”聖書からの素敵な言葉を”へ戻る




<ブログ記事>


2020年2月9日

『 エフェソの信徒への手紙・全文(解き明かし) 』

(エフェソは、現在のトルコ西部にあった古代都市のことです。この手紙は、そこにいる信徒(教会)にあてて、西暦60~64年ごろに書かれたもので、著者はキリストの使徒であるパウロになります)

― 挨拶(あいさつ)(1章:1〜2節)―
神の御心(みこころ=ご計画)によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち(=神への信仰によって神の子とされた者たち)、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。

― 神の恵みはキリストにおいて満ちあふれる(1章:3〜14節)―
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました(=聖書で重要視されるのは、“肉(=やがてほろびるもの)” ではなく、“霊(=永遠につづくもの)” になります)。天地創造の前に(=天と地がつくられる前に)、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚(けが)れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです(=このように神は時間を超越しておられます。わたしたちは天地が存在する前から、キリストにおいて選ばれていたのです)。神がその愛する御子(みこ=神の子、キリストのことです)によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって(=キリストの十字架での血によって)贖われ(あがなわれ=キリストに買いとられ)、罪を赦(ゆる)されました(=わたしたちが犯してきた罪の代価として、キリストが神に血を支払い、神のこれらの罪への怒りから解放するべく、わたしたちを買いとってくださいました。これによって、わたしたちは神の裁(さば)きを受けずに、永遠の神の国に入れるのです。これをわかりやすくいうときに、“キリストはわたしたちの罪の身代わりとして十字架にかかられた” という表現をとるわけです)。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解(=聖書のみことばと霊による助け)とを与えて、秘められた計画(=一言でいうなら、この世のほろびを経て、新たな神の国が誕生するということ)をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もって(=天地創造の前から)キリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が(=神の国を実現させるためのわざが)完成され(=すなわち十字架の死後、神によって復活させられ、天にあげられているキリストが再び地上におりることで(=再臨することで))、あらゆるものが、頭(かしら)であるキリストのもとに一つにまとめられます(=キリストが万物(ばんぶつ)を治められます)。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです(=地上にいる人間だけでなく、天にいる天使たちを含めたあらゆるものが、キリストのもとに集められます)。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の(=神の)御計画によって前もって定められ、約束されたものの(=永遠の神の国の)相続者とされました。それは、以前から(=キリストを知り、信仰をもつようになったときから)キリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉(=神のみことば)、救いをもたらす福音(ふくいん=わたしたちを神の国へと導く良い知らせ、つまり聖書のこと)を聞き、そして信じて、約束された聖霊(=神の霊)で証印を押されたのです(=キリストを信じたときから、わたしたちには聖霊がやどってくださいます。これが人が罪を犯す性質、罪の奴隷状態にある “肉” に対し、わたしたちを永遠の命へと結びつけてくださる “霊” になります)。この聖霊は、わたしたちが御国(みくに=神の国)を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖(あがな)われて(=罪から解放されて)神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

― パウロの祈り(1章:15〜23節)―
こういうわけで、わたしも、あなたがたが(=エフェソにいる信者たちが)主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父(おんちち)が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力(=わたしたちはいずれこのほろびる体から、永遠に朽(く)ちない栄光の体へと、死からの復活をとおして変えられることになるのです)が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ(=キリストは十字架の死後、自ら復活したのではなく、三日目に父なる神によって甦らせられました)、天において御自分の右の座に着かせ(=現在、父なる神が天の玉座(ぎょくざ)に、そしてその右の座にキリストがついておられます)、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き(=天におけるこれらの上にキリストをおき)、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました(=神の国が到来した際の万物の上にも、キリストをおかれました)。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました(=教会は、キリストを信じている者たちで成す共同体です。そのトップに君臨されているのがキリストです)。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方(=神)の満ちておられる場です。

― 死から命へ(2章:1〜10節)―
さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです(=これは裏をかえせば、キリストを信じてない者たちは、いまもあやまちと罪のために死んでいるということ。神から見れば、こういう者たちは生きながらにして死んでいる状態にあるのです)。この世を支配する者(=これはサタン(悪魔)のことです。サタンは霊的な存在で、もともとは天使に属し、そこから神に反逆をおこしました)、かの空中に勢力を持つ者(=これもサタンのこと)、すなわち、不従順な(=神を信じない)者たちの内に今も働く霊(=サタン、あるいは悪霊)に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴(おもむ)くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした(=人はだれもが、罪を犯したアダムの性質(=彼は、神に逆らい禁断の果実を食べてしまいました。これが罪のはじまりです)を引きついでいて、また事実罪を犯しながら生きているので、全員が神の裁きの対象になっています)。しかし、憐(あわ)れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――、キリスト・イエスによって共に復活させ(=キリストを信じる前の、古いわたしたちはすでに死にました。いまは聖霊をやどされることで復活を経験し、新しく生まれ変わっているのです。※ここは正確にいうなら、キリストを信じる前の、罪の奴隷だったわたしたちは、キリストとともに十字架で死に、そしてキリストが復活したのと一緒に、わたしたちも神に対して生きる者として復活したということです。これはわたしたちがキリストと一体になって、その死と復活を経験したことを意味しています)、共に天の王座に着かせてくださいました(=わたしたちはこの地上にいながら、すでに天に属しているものとなっているのです)。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみ(いつくしみ=深い愛情のこと。すなわち罪人であったわたしたちは、本来だれひとり神の国に入る資格はなかったのです。それを神が、キリストの十字架での犠牲をとおし、わたしたちを救ってくださいました)により、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです(=神は、わたしたちにあたえてくださった恵みの豊かさを、これから到来する神の国において、永遠という時の中であらわそうとされています)。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物(たまもの)です。行い(=一人一人の努力や行為)によるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために(=神の国へと向かうご計画のもとに)、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです(=神のご計画に定められているとおりに、わたしたちは信仰において、伝道なども含め善いわざをおこなっていくのです)。

― キリストにおいて一つとなる(2章:11〜22節)―
だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には(=キリストが地上に降り立つ前は。紀元前のときには)肉によれば(=その体においては)異邦人(=神の民であるイスラエル(=つまりユダヤ人)に属していない者)であり、いわゆる手による割礼(かつれい=イスラエルの民は、神とアブラハム(=イスラエルの民の租(そ))が交わした契約のとおりに、男子にかぎり、かつ赤子のときに、性器の包皮の一部を切除する必要があります)を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました(=これは神の民であるユダヤ人が、神の民ではない異邦人を、このように呼んで敬遠(けいえん)していたということ。当然両者には敵意が生じることになりました)。また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約(=神は、かつてアブラハムと契約を結び、彼の子孫であるイスラエルの民を祝福し、永久にカナンの地(=現在のイスラエルのあたり)をあたえると約束されました。この契約はまだ成就(じょうじゅ)してませんので、これからキリストの再臨後に、信仰のあったアブラハムの子孫は復活し、成就されることになります)と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血(=十字架での血)によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし(=神の民であるユダヤ人と、わたしたち異邦人を一つにし)、御自分の肉において(=十字架にかけられたご自身の体において)敵意という隔ての壁(=ユダヤ人と異邦人をへだてていた壁)を取り壊し、規則と戒律(かいりつ)ずくめの律法(=神がイスラエルの民(=ユダヤ人)であるモーセにさずけた、神の民としての指針だったもの(=律法)は、のちのち規則と戒律ずくめの、人の善し悪しを判断するためのものへと変わっていき、それをもって異邦人を軽視する道具となっていました)を廃棄(はいき)されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人(=新生し、キリストのように生きようとする者たちが成す一つの共同体)に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体(=キリストを信じた者は、一つの共同体として、キリストの体を形成することになります)として神と和解させ、十字架によって敵意を(=罪によって神が人間にいだいていた怒りまでも)滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れている(=異邦人の)あなたがたにも、また、近くにいる人々(=ユダヤ人)にも、平和の福音(=神からの良い知らせ)を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて(=キリストを信じる者たちは、神の霊によって一つに結ばれています)、御父に近づくことができるのです(=かつてはエルサレム(=イスラエルの都市)にある、神殿の至聖所(しせいじょ=神殿の中で最も神聖な場所)にしか、神が臨在(りんざい=存在)されることはありませんでした。いまは一人一人が祈りをとおして、神と交わることができるのです)。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者(きりゅうしゃ)でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒(=重要な役割を果たしたキリストの弟子たち)や預言者(=神の啓示を受け、人々につたえる者)という土台の上に建てられています。そのかなめ石(=最も重要な石)はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります(=先ほど、わたしたちがキリストの体を形成していると述べましたが、これは神が住まわれる宮、つまり神殿を形成しているということでもあります)。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

― 異邦人のためのパウロの働き(3章:1〜13節)―
こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人(=キリストの福音を異邦人に広めていたことで、監禁された者)となっているわたしパウロは……(=ここは “……” が用いられていますが、おそらく “わたしパウロは御父の前にひざまずいて祈ります” という言葉をつづけ、神への祈りをつづるつもりだったのを、いったん中断し、他のことで手紙を進めることにしたのだと思います。というのももう少しあとで、“こういうわけで” という同じ表現から、祈りがはじまっている箇所があるからです)。あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません(=パウロ(=彼はユダヤ人です)はもともとは、キリストを信じる者たちを迫害していました。しかし神の恵みによって、心をあらためたのです)。初めに手短(てみじか=この手紙の1章:8〜12節のこと)に書いたように、秘められた計画(=一言でいうなら、この世のほろびを経て、新たな神の国が誕生すること)が啓示によってわたしに知らされました。あなたがたは、それを読めば、キリストによって実現されるこの計画を、わたしがどのように理解しているか(=パウロは神の国の到来が、キリストが十字架にかけられ、そして復活後に、天から再臨されることで成就され、またそこではわたしたちもキリストとともに相続者となり、神の栄光をたたえる者になると理解している)が分かると思います。この計画は、キリスト以前の時代には(=旧約聖書の時代には)人の子らに知らされていませんでしたが、今や “霊” によって、キリストの聖なる使徒たちや預言者たちに啓示されました(=これによって、いまのわたしたちも聖書をとおして知ることになりました)。すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたもの(=永遠の神の国)をわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜(たまわ)り、この福音に仕える者としてくださいました(=パウロには啓示によって、キリストの福音を異邦人に広める役割があたえられていました)。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富(=キリストがもたらしてくださる富、神の国、永遠の命など)について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのか(=キリストの十字架の死、復活、そして天からの再臨によって実現されます)を、すべての人々に説き明かしています。こうして、いろいろの働き(=永遠の神の国へと向かうはたらき)をする神の知恵は、今や教会によって、天上の支配や権威(=これは天における天使たちのことです)に知らされるようになったのですが(=天使たちにも、それまで神の計画が伏せられていたということ)、これは、神がわたしたちの主キリスト・イエスによって実現された永遠の計画に沿うものです(=つまり神の秘められた計画が、天使たちに知らされる時期やその経由も、前もって計画されていて、それに沿ったかたちで実現したということ。要はキリストが再臨して、サタンを底なしの淵(ふち)にとじこめるまでは、天には天における霊(=天使と悪魔のこと。ここでの悪魔とはサタンならびに悪霊のこと。これらは堕落(だらく)した天使のことです)の戦いがつづいているわけですから、天使たちにおいても、神の計画がどうやって成就するのかには、関心があったものと思います)。わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます(=わたしたちは神の家族であることに確信をもち、御心に適っていれば、すべて聞き入れてもらえるものとして祈りをささげることができます)。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難(=パウロはこのとき囚人でした)を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです(=異邦人へと伝道したパウロがいたからこそ、わたしたちは永遠の神の国のことを知りえているのです)。

― キリストの愛を知る(3章:14〜21節)―
こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります(=ここから先ほど中断していたパウロの祈りがつづきます)。御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています(=神は、天使たちにもわたしたちにも家族として名を与えてくださっています)。どうか、御父が、その豊かな栄光に従い(=もとづいて)、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を(=肉ではなく霊に属している内なる人を)強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし(=根づかせ)、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に(=世界中の信仰のある者たちとともに)、キリストの愛の広さ(=キリストの愛は世のすみずみに達しています)、長さ(=キリストの愛は天地創造の前から、そしてこれからも永遠につづいていきます)、高さ(=キリストの愛は地上だけでなく、天使たちを含めた天にもおよんでいます)、深さ(=キリストの愛は心の奥深くまでいきわたっています)がどれほどであるかを理解し(=わたしたちはこの大きすぎる “愛” を、自分の力で理解することはできません。神の恵みにより霊をとおして理解していくのです)、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり(=人の知識を “はるかに超えて” いますので、なんとか頭で理解していこうといったたぐいの “愛” ではないということ)、そしてついには(=少しずつの成長の期間を経て)、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように(=神の豊かさのすべてに満たされた状態というのですから、これはもうキリストのようになってしまうこと、と置きかえていいものと思います。この地点を目指して、わたしたちは日々信仰とともに歩んでいるのです)。わたしたちの内に働く御力(みちから=神の力)によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に(=つまり神に)、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン(=祈りの最後に唱える言葉。意味としては、そうなりますように、との想いが込められています)。

― キリストの体は一つ(4章:1〜16節)―
そこで、主(=キリスト)に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれた(=選ばれた)のですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和(にゅうわ=やさしく、おだやかなこと)で、寛容(かんよう=心が広く、人をよく受けいれること。過失をとがめだてせず、人を許すこと)の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ(=キリストにおいてわたしたちは一つです)、霊は一つです(=霊においても一つです)。それは、あなたがたが、一つの希望(=皆に共通している栄光への希望)にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼(せんれい=キリストからの聖霊による洗礼(=バプテスマとも)。これをさずかったときから、わたしたちはキリストと一体になった生活に入ります。これとはべつに教会にも、信仰をあらわすしるしとして全身を水にひたす洗礼があります)は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます(=唯一である神が万物を創造し、いまもすべてにかかわりをもって生きておられるということ)。しかし、わたしたち一人一人に(=万物は神のもとに一つであるが、しかし信仰者の一人一人に)、キリストの賜物の(備えてくださるものの)はかりに従って、恵みが与えられています。そこで、「高い所に昇るとき(=十字架の復活後に昇天されるときに)、捕らわれ人(=生前に信仰のあった陰府(よみ)にいる者たちのこと。※陰府とは、人が死後に神からの審判を受ける前に、一時的に入れられている場所のことです)を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた(=つまりすでに死んで陰府にいた一人一人にも、賜物のはかりにしたがって恵みがあたえられたということ)」と言われています。「昇った」というのですから、低い所、地上に(=陰府、また地上に)降りておられたのではないでしょうか(=ここはキリストが十字架の死後、三日目に復活させられるまでのあいだのことを指しています)。この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために(=天と地、また陰府をも恵みで満たすために)、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです(=天の玉座の右の座を、このように表現しているのだと思います)。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者(=福音をつたえる者)、ある人を牧者、教師(=牧師、信者を導く者)とされたのです(=このように一人一人に役割があたえられているということ)。こうして、聖なる者たちは奉仕(=仕えること)の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき(=すべての教会が一つになって、キリストの体をつくりあげます)、ついには、わたしたちは皆、神の子(=キリスト)に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した(=霊的な意味で成熟した)人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで(=キリストと似通うところまで)成長するのです。こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤(あやま)りに導こうとする悪賢(わるがしこ)い人間の、風のように変わりやすい教え(=異端めいた教え)に、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭(かしら)であるキリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は(=教会の一人一人が成す体全体は)、あらゆる節々(ふしぶし)が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分(ぶん=見合った能力)に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって(=一人一人が愛をもって、互いを認めあって)造り上げられてゆくのです。

― 古い生き方を捨てる(4章:17〜24節)―
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と(=信仰のない異邦人と)同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり(=神の真理にもとづく希望がない)、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦(ほうじゅう=勝手気ままにふるまうこと)な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き(=キリストの福音を聞き)、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲(=肉体の欲望)に迷わされ、滅びに向かっている古い人(=キリストに信仰をいだく前の自分)を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません(=キリストのように生きなければなりません)。

― 新しい生き方(4章:25〜32節 5章:1〜5節)―
だから、偽(いつわ)りを捨て、それぞれ隣人(りんじん)に対して真実を(=聖書にある、父なる神、子なるキリスト、霊なる神(=聖霊)、という三位一体(さんみいったい)の神を、またみことばのありのままを)語りなさい。わたしたちは、互いに体の(=キリストの体の)一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔に(=サタンや悪霊に)すきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦(ろうく)して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません(=聖霊は感情をもっておられます)。あなたがたは、聖霊により、贖(あがな)いの日に(=罪が裁かれる日に)対して保証されているのです。無慈悲(むじひ=あわれむ気持が欠けていること)、憤り(いきどおり=腹を立てること)、怒り、わめき、そしり(=人のことを悪く言うこと)などすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださった(=神はわたしたちの罪を、キリストの十字架の犠牲によってゆるしてくださいました)ように、赦し合いなさい。あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣(なら)う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえ(=十字架でのいけにえ)としてわたしたちのために神に献(ささ)げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなこと(=性に対して乱れたこと)やいろいろの汚(けが)れたこと、あるいは貪欲なこと(どんよく=欲が深いこと)を口にしてはなりません。卑(ひ)わいな(=わいせつな)言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。それよりも、感謝を表しなさい。すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者(=一言でいうなら、聖書の神以外のものに心が向かっている者のことです)は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。

― 光の子として生きる(5章:6〜20節)―
むなしい言葉(=偶像礼拝者の言葉)に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです(=不信仰な者たちは、犯しつづけた罪のゆえに、永遠の火の池に入れられる(=地獄への)裁きを受けるのです)。だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。あなたがたは、以前には暗闇でしたが(=神を知らず、暗闇そのものでしたが)、今は主に結ばれて、光となっています(=キリストを光源とする、光そのものになっています)。光の子として歩みなさい。――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――何が主に喜ばれるかを吟味(ぎんみ=よく調べて判断すること)しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい(=見て見ぬふりをせずに表に出しなさい)。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいこと(=神を貶(おとし)めていること)なのです。しかし、すべてのものは光にさらされて(=しかし、表に出されたすべての悪は光にさらされて)、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです(=暗闇だったところも光となるのです)。それで、こう言われています。「眠りについている者(=キリストに対して目のひらかれていない者)、起きよ。死者の中から(=暗闇にいる状態から)立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる(=光そのものにしてくださる)。」愚かな者としてではなく、賢い者(=信仰者)として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい(=機会を見過ごさず十分に活かしなさい)。今は悪い時代(=悪が世を支配している時代)なのです。だから、無分別(=わきまえがなく軽率なこと)な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい(=臨機応変に見きわめなさい)。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編(=神をたたえる詩)と賛歌(=神への賛美の歌)と霊的な歌(=神よりあたえられた歌)によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

― 妻と夫(5章:21〜33節)―
キリストに対する畏れ(おそれ=うやまい、尊(たっと)ぶこと)をもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自ら(=キリストご自身が)その体の(=あなたの体の)救い主であるように、夫は妻の頭だからです(=夫と妻の関係を、キリストと教会の関係になぞらえて、夫を “かしら” と表現している)。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった(=十字架によって命をささげた)ように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって(=みことばによる証(あか)しのともなった十字架での死、その犠牲をもってすべての罪を洗いながすことで)、教会(=教会を成すわたしたちのこと。なお以下に比喩的なものとして、キリストを “花婿(はなむこ)” に、そして教会を、すなわちそれを成すわたしたちを “花嫁” として言いあらわしている言葉がつづきます)を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない(=ウエディングドレスになぞらえている)、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会(=花嫁)を御自分(=花婿)の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように(=キリストにとって、ご自身の体が教会であるように)妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです(=同時に自分をも愛していることになるのです)。わが身を(=自分の体を)憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです(=キリストも花嫁としての教会を養い、いたわることで、ご自身の体を大切にされています)。わたしたちは、キリストの体の一部なのです(=わたしたちはキリストから大切にされている体の一部なのです)。「それゆえ、人は(=花婿は)父と母を離れてその妻(=花嫁)と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです(=これはたしかに偉大なことです。神であるキリストと、教会を成すわたしたち一人一人が、“花婿” と “花嫁” の関係をもって結婚し、そして一体になるのですから)。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬(うやま)いなさい。

― 子と親(6章:1〜4節)―
子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟(おきて)です(=この “父母(ちちはは)をうやまう” は、モーセの十戒(じっかい)からの引用です。この掟を守る者には、次の約束があたえられています)。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です(=この地上において幸福になり、長生きするというものです)。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭(さと)されるように(=聖書にあるキリストの教え、いましめによって)、育てなさい。

― 奴隷と主人(6章:5〜9節)―
奴隷たち(=いまでいう経営者や企業に雇われている人たちのこと)、キリストに従うように、恐れおののき(=わたしたちは、キリストが神であり、できないことが一つもないことを知っているので、恐れおののく感情をもっています。それゆえおのずと緊張感をもつことになります)、真心を込めて、肉による主人(=経営者、企業の上司などのこと)に従いなさい。人にへつらおう(=気に入られよう)として、うわべだけで仕えるのではなく、キリストの奴隷として(=キリストに仕えている者として)、心から神の御心を行い、人にではなく主に仕えるように、喜んで仕えなさい。あなたがたも知っているとおり、奴隷であっても自由な身分の者であっても(=信仰のあるなしにかかわらず)、善いことを行えば、だれでも主から報い(=良い意味でのむくい)を受けるのです。主人たち(=経営する側の者たち)、同じように(=真心をこめて、心から神の御心を行い)奴隷を(=従業員を)扱いなさい。彼らを脅(おど)すのはやめなさい。あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人(=神)が天におられ、人を分け隔て(わけへだて=差別)なさらないのです。

― 悪と戦え(6章:10〜20節)―
最後に言う。主に依り頼み(よりたのみ=神をよりどころにして信頼をおき)、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略(=たとえば聖書がいつわりであるかのような欺(あざむ)きを広めることなど)に対抗して立つことができるように、神の(=みことばによる)武具(ぶぐ)を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉(けつにく=生身の体をもった者)を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者(=この悪の支配のトップにいるのがサタンです)、天にいる悪の諸霊(しょれい=もろもろの霊。ここでは悪霊)を相手にするものなのです。だから、邪悪な日(=いまはサタンが世を支配しているので、まさに邪悪な日の連続です)によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。立って、真理(=みことば)を帯(おび)として腰に締め、正義(=キリストへの信仰により、神がわたしたちに “義” をあたえてくださいます。義とは、神の前で正しい者とされることであり、それがここでの正義になります)を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備(=キリストの福音をいつでも広められるそなえ)を履物(はきもの)としなさい。なおその上に、信仰を盾(たて)として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢(=あらゆる欺き、神に反すること)をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり(=救いは、神の恵みにより、信仰によってわたしたちにあたえられるものです。このことをおさえて、それをかぶととしてかぶり)、霊(=聖霊)の剣、すなわち神の言葉(=みことば)を取りなさい。どのような時にも、“霊” に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たち(=世界中の信仰のある者たち)のために、絶えず目を(=霊的な目を)覚まして根気よく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。わたしはこの福音の使者として鎖(くさり)につながれていますが(=囚人の身にありますが)、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

― 結びの言葉(6章:21〜24節)―
わたしがどういう様子でいるか、また、何をしているか、あなたがたにも知ってもらうために、ティキコ(=パウロにつき従っていた人物)がすべて話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟であり、忠実に仕える者です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子(=近況(きんきょう))を知り、彼から心に励ましを得るためなのです。平和と、信仰を伴う愛が、父である神と主イエス・キリストから、兄弟たちにあるように。恵みが、変わらぬ愛をもってわたしたちの主イエス・キリストを愛する、すべての人と共にあるように(=わたしたちのキリストを、変わらぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように)。



↓ 下記に “ヨハネの手紙 一” の記事を載せています。こちらもぜひどうぞ。

ヨハネの手紙 一・全文(解き明かし)


<ブログ記事ここまで>

皆さま、いつもお訪ねいただきましてありがとうございます。


精神世界ランキング



(もしよろしければクリックをお願いします)