来人間では立ち入ることのできない天の国に、それも神が座っている玉座(=統治者が座る椅子のこと)の周りに、二十四人の長老、と書かれている人々が座りこんでいることです。これは先日よりふれている “携挙” が起こったために、栄光の体に変えられた人間が、立ち入れないはずの天に立ち入っている、ということを証(あかし)しているように思われます。神への信仰を持っている人々は、いずれ天へと引き上げられ、この地上からはいなくなります。つまりキリストと結ばれていない人たちだけが、地上にのこされるのです。そしてここから七年間にわたる、艱難(かんなん)時代と呼ばれている、世の終末へと向かう険しい期間へとつづいていくことになります。※今後この艱難時代に起こる出来事について、順を追って書いていきたいと思います)





2017年11月23日
ヨハネの黙示録・6章の1~2節より

『また、わたしが見ていると、小羊(=キリスト)が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つ(=4人の天使のうちの1人)が、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者(=反キリストの中心となる人物)は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った』

テサロニケの信徒への手紙 二・2章の3~4節より

『なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者(=上記の白い馬に乗った反キリストの中心となる人物のこと)、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです』

テサロニケの信徒への手紙 二・2章の9~12節より

『不法の者(=上記の白い馬に乗った反キリストの中心となる人物のこと)は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです』

※引用した文の内容をわかりやすくするため、上記()内にて説明を付けたしてあります。

(これが艱難(かんなん)時代の幕開けといわれている箇所です。この第一の封印が開かれることで、まず神への反逆者であるところの、白い馬に乗った人物があらわれ、以後地上は戦争や災害に見まわれていくことになります。この人物の背後にはサタンがついていて、さまざまな奇跡のたぐいを交えながら、世界中の指導者や人々をあざむいて、世界を支配していくことが予想されています。わけてもこの人物がイスラエルとも同盟を結ぶことが聖書内では予言されています(ダニエル書:9章参照)。とはいえ、この人物とて、所詮はキリストの使いである天使が「出て来い」と誘いだしているわけですから、これも神の計画の範囲内だということなのでしょう。とにかく今回の記事でおさえておきたいことは、この第一の封印を開くことで、世界を支配するような反キリストの人物があらわれ、これをきっかけにして世の終末へと向かっていくということです。次回は第二の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月24日
ヨハネの黙示録・6章の3~4節より

『小羊が第二の封印を開いたとき、第二の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣(つるぎ)が与えられた』

(この第二の封印が開かれることで、地上から平和がなくなります。殺し合いをさせるや大きな剣といった言葉からも、これは戦争を指しているのでしょう。のちに地球の四分の一の人々、つまり18億人が亡くなると出てくるので、世界大戦規模の戦争なのだと思われます。次回は第三の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月25日
ヨハネの黙示録・6章の5~6節より

『小羊が第三の封印を開いたとき、第三の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤(はかり)を持っていた。わたしは、四つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は一コイニクスで一デナリオン。大麦は三コイニクスで一デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな(=オリーブ油とぶどう酒には害を与えてはいけない)。」』

(この第三の封印が開かれることで、人々は食糧難に見まわれます。といっても第二の封印で世界大戦が起こされているのですから、世界中の人々が食糧に苦しむようになるのは当然のことと思われます。ここでいう1コイニクスとは1リットル程度のことのようです。そして1デナリオンが5000円程度とのことです。要するに1日の給料で1日分の食糧がやっと買えるといった状況を暗示しているように思われます。ただオリーブ油とぶどう酒には害を与えてはいけないといった内容からは、神様がある特定の人たちを救おうとしているようにも受けとれます。その救おうとしている人たちとは、おそらくイスラエル人のことであり、オリーブ油とぶどう酒は彼らの食生活にはなくてはならないもののようです。次回は第四の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月26日
フィレモンへの手紙

16節より
『奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです。』

17節より
『わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください。』



(前回はコリントの信徒への手紙という集団や公衆に宛てての手紙でしたが、今回は一個人に宛てた手紙の内容です。 フィレモンはパウロの良き協力者であり、主イエス・キリストを信じる信仰者であり、伝道の協力者でもありました。 彼の家を教会として提供してくれた人です。 その彼の奴隷人の中の一人、オネシモがお金を盗んで(これは定かではありませんが)逃亡し、オネシモをパウロが匿(かくま)って彼にオネシモを許して欲しいと懇願する手紙なのです。 当時の社会には奴隷制度がありました。 主に戦争捕虜が奴隷となり、売買の対象となっていたのです。 奴隷と言っても昔のアメリカの黒人奴隷のイメージとはかなり違っていて、 特に教養ある奴隷たちは家の子供たちの家庭教師のような仕事を与えられ、 家族の一員のように大事にされてもいました。 しかし基本的には、奴隷は主人が金を出して買った財産であり、 逃げ出したりしたら主人に損害を与えるわけで、厳しく罰せられ、 場合によっては殺されてしまうこともあったのです。 今やフィレモンと逃亡奴隷オネシモとの間にはそういう関係があることを知りつつ、 パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしています。 そして、フィレモンに、オネシモを、信仰の仲間として、兄弟として受け入れてほしいと願っているのです。 パウロが一人の弱い人のために、なりふりかまわず必死の想いで書いた手紙です。 このあと、フィレモンとオネシモがどうなったのか書かれていない所で終わっています)





2017年11月27日
ヨハネの黙示録・6章の7~8節より

『小羊が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府(よみ)が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し、剣と飢饉(ききん)と死(=死病、伝染病のこと)をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた』

(この第四の封印が開かれることで、青白い馬に乗った「死」という者があらわれます。その彼には、陰府(=陰府とは、キリストを信じずに死んだ人々の魂を一時的に入れておく場所)が従っていて、地上の四分の一を支配することにより、多くの人々を滅びへといざないます。とはいえすでに第二の封印をきっかけに世界大戦規模の戦争が起こされているのですから、飢饉や死病などが蔓延して、多くの人々が亡くなることは想像できることのように思います(ただし引用した文中の、野獣、がなにを指しているのかは、今のところ結論が出せていません)。次回は第五の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月28日
ヨハネの黙示録・6章の9~11節より

『小羊が第五の封印を開いたとき、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺された人々の魂を、わたしは祭壇の下に見た。彼らは大声でこう叫んだ。「真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者にわたしたちの血の復讐をなさらないのですか。」すると、その一人一人に、白い衣が与えられ、また、自分たちと同じように殺されようとしている兄弟であり、仲間の僕(しもべ)である者たちの数が満ちるまで、なお、しばらく静かに待つようにと告げられた』

(以前より携挙(けいきょ)についてふれてきましたが、ここでは携挙後に、キリストを信じるようになった人々のことがつづられています。彼らは、神の言葉と自分たちがたてた証しのために殺されていく運命にあります。つまりキリストを信じているがために殉教(じゅんきょう)をとげていくのです。これは世界を支配している人物が反キリストであるために、キリストへの信仰を持つことが禁止され、それでも信仰を貫こうとした人たちが大勢殺されていくということなのでしょう。この時期においては、キリストへの信仰そのものが命懸けのものになっているのです。もちろん神様は殉教をとげた者たちをいずれ救われますが、上記のような彼らの問いかけには、もう少し待つようにと語っておられます。要するにこうした内容のことでさえも、神様の計画のとおりということなのでしょう。次回は第六の封印について書いていきたいと思います。※辞書参照:殉教とは、宗教上の信仰のゆえに迫害を受けて死ぬことです)





2017年11月29日
ヨハネの黙示録・6章の12~17節より

『また、見ていると、小羊が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地(ぬのじ)のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴(ほらあな)や山の岩間に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座(ぎょくざ)に座っておられる方の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか』

(この第六の封印が開かれることで、神の怒りがいよいよ地に降りかかることになります。大地震が起こされ、太陽は暗くなり、星が地上に落ち、山や島がその場から消えてしまうほどですから、かなりの人たちが亡くなるものと思います。もともと神はノアの洪水のときでも、たくさんの人間を地上からぬぐい去っていますから、罪人に対してはこうした厳しい一面を持っておられます。それですので、このときになってなにを祈ろうとも、救われずに死んでしまう運命にある人はやはり死ぬことになるものと思われます。ただどれだけの人々が亡くなるかについてはふれられていないので、具体的にはわからないところではありますが。次回は第七の封印について書いていきたいと思います)





2017年11月30日
ヨハネの黙示録・8章の1~2節より

『小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた。そして、わたしは七人の天使が神の御前(みまえ)に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた』

(このように第七の封印が開かれることで、次は七つのラッパへと引き継がれていきます。次回は第一のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月1日
ヨハネの黙示録・8章の7節より

『第一の天使がラッパを吹いた。すると、血の混じった雹(ひょう)と火とが生じ、地上に投げ入れられた。地上の三分の一が焼け、木々の三分の一が焼け、すべての青草も焼けてしまった』

(この第一のラッパが吹かれることで、地上の自然に打撃がもたらされます。結果としておそらく食糧難などが増し、日に日に死者も増えていくものと思われます。次回は第二のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月2日
ヨハネの黙示録・8章の8~9節より

『第二の天使がラッパを吹いた。すると、火で燃えている大きな山のようなものが、海に投げ入れられた。海の三分の一が血に変わり、また、被造物で海に住む生き物の三分の一は死に、船という船の三分の一が壊された』

(この第二のラッパが吹かれることで、海の三分の一に打撃がもたらされます。前回のラッパでは地上の三分の一が焼けていますから、どんどん人間の住みづらい環境になっていっているものと思われます。次回は第三のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月3日
ヨハネの黙示録・8章の10~11節より

『第三の天使がラッパを吹いた。すると、松明(たいまつ)のように燃えている大きな星が、天から落ちて来て、川という川の三分の一と、その水源の上に落ちた。この星の名は「苦よもぎ」といい、水の三分の一が苦よもぎのように苦くなって、そのために多くの人が死んだ』

(この第三のラッパが吹かれることで、川の三分の一に打撃がもたらされます。これによって人々の飲み水も苦くなり、多くの人が亡くなるとつづられています。次回は第四のラッパについて書いていきたいと思います。※辞書参照:苦よもぎとは、キク科の多年草のことで、においが強いようです)





2017年12月4日
ヨハネの黙示録・8章の12~13節より

『第四の天使がラッパを吹いた。すると、太陽の三分の一、月の三分の一、星という星の三分の一が損なわれたので、それぞれ三分の一が暗くなって、昼はその光の三分の一を失い、夜も同じようになった。また、見ていると、一羽の鷲(わし)が空高く飛びながら、大声でこう言うのが聞こえた。「不幸だ、不幸だ、不幸だ、地上に住む者たち。なお三人の天使が吹こうとしているラッパの響きのゆえに。」』

(この第四のラッパが吹かれることで、太陽、月、星、それぞれの三分の一が損なわれます。また引きつづきもたらされる、第五、第六、第七のラッパの恐ろしさを、一羽の鷲(=一人の天使)が宣言しています。次回は第五のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月5日
ヨハネの黙示録・9章の1~6節より

『第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星(=サタンのこと)が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵(=堕落した天使を閉じこめておく場所のこと)に通じる穴を開く鍵が与えられ、それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。そして、煙の中から、いなご(=堕落した天使、すなわち悪霊のこと)の群れが地上へ出て来た。このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。いなごは、地や草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、ただ、額に神の刻印を押されていない人(=神への信仰がなく、キリストと結ばれていない人のこと)には害を加えてもよい、と言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。いなごが与える苦痛は、さそりが人を刺したときの苦痛のようであった。この人々は、その期間、死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く』

(この第五のラッパが吹かれることで、悪霊が直接人々に害をおよぼしてきます。これは精神的な苦痛というよりも、実際に肉体が苦痛にさらされる類いのものであると思われます。上記の内容からしますと、死を望みたくなるほどの苦痛のようです。ただキリストと結ばれている人々に害が加えられることはありません。次回は第六のラッパについて書いていきたいと思います)

※尚、ここに出てくる “一つの星” という言葉をサタン(=もともとは天使)として解釈していますが、これはのちのちにも、この底なしの淵から出てくる獣がいるため(黙示録11章7節)、鍵そのものを神がサタンに与え、悪魔をも神が利用していると考えるのが妥当なところのようです。ちなみに “星” を天使と解釈するのは、たとえばヨブ記38章7節の『そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い、神の子らは皆、喜びの声をあげた』などにも見られるとおりです。このあたりのことに関しては今後も聖書を読むことで、考察を深めていきたいと思います。





2017年12月6日
ヨハネの黙示録・9章の13~18節より

『第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前(みまえ)にある金の祭壇の四本の角(つの)から一つの声が聞こえた。その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使を放してやれ。」四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された。この天使たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである。その騎兵の数は二億、わたしはその数を聞いた。わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たちを見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫(むらさき)、および硫黄の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された』

(この第六のラッパが吹かれることで、このときのためにユーフラテスのほとりに拘束されていた、四人の堕落した天使が解き放たれます。彼らは二億の悪霊を従えて、人類の三分の一を殺してしまいます。尚ユーフラテス川とは、トルコ北東部の山地を源流としてシリアを通過し、イラクを経て最終的にペルシア湾に注ぐ河川のことです。次回は第七のラッパについて書いていきたいと思います)





2017年12月7日
ヨハネの黙示録・11章の15~19節より

『さて、第七の天使がラッパを吹いた。すると、天にさまざまな大声があって、こう言った。「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される。」神の御前(みまえ)で、座に着いていた二十四人の長老は、ひれ伏して神を礼拝し、こう言った。「今おられ、かつておられた方、全能者である神、主よ、感謝いたします。大いなる力を振るって統治されたからです。異邦人たちは怒り狂い、あなたも怒りを現された。死者の裁かれる時が来ました。あなたの僕(しもべ)、預言者、聖なる者、御名(みな=神のこと)を畏(おそ)れる者には、小さな者にも大きな者にも報いをお与えになり、地を滅ぼす者どもを滅ぼされる時が来ました。」そして、天にある神の神殿が開かれて、その神殿の中にある契約の箱が見え、稲妻、さまざまな音、雷、地震が起こり、大粒の雹(ひょう)が降った』

ヨハネの黙示録・15章の5~7節より

『この後、わたしが見ていると、天にある証しの幕屋(まくや)の神殿が開かれた。そして、この神殿から、七つの災いを携えた七人の天使が出て来た。天使たちは、輝く清い亜麻布(あまぬの)の衣を着て、胸に金の帯(おび)を締めていた。そして、四つの生き物の中の一つが、世々限りなく生きておられる神の怒りが盛られた七つの金の鉢(はち)を、この七人の天使に渡した』

(この第七のラッパが吹かれることで、まず天にある神の神殿が開かれ、稲妻や地震が起こり、大粒の雹が降ります(黙示録11章19節)。その後、開かれた神殿より七人の天使があらわれ、最後の七つの災いであるところの七つの金の鉢(はち)を持って、一つずつ神の怒りを地上にそそぐことになります(黙示録15章6~7節)。次回は一つ目の鉢について書いていきたいと思います)

※尚、昨日の12月6日の記事を一部訂正しております。申し訳ありませんでした。





2017年12月9日
ヨハネの黙示録・16章の2節より

『そこで、第一の天使が出て行って、その鉢(はち)の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた』

(この一つ目の鉢が地上にそそがれることで、獣(=世界を支配している反キリストの中心人物のこと)と関わりを持っている人たちに悪性のはれ物ができます。ちなみにこの時代には、獣の六百六十六の刻印が右手か額に押されていなければ、物が買えないほどの監視社会になっています。2017年10月19日の記事でも書きましたが、獣に服従していなければとても生きていけない状況になっているのです。そのためこのはれ物の病(やまい)は、いたるところで見かけることになるかもしれません。もちろんこのような病にかかるのは避けたいことですから、獣の刻印だったり、獣の像だったりは、はじめからつきはなしておく、つまり受け入れておかないことが大切になってくるものと思います。次回は二つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月10日
ヨハネの黙示録・16章の3節より

『第二の天使が、その鉢の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった』

(この二つ目の鉢が海にそそがれることで、海に棲む生き物がすべて死んでしまいます。ここまでくるといよいよ誰の目にも地球の終末が近いことが感じられるかもしれません。次回は三つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月11日
ヨハネの黙示録・16章の4~7節より

『第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源(みなもと)に注ぐと、水は血になった。そのとき、わたしは水をつかさどる天使がこう言うのを聞いた。「今おられ、かつておられた聖なる方(=神のこと)、あなたは正しい方です。このような裁きをしてくださったからです。この者どもは、聖なる者たちと預言者たちとの血を流しましたが、あなたは彼らに血をお飲ませになりました(=つまり反キリストたちによって処刑され殉教した者たちの代わりに、神が反キリストたちへの飲み水を血に変えることで裁いたということの意味)。それは当然なことです。」わたしはまた、祭壇(=殉教した者たちを言いあらわしている比喩)がこう言うのを聞いた。「然(しか)り、全能者である神、主よ、あなたの裁きは真実で正しい。」』

(この三つ目の鉢が川と水の源にそそがれることで、水が血になります。おそらく人間が口にできるものではないでしょうが、それでも渇きのために口にすることになるのかもしれません。というのも、あなたは彼らに血をお飲ませになりました、と書かれているからです。次回は四つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月12日
ヨハネの黙示録・16章の8~9節より

『第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜(ぼうとく)した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった』

(この四つ目の鉢が太陽にそそがれることで、太陽が人間を焼くほどの激しい熱を発します。ここまでくると彼らもこうした災いをもたらしている神の存在に気がつきますが、それでも悔い改めようとはせずに、神を冒涜する道を選んでしまいます。次回は五つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月13日
ヨハネの黙示録・16章の10~11節より

『第五の天使が、その鉢の中身を獣の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇(やみ)に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜(ぼうとく)し、その行いを悔い改めようとはしなかった』

(この五つ目の鉢がそそがれることで、反キリストによって支配されている国が闇に覆われます。さらにはその国々の人々は舌をかんで死を願うほどの苦しみにおそわれます。しかしそれでも彼らは神を冒涜しつづけ、悔い改めようとはしませんでした。次回は六つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月15日
ヨハネの黙示録・16章の12~16節より

『第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角(=東)から来る王たち(=反キリストに支配されている国々の指導者たちのことと思います)の道ができた。わたしはまた、竜(=サタン)の口から、獣(=反キリストの中心人物)の口から、そして、偽預言者(=反キリストに忠実で、世に嘘をひろめる者のことと思います)の口から、蛙(かえる)のような汚れた三つの霊が出て来るのを見た。これはしるし(=悪霊によってもたらされる奇跡のこと)を行う悪霊どもの霊であって、全世界の王たち(=国々の指導者たちのことと思います)のところへ出て行った。それは、全能者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである(=つまり悪霊たちが、国々の指導者のところに出向き、“しるし”を示すことで士気を高めているのだと思います。というのも、地球の環境そのものが、すでに五つ目の鉢まで進行していることで壊滅状態に近く、軍を集めるのだけでも簡単ではないものと思われます)。――見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである(=これは神の言葉であり、衣を身に着けて、というのは、信仰をもちつづけて、ということの喩え)。――汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所(=現在のイスラエルのメギドという地名の場所のこと)に、王たちを集めた』

(この六つ目の鉢がユーフラテス川にそそがれることで、川の水がかれて、地理的に反キリストの、いわゆる連合軍のような大軍が、イスラエルに押し寄せやすくなります。これをきっかけにして、神の大いなる日の戦い、つまりハルマゲドンの戦いと呼ばれている最後の戦いが、イスラエル人(=ユダヤ人)と反キリストとのあいだで起こることになります。次回は七つ目の鉢について書いていきたいと思います)





2017年12月17日
ヨハネの黙示録・16章の17~21節より

『第七の天使が、その鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から大声(=神の声)が聞こえ、「事は成就(じょうじゅ)した」と言った。そして、稲妻、さまざまな音、雷が起こり、また、大きな地震が起きた。それは、人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほどの大地震であった。あの大きな都(=エルサレムのことと思います:ゼカリヤ書14章4節参考)が三つに引き裂かれ、諸国の民の方々(ほうぼう)の(=世界中の)町が倒れた。神は大バビロン(=神に敵対してきた宗教や政治、経済などを一語で言いあらわしたもの)を思い出して、御自分の激しい怒りのぶどう酒の杯をこれにお与えになった(=つまり滅ぼした)。すべての島は逃げ去り、山々も消えうせた。一タラントン(=約35 kg)の重さほどの大粒の雹(ひょう)が、天から人々の上に降った。人々は雹の害を受けたので、神を冒涜した。その被害があまりにも甚(はなは)だしかったからである』

ヨハネの黙示録・19章の19~21節より

『わたしはまた、あの獣(=反キリストの中心人物)と、地上の王たち(=国々の指導者たち)とその軍勢(=反キリストに忠実な連合軍)とが、馬に乗っている方(=地上に再臨したキリスト)とその軍勢(=キリストと共に地上に降りてきた天使たち、ならびに携挙によって天に上っていた聖徒たち)に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣は捕らえられ、また、獣の前でしるし(=奇跡めいたもの)を行った偽預言者(=反キリストに忠実で世に嘘をひろめる者、または偽のキリストの類い)も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄(いおう)の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者どもは、馬に乗っている方(=キリスト)の口から出ている剣(つるぎ)で殺され、すべての鳥(=これはそのまま猛禽類のことと思います)は、彼らの肉を飽きるほど食べた』

(この七つ目の鉢が空中にそそがれることで、神が、事は成就した、と宣言しています。そして地震を含め、すべての島や山が消え失せるといった世界中の地形が大きく変えられます。さらには大粒の雹も降りかかり、それでも生き残った人たちは神を冒涜しつづけます。それとこれらのどこかのタイミングで、キリストが地上に再臨し、キリスト自身がハルマゲドン(=現在のイスラエルのメギドという地名のこと)に集まってきていた反キリストの支配下にある軍隊と戦います。その結果上記のように反キリストたちは火の池に投げこまれます。それでは次回はサタンの敗北について書いていきたいと思います)





2017年12月19日
ヨハネの黙示録・20章の1~3節より

『わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の(=世界中の)民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである』

ヨハネの黙示録・20章の7~10節より

『この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ(=ゴグとマゴグとは神に逆らう勢力となる者たちを比喩的に表現したもの)を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い(=要するにハルマゲドンの戦いで神への信仰のない者たちは一度とりはらわれたが、千年の経過とともに、再びその数がふくれあがったということを意味している)。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(=聖なる者たちの陣営と愛された都とはイスラエルのことであり、中でもエルサレムのことのようです)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを(=解放されたサタンによって惑わされた人たちのこと)焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔(=サタン)は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(=反キリスト)と偽預言者(=偽のキリスト)がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる』

(ハルマゲドンの戦いの結末として、サタンは底なしの淵に千年間閉じこめられます。これによって地上は千年間キリストによって統治されることになります(=千年王国と呼ばれているようです)。その後、サタンは再び解放されることとなり、神への信仰を持てない者たちを惑わして、エルサレムを攻めようとします。しかし彼らは火に焼かれ、サタンも永遠に出てこられない火と硫黄の池に投げこまれます。そのときに焼かれた者たちも審判を経て、火の池へと送られることになります。そうして2017年10月23日の記事で書いた、新しい天と地の創造(つまり現在の天と地はなくなる)へとつながっていくことになります)





2017年12月20日
ヨハネの黙示録・21章の1~4節より

『わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き(=現在の天と地がなくなること)、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋(まくや)が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆(なげ)きも労苦(ろうく)もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」』

(これまで見てきた7つの封印、ラッパ、鉢とそれぞれの裁きがおわったあとで、このように新しい天と地が神によって創造されなおします。この世界では神と人が共に住み、もうそこには死も悲しみもありません。もちろん携挙によって死ぬことのない体に変えられた人たちも、ずっとキリストと共にいることになるので、この新しい世界で永遠に生きていくものと思います。まさに素晴らしい世界(楽園)がひろがっていますね)





2017年12月21日
ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『また、わたしにこう言った。「この書物(=ヨハネの黙示録のこと。広い意味では聖書)の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(ここ1ト月ほどヨハネの黙示録を見てきましたが、ここでひと区切りつけたいと思います。こうして集中して書いてきたのは、上記にある、秘密にしておいてはいけない、との言葉を受けて、一人でも多くの方にという想いからでした。次回からはまた思い思いに書いていきたいと思います)





2017年12月22日
ペトロの手紙 一・2章の20~21節より

『しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心(みこころ)に適うことです。あなたがたが召(め)されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡(あしあと)に続くようにと、模範を残されたからです』

(ここに、善を行って、と書いてありますが、これは大きな意味では隣人を愛すること、つまりは他人に親切にするということを指しているのだと思います。私も日々こうしたことを胸にあてながら過ごしていきたいものです。※辞書参照:召(め)すとは、呼び寄せるという意味です)





2017年12月23日
ペトロの手紙 一・5章の5節より

『皆互いに謙遜(けんそん)を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢(こうまん)な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです』

(これは自分を大きくせずに低くして、他人へ献身的にするようにということなのだと思います。日々こうありたいものですね)





2017年12月24日
創世記・2章の7節より

『主なる神は、土(アダマ)の塵(ちり)で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった』

(これは人類で最初の人間、アダムの誕生についての文章ですが、とても凄いことだと思います。私たち人間では、いくら土で人の形をつくってみたところで、それが命を持って動きだすことはありません。神様は本当に全知全能の方なのだと思います)





2017年12月25日
テモテへの手紙 二・1章の9節より

『神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです』

(神様は、わたしたちの行いをご覧になったあとで、救うかどうかを決められているのではありません。それは前以って神様の計画と恵みによって定められているのです。このことは2017年11月9日に記事にした命の書についても同様です。そこに名前が書かれているかどうかは、神様の計画と恵みによるものなのです。そうであるとき私たちは、私たちを選んでくださった神さまへの感謝の気持ちをわすれてはならないのです。あらためてこう感じさせられましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2017年12月26日
ヘブライ人への手紙・13章の8節より

『イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です』

(どことなく力を感じさせてくれる文章です。キリストが変わることがないからこそ、私たちは安心してキリストに歩み寄っていくことができるのかもしれませんね)





2017年12月27日
エフェソの信徒への手紙・5章の5節より

『すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲(どんよく)な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません』

(聖書において、偶像を礼拝することは貪欲であるとみなされます。そして上記にあるように、すべてみだらな者や、汚れた者や、偶像礼拝者は、天の国に入ることができません。大切なことと思いましたので、こちらに載せておくことにします。※辞書参照:偶像とは、神仏にかたどって作った像。信仰の対象とする像。比喩的に、崇拝の対象とされるもののことです)





2017年12月29日
ローマの信徒への手紙・8章の18節より

『現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います』

(ここでの “将来わたしたちに現されるはずの栄光” とは、将来私たちがキリストと共に永遠に過ごせる、その栄光のことを指しているものと思います。胸にひびく言葉でしたので、こちらに載せておくことにしますね)





2017年12月31日
エフェソの信徒への手紙・1章の13節より

『あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです』

ヨハネの手紙 一・4章の2節より

『イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります』

(聖書に書かれているキリストを信じることで、私たちには “聖霊” が宿ってくださいます。そして私たちがそのキリストの存在を周囲に向かって発信していけるならば、その宿ってくださった聖霊は、まぎれもなく神様から出た、本物の聖霊ということになります。とても勇気づけられる内容だと思いますので、こちらに載せておくことにします。※なお上記の2つの内容は、すでに2017年10月7日と2017年10月30日の記事でふれていますが、次回より “霊” について書いていこうと思いますので、あらためてここで取り上げることにしました)





2018年1月1日
コリントの信徒への手紙 一・12章の7~11節より

『一人一人に “霊” (=聖霊のこと)の働きが現れるのは、全体の益(えき)となるためです。ある人には “霊” によって知恵の言葉、ある人には同じ “霊” によって知識の言葉が与えられ、ある人にはその同じ “霊” によって信仰、ある人にはこの唯一の “霊” によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力(=つまり外国語で神に関することを語れる力のこと)、ある人には異言を解釈する力が与えられています。これらすべてのことは、同じ唯一の “霊” の働きであって、 “霊” は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです』

(私たちに宿ってくださった聖霊は、ただの飾りもののようにして私たちの内側にとどまっているわけではありません。上記のように、私たち一人一人の、それぞれの役割に見合った力を与えてくれることで、手助けをしてくださっているのです。言い換えるなら、全体の益となるように、一人一人に形こそちがえど力を分け与えてくださっているのです。とても勇気づけられることですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月3日
ローマの信徒への手紙・8章の26~28節より

『同様に、 “霊” (=聖霊のことです)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、 “霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執(と)り成してくださるからです。人の心を見抜く方(=神)は、 “霊” の思いが何であるかを知っておられます。 “霊” は、神の御心(みこころ)に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画(ごけいかく)に従って召(め)された者たちには、万事が益(えき)となるように共に働くということを、わたしたちは知っています』

(聖霊は、私たちに神様への祈り方を教えてくださいます。また万事が益となるように共に働き、私たちを助けてくださいます。とても勇気づけられることだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月4日
ガラテヤの信徒への手紙・5章の16~26節より

『霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません(=つまり霊に導かれているなら、神が定めた決まりごとに反しないということの意味)。肉の業(わざ)は明らかです。それは、姦淫(かんいん)、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴(しゅえん)、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和(じゅうわ)、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう』

(聖霊が望むものと、肉が望むものとは対立関係にあります。肉が望むものの例として、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、といったものが挙げられています。さらにこれらを行う者は、神の国を受け継ぐことができないともつづられています。これは人間である私たちにとっては、本当に厳しい戒(いまし)めとなっています。ですが、こうつづられている以上は、私たちはキリストの十字架に、これらすべてのものを(=つまり肉が望むすべてを)あずけたのだという意志のもと、戦っていく必要があるように思います。その際には聖霊もまた私たちの内側から手助けをしてくださるのです。とても大切なことだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月5日
ヨハネによる福音書・14章の15~18節より

『あなたがたは、わたし(=キリスト)を愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父(=神)にお願いしよう。父は別の弁護者(=聖霊)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊(=聖霊)である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る(=携挙、もしくは艱難時代末期の再臨のこと)』

(これはキリストの言葉です。私たちがキリストを愛しているならば、神様は私たちの内に永遠に聖霊を宿してくださいます。ですので、この神様からの恵みにこたえるためにも、私たちはねばり強く “肉の業” と戦っていく必要があるのだと思います(肉の業については2018年1月4日の記事を参照のこと)。聖霊は一度宿ってくだされば、永遠にいてくださるのですから、たとえ肉の業に負けるときがあっても、悔い改めて、キリストの十字架への感謝と共に歩んでいくことが大切なのだと思います)





2018年1月6日
エフェソの信徒への手紙・4章の30節より

『神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖(あがな)いの日(=キリストが迎えに来てくださる日のこと)に対して保証されているのです』

(私たちの内に宿ってくださる聖霊は感情を持っています。キリストが迎えに来てくださるときまで、聖霊を悲しませずに(=つまり肉の業にながされずに)いくことが大切だと思います)





2018年1月7日
ローマの信徒への手紙・8章の5節より

『肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます』

(聖霊に従って歩み、聖霊に属することを考えながら歩んでいきたいものですね。とても印象にのこる文章でしたので、ここに載せておくことにします。※尚 “聖霊” についてまとめて取り上げてきましたが、ここでひと区切りつけたいと思います)





2018年1月10日
マタイによる福音書・16章の25節より

『自分の命を救いたいと思う者は、それを(=命を)失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』

(これはキリストの言葉です。一日一日この言葉を胸にあてながら歩んでいきたいものですね。とても大切なことと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月11日
ルカによる福音書・12章の4~5節より

『友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後(のち)、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方(かた)だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい』

(これはキリストの言葉です。この言葉が指している内容は、つまり私たちが死んだあとで天国に送られることになるのか、あるいは地獄に投げこまれることになるのか、その決定権を持っている神をこそ恐れるようにということなのでしょう。まったくそのとおりだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月12日
ルカによる福音書・14章の12~14節より

『昼食や夕食の会を催(もよお)すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会(えんかい)を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる』

(これはキリストの言葉です。このように本当に困っている人たちに、手をさしのべられるような人になりたいものですね。印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月14日
ルカによる福音書・21章の7~19節より

『そこで、彼らは(=弟子たちは)イエスに尋ねた。「先生、では、そのことは(=世界の終末は)いつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴(しるし)があるのですか。」イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そして更に、言われた。「民(たみ)は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに(=つまりキリストを信じている人たちに)手を下して迫害し、会堂や牢(ろう)に引き渡し、わたしの名(=キリストの名)のために王や総督(そうとく)の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証(あか)しをする機会となる。だから、前もって弁明(=言い逃れ)の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者(=つまり迫害する側の者たち)でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしが(=天におられるキリストが)あなたがたに授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」』

(もし世の終末期における、この迫害の状況に遭遇することになったとしても、キリストを信じているという信仰を隠さないことが大切だと思います。それは上記にあるように、たとえ牢に入れられたり、殺されたりするようなことになってもです。なぜならその勇気ある信仰の姿が 『証し』 となって、天から見守ってくださっているキリストにとどくからです(現在キリストは天におられます)。それによって永遠の命をかち取ることにもつながるのです。また世の終末期を迎える前に、携挙(けいきょ)によって天に上る方たちも、これらのことを胸にあてておくことが大切なように思います)





2018年1月15日
マタイによる福音書・6章の14~15節より

『もし人の過(あやま)ちを赦(ゆる)すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない』

(私にはどうしても許せない人がいましたが、聖書にこのような言葉がありましたので、その人を許すことにしました。皆さんにももしかしたら許せなく思う人がいるかもしれませんね。これを機に一度考えなおされてみてはいかがでしょうか)





2018年1月16日
ヨハネの手紙 一・2章の1~6節より

『わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父(おんちち=神のことです)のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます(※ここでの弁護者と正しい方はキリストを指した言葉です)。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償(つぐな)ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります。神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません』

(上記には、「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません、と書かれています。もちろん偽り者にはなりたくありませんし、大切なことと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月17日
ヨハネの手紙 一・1章の5~10節より

『わたしたちがイエスから既(すで)に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子(みこ)イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺(あざむ)いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦(ゆる)し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません』

(聖書には、人はだれもが罪人であるということが書かれています。私も聖書を読むようになってから、いかに自分が罪と隣りあわせにいるのかを感じるようになりました。ですがここで闇の中におちてしまってはむなしいですから、キリストへの感謝の気持ちをもって、神との交わりを深められるように歩んでいきたいと思います)





2018年1月18日
コリントの信徒への手紙 一・15章の12~19節より

『キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です』

(これはキリストの使徒であるパウロの言葉です。とても切実な内容で、胸にくるものがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月19日
ローマの信徒への手紙・2章の1~4節より

『あなたは、他人を裁(さば)きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。神はこのようなことを行う者を正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをする者を裁きながら、自分でも同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか。あるいは、神の憐(あわ)れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛(じあい)と寛容と忍耐とを軽んじるのですか』

(自分自身を見直していくことが大事ですよね。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月21日
ヨハネによる福音書・11章の38~44節より

『墓は洞穴(ほらあな)で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞きれてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆(おお)いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた』

(これは四日前に死んだラザロを、キリストが神にお願いして墓から生き返らせるシーンです。このように天地を創造された神にできないことはありません。とても力を感じさせるシーンだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月22日
出エジプト記

2章の11~12節より
『モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた。』

(今日の教会のテーマは「モーセの挫折」です。エジプトのファラオ王はヘブライ人の男の子だけを殺すように、どんな赤ん坊でも徹底しろと兵士たちに命令をくだし、 次から次へと容赦なく幼い子供たちをむしり取って殺していきます。あるヘブライ人のお母さんが我が子だけは助かるようにと、赤ん坊を籠の中にいれて河畔(かはん)の葦(ヨシ=イネ科の植物)の茂みに隠しました。それを見つけた侍女(じじょ)たちがその赤ん坊を救い上げ、エジプトの王女に助けられ養子として育てられてきました。男の子たちがみんな殺されている中、彼だけが助かることは奇跡です。 神様に守られているからだと思います。そして、彼が成人したときに自分がヘブライ人だと気づいてしまいます。そこで、エジプトの役員に奴隷に遭っている同じヘブライ人を見て 怒りを募らせ、そのはずみでその役員を殺してしまいます。この話にはまだ登場しておりませんが彼は、十戒(神から与えられる10の戒め)のうちの殺人罪を犯してしまうのです。 モーセの若気の至り、モーセの人生の挫折にもなります。その後殺人がばれてしまった彼は、エジプトから逃亡し、ミディアンという田舎で祭司の娘と結婚し、羊飼いとして暮らします。人生は山あり谷ありで個人差で年齢に関係なくあるのですね。十戒の話はまた今度お話させていただきたく思います。)





2018年1月23日
ヨハネによる福音書・15章の1~5節より

『わたしはまことのぶどうの木、わたしの父(=神)は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既(すで)に清(きよ)くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである』

(上記のたとえは、キリストがぶどうの木であるなら、わたしたちはその枝ということです。そして仮につながっていても、実を結ばないならその枝は、神によって取り除かれてしまいます。つまりあさいつながりでは取り除かれてしまうということです。一方強いつながりであれば、神様のほうから手をさしのべて、豊かに実を結ぶように手入れをなさってくださいます。とても祝福に満ちた内容だと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年1月24日
マタイによる福音書・12章の34~37節より

『蝮(まむし)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉(くら)から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる』

(これはキリストの言葉です。この中でもとくに “人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる” という言葉にはっとさせられましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月26日
マタイによる福音書・22章の29~30節より

『あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁(とつ)ぐこともなく、天使のようになるのだ』

(聖書には、私たちがこの今ある体を離れて、神によって栄光の体に変えられた際には、天使のようになるのだとつづられていますね。とても印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月28日
出エジプト記

3章の1~12節より

『モーセはあるとき、荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そのとき、柴(しば=山野に生えている小さい雑木のこと)の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。』


『神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答える』


『主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。
今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」 神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」 』


(モーセは祭司の娘と結婚した後に子供を授かり、羊飼いとして何不自由ない暮らしをしてきましたが、モーセの生活を一変するようなことが起きます。 神がここで登場しますが声だけしか聞こえなく、姿かたちが見えません。 話にあります“柴は燃え尽きない”という言葉ですが、“人間の為すことは燃えつきるが、神の為すことは燃えつきない”という意味も含まれていると思います。 若い頃モーセは虐げられている自分と同じ種族のイスラエル人を見て憤るぐらいに情熱がありましたがもう、今の彼にはありません。 しかし、神は虐げられているイスラエル人の泣き叫ぶ声を聞き、今でも怒りの情熱があります。 神はモーセに、エジプトへいきイスラエルの民を救出するように使命を与えます。モーセはそんな大それたことができる筈がないと困惑してしまいますが 神は、「私は必ずあなたと共にいる」といいます。続きはまた次回に書こうと思います。)




2018年1月28日
讃美歌519番・イザヤを招く神の声は

『イザヤを招く 神の声は
今なおひびく 私たちに。
「苦しむ民を 救うために
私は誰を 遣わそうか」』

(今回の話に沿っているように思いましたので1番目の歌詞を書きました。)





2018年1月30日
ダニエル書・2章の31~45節より

※以下は、バビロンの王とユダヤ人のダニエルとの会話を一部抜粋したものです。当時のバビロンの王は、現在のエルサレムを含む地中海沿岸を支配していました。その帝国の王が神から見せられた未来を預言している夢を、ダニエルがこれまた神の力を借りて解釈している場面になります(=つまり夢を見させたのも、それを解釈しているのも同じ神だということです)。ちなみにこの帝国は紀元前625年~539年までつづきましたので、その間に交わされた会話になります。

『王様、あなたは一つの像を御覧になりました。それは巨大で、異常に輝き、あなたの前に立ち、見るも恐ろしいものでした。それは頭が純金、胸と腕が銀、腹と腿が青銅、すねが鉄、足は一部が鉄、一部が陶土(とうど=粘土のこと)でできていました。見ておられると、一つの石が人手によらずに切り出され、その像の鉄と陶土の足を打ち砕(くだ)きました。鉄も陶土も、青銅も銀も金も共に砕け、夏の打穀場(だこくば)のもみ殻(=お米の殻)のようになり、風に吹き払われ、跡形もなくなりました。その像を打った石は大きな山となり、全地に広がったのです。これが王様の御覧になった夢です。さて、その解釈をいたしましょう。
王様、あなたはすべての王の王です。天の神はあなたに、国と権威と威力と威光(いこう=人をおそれさせ、従わせる力のこと)を授け、人間も野の獣も空の鳥も、どこに住んでいようとみなあなたの手にゆだね、このすべてを治めさせられました。すなわち、あなたがその金の頭なのです(=つまり金の頭がバビロンの帝国のことを指している)。あなたのあとに他の国が興(おこ)りますが、これはあなたに劣るもの(=つまりメディア・ペルシア帝国のことを指している)。その次に興る第三の国は青銅で、全地を支配します(=つまりギリシア帝国のことを指している)。第四の国は鉄のように強い。鉄はすべてを打ち砕きますが、あらゆるものを破壊する鉄のように、この国は破壊を重ねます(=つまりローマ帝国のことを指している)。足と足指は一部が陶工の用いる陶土(とうど)、一部が鉄であるのを御覧になりましたが、そのようにこの国は分裂しています(=つまりローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂することを指している)。鉄が柔らかい陶土と混じっているのを御覧になったように、この国(=ローマ帝国)には鉄の強さもあります。足指は一部が鉄、一部が陶土です。すなわち、この国には強い部分もあれば、もろい部分もあるのです。また、鉄が柔らかい陶土と混じり合っているのを御覧になったように、人々は婚姻(こんいん)によって混じり合います(=分裂した領土内の権力者が、それぞれの思わくで協定、政略結婚などを交わすことを指しているものと思います)。しかし、鉄が陶土と溶け合うことがないように、ひとつになることはありません(=つまりこれがローマ帝国が分裂してからの現在にいたる世界の状況を指している)。この王たちの時代に、天の神は一つの国を興(おこ)されます(=つまりキリストが統治する国の誕生を意味している)。この国は永遠に滅びることなく、その主権は他の民(たみ)の手に渡ることなく、すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。山から人手によらず(=つまり神の力によって)切り出された石(=この石がキリストのこと)が、鉄、青銅、陶土、銀、金を打つのを御覧になりましたが、それによって、偉大な神は引き続き起こることを王様にお知らせになったのです。この夢は確かであり、解釈もまちがいございません』

(上記は、バビロンの王の時代にダニエルが、その後におこるメディア・ペルシア帝国、ギリシア帝国、ローマ帝国、そしてローマ帝国の分裂というように、歴史上の事実を預言するかたちで言い当てているものになっています。以下で順を追って説明してみたいと思います。まず、
・夢に見た像の、頭が純金の部分、これがバビロンの帝国のことを指しています。なおこの帝国は紀元前625年~539年まで繁栄しました。
・胸と腕が銀の部分が、バビロンの次におこったメディア・ペルシア帝国のことを指しています。なお紀元前538年〜331年まで繁栄しました。
・腹と腿が青銅の部分が、メディア・ペルシアの次におこったギリシア帝国のことを指しています。なお紀元前331年~西暦168年まで繁栄しました。
・すねが鉄の部分が、ギリシアの次におこったローマ帝国のことを指しています。なお西暦168年~395年まで繁栄しました。
・足は一部が鉄、一部が陶土の部分が、ローマ帝国が、西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂したことを指しています。なお西暦395年に分裂をして、今現在にいたっています。
・そして “この王たちの時代に、天の神は一つの国を興されます” のところが、キリストが統治する国の誕生を意味しています。
こう見てきますと、聖書の預言は史実どおりに的中していますね。あと成就されていないのは、キリストが統治する国の誕生のところだけです。とても正確な預言となっていますので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年1月31日
ダニエル書・7章の2~8節より

※以下は、ユダヤ人のダニエルが見た、未来を預言している幻です。

『ある夜、わたしは幻を見た。見よ、天の四方から風が起こって、大海を波立たせた。すると、その海から四頭の大きな獣が現れた。それぞれ形が異なり、第一のものは獅子(しし)のようであったが、鷲(わし)の翼が生えていた(=つまりこの第一の獣がバビロン帝国のことを指している)。見ていると、翼は引き抜かれ、地面から起き上がらされて人間のようにその足で立ち、人間の心が与えられた。第二の獣は熊のようで、横ざまに寝て、三本の肋骨(ろっこつ)を口にくわえていた(=つまりこの第二の獣がメディア・ペルシア帝国のことを指している)。これに向かって、「立て、多くの肉を食らえ」という声がした。次に見えたのはまた別の獣で、豹(ひょう)のようであった。背には鳥の翼が四つあり、頭も四つあって、権力がこの獣に与えられた(=つまりこの第三の獣がギリシア帝国のことを指している)。この夜の幻で更に続けて見たものは、第四の獣で、ものすごく、恐ろしく、非常に強く、巨大な鉄の歯を持ち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじった(=つまりこの第四の獣がローマ帝国のことを指している。ちなみに歴史上ではローマ帝国は西と東に分裂し、その後双方とも滅んだことになっていますが、聖書内では、この獣はまだ生きていて、最終的に定められている火の中に投げこまれていません。ですので、おそらくその帝国主義的な構造は、いまもつづいているものと思います)。他の獣と異なって、これには十本の角(=この帝国に属する十人の王のこと)があった。その角を眺めていると、もう一本の小さな角(=この小さな角がこれからあらわれる反キリストのことです。この反キリストが今後イスラエルとなにかしらの条約を結びます。これを機に地球は終末へと向かっていくことになります。※2017年11月23日の記事を参照のこと)が生えてきて、先の角のうち三本はそのために引き抜かれてしまった(=三人の王がこの帝国から外される)。この小さな角には人間のように目があり、また、口もあって尊大なことを語っていた』

ダニエル書・7章の11~12節より

『さて、その間にもこの角(上記にでてきた小さな角のことです=反キリスト)は尊大なことを語り続けていたが、ついにその獣は殺され(=これが聖書内でいう第四の獣の死、つまり “ローマ帝国” の滅亡を意味している。言いかえるなら、ローマ帝国時代からつづいている帝国主義の滅亡といったところでしょうか)、死体は破壊されて燃え盛る火に投げ込まれた。他の獣(=バビロン、メディア・ペルシア、ギリシア帝国のこと。なお地理的には現在でいうイラク、イラン、ギリシャのことです)は権力を奪われたが、それぞれの定めの時まで生かしておかれた』

※辞書参考:帝国主義とは、一つの国家が、自国の民族主義、文化、宗教、経済体系などを拡大するため、あるいは新たな領土や天然資源などを獲得するために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする思想や政策のこと。

(むずかしい箇所ではありますが、キリストが統治する国が誕生する前に、これらのことが起こります。ひきつづきダニエルの預言をとりあげていきたいと思います)





2018年2月1日
ダニエル書・7章の23~27節より

※以下は、御使い(みつかい=天使のこと)がダニエルに語りかけた預言の言葉です。

『さて、その人(=御使い)はこう言った。「第四の獣(=ローマ帝国のこと)は地上に興(おこ)る第四の国。これはすべての国に異なり、全地を(=世界中を)食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く(=つまりローマ帝国をはじまりとしている、いまもつづいている帝国主義が、世界中を支配することをあらわしている)。十の角はこの国に立つ十人の王、そのあとにもう一人の王が立つ(=この王が反キリストです。今後この反キリストがイスラエルとなにかしらの条約、同盟を結びます。1948年にイスラエルは建国しているので、いつでも条約を結べる状況にあります)。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。彼はいと高き方(=神)に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ(=これは世界中の宗教や憲法、法律などを変えてしまうことだと思います)。聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期(はんじき)がたつ(=これは今後おとずれる艱難期(かんなんき)の、最も苦難が大きいとされる最後の三年半のこと)。やがて裁きの座が開かれ(=これはキリストの再臨のこと)、彼はその権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる(=この反キリストを滅ぼすのはキリストであり、それはハルマゲドン集結後の最後の戦いにおいてです)。天下の全王国の王権、権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う(=つまり反キリストによって迫害をうけていた聖なる民が、キリストの統治する国で治める側になるということ)。」』

(昨日記事にした内容を、より詳しくあつかっている箇所がこちらになります。ダニエル書の預言はとてもむずかしいですが、興味深い内容ですのでこちらに載せておきたいと思います)





2018年2月4日
ダニエル書・9章の24~27節より

※以下は、御使いのガブリエルが、ユダヤ人のダニエルに語りかけた預言の言葉です。()内は私が調べた訳になっています。ただし文中にでてくる “七十週” といった期間は、民数記14‐34の “一日を一年とする” という法則をあてはめて490年として計算しています。また “油が注がれる” という表現には、救い主であるキリストをあてはめて解釈しています。

『お前の民と聖なる都に対して、七十週が定められている。
(ユダヤ人とエルサレムに対して490年が定められている)

それが過ぎると逆らいは終わり、罪は封じられ、不義は償われる。
(それが過ぎるとユダヤ人の神への逆らいはおわり、罪も犯さなくなり、それらの過ちはつぐなわれる。※調べたかぎりですと、現在のユダヤ人の多くはキリストを信じていないようです)

とこしえの正義が到来し、幻と預言は封じられ、最も聖なる者に油が注がれる。
(永遠につづく正義がおとずれ、もう幻も預言も必要がなく、キリストが統治する国が誕生する)

これを知り、目覚めよ。
(これを知り理解しなさい)

エルサレム復興と再建についての、御言葉が出されてから、油注がれた君(きみ)の到来まで、七週あり、また、六十二週あって、危機のうちに広場と堀は再建される。
(エルサレムの復興と再建について、ペルシアのアルタクセルクセス王がその許可を出してから、49年後にエルサレムの広場と堀が再建され、そのさらに434年後に救い主であるキリストが到来する。※この時点で定められた490年のうち483年が消費されたので、のこりはあと7年です)

その六十二週のあと油注がれた者は、不当に断たれ、都と聖所は、次に来る指導者の民によって荒らされる。
(そのあとでキリストは不当に十字架にかけられて命を落とし、エルサレムとその神殿はローマの民によって破壊される)

その終わりには洪水があり、終わりまで戦いが続き、荒廃は避けられない。
(そうして迎える世の終末には、大きな戦争があり、荒廃はさけられない。※ここでは洪水を大きな戦争と訳しています)

彼は一週の間、多くの者と同盟を固め、半週でいけにえと献げ物を廃止する。
(彼=ローマの血を引く反キリストは、7年のあいだ、多くのユダヤ人が賛同する条約をイスラエルと結ぶ。しかしその3年半後に裏切り、ユダヤ教の教えである動物のいけにえとささげ物を禁止する。※定められた490年のうちの、のこりの7年がここで登場する)

憎むべきものの翼の上に荒廃をもたらすものが座す。
(反キリストがエルサレムの神殿をうばい、自らを神と称しそこに座る。※ここでは翼をエルサレムの神殿と訳しています)

そしてついに、定められた破滅が荒廃の上に注がれる。
(そしてついに神の計画どおり世界のおわりがおとずれる。※これはキリストの王国の誕生を意味しています。もともとはキリストを信じていなかったユダヤ人ですが、こうして反キリストが自らを神と称することで、却(かえ)って本当の神に立ち帰り、キリストを信じるようになり救われることになります)』

(とてもむずかしい預言となっていますが、私なりに調べて、とくにユダヤ人に対して向けられた預言であるというのを念頭におきながら、上記のように書かせていただきました。意味をとおりやすくするために言葉をおぎなったりもしています。また今後聖書を読んでいくことで、誤った解釈をしているのに気がついた際には、その都度修正をいれていくつもりです)





2018年2月7日
ダニエル書・11章の36~39節より

※以下は、御使いがダニエルに語りかけている言葉です。

『あの王(=反キリスト)はほしいままにふるまい、いよいよ驕(おご)り高ぶって、どのような神よりも自分を高い者と考える。すべての神にまさる神に向って恐るべきことを口にし(=つまり真の神を冒涜するということ)、怒りの時が終わるまで(=神による最後の裁きがおこなわれるときまで)栄え続ける。定められたことは実現されねばならないからである。先祖の神々を無視し、女たちの慕(した)う神をも、そして他のどのような神をも尊(とうと)ばず(=つまりすべての宗教の神をあしらうということ)、自分を何者にもまさって偉大であると思う。代りに、先祖の知らなかった神、すなわち、砦(とりで)の神をあがめ(=つまり自らを神と称してたてた像のみをあがめるということ。※なおここの訳はダニエル書11‐31を参考にしています)、金銀、宝石、宝物でこれを飾り立てる。強固な砦の数々を異国の神に頼って攻め(=権力拡大のためには、他の宗教なども利用するということ)、気に入った者には栄誉を与えて多くの者を支配させ、封土(ほうど)を与える(=つまり奪いとった領土を与えるということ)』

(聖書は、反キリストのことをこのようにつづっています。上記の文章を読んだかぎりですと、あきらかに許しがたい人物にうつりますが、実際のところは “命の書” に名がない人たちは、この人物を崇拝するようになります(命の書については2017年11月9日の記事を参照のこと)。知っておいたほうがよい内容だと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月8日
ダニエル書・8章の23~25節より

※以下は、御使いのガブリエルがダニエルに語りかけている言葉です。

『四つの国の終わりに、その罪悪の極みとして、高慢(こうまん)で狡猾(こうかつ)な一人の王(=反キリスト)が起こる。自力によらずに(=サタンの力によって)強大になり、驚くべき破壊を行い、ほしいままにふるまい、力ある者、聖なる民を滅ぼす。才知にたけ、その手にかかればどんな悪だくみも成功し、驕(おご)り高ぶり、平然として多くの人を滅ぼす。ついに最も大いなる君(=神)に敵対し、人の手によらずに(=キリストによって)滅ぼされる』

エフェソの信徒への手紙・2章の2節より

『この世を支配する者(=サタンのこと)、かの空中に勢力を持つ者(=これもサタンのこと)、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊(=霊となっていますが、これもサタンのことだと思います)に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました』

ヨハネの手紙 一・5章の19節より

『わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者(=サタン)の支配下にあるのです』

(今後反キリストが権力をにぎることになるのも、それはこの世を支配しているサタンが彼の背後についているからです。とはいえこれとても神のご計画のうちなのですから、私たちはあわてずに、聖書の知識を深めていくことが大切だと思います)





2018年2月9日
ヨハネの黙示録・12章の7~9節より

『さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜(=サタン)に戦いを挑んだのである。竜とその使いたち(=悪霊たち)も応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた』

(聖書は、このように今後天においても戦いがあることをつづっています。世を支配しているサタンですが、御使いの一人であるミカエルに勝つことができません。たしかに世のおわりに向かう艱難期(かんなんき)の7年間は、人々にとってつらい時期になるでしょうが、こうした預言もされていますので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年2月11日
出エジプト記

4章の3~17節より

『(モーセが神に言われて自分の)杖を地面に投げると、それが蛇になったのでモーセは飛びのいた。主はモーセに、「手を伸ばして、尾をつかめ」と言われた。モーセが手を伸ばしてつかむと、それは手の中で杖に戻った。』


『モーセは手をふところに入れ、それから出してみると、驚いたことには、手は重い皮膚病にかかり、雪のように白くなっていた。主が、「手をふところに戻すがよい」と言われたので、ふところに戻し、それから出してみると、元の肌になっていた。』


『モーセは主に言った。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」』


『(モーセがさらに言った。)「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください。」』


『(神が弱気になっているモーセについに怒鳴った。)「あなたにはレビ人アロンという兄弟がいるではないか。わたしは彼が雄弁なことを知っている。その彼が今、あなたに会おうとして、こちらに向かっている。あなたに会ったら、心から喜ぶであろう。彼によく話し、語るべき言葉を彼の口に託すがよい。わたしはあなたの口と共にあり、また彼の口と共にあって、あなたたちのなすべきことを教えよう。彼はあなたに代わって民に語る。彼はあなたの口となり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」』


(羊飼いとして田舎で平穏に暮らしていたモーセは神様にエジプトへいって、奴隷になっているヘブライの人達を救えと使命を与えられます。 しかし、いまだに戸惑い、彼はスケールの大きさに怖気づいてしまうのです。弱気になっているモーセに神様は必死に「わたしがついているから。私があなたの口になって、手となってあげる。 みんなの前で私が与えた魔法をみせてヘブライの人たちに信じてもらえばいい」と彼に力づけるのですが、 「他の人にお願いしてください」とモーセに言われて神様は怒鳴ります。 私はモーセという人が今までどんな人なのか分かりませんでしたが、人間味が溢れていて私も自信がなくて弱気になるところがありますので共感しました。 このあとモーセは兄弟のアロンに出会い、助っ人になってもらい、神の杖をもってエジプトに出発します。 続きはまた次回に書きたいと思います)




2018年2月12日
ヨハネの黙示録・4章の6~8節より

『この玉座(ぎょくざ=神の座るところ)の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子(しし)のようであり、第二の生き物は若い雄牛(おうし)のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲(わし)のようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。
「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
全能者である神、主、
かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」』

(聖書を読まれていない方はおどろかれるかもしれませんが、この四つの生き物は天使です。これらの天使たちが、いかに神様をたたえているのかというのが、とくに “昼も夜も絶え間なく言い続けた” のところからつたわってきますね。とても印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年2月13日
ローマの信徒への手紙・1章の3~5節より

『御子(みこ=キリストのこと)は、肉によればダビデ(=紀元前1000年頃の、神に仕えた古代イスラエルの王)の子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活(=つまり十字架にかけられて命を落とし、その三日後に復活したこと)によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。わたしたちはこの方により、その御名(みな=神のこと)を広めてすべての異邦人(=イスラエル人以外の人々のこと)を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました』

(これは使徒パウロが書いたものです。上記のようにキリストは神の子でありながら、すべての人間の罪の身代わりとして十字架にかけられるために、人間と同じ肉体をもってお生まれになりました。またこれらの出来事は、使徒であるパウロによって異邦人へと広められていきました。とても感慨深いことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月14日
ローマの信徒への手紙・1章の8節より

『まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです』

(私もキリストを通して神に感謝することを忘れずに、少しでも多くの方に聖書のことをつたえていけたらなと思います)





2018年2月16日
ローマの信徒への手紙・1章の16~17節より

『わたしは福音(ふくいん=キリストの教えのこと)を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義(ぎ=正しい道のこと)が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰(しんこう=かたく信じること)を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』

(聖書は、信じて読むことで、より理解が深まり、いろいろなことを吸収していける書物だと思います。もともと私は信じるとか信じないではなく、なにか生活に生かせる言葉はないかなというぐらいで聖書を読みはじめました。ですが、いまは聖書が神様の御言葉(みことば)で書かれていることを信じています。もし聖書を読んだことのない人がいましたら、福音(福音にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによって書かれた四つがある)を読まれてみてはいかがでしょうか。きっと胸にひびくような言葉があるものと思います)





2018年2月17日
ローマの信徒への手紙・1章の18節より

『不義(ふぎ=正しい道から外れること)によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心(ふしんじん=御父(おんちち)である神や御子(みこ)であるキリストを信じないこと)と不義に対して、神は天から怒りを現されます』

ヨハネの黙示録・20章の12~15節より

『わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座(ぎょくざ)の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた』

(聖書を読んでいる方のほとんどが知っていることと思いますが、不信心や不義に生きた人たちはこの肉体の死後に、永遠に燃える火の池に投げこまれます。私などは想像するだけでも、そんな中には一瞬だっていたくありませんが、それが永遠なのですから、とてもではなく耐えられませんし、言葉にあらわすこともできません。しかし聖書は偽りのない御言葉で書かれたものですし、また神様ご自身が、悪に生きた人たちの主張や情などには絶対にながされませんから、聖書に書かれているそのままを実行されることになります。このように神様の怒りは、不信心な者にとっては計り知れないほどきびしいものになっています。私たちは、ともするときびしすぎる内容からは目をそむけがちですが、今日はありのままをこちらに載せておきたいと思います。※尚ヨハネの黙示録の20章は2017年11月8日にも記事にしております)





2018年2月18日
ローマの信徒への手紙・1章の22~23節より

『自分では知恵があると吹聴(ふいちょう=あちこちに言いふらすこと)しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです』

詩編・115章の4~8節より

『国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの。口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉があっても声を出せない。偶像を造り、それに依(よ)り頼む者は、皆、偶像と同じようになる』

コリントの信徒への手紙 一・10章の20節より

『いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献(ささ)げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません』

(聖書は像をつくることも、像を拝(おが)むことも禁じています。いわゆる偶像崇拝の禁止です。これは言いかえるなら、唯一である神様が、そのご自身の姿にしても、御子であるキリストの姿にしても、像にされることを望まれていないということです。このことは上記にも記されていますが、永遠である神の栄光を、金銀にすぎない材料で人間がつくってみたところで、神様の御言葉に反するだけだということです。そもそもこうした像を拝んだり、供え物をささげたりする行為は、悪霊たちを対象にしてしまっているのです。知らず知らずとはいえ悪霊を拝んでいる人たちが、神に仕えることはできません。大切なことだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月20日
ローマの信徒への手紙・2章の6~8節より

『神はおのおのの行(おこな)いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉(ほまれ)れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤(いきどお)りをお示しになります』

マタイによる福音書・22章の35~40節より

『そのうちの一人、律法(りっぽう=神の意志による教えと戒めのこと)の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者(=神の啓示を受け、神の名によって語る人のこと)は、この二つの掟に基づいている。」』

(神様は私たちのことを見てくださっています。私たちは、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛し、そして隣人を自分のように愛することで、神様からの恵みをさずかれるようになっていきます。また上記には “栄光と誉れと不滅のものを求める者には” とつづられていますが、これは自分の栄光や誉れではなく、神様の栄光や誉れをという解釈が正しいものと思います。とても大切なことだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月22日
“律法” という言葉の用語解説。聖書の付録より抜粋

『“律法” とは――神の意志による教えと戒めのこと。神は、人間の守るべき道を教え、十戒(じっかい)その他の戒めを与えた(出エジプト記などに記載)。それには道徳律のほかに、祭儀規定、社会規定、種々の勧告なども含まれている。民はそれらを守ることによって、神の選びの愛(=神の目的に適った愛といったところでしょうか)と契約にこたえなければならないとされた(※ここまでは旧約聖書内に書かれている内容です)。
イエスは、律法を廃止するためではなく、それを完成するために来たと宣言し、律法の中で最も重要な掟は愛であると説かれた。パウロは、人が律法を実行することによっては神の前で義とされず、イエス・キリストを信じることによって、神の義が人々に与えられることを教えている(※こちらが新約聖書内に書かれている内容です)』

(聖書を読んでいますと “律法” という言葉がでてきますので、こちらでとりあげておきたいと思います。律法の内容は、おもに出エジプト記の中のモーセの十戒などを読まれれば、どういったものであるかは知ることができます。地上にいるあいだのキリストも、この律法を完成するために活動されていました。しかしその後、キリストが十字架によって命を落とされたあとでは、使徒であるパウロが、律法によってではなく、キリストを信じることによって神の義が受けられると説いています。つまり私たちにあてはめるなら、キリストを信じることはなにものにも勝ることですが、その上で律法にも反することがないようにということなのだと思います。ちなみに律法で最も重要なことは、第一が神を愛することで、第二が隣人を自分のように愛することとなっています。少しむずかしいところではありますが、このようにまとめさせていただきました)





2018年2月23日
ローマの信徒への手紙・3章の21~26節より

『ところが今や、律法(=神の意志による教えと戒めのこと)とは関係なく、しかも律法と預言者(=神の啓示を受け、神の名によって語る人のこと)によって立証されて、神の義(=正しい道のこと)が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです』

(私たちは、すべての人が天の国に入れるわけではありません。キリストを信じている人だけが神の義をさずかり、そこに入ることができるのです。というのも人はだれもが罪を犯しながら生きているので、そのすべての罪の代価として払われたキリストの存在を知らずには、神の義をさずかれない状態にあるのです。ですから人目にはどんなに善人に見える人でも、その人がキリストと結ばれてないなら、天の国に入ることはできません。やはり人である以上、罪を犯しながら生きているからです。神様が天の国に導いてくださるのは、キリストを信じることで、生きているあいだに犯した罪を見逃してもらった人たちだけなのです。私はここに神様の深い愛が示されているように感じています。皆さんはいかがでしょうか。とても大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月25日
ローマの信徒への手紙・6章の15~16節より

『では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです』

(パウロはキリストを信じることで罪が許され、神の義が受けられると説いています(2018年2月23日の記事参照のこと)。しかしそうかといって、それで罪を犯してよいということにはならないとも説いています。これはまったくそのとおりだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月26日
ローマの信徒への手紙・6章の12~13節より

『従って、あなたがたの死ぬべき体(=いつかは死を迎えるこの体を、といったところでしょうか)を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義(ふぎ=正しい道から外れること)のための道具として罪に任せてはなりません』

(パウロはキリストを信じることで罪が許され、神の義が受けられると説いていますが、その一方で、この体を罪にゆだねることがあってはならないとも説いています。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年2月27日
ローマの信徒への手紙・7章の14~25節より

『しかし、わたしは肉の人であり(=罪を犯さずにはいられない人間であり)、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むこと(=神の律法に完璧であろうとすること)は実行せず、かえって憎んでいること(=自分でも罪であると自覚していること)をするからです。もし、望まないこと(=つまり罪と自覚していること)を行っているとすれば、律法を善いものとして(=つまり悪いおこないを罪と自覚させてくれる律法を尊いものとして)認めているわけになります。そして、そういうことを(=悪いことを)行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。「内なる人」(=神に仕えようとしている人)としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則(=罪の法則)があって心の法則(=つまり神の律法に完璧であろうとする心)と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から(=罪にそまって死に定められているこの体から)、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです』

(パウロは人間である以上、誰もが罪を犯すものだと言っています(2018年2月23日の記事参照のこと)。その一方で、罪を犯してはならないとも言っています(2018年2月25、26日の記事参照のこと)。この相対する考えが、今回上記のような葛藤となってあらわれています。そして彼がたどりついた結論は、罪から逃れられない自分自身をキリストにゆだね、神の恵みによって救ってもらうという方法です。私も現在、福音(=キリストの教え)のとおりであろうとする自分と、よくないことをしてしまう自分との葛藤に苦しんでいますので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月2日
ローマの信徒への手紙・8章の26~30節より

『同様に、“霊”(=聖霊)も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊” 自らが、言葉に表せないうめきをもって執(と)り成してくださるからです。人の心を見抜く方(=神)は、“霊” の思いが何であるかを知っておられます。“霊” は、神の御心に従って、聖なる者たち(=キリストを信じる者たち)のために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画(=神の計画)に従って召された者たちには、万事(ばんじ=すべてのこと)が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。神は前もって知っておられた者たちを、御子(みこ=キリストのこと)の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子(ちょうし=最初の者)となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです』

コリントの信徒への手紙 一・6章の19節より

『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです』

(パウロはこのように聖霊が私たちを助けてくれるとつづっています。もし私たちが神様を愛しているならば、それは神様が私たちを選んでくださっているということの裏返しでもあるのです。そして神様が与えてくださった聖霊が、万事が益となるように共に働いて、私たちを正しい道へと導いてくれるのです。とても心強いことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月4日
出エジプト記

5章の1~2節より

『モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、言った。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と。」ファラオは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と答えた。』


7章の10~13節より

『モーセとアロンはファラオのもとに行き、主の命じられたとおりに行った。アロンが自分の杖をファラオとその家臣たちの前に投げると、杖は蛇になった。 そこでファラオも賢者や呪術師を召し出した。エジプトの魔術師もまた、秘術を用いて同じことを行った。 それぞれ自分の杖を投げると、蛇になったが、アロンの杖は彼らの杖をのみ込んだ。 しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。』


(モーセとアロンは解放してほしいと交渉に伺いますが、エジプト王ファラオは、虐げているイスラエルの民を解放しないと頑なになっています。 モーセとアロンは事前に神様から聞き、言われた通り手に持っている魔法の杖を投げて蛇に変えて見せます。 ファラオが雇った魔術師たちも同じことをして見せますが、彼らの蛇はアロンの蛇に飲み込まれてしまいます。 神様のお力の方が上だという証明です。しかし、ファラオは全く心を開かずに、今後もずっとこのような交渉を繰り返していきます。 ここからは沢山の災いが話に登場します。エジプト人にとって欠かせられないナイル川が血に染まる災い。その血に染まったナイル川に卑しい蛙がはびこり王宮の中にも蛙だらけになる災い。 さらにはブヨの災い。アブの災い。イナゴの災い・・・それぞれ力試しをしていき計12回のモーセたちとファラオの交渉が行われていきます。そして、とうとう最後までファラオは頑なのままでずっとイスラエルの民を解放しないで終わります。 これはモーセたちというよりも、ファラオ王と神様の熱い戦いが繰り広げられたと思います。全知全能の偉大な神様と互角に張り合おうとするなんて図太く度胸のある王だと思いました。)




2018年3月5日
ローマの信徒への手紙・8章の5節より

『肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊(=聖霊)に従って歩む者は、霊に属することを考えます』

(短い文章ではありますが、とても印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います。※尚2018年1月4日の記事でもこの内容のものにふれています)





2018年3月6日
ローマの信徒への手紙・9章の30~32節より

『では、どういうことになるのか。義(=正しい道)を求めなかった異邦人(=イスラエル人以外の人々のこと)が、義、しかも信仰(=固く信じること)による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法(=神の意志による教えと戒めのこと)を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行い(=ここでの “行い” とは、律法どおりであろうとする行いのことだと思います)によって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです』

(このように神様が私たちに求められているのは “行い” よりも “信仰” です。人はだれもが罪人ですので、自分の行いでもって完璧な生活を送ろうとしても、所詮それは適わないということなのだと思います。私たちは信仰によって宿っていただいた聖霊や、キリストの助けなしには、神様が望んでおられるような生活を送れないものなのではないでしょうか。大切なことだと思いましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月7日
ローマの信徒への手紙・11章の25~26節より

『兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは(=つまり信仰から離れているのは)、異邦人全体が(=イスラエル人を除く全世界の人々が)救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです』

(神の民とはイスラエル人のことですが、いまの彼らはキリストを信じていないようです。というのも彼らは旧約聖書(=ユダヤ教の聖典)ばかりにとらわれていて、キリストの教え(=つまり福音)が載っている新約聖書を認めていない状況にあるようなのです。ですがこれは神様のご計画どおりで、いまは世界中の人々のあいだで福音が広まっている時期であり、その後にイスラエル人がキリストを受け入れて信仰をもつようになっていくとのことです。現在の状況を見わたしてみますと、まったくこの通りに進んでいるように思います。興味深いことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月9日
ローマの信徒への手紙・12章の17~19節より

『だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります』

(ここにはやられてもやり返してはいけないということがつづられています。たとえば神様を愛していることで、この先迫害されることがあるかもしれません。ですが、そのときは神様にお任せしたらよいのです。復讐は神様がしてくださるからです。とても印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月11日
ローマの信徒への手紙・14章の7~8節より

『わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです』

(少し前までの私は上記でもふれられていますが、自分のために生きて、自分のために死ぬという考えをもっていました。とりわけ人間は死んだらおわりだと考えていたのです。ですが今は、そうした考えからは離れられてきて、神様にこころから感謝できるようになってきたと思えています。とても印象的な内容ですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月13日
コリントの信徒への手紙 一・15章の3~8節より

『最も大切なこととしてわたし(=パウロのこと)があなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬(ほうむ)られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(=キリストの使徒の1人)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました(=ここは500人以上が一ヶ所に集まっていたところに、キリストがあらわれたという解釈でいいように思います。なぜならキリストは亡霊として死から復活したのではなく、人間の肉体をもって復活したからです)。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブ(=キリストの使徒の1人)に現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました』

(最も大切なことは、キリストがすべての人の罪の身代わりとして十字架にかかり命を落とされたこと、そして墓に葬られ、その三日後に復活されたことです。私たちはこのことを信じないことには、神の恵みをさずかることができません。パウロの言葉どおり、最も大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月14日
ルカによる福音書・24章の36~43節より

『こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた』

(これはキリストが死から復活して、使徒の前にあらわれたときのシーンです。このようにキリストは亡霊のようなものとしてではなく、人の体をもって復活し、食事もとっています。印象的なシーンですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月15日
コリントの信徒への手紙 一・15章の20~24節より

『しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂(=はつほとは、その年に初めて実った稲の穂のことですので、この場合は死者の中から初めて復活したということの比喩ととらえたらいいように思います)となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます』

(神様はもともと人間が「死ぬ」ようには創造されていませんでした。エバ(女)と共に人類で最初に罪を犯したアダム(男)のゆえに、人間を「死ぬ」ように変えられたのです。つまり「罪」の代償としてすべての人に死がおとずれるようになったのです。しかしすべての人が犯す「罪」から、すべての人を解放するために、キリストがすべての罪を背負って十字架にかかってくださいました。このことによって、罪を犯してきた私たちのこの肉体こそ滅びますが、その後には死からの復活が約束されているのです。このようにアダムによってもたらされた「死」から、キリストが救ってくださいました。これが上記でいう “死が一人の人(=アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(=キリスト)によって来るのです” という言葉の意味になっています。ぜひ知っておいたほうがよいと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月16日
コリントの信徒への手紙 一・15章の32~33節より

『もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。思い違いをしてはいけない。「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです』

(もし死んだあとの世界がないなら、たとえば自分の欲求のままに生きるのも一つなのかもしれません。しかし聖書には死からの復活がくりかえし語られています。ですので私たちは悪いつきあいや好ましくないおこないを避けるようにして、御心(みこころ)にそった良い習慣(=たとえば聖書を読むことや神様にお祈りをすることなど)をつづけていくことが大切だと思います)





2018年3月17日
コリントの信徒への手紙 一・15章の42~44節より

『死者の復活もこれと同じです。蒔(ま)かれるとき(=ここでの蒔かれるとは、私たちの死後に、その一人一人の生涯を反映させたタネを、私たち自身が蒔くといったことを意味しているようです。このそれぞれのタネに対して、神様が霊としての新たな体をさずけてくれることになります)は朽(く)ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑(いや)しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体(=ここでの自然の命の体とは、つまりアダムが土からつくられたところから、私たちの体が「地」に属しているということを意味しているようです)で蒔かれて、霊の体(=ここでの霊の体とは、「天」に属していることを指しています)に復活するのです』

(私たちはこの肉体が朽ちたあとに、霊の体をさずかって復活をします。それも二度と朽ちることがなく、輝かしく、力強いものとして復活するのです。とても素晴らしいことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月19日
コリントの信徒への手紙 二・4章の1~5節より

『こういうわけで、わたしたちは、憐れみ(=憐れみとは、私たちが罪のために受けるべき罰を神が与えないこと)を受けた者としてこの務め(=霊に仕える務め、この場合はおもに伝道することによって、人々を神の義にあずかれるようにしていくことを指しているものと思います)をゆだねられているのですから、落胆しません(=おそらく当時のパウロ自身の伝道が、思うように人々に受け入れられず、また非難さえむけられていた状況をうけての言葉だと思います)。かえって、卑劣(ひれつ)な隠れた行いを捨て、悪賢(わるがしこ)く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前(みまえ)で自分自身をすべての人の良心にゆだねます(=つまり神の言葉を曲げずに、そのありのままを伝えることに徹して、そう伝道していく姿を他人の判断にゆだねるということ)。わたしたちの福音(=キリストの教え)に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神(=ここでのこの世の神とは、全世界を支配しているサタンのことを指しているものと思います)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿(にすがた)であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕(しもべ)なのです』

(もし私たちが聖書に関心を持ち、キリストを信じるようになったならば、それは神様が私たちの心の目をひらいてくださっていたためです。そしてそこからもし伝道していこうとする意思がめばえたなら、そこにも聖霊からの呼びかけがはたらいているものと思います。そうして神様の言葉をつたえていく際には、神様の御言葉である聖書を曲げずに伝道していくことが大切だと思います。なぜなら私たちがつたえていくのは自分自身ではなく、聖書につづられているキリストのことであり、またその教えでなければならないからです。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月21日
コリントの信徒への手紙 二・5章の17~21節より

『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです』

(キリストはすべての人の罪の身代わりとして十字架にかかり命を落とされました。キリストがこのようにしてくださったことで、私たちは自分自身の罪を十字架につけることができ、いわば罪から解放されている者として、新しく生きている状態にあります。つまり神様と和解させていただいているのです。ですので、こうして生きている私たちは、キリストへの感謝をもって、それぞれの務め(=上記の内容からですと、おもに伝道のことを指しているものと思います)をおこなっていくことが大切なのだと思います。それがキリストのために生きるということにもつながっていくからです)





2018年3月22日
コリントの信徒への手紙 二・6章の8~10節より

『わたしたちは人を欺(あざむ)いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ(=つまり多くの人を神の恵みに導いたということ)、無一物(むいちぶつ=何も持っていないこと)のようで、すべてのものを所有しています』

(これはキリストの使徒であるパウロの言葉です。当時の伝道の困難さがひしひしとつたわってきますね。とても切実で胸にくるものがありましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月23日
コリントの信徒への手紙 二・6章の14~16節より

『あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛(くびき=数頭の牛などの首をひとくくりにする横木のこと)につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。キリストとベリアル(=悪魔、堕天使の一人を指しているようです)にどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像(=聖書ではいかなる偶像も禁じています。※出エジプト記20:4)にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです』

(パウロは、私たちを生ける神の神殿だと言っています。とても心強いことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年3月26日
エフェソの信徒への手紙・1章の4~6節より

『天地創造の前に(=つまり神が天と地を創造する前に)、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者にしようと(=天の国には聖なる者しか入ることができませんので、そのためには罪人である私たちは、キリストをとおして神様からの恵みをさずかっている必要があります)、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子(=天の国に入れる者たちのこと)にしようと、御心(みこころ)のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子(みこ=キリストのこと)によって与えてくださった輝かしい恵み(めぐみ=つまり罪人である私たちを天の国に入れるようにしてくださること)を、わたしたちがたたえるためです』

(神様は、このように天地創造の前に、すでに私たちを愛してくださっていて、キリストのもとに神の子にしようと定めてくださっていました。全能者であられる神様は、過去や未来といった時間というものをも超越しておられる方なのです。私たちは御父である神、また御子であるキリストへの感謝をわすれずに、日々歩んでいくことが大切だと思います)





2018年3月27日
エフェソの信徒への手紙・1章の10節より

『こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され(=これはキリストの再臨を指しているようです。救いの業が実行にうつされ、神の計画が完成するといった意味で “完成” と表現されているようです)、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです』

(このようにキリストの再臨のあとに神の計画が完成され、あらゆるものがキリストのもとに一つにまとめられます。上記には天も地もとありますので、栄光の体に変えられた私たち人間だけでなく、天にいる天使たちも一緒になってキリストをたたえるような王国で永遠に過ごすことになるのかもしれませんね。本当に素晴らしいことだと思います)





2018年3月30日
コロサイの信徒への手紙・3章の12~14節より

『あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心(=同情する心)、慈愛(じあい=いつくしみ、かわいがるような深い愛情)、謙遜(=ひかえ目なつつましい態度でふるまうこと)、柔和(にゅうわ=やさしく、おだやかなさま)、寛容(=心が寛大で、よく人を受けいれること)を身に着けなさい。互いに忍び合い(=我慢しあい)、責めるべきことがあっても、赦(ゆる)し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです』

(キリストは、神を愛すること、また隣人を自分のように愛することが、とくに大事であると説いておられました。ここに述べられている内容のことも、日々胸にあてて生活を送っていきたいものですね。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年3月31日
テサロニケの信徒への手紙 一・4章の15~18節より

※以下は携挙(けいきょ)についてパウロがつづっている言葉です。

『主(=キリスト)の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日(=携挙のこと)まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たち(=すでに死んでしまった人たち)より先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降(くだ)って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主(=キリスト)と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい』

マタイによる福音書・24章の36~39節より

※以下は携挙の時期についてキリストが語っている言葉です。

『その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(子=おそらくキリストのこと)も知らない。ただ、父(=神)だけがご存じである。人の子(=キリスト)が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである』

(これは携挙に関する言葉です。上記のように、神のラッパが鳴り響くと、キリストが天からくだって来られ、私たちはキリストと出会うために、栄光の体に変えられて天へと引き上げられます。とても素晴らしいことですので、以前にもふれましたがこちらにまた載せておきたいと思います。※なおパウロが「主が来られる日まで “生き残るわたしたち” が、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」と言っていますが、実際にはパウロが亡くなった今もまだ携挙は起こっていません。これは専門的には「切迫性」(=差し迫る)という教理を意味しているようです。これは簡単にいいますと、いつ来るかわからない携挙に対して、今にも来るかもしれないから目を覚ましていなさい、といったキリストの教えに通じているものがあります。パウロもこうした切迫感をもちながら、自分が生きているあいだに携挙が来るものと信じていた、そのありのままの信仰が上記のような言葉になってあらわれたということなのだと思います)





2018年4月1日(イースター。キリストの復活祭)
ヨハネによる福音書

20章の19節〜より
『その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。』

20章の24節〜より
『十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

20章の26節〜より
『さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
「あなたがたに平和があるように」と言われた。
それから、トマスに言われた。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
イエスはトマスに言われた。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」』



(今日はイースターの日。キリストの復活祭です。先日、キリストの映画を見ました。残酷な処刑方法、十字架にかけられて死ぬ話を見たばかりですので、この話を読んでまるで映画の続きを見ているようでとても生々しく感じました。 12人の弟子の内のトマスだけは心を頑なに閉ざしていましたが、イエスの手のひらと脇腹を触ってやっと心を開くようになりました。 鞭を打たれたり槍で刺されたり手のひらにも足にも釘を打たれて惨たらしいことになっていたはずなのに傷一つもないのは普通は信じられません。神の子、イエス・キリストだからこそ奇跡がおきたのだと思います)





2018年4月1日
讃美歌325番・キリスト・イェスは

『1.キリスト・イェスは ハレルヤ
よみがえられた ハレルヤ。
勝利をうたい ハレルヤ、
み名をたたえよう ハレルヤ。

2.十字架にかかり ハレルヤ、
死んで死に勝ち ハレルヤ。
生きていのちを ハレルヤ、
イェスは与えた ハレルヤ。

3.イェスの十字架は ハレルヤ、
われらの救い ハレルヤ。
天の使いと ハレルヤ、
声をあわせよう ハレルヤ。』

(キリスト復活の歌です。とても素敵な曲でしたので載せました)





2018年4月2日
テモテへの手紙 一・4章の1~4節より

『しかし、“霊” は次のように明確に告げておられます。終わりの時(=世の終わりのこと)には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており(=つまり悪の教えにそまっているということだと思います)、結婚を禁じたり、ある種の食物を断つことを命じたりします。しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです』

(上記には、“終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます” とつづられています。こうした偽の聖書を語るような者があらわれるということは、知っておいたほうがいいと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月4日
テモテへの手紙 一・6章の3~10節より

『異なる教えを説き、わたしたちの主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心(しんじん=神への信仰心のこと)に基づく教えにも従わない者がいれば、その者は高慢(こうまん)で、何も分からず、議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推(じゃすい=ひがんで、自分に悪意をもっていると疑ってかかること)、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得(=利益を得ること)の道と考える者の間で起こるものです。もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです(=これは所詮私たちは皆、裸であり、その本当のところでは神とのつながりだけが心を満たしてくれるということを言っているのだと思います。また世を去るときにも私たちのよりどころとなるものは、神だけであるという意味もこめられているように思います)。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別(むふんべつ=思慮がなく軽率なこと)で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥(おとしい)れます。金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます』

(私たちはキリストの教えである福音に従うことが大切です。ここに書いてあるように、すべての悪の根である金銭への欲などは持つべきではありません。これはまったくそのとおりだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月6日
テモテへの手紙 二・3章の1~5節より

『しかし、終わりの時(=この世のおわりのとき)には困難な時期が来ることを悟りなさい。そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏(おそ)れなくなります(=うやまわなくなります)。また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、善を好まず、人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、信心(しんじん)を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。こういう人々を避けなさい』

(聖書はこれから先のことをこのようにつづっています。この中に加わってしまわないように、私たちは私たちを創ってくださった神様を感謝し、愛し、また隣人を自分のように愛していくことが大切だと思います)





2018年4月7日
テモテへの手紙 二・3章の15~17節より

『この書物(=聖書)は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒(いまし)め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです』

コリントの信徒への手紙 二・4章の5節より

『わたしたちは(=キリストの使徒であるパウロたちのこと)、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕(しもべ)なのです』

(聖書の内容はすべて神の霊の導きのもとに書かれています。それですので私たちが内容を加えたり減らしたりする必要はありませんし、また意図的に内容を曲げて他人に伝えることはしてはならないことです。パウロも言っていますとおり、私たちは伝道において自分自身を語るのではなく、聖書に書かれているままのキリストを述べ伝えていけばよいのです。聖書にはこれから先、偽の聖書を語る人たちが多くあらわれると書いてありますので、これらのことを載せておきたいと思います)





2018年4月8日
テモテへの手紙 二・4章の3~5節より

『だれも健全な教え(=聖書の教え)を聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々(=ここでの人々とは、おもに教会に通っている人たちを指しているものと思います)は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たち(=聖職者たちといったところでしょうか。※聖職者とは人々を導き、教える役割を果たしている人のことです)を寄せ集め、真理から耳を背け(=つまり聖書の教えを聞かなくなり)、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい』

(これはパウロがキリストの使徒であるテモテへ送った手紙の一部分です。上記のように教会に通っていると思われる人たちでさえが、自らで偽の聖職者たちを招き、真理からそれていってしまうとつづられています。知っておいたほうがよいと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月9日
テトスへの手紙・1章の15~16節より

『清い人には、すべてが清いのです。だが、汚(けが)れている者、信じない者(=聖書を信じない者という意味だと思います)には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています。こういう者たちは、神を知っていると公言しながら、行いではそれを否定しているのです。嫌悪すべき人間で、反抗的で、一切の善い業については失格者です』

(ここには、“信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚(けが)れています” とつづられています。私もそういうものだと思います。印象にのこりましたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年4月10日
テトスへの手紙・2章の11~14節より

『実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心(ふしんじん=神を信じない心)と現世的な(=この世の中の)欲望を捨てて、この世で、思慮深く(=しっかりと考え)、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れ(=つまりキリストの再臨のこと)を待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献(ささ)げられたのは、わたしたちをあらゆる不法(=あらゆる罪、悪いこと)から贖い出し(あがないだし=厳密には罪から買い取ってくださるという意味があるようです)、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです』

(上記にはたくさんいい言葉がありますので、今日は箇条書きにしてみたいと思います。

・一人でも多くの方が聖書を手にとり、“すべての人々に救いをもたらす神の恵み” の存在に気がついていただきたいです。

・キリストは、“偉大なる神であり、わたしたちの救い主” であります。聖書では神を御父(おんちち)、キリストを御子(みこ)という表現をとる場合が多いですが、上記には、キリストは神である、とはっきりと書かれています。こうしたところから「父」と「子」と「聖霊」が「一体」であるとする考え、三位一体(さんみいったい)という教理がうまれているものと思います。※なお三位一体とは、唯一の神は、父と子と聖霊の三位格を持つ三位一体の神であり、その本質において同一である、とのことです。

・キリストは、“わたしたちをあらゆる不法から贖い出す” ために、つまり私たちを罪から救ってくださるために十字架にかかって命を落とされました。

・キリストを信じている私たちは皆、“キリストのものとして清められている” のです。これは言いかえるなら、私たちは皆清められて、キリストに所有されているということです。

どれも素晴らしいことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年4月12日
テトスへの手紙・3章の3~7節より

『わたしたち自身も(=パウロたちのこと)かつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌(い)み嫌われ、憎み合っていたのです。しかし、わたしたちの救い主である神の慈(いつく)しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐(あわ)れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗い(あらい=洗うこと)を通して実現したのです。神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです』

(上記にありますように、神様は、私たちの善いおこないが先にあって、それにこたえる形で私たちを救ってくださるのではありません。かつての信仰を持たずに憎しみ合っていたパウロがそうであるように、神様は慈しみや、愛や、憐れみによって、いたらない私たちを救ってくださるのです。それも永遠の命を受け継ぐ者としてです。とても希望にみちた素晴らしいことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年4月14日
ヘブライ人への手紙・1章の1~4節より

『神は、かつて預言者(=旧約聖書におけるエリヤやダニエルなどのこと)たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子(=キリスト)によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者(=つまりキリストがありとあらゆるものを所有しているということ)と定め、また、御子によって世界を創造されました(=キリストが天と地を創造したということ)。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって(=つまりキリストは神の子でありながら、神そのものであるということ)、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが(=今ある世界はキリストが維持してくださっているということ)、人々の罪を清められた後(=人々の罪の身代わりとして十字架で命を落とされたのち)、天の高い所におられる大いなる方(=父である神)の右の座にお着きになりました。御子は、天使たち(=聖書内ではミカエルやガブリエルといった天使が登場します)より優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです』

(上記のように、キリストは神そのものであり、天と地のあらゆるものを創造し、所有し、それらを保っておられます。また人々の罪を清めるために、人間の体をもって十字架にかかり命を落とされました。しかしその後墓に葬(ほうむ)られ、三日目に復活し、いま現在は天におられる父の右の座にすわっておられます。とても大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月17日
ヘブライ人への手紙・12章の5~7節より

『「わが子よ、主(=神)の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲(こ)らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか』

(このように神は愛する者を鍛え、鞭打たれます。それは子として受け入れてくださっている私たちを強くするためなのです。とても印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年4月18日
ヤコブの手紙・1章の12~15節より

『試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠(かんむり)をいただくからです。誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます(=人は罪をかかえたままでは天の国にはいれません。そういう意味での “死” だと思います)』

(神様は私たちを鍛えるために試練を課しますが、決して誘惑はなさりません。もしなにかに誘惑されているように感じた場合は、それは自分の欲望によってそそのかされているのです。そうしたときにはまず自分をかえりみることが大切だと思います。印象にのこりましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月19日
ヤコブの手紙・3章の14~18節より

『しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から(=神からという意味だと思います。もしくは天から)出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔(ま)かれるのです』

(ねたみ深かったり利己的であったり、また自慢したりうそをついたりすることはよくないことです。キリストの教えのとおり、神様を愛し、また隣人を自分のように愛して、私自身も日々やさしく従順でいられるようにつとめていかないとと思います。とても印象にのこりましたので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月20日
ヤコブの手紙・4章の1~4節より

『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望(=せめぎあう欲望、たくさんの欲望といったところでしょうか)が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか(=ここの意味は下記の「ヨハネの手紙」を参照ください)。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです』

ヨハネの手紙 一・2章の15~17節より

『世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人(=上記では “世の友になる人” と書いてありますが、同じ意味だと思います)がいれば、御父(おんちち=神)への愛はその人の内にありません。なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。世も世にある欲も、過ぎ去って行きます(=ほろびます)。しかし、神の御心(みこころ)を行う人は永遠に生き続けます』

(この世の中は私たちに、あれもこれも手に入れたいというように、たくさんの欲望をいだかせてきます。上記にもありますが、欲望をいだくことはよいことではありません。私たちは神様と世を同時に愛することはできないのです。私たちが神様を愛しているというとき、世も、世にあるものも愛し得ないのです。とても大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月22日
ペトロの手紙 一・1章の3~5節より

『神は豊かな憐(あわ)れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ(=ここの意味は下記の「コリントの信徒への手紙」を参照のこと)、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え(=ここでの希望とは、つまりキリストが死からも復活してみせた神であることを人々に示し、また人々に対して、死は克服できるものであり、永遠の命というものの存在を実際に証明してみせたことへの希望などを指しているものと思います)、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽(く)ちず、汚(けが)れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました(地上での財産はどんなに蓄えてもほろびます)。あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています』

コリントの信徒への手紙 二・5章の17節より

『だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです(=キリストを信じたときから、私たちには聖霊がやどってくださいます。それは新しく生まれ変わるということなのです)。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた』

(上記にありますように、私たちは、世の終わりの時に救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。この中でもとくに私たちにとって大切なのは「信仰によって」というところだと思います。神様は豊かな憐れみによって、私たちをキリストの子にしてくださり、本来罰をうけるはずの罪から救ってくださいました。私たちは日々の信仰によって、神様への感謝をわすれずに、神様との関係を深めていくことが大切だと思います)





2018年4月24日
ペトロの手紙 一・3章の3~4節より

『あなたがたの装(よそお)いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和(にゅうわ=やさしく、おだやかなさま)でしとやかな気立てという朽(く)ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前(みまえ)でまことに価値があるのです』

(これはまったくそのとおりだと思います。私たちは外面的なものよりも、内面的なやさしさをもち、他人を自分のように愛し、親切にしてあげることが大切だと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月25日
出エジプト記(モーセの十戒)

14章の21節〜より
『モーセが手を海に向かって差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、 海は乾いた地に変わり、水は分かれた。イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んで行き、水は彼らの右と左に壁のようになった。 エジプト軍は彼らを追い、ファラオの馬、戦車、騎兵がことごとく彼らに従って海の中に入って来た。』

14章の26節〜より
『主はモーセに言われた。
「海に向かって手を差し伸べなさい。水がエジプト軍の上に、戦車、騎兵の上に流れ返るであろう。」
モーセが手を海に向かって差し伸べると、夜が明ける前に海は元の場所へ流れ返った。 エジプト軍は水の流れに逆らって逃げたが、主は彼らを海の中に投げ込まれた。 水は元に戻り、戦車と騎兵、彼らの後を追って海に入ったファラオの全軍を覆い、一人も残らなかった。 イスラエルの人々は海の中の乾いた所を進んだが、そのとき、水は彼らの右と左に壁となった。 主はこうして、その日、イスラエルをエジプト人の手から救われた。 イスラエルはエジプト人が海辺で死んでいるのを見た。 イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見た。民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた。』



(映画にもなりました『モーセの十戒』もいよいよクライマックスです。 ある日、奴隷のイスラエル人達が逃亡したと聞いたエジプトのファラオ王は、自ら軍勢を率い、馬をつなげた戦車に軍隊の幹部を乗り込ませて騎兵と歩兵も率いてモーセたちを後から追いかけます。 必死に逃げても追いつかれそうになるイスラエル人達はパニックになって先頭にいるモーセに怒鳴り続けます。 彼らは絶対絶命に陥りますが、見かねた神様はモーセに丁寧に助言をして、彼のもっている杖と手をふらせ海を真っ二つにしてみせます。 激しい風と潮ひきと海を使った神様の奇跡的な自然現象が起きたのです。 神様だからこそ、弱い窮地に立たされた私たちを救って下さったのだとおもいます。 最後の最後まで決して諦めずに謙虚に神様のお声に耳を傾ける気持ちがとても大事だと思いました)





2018年4月26日
ペトロの手紙 一・1章の8~9節より

『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです』

ヘブライ人への手紙・11章の1~2節より

『信仰とは、望んでいる事柄(=これは天における報いのこと、キリストとともに永遠に過ごすことを指しているものと思います)を確信し、見えない事実を確認することです(=つまり見えないキリストや、天の国や、自分の罪が許されていることなどを実感すること)。昔の人たち(=旧約聖書にでてくる人たち。たとえばノアやアブラハムなどのこと)は、この信仰のゆえに神に認められました』

(これもそのとおりだと思います。私もキリストを目で見たことはありませんが、聖書をとおして知ったキリストを信じていますし、自然と神様に祈ったりしています。もちろん天の国のことを考えては喜びにかられたりしています。そもそも神様が私たちに求められているのは信仰です。神様は聖書につづられている事柄を、たとえそれらが目に見えないものであっても、私たちに信じるように求められているのです。とても大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします。――ちなみに少し話がそれますが、聖書にそぐわないビッグバン宇宙論や進化論などは、あくまで人間が考えた仮説です。これらが今後どう発展し、あるいは衰退していくのかはわかりませんが、もちろん私は聖書を信じていますので、これらの仮説はあくまで仮説のものとしてとらえておく考えに変わりはありません)





2018年4月28日
ペトロの手紙 一・1章の17節より

『また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」(=神のこと)と呼びかけているのですから、この地上に仮住(かりず)まいする間、その方を畏(おそ)れて生活すべきです』

(上記にあるように、人はやったもの勝ちではありませんし、また死んでもおわりではありません。死後に悪いことや罪をふくめたそれぞれのおこないに応じて神によって裁かれるのです。人は皆罪をおかしながら生きていますから、裁きのときにこれらの罪を許してもらえるのは、神の子であるキリストを信じ、信頼をよせている人だけになります(このために神はキリストを地上につかわしてくださったのです)。この地上は仮の住まいであり、私たちは死後に用意されている本当の住まい、そこでの永遠の時間を、天の国で過ごすのか、あるいは火の池で過ごすのか、ふりわけられることになるのです。この決定権をもつ神様のことを、私自身ももっと畏れて生活していく必要があるように思います。大切なことですので、こちらに載せておくことにします。※辞書参考:ここでの “畏(おそ)れる” とは、自分よりはるかに力のあるものを敬(うやま)い、同時に恐れる気持ちをあらわす)





2018年4月29日
ペトロの手紙 一・1章の24~25節より

『人は皆、草のようで、その華(はな)やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない』

ヤコブの手紙・4章の14節より

『あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧(きり)にすぎません』

(私たちの人生は儚(はかな)いものです。聖書では人間を霧にすぎないといい、またいつかは枯れる草のようだといっています。ですが、主の言葉である神の言葉、キリストの言葉は永遠に変わることがありません。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年4月30日
ペトロの手紙 一・2章の11節より

『愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい』

(私たちが永遠の時を過ごすことになる本当の住まいは天の国にあります。この地上で仮住まいの身としているあいだ、私たちは肉の欲から遠ざかり、避けていくべきなのです。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月1日
ペトロの手紙 一・2章の20節より

『罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉(ほま)れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心(みこころ)に適うことです』

(罪を犯して打ちたたかれるのと、善を行って苦しみを受けるのと、同じ耐え忍ぶでも、神様の御心に適うのは後者の場合になります。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年5月2日
ペトロの手紙 一・3章の17~18節より

『神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のために(=これは私たち人間の罪のためにという意味です)ただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです(=キリストは今は天の国におられます)』

(キリストは私たちの罪のために十字架にかかり命を落とされました。まさしく善をおこなって苦しまれたのです。私たちがわすれてはならないことだと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月4日
ペトロの手紙 一・4章の7~9節より

『万物(ばんぶつ=あらゆるもの)の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです(=これは愛し合うことで、多くの罪が生じる余地がなくなるといったところでしょうか)。不平を言わずにもてなし合いなさい』

(これはそのとおりだと思います。なによりもまず心を込めて、お互いに愛し合うことが大切だと思います。大事なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月6日
ヨハネの手紙 一・2章の22~23節より

『偽(いつわ)り者とは、イエスがメシア(=救い主)であることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父(おんちち=神のこと)と御子(みこ=キリストのこと)を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています』

(キリストはメシアです。聖書を読んでいれば、このことは否定のしようがありません。また御父である神と、御子であるキリストは切り離して受け止めるべきものではありません。神だけを認めて、キリストを否定するなどの考え方は反キリストなのです。神に結ばれているすべての人たちが、キリストを認めているのです。もっといえば聖書をつたえていくこととは、キリストをつたえていくことなのです。とても大切なことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年5月8日
ヨハネの手紙 一・4章の1~3節より

『愛する者たち、どの霊(=霊には “聖霊” と “悪霊” とがあります)も信じるのではなく、神から出た霊(=聖霊)かどうかを確かめなさい。偽預言者(にせよげんしゃ=偽物の預言者のこと。神と結ばれているふりをして、嘘をついたり真実をゆがめたりする者のこと)が大勢世に出て来ているからです。イエス・キリストが肉(=人間の体)となって来られたということを公に言い表わす霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります。イエスのことを公に言い表わさない霊はすべて、神から出ていません。これは、反キリストの霊です』

(キリストは神でありながら、人間の体をもってこの地上にあらわれてくださいました。つまり神でありながら、人でもあったのです。そして私たちを罪から救うために、罪の身代わりとして十字架にかかってくださいました。とても大切なことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年5月10日
ヨハネの手紙 一・4章の9~11節より

『神は、独り子(ひとりご=キリスト)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償(つぐな)ういけにえとして、御子(みこ=キリスト)をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです』

(神様は私たちの罪をつぐなういけにえとして、独り子であるキリストを、十字架にかかる宿命のもとにこの世にお遣わしになりました。神様はこのようなことをしてまで、愛する私たちを罪から救ってくださったのです。私たちはこのことに感謝し、神の掟でもある、互いに愛し合うことを、日々こころがけて守っていくべきだと思います。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月12日
ユダの手紙・1章の9節より

『大天使ミカエルは、モーセ(=エジプトのファラオによって奴隷のような扱いをうけていたユダヤ人を、エジプトから脱出させた際の指導者です)の遺体のことで悪魔(=サタン)と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁(さば)こうとはせず、「主(=神)がお前を懲(こ)らしめてくださるように」と言いました』

(聖書のことを調べていますと、ときどきこのミカエルがキリストのことであるという解釈を見かけますが、そのようなことは聖書には書かれていませんし、神と天使とを同一視するなどはしてはいけないことだと思います。聖書の神は唯一であり、その神は御父である神、御子であるキリスト、そして神の霊である聖霊、というように三位格をお持ちの存在です。ここに天使が割って入ることはできませんし、天使は神を崇(あが)める側の、神によって創造された被造物(ひぞうぶつ=神によって造られたもの)です。ここには創造する側とされる側の、混同してはならない境界があるものと思います。大切なことだと思いますので、こちらに載せておくことにします。なお神の三位一体(さんみいったい)という教理については2018年4月10日の記事を参照ください)





2018年5月13日
ヨハネの黙示録・1章の1~3節より

『イエス・キリストの黙示(もくじ=隠された真理を示すこと)。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕(しもべ)たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである』

(ヨハネの黙示録には、キリストが天使に命じてヨハネに伝えたことがつづられています。つまりこれは神の預言ということです。それですので、この預言がはずれるということはありませんので、もし読まれていない方がいましたら、ぜひ読まれてみてはいかがでしょうか)





2018年5月15日
ヨハネの黙示録・6章の1~2節より

『また、わたし(=ここでのわたしとは、天使によって預言に関する幻を見せられているヨハネのこと)が見ていると、小羊(=キリスト)が七つの封印の一つを開いた。すると、四つの生き物の一つが(=四人のうちの天使の一人が)、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者(=これは反キリストのことです)は、弓を持っていた。彼は冠(かんむり)を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った』

(今後神様は、人類が犯してきた罪に対して重い裁きをおこなわれます。その一連の裁きは、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢(はち)によって成しとげられることになっています。上記はその第一の封印が開かれたところで、神様はまず反キリスト(=この人物の背後にはサタンがついている)が世界に台頭(たいとう=勢いを増す)することを許されています。この反キリストが、この時点においてどの程度世界を統一しているのかは私にはわかりませんが、少なくともこの反キリストの登場が引き金となって、世の終わりへと向かう過酷な期間(=艱難期(かんなんき)といわれている)へと入っていくことになります。なおヨハネの黙示録については、すでに2017年11月23日〜12月21日にてふれていますが、もう一度記事にしていきたいと思っています)





2018年5月17日
ヨハネの黙示録・6章の7~8節より

『小羊(=キリスト)が第四の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第四の生き物(=四人目の天使)の声を、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府(よみ=死者の魂を一時的にいれておく場所)が従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配し(=現在の人口を73億人とした場合、約18億人が「死」に支配されるということ)、剣と飢饉(ききん)と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた』

(上記は第四の封印になります。すでに第二の封印で世界戦争と、第三の封印で食物価格の高騰がもたらされています。そして今回それらをうけてということでしょうか、地上の四分の一の人々が剣(=武力)や飢饉によって死んでしまうことが預言されています。これは18億人に相当するのですから、もし聖書を読んでいる方がこの状況におかれたならば、神の預言どおりに状況が進行しているということが、まず見きわめられるものと思います。知っておいたほうがいいと思いますので、こちらに載せておくことにします。なお第二、第三の封印については、2017年11月24日と25日の記事を参照ください)





2018年5月19日
ヨハネの黙示録・6章の12~17節より

『また、見ていると、小羊(=キリスト)が第六の封印を開いた。そのとき、大地震が起きて、太陽は毛の粗い布地(ぬのじ)のように暗くなり、月は全体が血のようになって、天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの青い実が、大風(おおかぜ)に揺さぶられて振り落とされるようだった。天は巻物が巻き取られるように消え去り、山も島も、みなその場所から移された。地上の王、高官、千人隊長、富める者、力ある者、また、奴隷も自由な身分の者もことごとく、洞穴(ほらあな)や山の岩間(いわま)に隠れ、山と岩に向かって、「わたしたちの上に覆いかぶさって、玉座に座っておられる方(=神)の顔と小羊の怒りから、わたしたちをかくまってくれ」と言った(=つまりこれは、あらゆる身分の不信者が山などに隠れ、状況の過酷さに耐えられずに死を願っているということを意味している)。神と小羊の怒りの大いなる日が来たからである。だれがそれに耐えられるであろうか』

(上記は第六の封印になります。大地震が起き、太陽や月、星、また山や島にも異変が起こります。ともするとこれらは比喩のように思われるかもしれませんが、大勢の人々がほら穴や山に逃げこんでいるので、実際にこうした状況におかれているものと思います。ここまで来れば、聖書を読まれている方には、神が裁きをおこなわれていることがありありとわかるものと思います。そうすると、おのずからなにを信じていくべきなのかがよりあきらかになっていきます。私たちにとってのメシア(救い主)は、聖書につづられているとおりキリストしかおられないのです。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月21日
ヨハネの黙示録・9章の13~19節より

『第六の天使がラッパを吹いた。すると、神の御前(みまえ)にある金の祭壇の四本の角から一つの声が聞こえた。その声は、ラッパを持っている第六の天使に向かってこう言った。「大きな川、ユーフラテスのほとりにつながれている四人の天使(=ここでの天使は “つながれている” とあるので悪霊のことです)を放してやれ。」四人の天使は、人間の三分の一を殺すために解き放された(=この第六のラッパが吹かれるまでに、すでに数十億の人々が死にいたっているものと思います。仮に残った人々の三分の一としても億単位の人々が殺されることになります)。この天使(=悪霊)たちは、その年、その月、その日、その時間のために用意されていたのである(=つまり神様の計画は絶対であるということ。この日時にしたところで、人間のおこないなどによって変えられるものではありません)。その騎兵(きへい=ここでの騎兵とは四人の悪霊に従う悪霊たちのこと)の数は二億、わたしはその数を聞いた。わたしは幻の中で馬とそれに乗っている者たち(=悪霊たち)を見たが、その様子はこうであった。彼らは、炎、紫(むらさき)、および硫黄(いおう)の色の胸当てを着けており、馬の頭は獅子(しし)の頭のようで、口からは火と煙と硫黄とを吐いていた。その口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災いで人間の三分の一が殺された。馬の力は口と尾にあって、尾は蛇に似て頭があり、この頭で害を加えるのである』

(上記には、 “その年、その月、その日、その時間のために用意されていた” という言葉があります。このように全能者である神様の計画はゆるぎないものです。ですので、たとえばですが私たちの祈りやおこない次第では、神様が考えを変えてくださり、キリストの再臨を早めてくださるといった、人々にとって都合のいい言葉には注意が必要です。聖書を歪曲してつたえようとする人たちには、聖書に反する目的があるということをおさえておいたほうがよいと思います。こうしたことは知っておいたほうがいいですから、こちらに載せておくことにします)





2018年5月23日
ヨハネの黙示録・9章の20~21節より

『これらの災いに遭っても殺されずに残った人間は(=これは第六のラッパの裁きがくだったあとも生き残っている不信者のこと)、自分の手で造ったもの(=おもに偶像のことだと思います)について悔い改めず、なおも、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木それぞれで造った偶像を礼拝することをやめなかった。このような偶像は、見ることも、聞くことも、歩くこともできないものである。また彼らは人を殺すこと、まじない(=魔術のたぐい)、みだらな行い、盗みを悔い改めなかった』

コリントの信徒への手紙 一・10章の20節より

『いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献(ささ)げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません』

(悪霊を礼拝しようと思って礼拝している人は少ないと思いますが、偶像にささげ物をするというとき、それは知らず知らず悪霊にささげてしまっていることになります。この世は悪魔に支配されていると聖書が述べているように、私たちの身近には本当に偶像が多いです。上記は艱難期(かんなんき)におけるものですが、いまの私たちにも偶像を崇拝してはならないとはあてはまることです。大切なことですので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年5月26日

※今日の記事では先に、ユダヤ人が建てたエルサレムの神殿(=つまりユダヤ教徒の神殿)に関する史実(実際の歴史)を記しておくことにします。
・最初に建てられた “第一神殿” は、紀元前586年にバビロン帝国によって破壊された。
・紀元前516年に再建された “第二神殿” は、紀元後70年にローマ帝国によって破壊された。
・現在この地には、692年に建てられたイスラム教の聖地とされる “岩のドーム” が建っている。

ヨハネの黙示録・11章の1~2節より

『それから、わたし(=ヨハネ)は杖のような物差しを与えられて、こう告げられた。「立って神の神殿(=この “神の神殿” とは、今後エルサレムに建てられるであろうユダヤ教徒の神殿のこと。専門的には “第三神殿” と呼ばれている)と祭壇とを測り(=ここでの ”測る” とは、つまり神に所有されている神殿と祭壇とを測ることで、より神とのつながりを緊密にするといった意味合いがあるように思います)、また、そこで礼拝している者たちを数えよ。しかし、神殿の外の庭はそのままにしておけ。測ってはいけない。そこは異邦人(=イスラエル人以外で、かつ不信者のことを指しているものと思います)に与えられたからである。彼らは(=反キリストたちは)、四十二か月の間(=つまり三年半)、この聖なる都(=第三神殿を含むエルサレムのこと)を踏みにじるであろう』

テサロニケの信徒への手紙 二・2章の3~4節より

『なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです(=つまり艱難期への引き金となる反キリストの出現を意味している)。この者は、すべて神と呼ばれたり拝(おが)まれたりするものに反抗して、傲慢(ごうまん)にふるまい、ついには、神殿(=これが上記に記されているエルサレムの第三神殿のこと)に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです』

(エルサレムには現在イスラム教の岩のドームが建っています。今後この建物がどうなるのかはわたしにはわかりませんが、聖書にはこのエルサレムに、ユダヤ教徒の “第三神殿” が建てられることが預言されています。そしてこの神殿は、いずれ反キリストによって占領され、自分こそが神であると傲慢にふるまう場所となります。ただし彼が占領する期間は三年半となっています。そのおわりこそがキリストの再臨によって彼が滅ぼされるときなのです。知っておいたほうがよいと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月28日

ヨハネの黙示録・13章の5~10節より

『この獣(けもの=反キリスト)にはまた、大言(たいげん=えらぶって大きいことを言うこと)と冒涜(ぼうとく=神聖なもの、清浄なものをおかし、けがすこと)の言葉を吐く口が与えられ、四十二か月の間(=三年半)、活動する権威が与えられた。そこで、獣は口を開いて神を冒涜し、神の名と神の幕屋(まくや=幕を張りめぐらした聖所などを含む小屋)、天に住む者たち(=おそらく携挙(けいきょ)によって天にあげられた人たちのことだと思います)を冒涜した。獣は聖なる者たち(=地上にいる信者たち)と戦い、これに勝つこと(=殺すこと)が許され、また、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民を支配する権威が与えられた(=つまり世界を征服するということ。一言に世界統一政府のこと)。地上に住む者で、天地創造の時から(=天と地が創られたときから)、屠(ほふ)られた小羊(=キリスト)の命の書にその名が記されていない者たち(=つまり不信者たち)は皆、この獣を拝(おが)むであろう。耳ある者は(=つまり神の言葉に耳を傾けようとする者は)、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される(=つまり信者は捕らわれたり、殺されたりするということ)。ここに、聖なる者たち(=信者たち)の忍耐と信仰が必要である』

(キリストが再臨するまでの艱難期(かんなんき)のおわりの三年半は、反キリストが猛威をふるいます。もしこの状況に遭遇しているとするなら、その人々はすでに世界戦争や、数々の災害を目撃されてきたことと思います。上記にありますように、反キリストは全世界を表立って支配し、キリストを信じている人たちへの迫害を実行します。しかし聖書はここで忍耐と信仰とが必要であると言っています。つまりどんなに苦しくても反キリストに服従せずに、たとえ殺されることになってもキリストへの信仰を持ちつづけるようにと述べているのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年5月30日

ヨハネの黙示録・13章の16~18節より

『また、小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額(ひたい)に刻印を押させた(=ここでいう刻印(こくいん)が、なにを指しているのかはわかりませんが、おそらくマイクロチップのようなものなのではないでしょうか。いずれにせよ “右手か額に反キリストの刻印を押される” ということです)。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった(=つまり食べ物も買えず、生きていけないということ)。この刻印とはあの獣の名(=反キリストの名)、あるいはその名の数字(=あるいは反キリストの名を、なんらかの法則で数字におきかえたもの)である。ここに知恵が必要である。賢(かしこ)い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である(=現時点ではこの反キリストが誰であるのかはわかりません。これは艱難期に入ればわかるものと思います)』

ヨハネの黙示録・14章の9~13節より

『また、別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。「だれでも、獣(=反キリスト)とその像(=反キリストの像)を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯(はい)に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり(=つまり神の怒りの裁きを受けるということ)、また、聖なる天使たちと小羊(=キリスト)の前で、火と硫黄(いおう)で苦しめられることになる。その苦しみの煙は、世々限りなく(=永遠に)立ち上り、獣とその像を拝む者たち、また、だれでも獣の名の刻印を受ける者は、昼も夜も安らぐことはない。」ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である(=つまり反キリストが支配する世界がどんなに苦しくても、彼に服従せずに、神への信仰をもちづつけるようにということ)。また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後(のち)、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然(しか)り(=その通り)。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」』

ヨハネの黙示録・16章の2節より

『そこで、第一の天使が出て行って、その鉢(はち)の中身を地上に注ぐと、獣の刻印を押されている人間たち、また、獣の像を礼拝する者たちに悪性のはれ物ができた』

(上記にありますように、この反キリストの刻印を受けてしまうと、永遠の火の池に落とされることになります。おそらくこの状況下では、命欲しさに多くの方が刻印を押すことになるのでしょうが、とはいってもキリストの再臨まであと三年半しかないのですから、どんなに生き長らえたとしても三年半後には滅ぼされることになります。いずれにせよ、この反キリストへの従属を示す刻印だけは受けるべきではありません。ここまで来てしまうと、もうこれが最後の機会となります。ここにいたっていまだにキリストがメシア(救い主)であることを受け入れられず、神への信仰がもてないようでしたら、その方はもう完全に救われる機会を失うことになってしまいます。つまりその方の名前は、“子羊(キリスト)の命の書” に記されていなかったということになるのです。とても大切なことですから、こちらに載せておくことにします。※それとこの艱難期においては、聖書そのものが手に入れられないことが予想されます。なぜなら反キリストが世界中で権力をふるうからです。今のうちに1冊ご用意されてはいかがでしょうか)





2018年6月1日

ヨハネの黙示録・14章の6~7節より

『わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の(=永遠に変わることのない)福音(=キリストの教え。またキリストに関すること)を携(たずさ)えて来て、大声で言った。「神を畏れ(おそれ=自分よりはるかに力のあるものを敬(うやま)い、同時に恐れる気持ちをあらわす)、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源(みなもと)を創造した方を礼拝しなさい。」』

(上記のように、艱難期においても天使によって世界中にキリストのことがつたえられます。これは裏をかえせば、この時期にも神の恵みにあずかり、救われる方が世界中にいるということであり、神の霊である “聖霊” がはたらいてくださっているということです。ですので反キリストに属していると認可されてしまう “刻印” だけは受けるべきではありません(刻印については2018年5月30日の記事を参照のこと)。神の救いによる希望はあるのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月3日

ヨハネの黙示録・16章の3~4節より

『第二の天使が、その鉢(はち)の中身を海に注ぐと、海は死人の血のようになって、その中の生き物はすべて死んでしまった。第三の天使が、その鉢の中身を川と水の源に注ぐと、水は血になった』

ヨハネの黙示録・16章の8~11節より

『第四の天使が、その鉢の中身を太陽に注ぐと、太陽は人間を火で焼くことを許された。人間は、激しい熱で焼かれ、この災いを支配する権威を持つ神の名を冒涜(ぼうとく=神聖なもの、清らかなものをけがすこと)した。そして、悔い改めて神の栄光をたたえることをしなかった。第五の天使が、その鉢の中身を獣(=反キリスト)の王座に注ぐと、獣が支配する国は闇に覆われた。人々は苦しみもだえて自分の舌をかみ、苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒涜し、その行いを悔い改めようとはしなかった』

(艱難期の後半にはこうしたことが起こります。それでも上記にあるように、人々は悔い改めようとはしません。そもそもこれらの人たちは、反キリストの “刻印” を右手か額に受けてしまっているので、神の怒りによって裁かれることのほかに選択肢をもっていないことになります。非情なことのように思われるかもしれませんが、これが罪を罪としてかかえたままの人々の行く末であり、キリストがふりそそいでくださった愛に気づくことのできなかった人々がたどる結末ということになります。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月5日

ヨハネの黙示録・19章の11節より

『そして、わたし(=ヨハネ)は天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方(=キリストのこと)は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる(=つまりこれがキリストの再臨のことです)』

ヨハネの黙示録・19章の19~21節より

『わたしはまた、あの獣(=反キリスト)と、地上の王たちとその軍勢とが(=つまり反キリストに従う世界中から集められた軍隊のこと)、馬に乗っている方(=キリスト)とその軍勢(=この軍勢とは、天使たちや携挙(けいきょ)された聖徒たちのこと)に対して戦うために、集まっているのを見た。しかし、獣(=反キリスト)は捕らえられ、また、獣の前でしるし(=悪魔的な奇跡のたぐい)を行った偽預言者(にせよげんしゃ)も、一緒に捕らえられた。このしるしによって、獣の刻印を受けた者や、獣の像を拝んでいた者どもは、惑わされていたのであった。獣と偽預言者の両者は、生きたまま硫黄(いおう)の燃えている火の池に投げ込まれた。残りの者ども(=反キリストに従った者たち)は、馬に乗っている方(=キリスト)の口から出ている剣で(=つまり言葉の力で、ということだと思います)殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた』

(上記には載せていませんが、第六の鉢(はち)が注がれることで、反キリストの支配下にある世界中の軍隊がイスラエルのハルマゲドン(=メギドの丘)と呼ばれるところに集結します。この目的は神の民であるユダヤ人を攻撃するためです。ですが第七の鉢が注がれることで、悔い改めの心を持つようになったユダヤ人を救うために、キリストが天から再臨なさいます。キリストは言葉によってこの天地を創造できるお方ですから、反キリストの軍勢もなすすべがないものと思います。反キリストと偽預言者は火の池に投げこまれ、彼らにまどわされていた者たちも皆死んでしまうことになります。このように罪を罪としてかかえたままの人々は、義をどこまでも貫きとおされる神の許しや恵みにあずかることができません。“キリストこそが私たちの唯一の救い主である” ことを信じることのほかに道はなのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月8日

ヨハネの黙示録・20章の1~3節より

『わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵(ふち)の鍵と大きな鎖(くさり)とを手にして、天から降(くだ)って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇(=人類ではじめて罪を犯すこととなったエバを誘惑した蛇(=サタン)のこと)、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき(=つまりこの年数が、キリストが統治する千年王国の千年と一致している)、底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施(ほどこ)して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである』

(上記はキリストが再臨したあとのできごとです。このように世界を支配していたサタンは、底なしの淵に千年間閉じこめられます。そしてその千年を経たあとに一旦解放され、その後に永遠の火と硫黄の池に投げこまれることになります。すべては神様のご計画どおりに事が成就していくということです。知っておいたほうがいいと思いますので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月11日

ヨハネの黙示録・20章の4~6節より

『わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼ら(=ここでの “彼ら” とは、携挙によって天にあげられた人々のことだと思います。下記の「コリントの信徒への手紙」も参照のこと)には裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たち(=艱難期に殉教(じゅんきょう)した人々のこと。つまりキリストへの信仰をつらぬき命を落とした人々のこと)の魂を見た。この者たちは、あの獣(=反キリスト)もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した(=再臨したキリストが王となり、王国を治められるということ。その王国をキリストと共に、生き返った彼らも統治することになる)。その他の死者は(=不信者は)、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である(=これは艱難期に殉教した人々が生き返ったことを指している)。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死(=つまりすでに死んでいる不信者が、裁きの場に立たされ、火の池に入れられることを指している)は何の力もない(=つまり信者には第二の死は関係ないということ)。彼ら(=携挙された人々、および艱難期に殉教した人々のこと)は神とキリストの祭司(さいし=神と人との仲介者のこと)となって、千年の間キリストと共に統治する』

コリントの信徒への手紙 一・6章の2節より

『あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世(=ここでの “世” とは、再臨したキリストが王となって王国を統治するその世の中のこと)を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか』

(上記のように、キリストの再臨のあとに、キリストが王となって千年間、王国を治められます。ただこれは神様が私たちに約束してくださっている永遠の御国(みくに)のことではありません。この千年王国では、艱難期を生き抜いた信者たち(=人間のこと。ユダヤ人だけでなく異邦人も含まれる)も共に生活することになります。つまり栄光の体をもつ人々と、艱難期を生き抜いた信者たちが共に暮らすということです(※なおこの千年王国が立ってすぐのころは、不信者は一人もいません。このことは「マタイによる福音書の25章31〜46節」に記されており、不信者は皆、羊(ひつじ)ではなく山羊(やぎ)に振りわけられ滅ぼされることになっています)。そしてこの千年を経たあとに、底なしの淵から解放されたサタンを含むすべての悪、罪が滅ぼされ、その後に天も地も新しく創造されなおした永遠の御国が誕生することになります。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月14日

ヨハネの黙示録・20章の7~10節より

『この千年(=千年王国)が終わると、サタンはその牢(ろう=底なしの淵のこと)から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグ(=ゴグとマゴグとは神に逆らう勢力となる者たちを比喩的に表現したもの)を惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い。彼らは地上の広い場所に攻め上って行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都(=エルサレムのこと)とを囲んだ。すると、天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした。そして彼らを惑わした悪魔(=サタン)は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣(=反キリスト)と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる』

(キリストが統治する “千年王国” という言葉を聞くと、聖書を読まれない方は、罪の一切ない世界を想像されるかもしれません。しかしこの王国には、艱難期を生き延びた人々(人間)も住んでいますので(詳しくは2018年6月11日の記事を参照のこと)、今現在の世界より遥かに良い世界ではあっても、やはり罪人がでてきます。おそらく千年もあれば、人口もそれ相応に増えるものと思います。そしてその中から上記のように、神への信仰を持たずにサタンに惑わされて、エルサレムを攻めようとする人々が多くでてきてしまいます。ですが神様は彼らを焼きつくすことでエルサレムを守り、またサタンを火の池に投げこむことで、すべての悪と罪を滅ぼされることになります。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月17日

ヨハネの黙示録・20章の11~15節より

『わたしはまた、大きな白い玉座(ぎょくざ)と、そこに座っておられる方(=キリスト)とを見た。天も地も、その御前(みまえ=キリストの前)から逃げて行き、行方(ゆくえ)が分からなくなった(=つまり地球を含む宇宙全体が消え失せるということ。これは新しい天と地が創造される前の下準備だと思われます)。わたしはまた、死者たち(=すでに肉体的に死んでいる不信者たち)が、大きな者も小さな者も(=つまりわけへだてなく)、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた(=“命の書” にはキリストと結ばれている者たちの名がつづられています。また “幾つかの書物” には、あらゆる人間の行いや口にしたこと、考えたことなどがすべてつづられているものと思います)。海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ=死者の魂を一時的に入れておく場所)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた(=つまりありとあらゆる不信者が裁かれるということ)。死も陰府も火の池に投げ込まれた(=新しく創造される天地には罪が存在しないので、死も陰府ももう必要がないということ)。この火の池が第二の死である。その名が命の書に記されていない者は(=あらゆる不信者のこと)、火の池に投げ込まれた』

(上記のように、新しい天と地が創造される前に、今ある世界は消えてなくなります。また罪を罪としてかかえたまま死んだ者たちは皆、キリストの座る玉座の前に立たされて、そして裁かれ、火の池に投げこまれることになります。新しく創造される天と地には、いかなる悪も罪も存在しません。ですので、ここでのキリストによる裁きをもって、火の池に投げこまれることで、すべての悪や罪に対して決着がつけられることになります。これらは神の御言葉(みことば)によって書かれた聖書につづられていることです。一人でも多くの方が、キリストがメシア(救い主)であることを信じていただければと思います。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月20日

ヨハネの黙示録・21章の1~4節より

『わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き(=つまり今の地球を含む宇宙全体が消えてなくなるということ)、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた(=おそらく天使の声です)。「見よ、神の幕屋(まくや=幕を張りめぐらした聖所などを含む礼拝所)が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆(なげ)きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(=つまり新しい天と地の誕生を意味している)。」』

(神様はこのように新しい天と地を創造してくださり、また私たち人間と共に住んでくださいます。神様が一緒にいてくださるということは、そこにはもはや死はなく、悲しい出来事も一つとありません。誰一人罪を犯すことはなく、誰一人欠けることもなく、永遠の御国でいつまでも聖なる者として暮らしていくことになるのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月23日

ヨハネの黙示録・21章の5~7節より

『すると、玉座に座っておられる方(=キリスト)が、「見よ、わたしは万物(ばんぶつ=ありとあらゆるもの)を新しくする」と言い、また、「書き記せ(=つまり書き残して後世に伝えるようにということ)。これらの言葉(=つまりヨハネの黙示録に記されている内容のこと)は信頼でき、また真実である」と言われた。また、わたしに言われた。「事は成就した(=つまり神の計画どおりにすべての物事が進行しおえたということ)。わたしはアルファであり、オメガである(=アルファとはひらがなでいう一番はじめの “あ” に相当し、オメガとは一番おわりの “ん” に相当するギリシャ語のこと)。初めであり、終わりである(=つまりすべてを掌握(しょうあく)しているということ)。渇(かわ)いている者には、命の水の泉から価なしに(あたいなしに=ただで)飲ませよう(=つまりこれは満たされずに渇く者は存在しないということを言っているのだと思います)。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者(=信者のこと)の神になり、その者はわたしの子となる。」』

(上記のように、キリストはありとあらゆるものを新しくしてくださいます。もし神が創られるこの御国に入りたいというとき、私たちはキリストを信じることでしか神の恵みにあずかれず、この御国に入ることができません。少しでも興味を持たれた方がいましたら、ぜひ聖書を手にとってみてくださいね。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年6月26日

ヨハネの黙示録・22章の1~5節より

『天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病(やまい)を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕(しもべ=信者のこと)たちは神を礼拝し、御顔(みかお)を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も要らない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである』

(上記には、永遠の神の国についてのことがつづられています。神様はこのように素晴らしい御国を創ってくださるのですから、私たちもキリストを信じ、キリストの教えのとおりに、神様を愛し、また隣人を自分のことのように愛すべきなのだと思います。大切なことですので、こちらに載せておくことにます)





2018年6月29日

ヨハネの黙示録・22章の8~9節より

『わたしは、これらのこと(=ヨハネの黙示録につづられている内容のこと)を聞き、また見た(=幻として見た)ヨハネである。聞き、また見たとき、わたしは、このこと(=ヨハネの黙示録の内容のこと)を示してくれた天使の足もとにひれ伏して、拝(おが)もうとした。すると、天使はわたしに言った。「やめよ。わたしは、あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書物の言葉を守っている人たちと共に、仕(つか)える者である。神を礼拝(れいはい)せよ。」』

(上記では天使が、神を礼拝せよ、と言っています。この言葉のとおり、私たちは神だけを礼拝したらよいのです。それも偶像に向かってではなく、私たちのうちにいてくださる神であるキリストに向かってです。これに反し、世の中ではミカエル(天使)やマリア(人間)などの偶像をつくって崇拝(すうはい)するように仕向ける教理などもあるようですが、これらは正しい聖書の教えではありません。聖書は神だけを礼拝するように教えているのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月1日
出エジプト記

32章の1節〜19節より
『「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。」』

『のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。』

『主はモーセに仰せになった。 「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」』

『宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。 そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。』

(モーセとイスラエルの民は十戒という神との契約を結び、神と荒れ野の旅にでていました。 神の使いであるモーセがシナイ山まで行ったきり、40日経っても帰ってこないのでイスラエルの人々は不安のあまりに、 アロンに金の牛の鋳造を作ってもらうように頼んで、「神の偶像をつくってはならない」という十戒の掟を破ってしまいました。 それを見た神は激怒し、モーセに下山せよと命じました。モーセが宿営にもどるとその牛の像と祭壇を見て怒り狂い、 壊してめちゃめちゃにしてしまいました。 人間はとても弱い生き物なんだと思います。お守りのような何か形になるものがないと生きていけないんだなあと思います。 約束を守るということはとても重大なことで、かなりの試練で弱い自分との戦いだと思いました。)





2018年7月2日

ヨハネの黙示録・22章の10~11節より

『また、わたしにこう言った。「この書物の預言の言葉を(=つまりヨハネの黙示録を)、秘密にしておいてはいけない。時が(=世の終末が)迫っているからである。不正を行う者には、なお不正を行わせ、汚(けが)れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者は、なお聖なる者とならせよ』

(上記には、時が迫っているので、黙示録を秘密にしておいてはいけないとあります。私も少しでも多くの方に伝えていけたらと思います。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月5日

ヨハネの黙示録・22章の14~15節より

『命の木に対する権利(=これは永遠の御国で、永遠の命をさずかれる権利のことを言っているのだと思います)を与えられ、門を通って都(みやこ=今ある天と地がほろぼされ、新しい天と地が創造されたあとのエルサレムのこと)に入れるように、自分の衣を洗い清める者(=つまりキリストがメシア(救い主)であることを信じ、自分が犯してきたすべての罪から赦(ゆる)されている者たちのこと)は幸いである。犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行う者(=つまり不信者のこと)は都の外にいる(=ここでの都の外とは永遠の火の池のこと)』

(上記にあるように、人間の死後は永遠の御国か、火の池かにふりわけられます。そしてもし仮に火の池に入れられるようなことになれば、もう二度と神様は手をさしのべてくださいません。その熱さの中でどんなに悔い改めてももうおそいのです。神様とその人の関係は永遠に断ち切られてしまっているのです。ですので、キリストを信じて悔い改めるのであれば、私たちが生きているあいだの今しかないということです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月8日

ヨハネの黙示録・22章の18~19節より

『この書物の預言の言葉を(=ヨハネの黙示録を)聞くすべての者に、わたしは証(あか)しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災(わざわ)いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる』

(上記にあるように、ヨハネの黙示録になにかをつけくわえたり、へらしたりすることはしてはならないことです。もちろん内容を歪曲(わいきょく)することもしてはなりません。そもそも聖書は神の御言葉(みことば)によって書かれているので、私たちは勝手な解釈はひかえなければなりませんし、また聖書のこの部分は信じるけど、この部分は信じないといった読み方もしてはならないのです。大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月11日

マルコによる福音書・1章の40~42節より

『さて、重い皮膚病を患(わずら)っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心(みこころ=神の計画や目的、意志を指す)ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐(あわ)れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった』

(福音書には、上記のようにキリストがおこなった奇跡の数々がつづられています。今後しばらくは「マルコによる福音書」の内容をとりあげて、記事にしていきたいと思います)





2018年7月16日

マルコによる福音書・2章の2~12節より

『イエスが御言葉(みことば=神の言葉)を語っておられると、四人の男が中風(ちゅうぶ=ここでは手足にまひなどがあって寝たきり状態のこと)の人を運んで来た。しかし、群衆に阻(はば)まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床(とこ)をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰(=つまりキリストを信じているからこそ四人の男が屋根に穴をあけて、つれてきた病人をつり降ろしまでしたこと)を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦(ゆる)される」と言われた。ところが、そこに律法学者(=この場合の律法学者とは、律法には通じているがキリストを信じていない者のこと)が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜(ぼうとく)している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか(=ここは、神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか、いや、だれもできはしない、という意味)。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担(かつ)いで歩け』と言うのと、どちらが易(やさ)しいか(=これは人間の視点からすれば、『あなたの罪は赦される』と言うよりも、『起きて、床を担いで歩け』と言うほうがむずかしいことになります。なぜなら前者は証明のしようがありませんが、後者は実際にこの場で寝たきりの人を自力で立たせてみせなければならないからです)。人の子が(=キリストが)地上で罪を赦す権威を持っていることを(=つまりご自身が神であることを)知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した(=つまり人々からすれば、まず不可能だと思われていた中風を治してみせることで、だれの目にもわかりやすい形で、ご自身が偽(いつわ)り者ではない神であることを認めさせたということ)』

(ここのところは解釈がとてもむずかしかったです。今回は上記のようにコメントを書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います。とても考えさせられるところでしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月19日

マルコによる福音書・2章の15~17節より

『イエスがレビ(=マタイのこと)の家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人(ちょうぜいにん=ここでは税を余分に取りたて私服をこやしてる人のこと)や罪人(=ここでの罪人とは娼婦(しょうふ)のことを指す。※ “徴税人” “罪人” ともに聖書の用語解説を参考にしています)もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である(=これは罪人(病人)こそがキリスト(医者)を必要としているということの喩(たと)え)。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くため(=つまり罪人を招き悔い改めさせるため)である。」』

(上記のように、キリストは罪人を招いて悔い改めさせるために来てくださいました。キリストご自身がこう仰っているのですから、これほど私たちを安心させてくれることはありませんね。とても印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年7月22日

マルコによる福音書・2章の18~20節より

『ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食(だんじき=罪をくやむ行為の一つとして、一定の期間食事を断つこと)していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」イエスは言われた。「花婿(はなむこ=キリスト自身を指す喩(たと)え)が一緒にいるのに、婚礼(こんれい)の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない(=つまりキリストが一緒にいるあいだは、おめでたいこと(=喜び)なのだから断食は必要ないということ)。しかし、花婿が奪い取られる時が来る(=つまりキリストが十字架にかかるときが来るということを指している)。その日には(=その悲しみの日には)、彼らは断食することになる。」』

(キリストはこのようにいろいろなことを喩えを用いて語られます。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年7月25日

マルコによる福音書・2章の21~22節より

『「だれも、織りたての布から布切れを取って(=つまりキリストを信じ、新しく知ることとなったキリストの教えの一部分をきりとって)、古い服に継ぎを当てたりはしない(=つまりキリストを知る以前の、古い自分の生き方や考えに混同してはならない)。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる(=そんなことをすれば、いっそう悪い生き方になってしまう)。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない(=これも意味は布の喩えと同じだと思います。つまり新しく知ったキリストの教えを、かつての自分の生き方や考えに混同してはならない)。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる(=そんなことをすれば、キリストの教えを自分のものにすることができず、ますます悪い生き方になってしまう)。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ(=キリストの教えは、心を新たにして受け入れるべきである)。」』

(福音書には、キリストのことや、キリストの教えについてのことがつづられています。それですので一見なんの関連もないように思われる喩(たと)えも、上記のように、キリストに関することを当てはめていくことで、意味が通る(=解釈ができる)ようになります。なお上記はキリスト自身の言葉です。私たちにはキリストを信じたときから、神の霊である聖霊が宿ってくださるので、そのときから新しく生まれ変わっていることになります。ですので過去のことにとらわれず、素直な心でキリストの教えを受け入れていけばよいのです。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします)





2018年7月29日

マルコによる福音書・2章の23~28節より

『ある安息日(あんそくび=金曜の日没から土曜の日没までのことを指し、モーセの十戒(じっかい)によって定められた、神を敬(うやま)うための休日のこと)に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた(=この麦を食べるぶんだけ摘むという行為は、盗みにあたることもなく罪ではありません)。ファリサイ派(=これはユダヤ教の一派。おもに旧約聖書の律法に、細かい規則をつけくわえるなどしていて、キリストを受け入れようとしない人々のこと)の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか(=つまり麦を摘むというささいなことまで、安息日にしてはならない労働とみなし批判している)」と言った。イエスは言われた。「ダビデ(=ユダヤ人から尊敬されている古代イスラエルの王)が、自分も供(とも)の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタル(=ダビデ王時代の人物の名)が大祭司(=祭司の最高の職位。祭司とは神のために祭儀などをつかさどる人のこと)であったとき、ダビデは神の家(=これは神殿や幕屋(まくや=礼拝所)のことだと思います)に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供(そな)えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか(=つまりキリストは、時と場合によっては、禁じられていることよりも優先され、許されるべきことがあるということを言っている)。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(=つまりこれは今でいうところの、法律は人のために定められたのであって、人が法律のためにあるのではないという主旨のこと)。だから、人の子(=キリスト)は安息日の主でもある(=ここはむずかしいところですが、直訳するなら、“だから、キリスト自身は安息日においても神なのである” といったところでしょうか。つまり律法にとらわれているファリサイ派の人々に、それでもあなた方は神よりも安息日を一番に考えるのかということを問いかけているのだと思います)。」』

(とても解釈がむずかしいところでした。要点をまとめるなら、本来人として持つべき隣人への愛をおきざりにして、律法ばかりにとらわれている生き方は、キリストの教えに適っていないといったところでしょうか。とても考えさせられるところでしたので、こちらに載せておくことにします。※なお今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年8月1日

マルコによる福音書・3章の1~6節より

『イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎(な)えた人がいた。人々(=ここでの人々とは、キリストを受け入れられない人たちのこと。とくにファリサイ派の人々のことだと思います)はイエスを訴えようと思って、安息日(=律法で定められた休日のこと)にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた(=つまり安息日に病気をいやしたら訴えようとしていた)。イエスは手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」と言われた。そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか(=もちろん善を行うことや命を救うことは、安息日にも禁じられていません)。」彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒(いか)って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派(=ユダヤ人の中の一派)の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた』

(本来、ファリサイ派の人々も、神を信じていたからこそ神の定めた律法どおりに生きようとしていたはずです。ですが彼らは律法を歪曲して捉(とら)え、上記のように神であるキリストが目の前にいても気づかず(認めようとせず)、その神を訴え、強(し)いては殺そうとたくらむようになります。当たり前のことかもしれませんが、いかなるときでも善を行い、隣人を救うことはよいことです。私もつねにそうありたいと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年8月5日

マルコによる福音書・3章の20~30節より

『イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。身内(みうち=ごく親しい血縁関係にある人、家族、親類)の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである(=これはキリストが数々の奇跡をおこなっていることに対し、正気の人間ではないと悪い意味で言っているのだと思います。こうした噂を受けて身内の人たちが、キリストを取り押さえに来たということ。なおここでいう “身内” には、母であるマリアや兄弟たち(=マリアとその夫であるヨセフの子たち)が含まれているものと思います。※補足:キリストは聖霊によってマリアの胎内に宿った子です)。エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男は(=キリストは)ベルゼブル(=サタンの別名)に取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭(かしら)の力(=サタンの力)で悪霊を追い出している」と言っていた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう(=これは直訳するなら、どうしてサタンが自分で自分を追いだすような真似(まね)をするだろう、ということ。文脈上では、どうしてサタンが、自分の仲間である悪霊たちを追いだす真似をするだろう、といったところでしょうか)。国が内輪(うちわ)で争えば(=要は仲間同士で争えば)、その国は成り立たない。家が内輪で争えば(=要は家族同士で争えば)、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず(=分裂して立ち行かず)、滅びてしまう。また、まず強い人(=ここでの強い人とはサタンのこと)を縛り上げなければ(=もちろんサタンを縛り上げるのはキリストです)、だれも、その人の家(=サタンの支配下)に押し入って、家財道具(=ここでの家財道具とは、サタンの支配下(悪影響下)にある人々のこと)を奪い取ることはできない(=つまりそうした人々を神の側に導くことはできない)。まず縛ってから、その家を略奪するものだ(=まず悪のかしらであるサタンを縛ってから、その支配下にあるものをとりかえすものだ)。はっきり言っておく。人の子らが(=キリストを信じる人々が)犯す罪やどんな冒涜(ぼうとく)の言葉も、すべて赦(ゆる)される。しかし、聖霊を冒涜する者(=これは上記のように、キリストがおこなった奇跡に対して、汚れた霊に取りつかれているなどと言って、キリストが神であることを認めずに冒涜している人々のこと)は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである』

(ここも解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います。とても印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年8月8日

マルコによる福音書・3章の31~35節より

『イエスの母(=マリア)と兄弟たち(=マリアとその夫であるヨセフの子たち)が来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた(=これは大勢の人の前でキリストが宣教しているにもかかわらず、外に呼びだそうとしている家族の姿をあらわしている。彼らは大勢の人に加わってキリストの宣教を聞くこともせず、それも人を使ってキリストを外に呼びだしている。前回の2018年8月5日の記事でもふれましたが、彼らはキリストを取り押さえようともしていました)。大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜(さが)しておられます」と知らされると、イエスは、「わたしの母、私の兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心(=みこころとは神の計画、目的、意志を指す言葉ですが、ここでは、キリストの教え、とおきかえてもいいように思います)を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ。」』

(上記のように、神の御心をおこなう人こそが、キリストの本当の家族であると仰っています。キリストを信じる人たちには、神の霊である聖霊が宿ってくださいます。この聖霊によって私たちはキリストの家族であると見なされるのです。たとえ身内であっても、御心をおこなわないならば、キリストと一つの家族になることはできません。とても大切なことですので、こちらに載せておくことにします。※なお2018年6月29日の記事でもふれましたが、マリアの偶像を造って拝んだり、崇拝したりするような教理は誤った教えです。私たちは聖書を歪曲せずに、素直な心で向きあっていくことが大切だと思います)





2018年8月11日

※以下は「種(たね)を蒔(ま)く人のたとえ」です。そのさらに下が「種を蒔く人のたとえの説明」になっています。どちらもキリストが語られた言葉です。

マルコによる福音書・4章の2~8節より

『イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端(みちばた)に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨(いばら)の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」』

マルコによる福音書・4章の13~20節より

『また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉(みことば=神の言葉。キリストの言葉。聖書の言葉)が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタン(=上記でいう “鳥”)が来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難(かんなん)や迫害が起こると(=上記でいう “日が昇ると焼けて”)、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩(わずら)いや富(とみ)の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み(=総じて茨のこと)、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」』

(聖書には多くの “たとえ” がでてきます。今回はキリスト自身が説明をされていますので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年8月14日

マルコによる福音書・4章の10~12節より

『イエスがひとりになられたとき、十二人(=十二人の弟子のこと)と、イエスの周りにいた人たち(=キリストを信じている人たち)とが、たとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々(=キリストを信じていない人々)には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って(=神の元に立ち帰って)赦されることがない』ようになるためである。」』

(聖書には多くの “たとえ” がでてきます。これには理由があって、キリストと結ばれていない人たちには、理解できないように意図的に書かれているのです。そうした人たちが聖書を認めることはありませんし、またキリストを信じるようになって、悔い改めの心をもつようになることもありません。ときに聖書にはむずかしいところもでてきますが、これらは御言葉によって書かれているのですし、上記のような理由もあるのですから、私たちは聖書と真摯に向き合っていくことが大切だと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年8月18日

マルコによる福音書・4章の21~23節より

『また、イエスは言われた。「ともし火(=御言葉のこと)を持って来るのは(=つまりキリストが御言葉を語られるのは)、升(ます=四角い容器のこと)の下や寝台(しんだい=ベッドのこと)の下に置くためだろうか。燭台(しょくだい=ろうそくを立てる台のこと)の上に置くためではないか(=つまりキリストが語る御言葉は、人の目にふれないようにではなく、人の目につくように語られているということ)。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公(おおやけ)にならないものはない(=キリストは神の国についての秘密を、“たとえ” を用いて語り、意図的にその内容を難解なものにしています(2018年8月14日の記事を参照のこと)。つまり不信者には理解できないように、神の国の秘密を隠されているのです。しかしこれらは不信者に対して隠されているのであって、私たち信者にはあらわにすることができるし、秘められたものでも知ることができるということ)。聞く耳のある者は聞きなさい(=だから聞く耳のある者は聞きなさい)。」』

(ここも解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います。とても印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年8月22日

マルコによる福音書・4章の24~25節より

『また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい(=キリストがどんな意味を込めて語っているのかを注意して聞きなさい)。あなたがたは自分の量る秤(はかり)で量り与えられ(=ここでの “自分の量る秤で” とは、つまりキリストが語っている内容をどのように聞き、受け止めるかということ。そしてその受け止め方によって、それに見合った分の、御言葉にこめられている恵みが与えられるということ)、更にたくさん与えられる(=さらにたくさんの恵みが与えられる。具体的には御言葉をさらに深く理解できるようになり、神の国についての秘密も知ることができ、その結果、神の恵みをより豊かに受けられるようになるということ)。持っている人は更に与えられ(=キリストの言葉を正しく理解している人には、ますます神の恵みが与えられ)、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる(=キリストの言葉をいい加減にしか聞けない人は、これまで聞いていたことさえも失って、御言葉の教えからますます遠ざかっていく)。」』

(ここも解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います。とても印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年8月25日

マルコによる福音書・4章の26~29節より

『また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである(=これは以下につづく文脈をふまえると、神の国に入れる人は次のような経過をへる、という意味だと思います)。人が土に種を蒔いて(=人がキリストを信じるようになって)、夜昼(よるひる)、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが(=徐々に神の国に入れるにふさわしい者へと成長していくが)、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに(=要はその人の努力などによるのではなく)実を結ばせるのであり、まず茎(くき)、次に穂(ほ)、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来た(=神の国に入れる準備が整った)からである。」』

(ここも解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年8月28日

マルコによる福音書・4章の30~32節より

『更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか(=これは以下の文脈をふまえると、神の国とつながりあっている人々の信仰や内面の成長をどのようにたとえようか、という意味だと思います)。それは、からし種(からしだね=アブラナ科の植物の種のこと)のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る(=これはキリストを信じる私たちの成長を、もともとは小さな種から始まるが、いずれは枝を張るまでになる、ということを意味しているのだと思います。ただしここで “葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど” という言葉が使われていますが、この “鳥” には “サタン” という意味もありますので(2018年8月11日の記事を参照のこと)、私たちの信仰の足を引っぱるために、まとわりついてくるサタンの存在を警告してくれているのだと思います)。」』

(ここも解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年9月1日

マルコによる福音書・6章の1~6節より

『イエスはそこを去って故郷(=イスラエルの都市、ナザレのこと)にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂(=ユダヤ人の集会の場所)で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなこと(=神の国についてのことなどを指しているものと思います)をどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡(=重い病気を治すことや死者を生き返らせることなど)はいったい何か。この人は、大工(だいく)ではないか(=キリストの父であるヨセフは大工でしたので、宣教をする前のキリストもそれを手伝っていたのだと思います)。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか(=キリストの兄弟の名が挙げられていますが、ここでの “ユダ” とは、のちにキリストを裏切ることになる弟子の “ユダ” とは別人です)。姉妹たち(=キリストには姉妹もいました)は、ここで(=ナザレで)我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた(=つまりナザレの人々は、キリストをうやまうことができず、自分たちと変わらない人間であるという目でしか見ることができなかった)。イエスは、「預言者(=つまりキリスト自身のこと)が敬(うやま)われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた(=これはつまりナザレの人々や親戚や家族が、宣教を始める前の、幼い頃からのキリストを知っているがゆえに、その過去のキリストにとらわれ、却って現在のキリストの姿を受け入れられない状況にあることを述べている)。そこでは(=ナザレの会堂では)、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった(=つまりたとえ故郷のユダヤ人ではあっても、不信仰の者に対しては奇跡をおこなわなかったということだと思います)。そして、人々の不信仰に驚かれた』

(上記にはキリストが故郷で受け入れられない理由が書かれています。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年9月4日

マルコによる福音書・6章の34~44節より

『イエスは舟から上がり(=舟から陸へと上がり)、大勢の群衆(=キリストのもとに集まってきている群衆)を見て、飼い主のいない羊(ひつじ)のような有様を深く憐(あわ)れみ、いろいろと教え始められた。そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオン(=1デナリオンが5000円程度ですので、200デナリオンは約100万円のこと)ものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。イエスは言われた。「パンは幾(いく)つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草(あおくさ)の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰(あお)いで賛美の祈りを唱え、パンを裂(さ)いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹(まんぷく)した。そして、パンの屑(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠(かご)にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった』

(上記には、五つのパンと二匹の魚しかなかったものが、キリストが起こす奇跡によって、少なくとも五千人の男が満腹になり、そればかりか十二の籠にいっぱいになるほどに余りがでています。とても印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年9月7日

マルコによる福音書・6章の45~52節より

『それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて(しいて=あえて)舟に乗せ、向こう岸のベトサイダ(=イスラエルの町の名前)へ先に行かせ、その間(あいだ)に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた。夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。ところが、逆風のために弟子たちが漕(こ)ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上(こじょう)を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。パンの出来事(=これは五つのパンと二匹の魚から、五千人の男を満腹にさせた奇跡のことを指している。2018年9月4日の記事を参照のこと)を理解せず、心が鈍くなっていたからである』

(上記には、キリストが湖の上を歩いた際の奇跡がつづられています。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年9月10日

マルコによる福音書・7章の14~23節より

『それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもの(=これは口から体に入るという意味で、食べ物のことを指しています)で人を汚(けが)すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される(=つまり便(べん)として外に出されるという意味)。こうして、すべての食べ物は清められる。」更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫(かんいん)、貪欲(どんよく)、悪意、詐欺(さぎ)、好色(こうしょく)、ねたみ、悪口(あっこう)、傲慢(ごうまん)、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである(=この場合の “人を汚す” とは、要するに自分自身を汚すということだと思います)。」』

(上記はキリストの言葉です。悪(=あるいは悪い思い)とは、私たちの心の中から出てきて、人を汚します。これはまったくそのとおりだと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年9月14日

マルコによる福音書・7章の24~30節より

『イエスはそこを立ち去って、ティルス(=レバノンの都市)の地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。汚(けが)れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人(=つまり異邦人)でシリア・フェニキア(=シリアの一角にある地域)の生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない(=ここでの “子供たち” とは、大人を含めたイスラエル人のたとえ。つまりまずイスラエル人に対して癒(いや)しや恵み、救いを与えなければならないということ)。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない(=ここでの “小犬” とは、異邦人のこと。つまりイスラエル人に向けるべき救いを、代わりに異邦人に与えてはならないということ。※キリストはこの時点では、イスラエル人を導くために神によって遣わされていたので、このように異邦人である女に返しているものと思います。※マタイによる福音書:15章の21~28節も参照のこと)。」ところが、女は答えて言った。「主よ(=神よ)、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑(パンくず)はいただきます(=つまり彼女は自分が異邦人であることを認めた上で、イスラエル人に向けられるべき救いにあずかろうとしているのではなく、そのおこぼれにあたるものを願い求めている)。」そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい(=つまり本来はイスラエル人をまず救うことが目的であったのに、女の信仰のあり方が正しかったために、キリストが女の願いを受けいれたということ)。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」女が家に帰ってみると、その子は床(とこ)の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた』

(ここは解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います。ちなみにキリストが本当の意味で異邦人に恵みをお与えになるのは、十字架にかけられたのちに復活されて、そして教会が立ちあげられてからということなのだと思います)





2018年9月16日
ヤコブの手紙

2章の1~8節より

『わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。 あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。 その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、 あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。 だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。 また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒涜しているではないですか。 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。』


(信仰をしていながらも差別をする信者がいます。本来はそういうことは聖書に基づいて絶対にしてはいけないことなのですが、現実ではそうはいかなく、 どうしても人は、見た目で決めて差別をしてしまいます。貧しい人、弱い人、自己中心的な人、いじめられている人、身障者。 貧乏人もそうなのですが、弱い人を蔑んで無視したり陰口をたたく信者もいます。 私が昔行ってたあるボランティアの集団の中にかつて嫌われている人がいました。でも、その人は精神病だったのです。一度暴れたこともありました。 それなのに、温かい目で見守るべきなのに、「話しかけちゃダメ」「もらっちゃダメ」「近づいちゃダメ」とみんなに言われました。 好意でもってきてくださった食べ物も、台所でコソコソと捨てられていました。 ボランティア団体だというのに、あるまじき行為です。私はその人たちこそ、軽蔑をしてしまいます。 私は絶対にそんな人たちにならないように、嫌わずに、温かい目で見守っていきたいと思います。できたら、そういう人たちの行為をやめさせるように努力していきたいと思います)




2018年9月18日

マルコによる福音書・8章の11~13節より

『ファリサイ派の人々(=これはユダヤ教の一派。キリストが多くの奇跡(=しるしのこと)をおこなっているにもかかわらず、それらをサタンの力でおこなっているとして、キリストを受け入れようとしない人々のこと。※2018年8月5日の記事を参照のこと)が来て、イエスを試(ため)そうとして、天からのしるしを求め(=つまり神としての奇跡を実際に起こすように求め)、議論をしかけた。イエスは、心の中で深く嘆いて(なげいて=悲しんで)言われた。「どうして、今の時代の者たち(=ここでの “今の時代の者たち” とは、キリストが地上におられるあいだにおいて、洗礼者ヨハネの話(=ヨハネはキリストが宣教をはじめる前から、悔い改めの洗礼を人々にさずけていた人物です)や、キリストのことを信じようとしなかった者たちのこと。※ここはマタイによる福音書:11章の16~19節も参考にしています)はしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない(=つまりキリストが現に起こしている奇跡を、神によるしるしだと受けいれられない者たちには、今後も決してしるしは与えられないということ。つまりは天の国にも入れないということ)。」そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた』

(ここも解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年9月22日

マルコによる福音書・8章の14~21節より

『弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種(=ここでの “パンだね” とは、ファリサイ派の人々の偽(いつわ)りの教えのことを指してる。※辞書参照:そもそものパン種の意味は、パンをふくらませるために使う酵母(こうぼ=菌類の一群)のことです)とヘロデのパン種(=ヘロデの偽りの教えという意味。ヘロデとはローマの後ろ盾によってユダヤ王に在位した人物)によく気をつけなさい」と戒められた(=いましめとは、あやまちのないように注意を与えることです)。弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた(=つまり弟子たちは、キリストからの警告、ファリサイ派とヘロデ王の神から離れた教えに気をつけなさいとの言葉が理解できずに、食べ物のパンのことを注意されていると勘違いしてしまっている)。イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂(さ)いたとき、集めたパンの屑(くず)でいっぱいになった籠(かご)は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた』

(今回の内容は、弟子たちの立場に自分をおきかえて、もし自分だったらキリストの言葉をどう受けとめ、どう振るまっただろうか、と考えながら読むのがいいように思いました。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年9月25日

マルコによる福音書・8章の22~26節より

『一行(いっこう)はベトサイダ(=イスラエルにある町の名前。この町は、キリストが数多くの奇跡をおこなってみせたにもかかわらず、悔い改めの心を持たなかった町のことです。※マタイによる福音書・11章の20~21節参照のこと)に着いた。人々が一人の盲人(もうじん)をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し(=つまりベトサイダの外に連れだしたということ)、その目に唾(つば)をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが(=木のようにも見えますが)、歩いているのが分かります。」そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、「この村に入ってはいけない(=つまりベトサイダに戻ってはいけないということ)」と言って、その人を家に帰された』

(ここはヨハネによる福音書:9章の1~41節も合わせて読むことで、なぜキリストがベトサイダからわざわざ盲人を連れだし、そして癒(いや)されたあとで、ベトサイダに戻ってはいけない、と言っているのかが見えてくるものと思います。結局のところ、悔い改めの心を持つことのできない町へ戻っても、その目をキリストに治してもらったことが原因で、不信者たちに言い寄られ、不要な論争にまきこまれることになってしまいます。こうしたことをあらかじめ避けるために、キリストは村へは戻らないようにと仰ったのだと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年9月28日

マルコによる福音書・8章の27~30節より

『イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方(=イスラエルの北端の地)の方々(ほうぼう)の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネ(=ヨハネはキリストが宣教をはじめる前から、悔い改めの洗礼を人々にさずけていた人物です)だ』と言っています。ほかに、『エリヤ(=エリヤは旧約聖書に登場する預言者。※預言者とは、神の啓示(けいじ)を受け、神の名によって語る人物のことです)だ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます(=つまり多くの人々が、キリスト自身が神であるとは気がついていないということ)。」そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロ(=十二人の弟子のうちの一人)が答えた。「あなたは、メシア(=救い主)です。」するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒(いまし)められた(=キリストが十字架にかかることで、人々を罪から解放して救ってくださるのは、この時点ではまだ先のことです。こうしたことからも、この時点では誤った憶測などが飛び交うのを防ぐために、ご自身が “メシア” であることを広めないようにと仰っているのだと思います)』

(ここも解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年10月2日

マルコによる福音書・8章の31~38節より

『それからイエスは、人の子(=キリスト)は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから(=つまりユダヤ人の指導者たちから)排斥(はいせき=おしのけ、しりぞけること)されて殺され(=十字架にかけられて殺されるということ)、三日の後(のち)に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた(=つまりこの先に定められている神の計画を、弟子たちに話されたということ)。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた(=つまりペトロはキリストに向かって、そんなことがあってはならないと忠告して思いとどまらせようとした。言いかえるなら割って入って邪魔をしたということ)。イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている(=つまりペトロが神の計画に否定的で、目先のことだけにとらわれて、自分勝手な意見を述べているために、そしてその意見がいかにもサタンがいだくような考え、要は神の計画を中断させようとするものであったために、キリストがこのように叱ったということ。あるいは本当にサタンがペトロの内に入って、神の計画を否定するような発言を彼にさせたので、キリストがこのように言って追い払ったということ)。」それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後(あと)に従いたい者は、自分を捨て(=自己中心的にならずに)、自分の十字架を背負って(=つまり自分が罪人であることを認め、その罪に対して悔い改めの心をわすれずに持ちつづけるようにということ)、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は(=自分の命を優先する者は)、それを失うが、わたしのため、また福音(=キリストの教え)のために命を失う者は、それを救うのである(=つまり自分の命よりもキリストのこと、またその教えを優先する者は、永遠の命にさずかれるということ)。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか(=何の得もないということ)。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか(=どんな代価も支払えないということ)。神に背(そむ)いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は(=恥ずかしく思う者は)、人の子(=キリスト)もまた、父(=神)の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに(=つまり再臨されるときに)、その者を恥じる(=その者に恵みをさずけないということ)。」』

(ここは解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年10月6日

※以下を解釈するにあたっては、文中に出てくる “神の国” が、なにを指しているのかをつかんでおく必要があります。私の場合は、キリストの再臨後にもたらされる、神と人が共に住む永遠の御国(みくに)を、ここでの “神の国” が指すものとしています。またヨハネの黙示録の21章の1節から22章の5節までを読んでおくことも必要かと思います。

マルコによる福音書・9章の1節より

『また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には(=十二人の弟子たちの中には)、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる(=ここでの死なない者とは、十二人の弟子のうちの一人、ヨハネのことだと思います。文中では “決して死なない” と書かれていますが、彼はすでに亡くなっています。なお洗礼者ヨハネとは別人です)。」』

(十二人の弟子たちの中で、唯一神の国の外観について、具体的な記述をおこなっているのはヨハネだけです。ヨハネの黙示録の21章の1節から22章の5節には、彼が神の国を目撃した視点から、その門のことや、城壁(じょうへき)のこと、また太陽や月がないこと、玉座(ぎょくざ)から流れる川のこと、命の木のことなどがつづられています。こうした記述が可能だったのも、彼がキリストの力によって、本来ならキリストの再臨後に起こる神の国の到来(これは今現在も成就(じょうじゅ)されていません)を、預言という形の幻(まぼろし)としてではありましたが、生前のうちに目撃させられていたからです。それゆえに他の弟子たちでは書きのこせなかった内容を、彼だけが聖書にのこすことができました。こうしたキリストによって定められている使命を(=つまり十二人の中から、神の国の現れについての幻を見るまでは決して死なずに、黙示録に着手する人物があらわれるというのを)、弟子たちに向かって告知しているのが、上記の言葉なのだと思います。※なお今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年10月10日

マルコによる福音書・9章の2~8節より

『六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネ(=十二人の弟子のうちの三名)だけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人(=布を漂白する職人)の腕も及ばぬほど白くなった(=つまりキリストが栄光の輝きにつつまれた姿になっていたということ)。エリヤがモーセと共に現れて(=エリヤは旧約聖書を代表する預言者(神の啓示を受けて語る人)であり、モーセはイスラエル人をエジプトから脱出させたときの指導者であり、神のお告げに従って律法をのこした人物です)、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋(=ちょっとした幕屋(=礼拝所)のこと)を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである(=つまり三人の弟子たちは、キリストの姿が変わり、死者であるはずのモーセと天に上げられたはずのエリヤ(列王記 下・2章の11~14節を参照のこと)の姿を目の当たりにしたために、なにが起こっているのかよく理解できず、その本当のところでは恐れさえいだいていたということ)。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け(=これは御父(おんちち)である神の声です。キリストが愛する御子(みこ)であり、彼の教えや言葉に耳を傾けなさいということ)。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた(=つまりエリヤとモーセは消え失せ、キリストも元の姿にもどっていたということ)』

(ここのところは、ルカによる福音書の9章31節には、キリストがエリヤとモーセの二人と、ご自身がかけられることになる十字架について話し合っていたということがつづられています。印象的でしたので、こちらに載せておきたいと思います)





2018年10月15日

※今回は前回の記事(2018年10月10日)からのつづきです。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人がキリストと共に山を下りるシーンです。

マルコによる福音書・9章の9~13節より

『一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子(=キリスト)が死者の中から復活するまでは(=十字架にかけられることになって、一度死に、そこから復活するまでは)、今見たことを(=キリストとモーセとエリヤの三人が栄光の輝きにつつまれていた光景のことを)だれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた(=つまりまだこれらを人々に広める時ではないということ)。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った(=つまり弟子たちは、メシア(救い主)であるキリストが生きているうちに神の国をもたらしてくれると思っているので、そのキリストが一度死に、復活するということの意味がわからずにいる。言いかえるなら、メシアであるキリストが神の国をもたらす前に、死ぬなどということがあるはずがないと信じられずにいる)。そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた(=これは旧約聖書・マラキ書3章に、神の国がもたらされる前に、神がエリヤをあなたがたの前に遣わす、との預言の記述があるため、こう尋ねている。つまり彼らの中では、キリストが死から復活するということへの混乱に加え、このエリヤが遣わされる件もまだ果たされてないではないかとの思いがある)。イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする(=つまり預言されているように、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。ここでの元どおりとは、主であるキリストが宣教しやすいように、前もってエリヤが、神から離れたユダヤ人の心を、また神に向かうように宣教活動によって準備をととのえておくということ)。それなら、人の子(=キリスト)は苦しみを重ね、辱(はずかし)めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか(=要するにエリヤが準備をととのえてくれているはずなのに、こうしてキリスト自身の宣教がはかどらずに、強いては苦しみを受け、辱められることになるのはなぜか、と弟子たちに問いかけている。ちなみにここでの苦しみ、辱めとは、キリストがユダヤ人たちによって罪人に仕立てられ、十字架にかけられることを指している。またこのことは旧約聖書・イザヤ書53章にて預言という形で書かれている。※なおこのときはまだ新約聖書は書かれていませんが、旧約聖書がおよそ400年前に完成しています。また聖書は神の霊の導きによって書かれているので、神であるキリストはその中身をすべてご存知です)。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである(=つまりこれは、まだエリヤは来てないはずだと思っている弟子たちに対して、キリストが、もうすでにエリヤは来て、しかもあしらわれた(=殺された)のだ、ということを告げている。ここでのエリヤとは、実はエリヤの霊と力とを宿している洗礼者ヨハネのことを指しているのであり(※これに関しては下記を参照のこと)、そのヨハネはすでにヘロデ王によって牢屋に入れられ、殺されたのだということが、先のキリストの発言にはこめられている。それも実際のエリヤが人々からあしらわれた様子をつづった、旧約聖書・列王記 上19章を重ねあわせるような言いまわしで、そのことを弟子たちに伝えている。なおエリヤは旧約聖書に登場する人物であり、一方洗礼者ヨハネは新約聖書に登場する人物ですので、同一人物というわけではありません)。」』

※上記で弟子たちが尋ねているエリヤが、洗礼者ヨハネであることは下記の内容を参考にしています。

マタイによる福音書・17章の11~13節より

『イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既(すで)に来たのだ(=つまり洗礼者ヨハネのことを指して、すでに来たのだと言っている)。人々は彼(=ヨハネ)を認めず、好きなようにあしらったのである(=つまり牢屋に入れ、殺したのである)。人の子(=キリスト)も、そのように人々から苦しめられることになる(=罪人に仕立てられ、十字架にかけられることになる)。」そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った』

ルカによる福音書・1章の15~17節より

『彼(=洗礼者ヨハネ)は主の御前(みまえ=前。面してといったところでしょうか)に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎(たい)にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主(=キリスト)のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で(=つまりヨハネにはエリヤの霊と力が与えられているということ。このために洗礼者ヨハネのことをエリヤとして語っている箇所が聖書には見られる)主(=キリスト)に先立って行き(=つまりキリストよりも先に宣教を開始し)、父(=御父である神)の心を子(=イスラエル人たち)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別(ふんべつ=わきまえ)を持たせて、準備のできた民を主(=キリスト)のために用意する』

マラキ書・3章の23~24節より

『見よ、わたし(=神)は、大いなる恐るべき主の日(=キリストが再臨したのちの裁きの日)が来る前に、預言者エリヤ(=これがエリヤの霊と力とを与えられている洗礼者ヨハネのことを指している)をあなたたちに遣わす。 彼は父(=御父である神)の心を子(=イスラエル人たち)に、子(=イスラエル人たち)の心を父(=御父である神)に向けさせる。わたし(=神)が来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように(=つまりなにもかもを滅ぼしてしまわないようにということ。裏を返せば、信仰がないならば、地を破滅させるということ)』

(ここは解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年10月20日

マルコによる福音書・9章の33~37節より

『一行はカファルナウム(=イスラエルにある町の名)に来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉(えら)いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者(=つまり神の国でより偉くなりたい者)は、すべての人の後になり(=つまりこの地上にいるあいだ、すべての人の後になり)、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである(=つまりキリストの名を辱(はずかし)めないために、このような子供をわけへだてなく受け入れられる者は、キリストを受け入れているのだということ)。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである(=つまりキリストを受け入れる者は、実のところ御父である神を受け入れているのだということ)。」』

(自分を低くして謙虚になるということが大切なのだと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年10月24日

マルコによる福音書・9章の38~41節より

『ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って(=キリストの名前を使って)悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わない(=加わらない、もしくは言うことを聞かない)ので、やめさせようとしました。」イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい(=そもそもキリストの名を使って悪霊を追い出せているので、この人には信仰があるものと思います)。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである(=これは弟子たちが、自分たちに従わないという理由で、彼を制しようとしていたので、キリストがそのことに対してこのように広い視野で述べている)。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける(=これはたとえキリストたちに付き従うまでしなくても、キリストの弟子だという理由で親切にしてくれるような人たちは、いずれ報い(=良い意味での報い)を受けるということ)。」』

(自分たちに加わらないという理由だけで、その人をとがめるのはよくないことです。広い視野を持ち、広い心を持つことが大切なのだと思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年10月28日

マルコによる福音書・9章の42~48節より

『わたしを信じるこれらの小さな者(=子供や弱い者、また信仰が浅い人たちといったところでしょうか)の一人をつまずかせる者は(=ここでのつまずかせるとは、罪を犯させるということ。あるいは信仰から離れさせるということ)、大きな石臼(いしうす)を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい(=ここはそのまま捉えるなら、もし片方の手があなたに罪を犯させるなら、切り捨ててしまいなさい、ということだと思います。ですが、キリストへの信仰のある者たちの罪は、キリストが十字架にかかってくださったことで赦されていますので、実際は切り捨てる必要はありません。ですので、仮に言いかえるとするなら、もし片方の手があなたから信仰をうばい、キリストがメシア(救い主)であることを信じなくさせるのであれば、切り捨ててしまいなさい、といった感じで捉えると良いように思います)。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆(うじ)が尽きることも、火が消えることもない』

(キリストが仰っているように、たとえ両手があっても、地獄に落ちてしまってはとりかえしがつきません。片手を切り捨てることで神の国に入れるのであれば、そのほうがよいことになります。ただ、私たちはキリストがメシア(救い主)であることを信じていますので、上記にあるようなことをする必要はありません。キリストは私たちがそうしたことをしないですむように、私たちの罪の身代わりとして十字架にかかってくださったのです。とはいえ、私たちはなにもかもでキリストを頼っていいというわけではありません。もしキリストへの信仰がためされるようなときには、命がけでつらぬかなければならないのです(たとえば艱難時代における666の刻印などは、死んでしまうことになっても絶対に拒(こば)まなければなりません。※ヨハネの黙示録・13章を参照のこと)。とても印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年11月1日

マルコによる福音書・9章の49~50節より

『人は皆、火で塩味を付けられる(=これは大きな意味では、人は皆、火で塩味を付けられて、神への献(ささ)げ物としてふさわしいものになれるということ(※下記のレビ記を参照のこと)。具体的には、ここでの火とは、キリストが説く言葉のこと、つまり御言葉のことを指している(※下記のマタイによる福音書を参照のこと)。そしてここでの塩味とは、清さを意味している(※下記のレビ記を参照のこと))。塩(=御言葉によって養われる清さ)は良いものである。だが、塩(=清さ)に塩気(=清さをつかさどるもの)がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか(=清さをたもつのか)。自分自身の内に塩を持ちなさい(=つまり御言葉をうわべだけでなく自分のものにして、自分の内側からも清さをもたらしなさいということ)。そして、互いに平和に過ごしなさい』

マタイによる福音書・3章の11節より

『わたしは(=洗礼者ヨハネのこと)、悔い改めに導くために、あなたたちに(=イスラエル人に)水で洗礼(せんれい=罪からの清めと、キリストと一致する新しい生活に入るしるしのこと)を授けているが、わたしの後から来る方(=キリストのこと。ちなみにまだこの時点では、キリストは宣教を開始していません)は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物(はきもの)をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火で(=火とはキリストが説く言葉のこと。つまり御言葉のこと)あなたたちに洗礼をお授けになる』

レビ記・2章の13節より

『穀物の献げ物にはすべて塩をかける(=これは腐敗を防ぎ、清めるために塩をかけている)。あなたの神との契約(=これはイスラエル人と神とが結んだ約束のこと。つまり神がモーセに告げた律法(十戒も含む)のこと)の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ(=つまり塩をかけて清めることで、神への献げ物としてふさわしいものにせよということ)』

(ここは解釈がむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年11月5日

マルコによる福音書・10章の13~16節より

『イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤(いきどお)り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨(さまた)げてはならない。神の国(=神と人とが共に永遠に暮らす国のこと)はこのような者たち(=子供のように純粋な者たち)のものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ(=子供のような素直な心で神の国があるということを受け入れられる者でなければ)、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された』

(上記では特に、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない、というところが印象的でした。こちらに載せておきたいと思います)





2018年11月8日

マルコによる福音書・10章の17~22節より

『イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善(よ)い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに(=御子であるキリストに対し御父である神のことを指している)、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証(ぎしょう)するな、奪い取るな、父母を敬(うやま)え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈(いつく)しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである』

(上記では特に、あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい、というところがとても印象的でした。こちらに載せておきたいと思います)





2018年11月12日

マルコによる福音書・10章の23~31節より

『イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた(=なぜ弟子たちが驚いているかというと、彼らは、財産のある者ほど神の国に入りやすいと思っているため。つまり神の祝福を受けているからこそ財産にも恵まれているのだという当時のユダヤ人の考えを鵜呑(うの)みにしていたため、それをここでキリストに指摘されている)。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい(=これは金持ちが神の国に入るのはとてもむずかしいということを、こうした表現で言いあらわしている)。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った(=つまり弟子たちは、神の祝福によって金持ちになれた彼らでさえが救われないのであれば、一体だれが救われるというのだろうかと心から驚いている)。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ(=これは弟子たちの、では、だれが救われるのだろうか、という問いを受けて、人間にはだれ一人救うことはできないが、神は何でもできるので、信仰のある者たちを救うことになる、ということを返している)。」ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした(=つまり自分たちは信仰を持って何もかも捨ててきたのだから、どんな報いにあずかれるものなのかと遠まわしに述べている)。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音(=キリストの教え)のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも(=つまり弟子たちのことでもある)、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け(=これは実際に財産や家族に百倍恵まれるということではなく、この世にありながらキリストの子として十分な祝福にあずかれるということ)、後(のち)の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる(=ここでの先や後とは、順番の先、後という意味ではなく、ニュアンスとしては地位でいう高い低いをあらわしている。つまりこの世で人の上に立っていた多くの者が、神の国では仕える側になるということ。逆にこの世で仕える側にいた多くの者が、神の国では上に立つということ。言いかえるなら、自分を低くすることの謙虚さを持てていた者が、神の国では上に立てるということをあらわしている)。」』

(ここは解釈がとてもむずかしいところでした。今回は上記のように書かせていただきましたが、今後過ちに気がついた際には、その都度訂正を入れていきたいと思います)





2018年11月15日

マルコによる福音書・10章の32~34節より

『一行がエルサレム(=イスラエルの中心都市。キリストに反感をいだいている祭司長や律法学者の本拠地でもある)へ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた(=なぜ彼らが驚き、恐れているかというと、キリストがすでに弟子たちに向かって、ご自身が祭司長や律法学者たちによって殺される羽目になることを伝えていたため)。イエスは再び十二人(=弟子のこと)を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子(=キリスト)は祭司長たちや律法学者たち(=この彼らはユダヤ人です)に引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人(=ユダヤ人以外の人々のこと)に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱(ぶじょく)し、唾(つば)をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」』

(上記には、キリスト自身に関する預言がなされています。つまり十字架にかけられて命を落とし、三日の後に復活するということが語られています。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





2018年11月18日

マルコによる福音書・10章の42~45節より

『そこで、イエスは一同(=弟子たち)を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人(=ユダヤ人以外の人々のこと)の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では(=これは、弟子たちの間では、ということ。広い意味では、キリストを信じているすべての人々の間では、と捉えていいように思います)、そうではない。あなたがたの中で偉(えら)くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい。人の子(=キリスト)は仕えられるためではなく仕えるために(=これは人々から仕えられるためではなく、人々に仕えるために)、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(=つまり人々の罪の身代わりとして、十字架にかかり命をささげるために来られたということ)。」』

(ここはキリストが弟子たちに向かって語られている言葉ですが、私たちに置き換えて受け止めるといいように思います。印象的でしたので、こちらに載せておくことにします)





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