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   『獏』

         投稿者 : 正宗友理子


※ キリスト教を信仰されている方にとっては、不快に思われる表現があるかと存じます。この点につき御了承の上、お目通しください。

「おばあちゃん、何してるの」
「あそこに、ほら、坊やがいるでしょう」
祖母はそう言って、窓からフィンガービスケットを投げ続ける。念のため確認してみるけれど、もちろん坊やなんていない。日当たりの悪い土の上に、アジサイが咲いているだけだ。
「坊やってだれなの」
「私の息子です」
「おばあちゃん、息子なんていないじゃない」
「あら、いるんですよ。生まれてすぐに死にましたけども」
意識が混濁していても言葉に淀みがないのは立派だと、私はどこか遠い気持ちで思う。しかしその言葉は私を通り過ぎ、行き場を失ったまま空気中に分散して消える。
 最初は私も戦った。おばあちゃん、直ちゃんよ。私が直ちゃんよ。直ちゃんに会いたいって、ほら、ここにいるじゃない。だが、それが勝ち目のない戦いであることを、やがて私は知った。
 私が学校から帰ると、ヘルパーさんが事務所に戻る。そして二人で母の帰りを待つ。この時間が、私は嫌いじゃない。行き場がないことを絶望というのだ、と思う。絶望とは安らかなことだ、とも。それで、十二歳の私は、三十二歳の女にでもなった気分になる。
「食べますか」
差し出されたビスケットを、私は受け取った。干からびたビスケットは干からびた祖母の指そのものみたいで、食べるのを一瞬躊躇する。
「おいしいですよ」
「うん」
私は、そのビスケットを口に入れる。生ぬるいビスケットは血の味がした。ぬるい?血の味?どうして?
「ねえ、私、施設に行くんでしょう」
隣で、祖母は血まみれになっていた。祖母が投げているのはビスケットではなかった。自分の指や体の肉を、ちぎって投げているのだ。
「私が邪魔だから、閉じ込めるんでしょう」
私は、声を出すことができない。自分の祖母を、私は食べてしまった。
「閉じ込められるの、嫌なんだって」
窓のすぐ外に坊やが立っている。
「だから、消えてなくなるまで、ちぎって投げるんだってさ」

 目が覚めたとき、のどがからからだった。動悸がする。汗もかいている。暗い部屋のあちこちで、不吉なものが息を潜め、私を見つめている。
「ねえ、起きて」
隣で寝ていた男の名前を思い出せないまま、私はその肩を揺すった。
「ねえ」
「ん……」
「怖い夢を見たの」
「ん……何」
「怖い、夢を、見たの」
「ん……かわいそうに」
男は腕だけを布団から出し、私の頬を二度撫でる。その腕がぱたりと落ちて、男は再び眠りに落ちた。憎しみが急激に膨れ上がる。役立たずめ。死ねばいいのに。
 しかし、男に対する怒りで、恐怖は少し薄らいでいた。私は腕を伸ばして、スタンドの明かりを「OFF」から「LOW」にし、手のひらを確認する。血は一滴もついていない。私は十二歳の子どもでもない。暗闇の面積が減って、不吉な者たちも去っていく。大丈夫、あれは夢だ。現実までは追って来られない。
 でも、もう終わりだな。この男とは。
 男はだらしなく口をあけて、小さないびきをかいている。その顔はもう、私の心に何の印象も残すことができない。道端の石や空の雲と同じ。いや、それらのほうがまだマシなぐらいだ。少なくとも石や雲は、私を怒らせたりはしない。
――感情と欲望の違いが何だかわかりますか。
ベッドから抜け出し、料理には使われたことがないであろう料理ばさみを戸棚から引っ張り出す。あれを言ったのは、哲学の教師だったっけ。若いのに、いつもグレーのよれよれのシャツの上に、色あせたジャケットを羽織っていた。
――感情には言葉が通じます。欲望には通じません。
怒りや悲しみには理由があるから抑えることもできるのだと、あの教師は言っていた。本当にそうだろうか。本当にそうだとしたら、何で世の中は怒りや悲しみで溢れているのだろう。
 耳でも切ってやろうかと思ったけれど、飛び散る血を想像してやめる。椅子の背に、バックルが「H」の形になっている趣味の悪いベルトがかかっていた。ブランドが好きな男だった。金欠でベルトしか買えないその情けなさをかわいいと思った、二か月前の自分に心底腹が立つ。でも、一番腹立たしいのは、やっぱりこの男だ。こいつも偽物だった。悪夢を止めてはくれなかった。
 ベルトにはさみを入れる。これはあいつの体そのものなのだ、と思いながら。ベルトは固い。皮の感触が、本当に肉の感触に思えてくる。ブランドは伊達じゃないのだ。
――どうか、佐知子と直子を、お願いいたします。
直子である私に、祖母は言った。施設に行ってしばらく、彼女は記憶の中の娘と孫の心配ばかりをしていた。しかし、佐知子の存在も直子の存在も、すぐに彼女の中から消えた。
 施設に入ってから二年後、自分が誰かもわからなくなった祖母は、誤嚥性肺炎で死んだ。仕方がないと思う。世の中の全てが幸福に守られているわけではないのだから。
――不憫な子たちなんです。どうぞ、お願いいたします。
祖母の最後の願いを、私は叶えてあげられなかった。
 思い出ごと、私はベルトを断ち切った。少し、満足する。存在意義を失ってしまったそれをベッドの下に隠して、はさみをしまった。白み始めた外の明かりがうっすらと差し込んでくる。ほこりの小さな小さなつぶつぶが見える。男は相変わらず眠りの中にいる。その光景をひととおり観察した後、私はシャツとジーンズとパーカーを身につけて、表へ出た。四月になったとはいえ、朝の空気は冷たい。その瞬間感じる、わずかな寂しさと、開放感。私は自分が何かを失ったことを感じる。自分が自由であるように感じる。でも、この感覚が長くは続かないことも知っている。私は男のことを忘れるし、何かから逃げることもできない。同じことの繰り返しだ。
 終日営業のカフェにでも行こうと思い、私は駅のほうに歩きだした。コーヒーを一口飲むころには、もう男の顔さえ思い出せなくなっているだろう。

「ちょっと、何これ」
「『かずさのすけ』って読むらしいですよ」
「正気?」
「ゆうじろう君」と呼ばれている大学生の男の子は、「へへへ」と屈託なく笑う。きっと、本当に子どもが好きでこの仕事をしているのだろう。それが変な名前の子どもであったとしても。
 「田中上総介」という名前の中学生は、今日から始まる「お試し教室」にやってきたものの、プリントの問題を一問も解けないまま、暮れ始めた窓の外をぼんやりと見ている。一体どういう育て方をしたのだろう。不幸すら感じられない、虚無そのもののような表情をしている。
「もう、無理ね」
「でしょうね」
「別のプリントとってくるわ」
小学四年生用の教材を探しに、私は「教材室」という名の物置に向かった。あんなんじゃ、十年経っても私の男にはできないな、と思いながら。
 子ども教室でアルバイトを始めてから、もう一年になる。ここでは二歳から(二歳から、だ。気が知れない。)十八歳まで、様々な年齢の子どもがやってきては、てんでにプリントをやって帰っていく。私は鬼のような勢いでそれの添削をし、子どもを叱る。
「鳥飼さん」
「はあい」
経営者の先生がやってくる。先生はいつでもこってり化粧をしていて、四十代にも、五十代にも、六十代にも見える。その女性らしい丸みを帯びた体を、私は好ましいと思う。
「何年生のにするの」
「四年生ぐらい、かな」
「それで大丈夫かしら」
「無理ならまた考えますよ」
先生はそれについては何もいわず、慌ただしく去っていく。教室は、小学校高学年や中学生の子どもでごった返していた。目当てのプリントをファイルから出しながら、そろそろ新しい仕事を探さなきゃならないな、と思う。飽きたのは仕方ないとして、給料の安さは致命的だ。前の前の男――その前の男だったかしら?――に買ってもらった時計やバッグがなければ、毎日もやししか食べられないところだった。
 それでも、子どもと接するときに湧き上がる、もやもやした感情の正体を見極めたくて、私はずるずるこの仕事を続けている。何なのだろう。子どもがかわいいというのではもちろんない。かといって、憎いわけでもない。
「田中君」
かずさのすけ君、と呼ぶのがためらわれたので、私は名字でそのひょろひょろした男子の名を呼んだ。かずさのすけは、返事もせずに私の顔を見る。不良少年のほうがまだしもましだな、と思う。でも、「不良」なんて言葉自体が、今では通用しないのかもしれない。
「こっちのプリント、やってみようか」
中学生用のプリントを回収して、私は新しいプリントを彼の前に置いた。
――わたしね、ときどき、自分がマッペを憎んでるって思うことがある。
回収した国語のプリントの文字が目に入る。
――もうわたし、あの子を愛していけない。なのに、考えることといったら、あの子のことばかり。
胸が痛くなる。ほんの束の間、意識が飛ぶ。
「先生?」
けげんそうな表情を浮かべて、かずさのすけが初めて口をきいた。

 天国みたいな音がする楽器ね、と言ったら、千尋はこちらが驚くぐらいに驚いた。
「天国だなんて、なんだってそう思うの」
「なんだってって、別に、ただなんとなく」
「サックス、やったことあるの」
「ないわ。楽器なんて、ハーモニカとリコーダーぐらいしか……あ、カスタネットとタンバリンも」
勢いに気圧されたけれど、千尋は怒ってはいないようだった。しばらく考えた後、形のよい唇をわずかに曲げて、千尋はこう言った。
「少なくともあたしの音は、天国じゃないわ」
決意表明のような、有無を言わせぬ口調だった。それで、私は口をつぐむ。
 いつもの静かさを取り戻した千尋は、黒いケースの蓋を開け、楽器をその中にしまう。長い指に触れられた金の楽器は、うっとりしているように見える。きっと千尋とサックスだけにわかる言葉ではない言葉で、睦言を交わしているのだろう。女を抱くときもあんな感じなのだろうかと思い、そう思った自分自身に驚いてしまう。私は千尋を男だと認識しているのだ。
 どことなく樹木を連想させるその男は、子ども教室と同じ雑居ビルの中の、音楽教室で働いている。女より美しいぐらいだけれど、髪形も服装も普通の男のものだ。きっと彼目当てで入学した何人もの女たちが、がっかりしてきたことだろう。それでも、持ち前の人当たりのよさのせいか、先生としての人気はあるようだった。
「じゃあ、行きましょうか」
「うん」
私はボストンバッグを持って、千尋と一緒に音楽教室を出る。
 千尋は、「獏」がいないときのつなぎだった。獏というのはつまり、男のことだ。別に性別にこだわるつもりはないけれど、女には恋ができない性分なのだから、仕方がない。私はロールプレイングゲームの勇者みたいに、獏探しの旅を続けている。でも、これまでの獏はみんな偽物だった。付き合って二、三か月も立つころには、悪夢を全く食べなくなる。
「昼間寝て、夜働くわけにはいかないの?」
ビルを出ると、湿った空気が体中にまとわりついた。知らぬ間に、雨が降っていたのだ。
「昼間寝たところで、夢は追いかけてくるんだから、一緒なのよね」
パンプスを履いた足元を見ながら、私は千尋と並んで歩く。一人で眠る恐怖のことを、私は考えたくなかった。昼間の夢は、意識だけ覚めても体が動かせない点で、夜の夢よりたちの悪いことがある。そう言うと、千尋は「ふうん」とだけ言った。
「ごめん、迷惑かけるよね」
「あら、別にいいのよ。あたしだって、寂しくなくていいし」
千尋は気遣うように笑う。こういうところだ、と思う。こういうところに、私は男を感じてしまう。女なら、女に対してこんなに親切になれない。
 おそばでも食べて帰らない、と言って、千尋は「信州」と書かれた暖簾を指さした。私は千尋の白い歯が、海老の天ぷらをかみちぎるところを想像する。薄い唇が油でぬれるところや、冷酒が喉を滑り降りるところを想像する。出汁のにおいをかぎながら、男らしさや女らしさというのは、隠すことで際立つものかもしれないな、と思った。

 空気がいつもと違う気がした。掛け布団から腕を伸ばして、サイドテーブルの目覚まし時計を手に取る。まだ四時だった。
 女が発散する粒子のせいで、部屋が緊張している。こんな空気の中では、もう眠れないだろう。俺は諦めて、ベッドから降りた。コーヒーを淹れにキッチンに向かう。
 リビングのソファの上で、女は眠っている。眠っているその顔は――化粧を落としたせいもあるかもしれないが――、何だか子どもみたいだった。痩せているので、布団をかけて寝ていると、体が消失してしまったように見える。首から下がちゃんとそこにあるのか、確かめてみたい衝動を断ち切って、俺は流しの前に立った。換気扇のライトをつけ、瞬間湯沸かし器の中に水を入れる。
 なぜこの女を拒絶できないのだろう。一人で寝るのが怖いから泊めてくれなんて、普通の大人が言うことじゃない。関わらないほうがよいことはわかっている。わかっているのに。
 こんなことをして、罪が軽くなるとでも思っているのだろうか。
 昨日コーヒー屋で挽いてもらった豆の上から、沸いたばかりの湯を注ぐ。湯気とともに立ち上る、深くて濃い香り。よみがえりそうになる記憶に、首を振って蓋をする。やめよう。何も考えないのが一番だ。
 森とふくろうの描かれた大きなマグカップから、コーヒーを一口飲んだ。自分がまだ生きていることを思い知らせるような、苦いコーヒーだった。

 手の中に紋白蝶がいる、というだけで、無敵の気分になる。廊下を走って、私は台所へ向かった。母は鍋の中に味噌を溶かしていた。
「お母さん、ちょうちょ」
「ちょうちょ?」
「うん、ここにいるの」
私は両手を持ち上げる。
「やだ、外に出してきて」
母は顔をしかめた。
「どうして」
「嫌よ、料理に触ったらどうするの」
私は、がっかりしてしまう。喜んでくれると思ったのに。
 ベランダに出て、ちょうちょを離そうと思ったけれど、何だか惜しくなった。そこにあったポリバケツをひっくり返して、ちょうちょを閉じ込める。そのまま、冷たい夜が来る。朝が来る。乾いた昼が来る。もう一度夜が来て、朝が来て、昼が来る。私はバケツに手を伸ばすけれど、どうしてもあと一センチが届かない。早くしなきゃ。ちょうちょが死んでしまうのに。
 七回目の夜が来たとき、私はようやくバケツをどかすことができた。ちょうちょは、小さく干からびていた。もう飛ぶことも、蜜を吸うこともできないだろう。そして、ちょうちょと一緒に、何か大切なものも干からびてしまったことを感じる。でも、それが何なのか、私には思い出すことができない。
 私はちょうちょを手に、裏庭へ向かった。わずかな月明かりの中、私の捨てたものが堆積しているのが見えた。サラダに入っていたにんじん。友達から盗んだ消しゴム。父に買ってもらった少女趣味の麦わら帽子。死んだアメリカザリガニ。聖書。讃美歌集。祖母。父。母。私は母の死体の上に、紋白蝶の死体を置く。蝶は乾いた眼で、私の一挙手一投足を見ていた。恐ろしくなり、私は一斗缶を手に取って、それらの上に油をかける。どぼどぼ、どぼどぼ、まんべんなく、たっぷりと。しかし、油をかけられた死体たちはさらに生々しくなって、私はどうしても火をつけることができない。火をつけたところで、彼らの視線までは燃やせないのだ。
「悪い子だね」
油まみれのキリストの手が、私の肩にのせられた。
「どうしてそんなに悪い子なのかな」
べたべたの手はずっしりと重い。恐ろしくて、私は骨から震えている。かたかたかた、という音さえ聞こえる。
「お仕置きしてあげようか」

「直子、ねえ」
目を開けると、キリストではなく、千尋がいた。
「ごめんね、起こしちゃって」
「……何時」
「八時よ、もう」
千尋は困惑した顔をしている。もしかしたら、うなされていたのかもしれない。
「もう出勤するの?」
体を起こして、私は千尋の全身を眺めた。白いシャツに、黒のスリムパンツ。簡素な服がよく似合う。
「今日は本社なの。三時から教室。直子は?」
「……午後から教室」
「そう。じゃあ、また一緒に帰れるわね」
うん、と言って、私はソファを降りた。千尋を見送るために、一緒に玄関まで行く。本当は、とても異性に見せられるような顔じゃないんだろうな、と思いながら。
「フルーツグラノーラが戸棚にあるわ。よかったら、冷蔵庫に目玉焼きもあるし」
「わかった」
「野菜とか、パスタとか、チーズとか、なんでも好きに使っていいからね」
「わかった」
それじゃあ、と母親のような顔をして、千尋は出て行ってしまう。私は少し寂しさを感じる。でも、一人じゃなくて本当によかった。
 お仕置きは恐ろしい。逆さづりにされて、腹を裂かれて、内臓を取り出される。夢の中で、痛みはあまり感じないけれど、体の内部に手を入れられる感覚が妙にリアルだった。そして、取り出された内臓は、犯した罪のためにどす黒く光っていた。
 私は頬を叩いて、頭からその映像を消す。変えられない過去を嘆いても仕方がないことだ。私はまだ生きているし、死ぬまで生きなければならない。しかし、それを分かっているのに、私はいつも過去に追いかけられている。
 キッチンで戸棚を開けたところで、思いついて寝室へ行った。ドアを開けると、そこは千尋の匂いでいっぱいだった。家具は少なく、小物はあるべき場所にきちんと納められている。私はベッドに近づいて、紺色の掛け布団を触りかけ、やめた。千尋のきれいさを、自分の罪悪で汚したくはなかった。
 どうして、正しく生きられないのだろう。どうしたら、正しく生きられるのだろう。窓から差し込む光のまぶしさが、心をますます重くした。

   箪笥長持ち花いちもんめ
   勝ってうれしい花いちもんめ
   負けてくやしい花いちもんめ
   あの子がほしい あの子じゃわからん
   相談しましょ そうしましょ 「べー」

「花いちもんめ?」
化粧の濃い女が、すぐ後ろに立っていた。
「懐かしいわ。すごく」
均整のとれた完璧な笑顔を、俺の方に向ける。さっきレッスンを終えた、今日最後の生徒だった。高給取りで、脚が長くて、品の良い話し方をする。おまけに頭のてっぺんからつま先まで――何の変哲もない黒い靴下ですら――バーバリーで固めているとくれば、文句のつけどころがない。
「あら、まだいらっしゃったの?」
「ごめんなさい。何だか聴きほれちゃって」
まあ、それはそれは、とうんざりした気持ちで返事をする。高校時代トランペットをやっていた、というこの女のことを、俺は好きではなかった。センスもあるし、練習もちゃんとやる。でも、彼女が気に入っているのは、明らかにサックスではなく俺だった。
 女が動くたびにかすかに香水――多分フリージアだ――が鼻をつき、俺は舌打ちしそうになる。この女は知っているのだ。俺が口調以外は男だということを。それなのに、俺の迷惑には気付かないのだから、賢いんだか馬鹿なんだか分からない。
「あたしも吹いてみたいわ」
「楽譜、次回にお持ちしましょうか」
「うん。でも、そうだ、先生のお宅、ちょっと伺えないかしら。それだけお借りできたら、次回コピーして持ってくるんだけど」
ごめんなさい、今日は予定があるの。反論の余地を与えないように、間髪入れずそう言った後、俺は思い切りにっこりと笑った。本当は、楽譜すら貸したくはない。例えば、「花いちもんめ」や、「ずいずいずっころばし」や、「でんでらりゅうばでてくるばってん」といった、サックスを想定していない曲を吹いたときの不可思議な感覚――現実が少しずつずれていく感覚――を、この女に理解してもらえるとは思わなかった。讃美歌を吹くときのきらきらした感じとも、アルペジオを繰り返すときの心静かな感じとも、また違うよさがある。
 何考えてるのかしら、この人、私がここまでしてあげたのに。夕日に照らされた女の顔がそう言っている。直子と違って、はっきりと陰影のある顔だ。プライドの高い人だから、もうこれ以上何もないだろう。

「直子さん、見て見て」
ゆうじろう君が近づいてくる。私はプリントから目を上げる。この男の子の、敬語とタメ口のバランスは見事だった。
「なあに」
指さすほうには、けんすけ君、という四歳の男の子がいた。大人用の椅子に座って、窓の外を見ている。
「何してるの」
「プリント終わって、お母さんを待ってるんですけどね、月が好きなんですって。空をずっと見てるんです」
四歳にもかかわらず、ひらがなもカタカナも完璧に読み書きできるけんすけ君は、教室で一番かわいい子どもだった。私でさえかわいいと思うぐらいだ。大人しいし、泣かないし、愛想が良い。子どもには平等に接するべきだとわかっていても、いざ実行するとなると、それはなかなか難しい話だった。
「ね。かわいい?」
「ええ」
あなたもね、と思いながら、私は微笑んでみせる。ゆうじろう君は良い男の子だけれど、善良すぎるところが、獏には向いていなかった。
 窓際の四歳児を見る。今ひらがなとカタカナが書けたからといって、将来どうなるかはわからないな、と冷めた気持ちになりながらも、心がざわつくのを感じた。少なくともこの子は今、庇護され、期待されているのだ。
「あなたを産んだ母を喜ばせよ」
「え?」
がばりと振り返ったので、ゆうじろう君を驚かせてしまった。
「どうしたんです?」
「あ、ごめん。何て言ったの」
「母を喜ばせよ、って」
聞き間違いではなかった。苦いものが口の中に広がる。
「けんすけ君が教えてくれたんですよ。聖書の言葉なんですって。おうちの人がクリスチャンみたいで」
 けんすけ君は、いつの間にか隣にやってきたかずさのすけに、あやとりをやって見せていた。かずさのすけは黙っているけれど、優しいまなざしをしている。
 私は、自分が嫌になってしまう。私にはけんすけ君のような純粋さも、かずさのすけのような優しさもない。彼らを喜ばせる何物かを持ち合わせているわけでもない。その上、待つべき母親もいない。
 そのときになってようやく気が付いた。私は、子どもをうらやましいと思っていたのだ。
「ほほえましいですね」
春の日差しのようなゆうじろう君の表情に、私は耐え切れなくなった。
「ごめん、ほんのちょっとだけ、休憩してきていいかな」
「ああ、いいんじゃないかな。もう子どもも少ないし」
屈託のないゆうじろう君を残し、私は教室を出て、階段を上った。音楽教室は二階上のフロアにある。すがっても仕方がないのに、私はどうしても千尋の顔を見たかった。
「……あ」
天国みたいな音がする。
――Gコードが好きなの。
千尋が言っていた。
――ピアノでいうと、ソとシとレ。ソが空で、シが光で、レは……きれいな水とか、かしら。
千尋はアルペジオ(というらしい)で、Gコードを上ったり下りたりしている。目を閉じると、空が澄み、光が差し、水が流れる。こんなに単調なのに、どうして心が締め付けられるのだろう。
 薄暗い廊下で、私は立ち止まったまま、いつまでもその音を聴いた。それから、自分には行けない天国のことを思った。

 アメリカザリガニは醜悪な生物だと、子ども心にも思う。糸の先にするめをくくりつけて用水路に垂らせば、いくらでもいくらでもつれた。夏休みだから、時間は無限にある。だから、私は無限のザリガニをつることができる。
 十匹ぐらいを地面に並べたいのだけれど、ザリガニたちは生きがよくて、自力で水に戻ってしまう。手でつかむと、はさみをふりかざして威嚇してくる。私はいらいらしてしまう。
 八月の太陽は、目の前の家の、屋根や壁をじりじりと焼いている。私は手に持っていた一匹を、その屋根の上に思い切り投げつけてやった。日に焼けた細い腕がカーブを描く。視線を落とすと、母に買ってもらった黄色いサンダルが目に入った。装飾の少ない、かっこいいサンダル。父に買ってもらった麦わら帽子は、ぴらぴらした白いレースが嫌で、一度も被っていない。
 左の頬に衝撃が走った。
――残酷なことはやめろ!
言葉の意味と、自分がひっぱたかれたこととを、同時に理解する。
――お前、女の子だろ。
――お父さんはね。
父の肩に、あの女の手が置かれていた。逆光のせいで、顔はわからない。
――女の子らしい子が好きなんだって。あたしみたいな。
父と女が遠ざかる。私のせいで。
――待って!
私は、走り出した。
――お父さん、ごめんなさい。もう、ザリガニつらない。帽子も被るから。待って。お父さん。お父さん。
 ぐしゃりと音がした。見ると、足元でザリガニがつぶれている。
 一面のアメリカザリガニだった。私を取り囲んで、みんなはさみを振り上げている。
――来たければ、来たら。きっともっと嫌われちゃうけど。
――お父さんは行ってしまって、
母の声がした。
――次は、あなたも行ってしまう。
――お母さん。
――行ってしまうのね。
――違うの。本当は、
――あなたは、何を踏みにじったのだと思う?
――やめて。
――あなたが踏みにじったのは、
 私は千尋の音を膜状にして、耳の周りにバリアを張った。母の口が動き、私は目を閉じる。聞いてはだめ。見てはだめ。覚めて。早く覚めて。

 かさかさかさ。耳元で音がする。
 何だろう。ザリガニ?ザリガニがいるの?目を開けなきゃ。体を起こして。さあ、起こして。早く。早く。早く。
「早く!」
 声が出て、目が開いた。明るい部屋。電気じゃない。日の光だ。
 まひしたような頭をやっとのことで動かして、枕もとを見る。ザリガニはいない。足を動かし、ずり落ちるようにソファから降りて、今度は床を見渡す。ここにもいない。そうだ、いるわけがない。ここはマンションなのだから。
 ほうっと息をつく。やっぱり昼寝なんてするもんじゃない。嫌な夢しか見ない。でも、よかった。なんにせよ、助かったのだ。
 ざらりとした手触りの、ベージュのソファに手をかけて立ち上がり、よろよろとキッチンへ向かう。喉が渇いていた。千尋のお気に入りの、ハーブティを飲みたかった。
――着替えとか、大丈夫なの?
朝、千尋はそう言った。今日は私だけが休みなので、夜まで千尋に会えない。それで、玄関の外まで見送ったのだった。
――何だったら買ってあげるけど。
「帰れ」と言われるのかと思ったら、予想に反して千尋はそう言った。
 私は笑ってしまう。それから、泣きそうになる。優しくされたいのに、優しくされることに耐えられないのだ。
 湯沸かし器がしゅうしゅう音を立てる。その音を聞きながら、私は自分の両手を見る。親指から順々にまげ、閉じたり開いたりする。右手で左手に触れ、左手で右手に触れる。ちゃんとした手だった。感覚があるし、実体もある。
 白いカップにティーバッグを入れ、沸いたばかりのお湯を注ぐ。まるで千尋そのもののような、清涼な香りが漂う。
「……とうめいにんげん」
ふいにその言葉が、口をついて出た。
 父があの女を連れてくるとき、母と私は透明人間になった。時刻は遅く、私たちは既に布団の中にいた。
 ドアを開ける音。笑い声。廊下の足音。リビングのソファがきしみ、冷蔵庫の扉が開く。それまで眠っていても必ず目を覚ましてしまう自分を、私は心の底から呪った。それから、息を殺し、体を固くして、不吉なものが過ぎ去るのを待った。
 私は透明人間なのだ、と自分に言い聞かせた。ここにいるようで、本当はいない。夜の闇の中でそんなことを考えていると、存在というものの危うさが、子どもだからこその生々しさで感じられた。隣の布団に横たわる母の背が今にも消えてしまいそうで、私は目を閉じることさえできなかった。
 ハーブティをひとくち飲む。記憶というのはいやなやつだ。どんなに防御していても、心のすきを探し出しては、私をいためつけてくる。
 ふいに、祈りたいという衝動に駆られる。でも、何に対して?私に神様はいない。母の神を踏みにじった私を受け入れてくれる神など、きっといない。

 「瀬戸内レモンとクリームチーズのパイ」は、直子の喜びそうな味だった。経験から言って、痩せた人間は酸っぱいものを好む。パイをもう一かけ口に入れ、ブラックコーヒーを啜りながら、会計のときに一つテイクアウトにしてもらおう、と思う。
 天窓から差し込む五月の光が、グラスやフォークや若い女の髪を光らせている。午後一番のレッスンが急遽キャンセルになったことを、俺は心からありがたく思った。育ちのよさそうな大学生のお嬢さんは、近頃よくレッスンを休む。妙な浮かれ方をしていたから、彼氏でもできたのだろう。
「お冷、おつぎしましょうか」
ウェイトレスがもじもじしながら微笑んでいる。俺はウェイトレスによくもてる。頼んでいないものをおまけしてくれたりとか、電話番号のメモを渡されたりとか。別にありがたいとは思わないが、その積極性は天晴なものだった。
「ああ、はい」
妙な期待を持たせないよう、俺は不愛想にそう言って、コンサートホールのパンフレットに目を落とした。水をつぎ、女の子は去っていく。ちょっと冷たすぎたかもしれないな。加減が難しいのだ。
 目を閉じて、一つのびをした。まぶたの向こうが明るくて、目を開けているときよりも、光の存在を強く感じる。予定外の空き時間は贅沢だ。何もせずとも罪悪感のない時間なんて、大人になってからはなかなか持ちがたい。妙なもので、この仕事をしていてよかったと思うのは、決まってこういうときだった。
 木目テーブルと水色のクロス、たまご色の皿とカップ、ステンレスのフォーク。それらの色合いをぼんやりと眺めながら、パイの最後のかけらを口に入れ、ぬるくなったコーヒーを流し込む。直子は、昼飯を食べただろうか。あいつは面倒くさがって、すぐに飯を抜こうとする。貧血で倒れなければいいけれど。
――何でそんなに心配するの。
直子は言った。単純な疑問として。
――他人なんだから。それに、心配してもらう価値なんて、私にはないよ。
心配してもらう価値なんてない、という言葉にはなじみがあった。あの日以来、俺自身が繰り返し使ってきた言葉だ。あるときは他人に対して、あるときは自分に対して。
 つめたい水を口に含み、窓の外を、その空気を見る。五月はいい。四月のもやもやした精気もなく、六月のじめじめした湿気もなく、日は日々長くなる。少し早く戻って、自分のために演奏でもしよう。「美しい五月に」がいい。輝く五月の、鳥みな歌えば、私も君に、思いを告げる。
 立ち上がって伝票をつかみ、レジに向かう。先ほどのウェイトレスがきびきびした動作でレジを打つのを、眩しいような悲しいような気持ちで眺めた。直子にある影が、目の前の娘にはなかった。それにしても、直子のことを考えるときの自分は、女を思う男というよりは、娘を思う母親みたいだ。直子がそれを望んでいるからだろうか。
 笑顔のウェイトレスを眺めながら、どこかひとごとのようにそう思った。

 「世界に告げよ」だった。世界に告げよ、野を越え、山越え、救いの君は、来たりましぬと。
「クリスチャンなの?」
それが、私が初めて千尋にかけた言葉だった。
「いいえ」
教室に勝手に入った私に少し面食らいながらも、千尋は感じよく笑った。その頃から、千尋はいつも一番遅くまで練習をしていた。
「学校がキリスト教系だったのよ。聖書の時間は寝てたけど、讃美歌は好きだったの。チャペルの中で聴くと、何ていうか、心がきれいになる気がして」
予想外のしゃべり方に、私が面食らう番だった。安心したようながっかりしたような、変な気持ちだった。それでも、讃美歌についての意見には、同意せざるを得なかった。
「これ、そんなにメジャーじゃないのに、よく知ってるのね」
私は言葉に詰まってしまう。詳細を話したくはない。それで、
「じゃあ、どんな神様を信じているの」
と、変なことを口走ってしまった。
「そうねえ」
真剣に考えた後、千尋は感情の読み取れない顔で言った。
「無力な神様、かしら」
「……無力な神様」
オレンジ色の電灯に照らされた千尋の横顔は、彫刻作品のようだった。これを創り出した神様の無力を、私はとてもいいと思った。
「それ、何ですか?」
そして私は再び、男に声をかけている。眼鏡をかけた色の白い男は、明らかに当惑していた。
「え、何って」
私は意識して、ふわりと微笑む。男の手には、分厚い緑の本があった。
「日本語アクセント辞典」
表紙の文字を、私は声に出して読んだ。世の中には様々な書物があり、様々な人間がいる。
「あの、僕、あずまおとこなんですけど、関西方言を研究しているんです。それでまず、標準語のアクセントを確認しようと思って」
少し警戒を解いた男が、中途半端な笑顔で言った。図書館には大きな窓があって、電気をつけなくとも十分に明るい。よく見ると、男は思ったより若く、まだ二十代のようだった。
――マッペなんて、生まれてこなければよかったのにって思うの。それとも、わたしが生まれてこなければよかった。そうだわ、そのほうがずっといい。
 『少女ソフィアの夏』はとてもよかったが、隣に『いまを生きる聖書の話』と書かれた本が置いてあって――「外国の小説」というコーナーだったのに、外国のものでないばかりか、小説ですらなかった――、私はいらいらしていた。本当にキリストは、私の先回りばかりして、行く手を塞いでしまう。このことを本当に話したいのは千尋なのに、私にはそれができない。私は彼を恐れている。正確に言えば、彼に嫌われることや、彼を失うことを。
「どこかの先生なんです?」
「いや、あの、大学院で研究してるんですよ。この図書館、専門書も結構あるから、よく来てて」
わあ、すごい、と大げさには響かないように言い、私は白い歯を見せて笑った。この男が私を拒まないことを、私は経験から知っていた。

「ねえ、カノンひいて」
女の方の千尋が言った。十二歳くらいに見える。わかった、と言ってピアノの前に座り、俺はパッヘルベルのカノンの伴奏だけをひく。このコード進行にあわせて即興で演奏するのが、女の千尋は得意だった。
 サックスは天国みたいな音がする。女の千尋は、いつも俺を天国に連れて行ってくれる。澄んだ水が溢れる泉や、その水がなみなみと注がれた水がめが目に浮かぶ。俺は、両手でその水をすくう。水は宝石を溶かしたようなぐあいで、角度によって色を変える。くちびるを近づけて、そっとそれを飲んだ。喉を滑り落ちた水が、血液に乗って全身を巡る。体がすみずみまできれいになる。天国というのは、多分、地上には存在しえない清浄な水のあるところだ。
 突然サックスの音が消えた。水の流れが止まる。
「どうしたの」
俺はもっと、水を飲んでいたかった。
「ねえ、もっと吹いて」
「無理よ」
成長した女の千尋がこちらを向いた。顔も腕もぐしゃぐしゃにつぶれて、血まみれだった。
「こんなんじゃ、もう、吹けない」
血まみれの体が崩れてゆく。だんだんと人間の形を失い、ただの肉塊になってゆく。叫ぼうとしたけれど、声が出ない。
 そのとき、電話が鳴った。電話。電話。そうだ。電話に出なきゃならない。電話。電話。どこだ。
 あった。違う。カエルのおもちゃだ。これは?違う。ひしゃげた煙草の箱だった。これだ。いや、これも違う。これは履きつぶしたサンダル。これは……。違う。汚れた灰皿だ。
 電話は鳴り続け、女の千尋は崩れ続ける。でも、俺は電話を見つけることができない。
「ほら、ね」
完全に崩れる前に、くちびるが言った。
「あなたは、電話に出なかったじゃない」

「千尋!」
自分の声で目が覚めた。俺は現実で叫んでいた。真っ暗な部屋。どこだ。俺の部屋だろうか。そうだ。俺の部屋だ。俺は。俺は……千尋だ。男のほうの千尋。それ以外にない。
「……夢、か」
あんな女と暮らしているせいだ。笑おうとしたが、笑えなかった。それどころか、子どもみたいに泣きそうになってしまう。直子が夢を恐れる気持ちが、痛いほどにわかった。
 上体だけを起こして、電気をつける。それで、部屋のよそよそしさが大分ましになった。ため息を一つつく。それから、直子が今日帰って来なかったことに思い至った。手を伸ばして携帯を確認してみるが、メールも着信もない。
 とはいえ、これまでもこんなことはあった。直子は、勝手に去っては、また現れる。女の千尋の影を連れて。
「無力な神様、か」
直子と初めて会ってから、もう一年になる。
――無力な神様。
あのときの直子は、明らかに意表をつかれていた。それから、笑ってるんだか泣いてるんだか、よくわからない顔をした。
――いいね、それ。
俺はそれ以上何もきかなかった。今でもきけないでいる。女の千尋の二の舞はごめんだ。あの喪失――あるいはそれに似たもの――をもう一度味わうことに、俺は耐えられそうもない。今以上直子に近づいて、引き返せなくなるのが怖かった。
 時計の針の音がやけに大きく響く。例え眠っている時間であっても、一人と二人とでは静かさが違う。直子はどこをほっつき歩いているんだろう。しばらく帰らないつもりなんだろうか。
 やっと一人になれた、という開放感はなく、ただ胸がざわざわした。悪いことしか思い浮かばない。悪夢のせいだろうか。直子の涙が目に浮かぶ。きたならしい男の腕が、直子の腰に回される。大きな手がシャツと下着を引きはがし、白い胸があらわになる。
 俺は、身震いする。こんなことを考えるべきではなかった。直子は色々な男と寝ているけれど、求めているのは肉体的なものではない。探し方が分からずに、迷っているだけなのだ。
 努力して、頭の中から直子を消す。そして、サックスのことを考えようとしかけれど、うまくいかなくて、別の女のことを考えた。昔――ごく普通の男だったとき――はもてたから、ネタに不自由はしない。それでも、悪夢のぬめぬめした気配が、完全に消えることはなかった。

 茫漠とした温かさの中にいた。巨大なうさぎの毛の中にいるようだった。
   うつし世をばはなれて
   あまがける日来たらば
   いよよ近くみもとにゆき
   主のみかおをあおぎみん
 私は、この温かさにのまれてはいけないと思う。それなのに、眠くて体が動かない。頭もはっきりしない。
「さてさて」
キリストが、慈しみ深く笑った。
「あれは、小学校の入学式だったね」
キリストの言おうとしていることが、私にはわかった。それを知っているのに、キリストは話をやめない。
「お母さん、あのとき四十三歳だったんだっけ。他のお母さんが若く見えて、あなた、帰り道に何て言ったか、自分で覚えているのかな」
私は涙をこらえている。泣いたら負けだ。泣いたらキリストは私を許すだろう。許されたくなんかない。
――お母さんって若いよね?
帰り道、私はそう言ったのだ。何度も、何度も。お母さんって若いよね?
「大丈夫だよ。私が助けてあげるから」
キリストの指し示す先に、母がいた。母は内臓を取り出されていた。
「お母さん!」
叫んだのに、音が出ない。私は無力だった。
「心配しないで。お母さんを、新しくしてあげる」
キリストの手には、真新しい内臓があった。
 肺が入れられる。肝臓が入れられる。胃と腸が入れられる。母は、どんどんきれいになっていった。でもそれは、私の知らない母だった。
「お母さん」
私は母の方へ手を伸ばす。しかし、彼女はこちらを見ない。
「お願い。お母さん、ごめんなさい。お母さん。元に戻って。私何でもするから。お母さん。きれいになんてならなくていいよ。お父さんは、お母さんのせいじゃないよ。お母さんのままでいて。ねえ、元に戻って」
「あなたも、ほら」
キリストが目の前に立った。ひとそろいの新しい内臓をもって。
「お母さんと同じになればいい」
「いやよ。私、私じゃなくなるなんて嫌」
「でも、」
そう言ったのは母だった。
「それであなたは、本当のあなたになるのよ」
新しい内臓を得た母が、慈しみ深く微笑んでいる。母は、私ではなく、キリストを選んだのだ。慈愛の光が満ち溢れる。その中で、私はたった一人、絶望に沈んでいった。

 電車の座席はちくちくする。日が当たって温かい。日曜日の早い時間なので、車両はがらがらだった。少なくとも、満員電車でうなされて不審がられる、という最悪の事態は避けられたわけだ。
 天気とは対照的に、心は沈みっぱなしだった。役立たずの男だ。獏の要素なんてまるでなかった。出会って一日も経たずに悪夢を見せるなんて、ろくなもんじゃない。
 しかし、あいつが獏ではないということは、最初から分かっていた気がする。あいつについていったのは、認めたくはないけれど、千尋を避けるためだった。千尋を困らせて、千尋に避けられることだけは、絶対に耐えられなかった。そうなるぐらいなら、自分で彼を避けたほうがまだましだ。
 うららかな日差しの中を、電車はのんびりと、眠たげに進む。まるで、世界中が平和であるかのように。
 あの日も、今日みたいな青空だった。
 母が仕事に出た後、私は聖書や讃美歌集や、キリストの絵が描かれた冊子や、その他さまざまな書籍――私のものも、母のものも――を流しに集め、サラダ油をかけた。でも、火をつけるのが怖くて、漫画や映画のようには、それらを燃やすことができなかった。
 結局すべてをごみ袋に入れ、近くのごみ捨て場に置いた。青空の下、透明な袋の中から、キリストは私を見ていた。憎しみも、悲しみも、何も隠すことができなかった。どれだけ走っても、油まみれの視線が、体の外にも中にも貼りついていた。
 あれ以来、母とは会っていない。あのときからずっと、私は逃げ続けている。
「おかあさん、見て、橋」
向かいの席で、小さな女の子が、窓の外を指さした。
「電車、橋の上、走ってる」
女の子が笑う。母親らしき女が笑う。車内の光が増し、電車全体が大きく息をつく。
 いっそあれぐらい小さかったら、母の言うなりに、自分をキリストに差し出せたのだろうか。幸か不幸か、私は既に中学生で、何でも受け入れられる年齢ではなかった。父を失い、祖母を失った母の変化が――友人にもらったお守りを捨てたり、「生まれ変わり」と言ったら激怒したり、世間一般的なクリスマスを祝わせてくれなかったり、そんな風になっていく彼女が――、私にはただただ恐ろしかった。
 神様よりも大切だとは、言ってくれなかった。私がいればそれでいいとは、言ってくれなかった。私が父の血を引いていたからだろうか。キリストを拒んだからだろうか。それとも、何もかもが、私のせいだったからだろうか。
 小声ではしゃぐ親子を見ているうちに、無性に千尋に会いたくなった。そして、そう思った後、ひどく空しくなった。

 ハーモニカなら吹けると言っていたっけ。リコーダーのほうがいいだろうか。でも、童顔の直子がリコーダーなんて吹いたら、小学生に見えるかもしれない。
 目当てのマウスピースを選んだあと、俺は薄暗い楽器店の中をぶらぶらしていた。オレンジ色の照明に照らされた、電子ピアノやギターなどの花形楽器の影に、オカリナや木琴やトライアングルといった、小さな楽器たちが鎮座している。大正琴のレッスンをやらないか、とほんの一週間前言われたことを思い出し、俺は頭痛を覚えた。おばさん連中に人気があるので、うちの会社も大々的にやり始めるのだそうだ。サックスだけで生きられるほどの才覚がないことを知ってはいても、こういうことの一々に反応してしまう。これが女の千尋だったら……いや、もうやめよう。
 楽器初心者にも演奏可能なものを見て回るけれど、どれも今一つぴんとこない。直子には、やはりサックスが合うような気がした。問題があるとすれば、天国みたいな音を奏でられるぐらいに、直子が練習をするタイプではないということだ。
 楽譜コーナーを過ぎたときに、ふとそれを見つけ、俺はそれから目が離せなくなった。そうか。何も楽器にこだわる必要はないのだ。音楽というのは本質的に、楽器を必要とするものではない。
 俺はそれを手に持って、レジに向かった。直子は、きっと喜んでくれるだろう。喜びを表に出すような女ではないけれど。
 店を出ると、Gの音のように澄んだ青空だった(このイメージは多分、「ドレミの歌」の影響を受けている。)。今日は、帰ってくるだろうか。早くこれを渡して、俺が少なくとも直子の幸せを望んでいることを、伝えたいと思った。

 もう長いこと、自分の家に帰っていない。マンションまでのゆるやかな坂道を上りながら、ふいにそう思った。狭いワンルームだが、それなりにきれいにしてある。獏がいるときはちょくちょく帰っていたのに、千尋の部屋に居着いてからは、家があることさえ思い出さなくなってしまった。
 いっそ解約して、千尋の同居人になってしまおうか。そう思いついた瞬間、言い知れない恐ろしさが体の中に広がった。怖いのは、千尋にそれを断られることではない。バランスが崩れることだ。例えば、千尋の視線に含まれる気遣いが、温かさが失われてしまったら。例えば、私が千尋を特別だと思えなくなってしまったら。そうなったら、私は帰る場所を失ってしまう。
 何だか、最後は奥さんの元へ帰る不倫男みたいだな。私は自嘲みたいに笑う。植え込みのつつじは既に満開で、鮮やかな桃色と潔い白色と、そのどちらでもない薄桃色の花があった。私は、どれに似ているだろうか。千尋は、どれに似ているだろうか。色合いを眺めるため、少し速度を落としながらエントランスに入る。
 合鍵でドアを開けると、コンソメの匂いがした。千尋は料理が上手い。料理だけじゃない。掃除も、洗濯も、お茶を入れるのも、気の利いたお菓子を用意するのも、何でも一人でやってしまう。日々を丁寧に生きることが、千尋は本当に上手だ。自分の下着の洗濯以外、私にはやることが何もない。
「お帰り」
キッチンでは、青いエプロンをかけた千尋がコンロの前に立っていた。
「ただいま」
どこへ行っていたの、と聞かれないことについて、安心すべきか落胆すべきか決めかねたまま、私は返事する。エプロンをした千尋は、洒落たカフェの店員みたいだった。手足が長いからだと思う。
「お天気だから、布団干しといたわよ」
「あ……ごめん」
「お昼、ミネストローネでいい?」
「うん」
「あ。そうそう」
鍋の火を弱火にして、千尋は突然リビングに向かった。ごそごそ音を立てて、カバンの中から何かを取り出している。
「どうしたの」
「ちょっと待ってて」
立ち上がった千尋は、まっすぐ私のところへ来た。一歩分ずつ距離が狭まるその時間は、ほんのわずかなはずなのに、妙に長く感じてどきどきする。変だ。何か、変だ。
「これ、どうかしら、気に入ってくれたらいいんだけど」
小さな包みが、私に差し出されていた。包みが小さいせいか、改めて千尋の体の大きさを感じてしまう。
「なあに」
「開けてみて」
緊張しながら、藍色のリボンと水色の包装紙をとった。視線を感じて、指が少し震える。中には、四角い透明ケースが入っていた。
「何か分かる?」
「……サックス」
「正解」
透明ケースの中には、サックスをかたどったブローチが入っていた。すごく精工なブローチだ。小さいのに、キイもマウスピースもちゃんとついている。
「どうして」
声の震えを隠しながら、料理を再開した千尋を見る。鍋の中では、ミネストローネが出来上がろうとしていた。
「直子、サックス吹けないけど、サックスの音好きでしょう。これ見ながら、頭の中で音を鳴らせばいいわ」
そう言って、千尋は微笑んだ。
 嬉しい。本当に嬉しい。でも私、サックスの音じゃなくて、千尋の音が好きなの。頭の中で、千尋の音を鳴らすことにするわ。
 千尋の音だけじゃないの。千尋のことがとても好き。私ね、いろんな人にひどいことをしたの。それで、みんな失くしてしまった。でも、千尋を失うのは、とても辛い。
 あのね、千尋は私のこと、ほんのちょっとだけでも、好きでいてくれる?
「ありがとう」
心に浮かんだすべての言葉を呑み込んで、私はそれだけ言った。それから、こう付け足した。
「私、明日からしばらく帰って来ないかもしれない」
千尋の顔は見られなかった。鍋だけが、ぐつぐつと、平和な音を立てている。

「切符を拝見します」
車掌が隣に立っていた。
「え」
「切符を出してください」
有無を言わせぬ口調で、車掌が言う。私は慌ててかばんの中をひっかきまわす。切符。切符。切符ってなんだっけ。
「はい」
私は聖書を差し出した。これならば、とられてもよいと思ったのだ。車掌は首を横に振った。
「これじゃあだめです。もっと、大事なものを出してくれませんか」
「それじゃあ、これは」
私は『少女ソフィアの夏』を差し出した。
「これも、なくなって困るというものではないでしょう。……を出してください」
「え」
「……を」
「これかしら」
私は、サックスのブローチを差し出した。
「そうです。これですよ。これであなたは立派な乗客です」
満足そうな車掌がブローチを取り上げて、その場を去っていく。ふいに、とてつもない喪失感に襲われた。私は今、何を手放したのだろう。
 視線を感じて、窓の外を見た。反対車線に止まった電車の中から、一人の乗客が私を見ている。
「あ……」
大事な人なのに、名前を思い出せなかった。あれを手放したせいだ。
 その人は、寂しそうに笑っていた。そのくちびるが動き、「許してあげる」と言った。

「直子」
目を開けると、色の白い男が、私の頬を指でぬぐっていた。冷たい頬。泣いていたのだろうか。
「大丈夫?怖い夢?」
芝居がかった心配そうな表情に、私は嫌悪を覚える。こいつなら、一人のほうがましかもしれない。
「大丈夫よ」
努めて冷静を装って、私はあずま男の手をそっと払った。男は労わるような顔をし、私は暗澹たる気持ちになる。こいつに何が分かるというのか。冷めた顔が見えないように、私は男の肩に顔をうずめた。
 同情され、労わられる。そのこと自体は悪いことじゃない。一瞬だけでも罪悪を忘れることができる。でも、ほんの一部でも自分をさらけ出すことについて、私は決まって後悔する羽目になった。
 それにしても、この男に至っては、罪悪を忘れさせてさえくれない。空しさが増してゆくばかりだ。
「お母さんに捨てられてから、一人で生きてきたんだもんね。かわいそうに。そりゃあ、怖い夢だって見るよ」
男の言葉に、そうね、とあいまいな返事をする。捨てたのは、私のはずだった。それなのに、捨てられたという気持ちが、どうしてもぬぐえない。
「ちょっとごめんね」
男は携帯をとった。画面が着信を知らせている。もしもし、という愚鈍な応答。
 関西方言では、「一モーラ」の単語は長く伸ばすのだ、とあずま男は言う。「血」は「ちぃ」と、「毛」は「けぇ」と、「手」は「てぇ」と言うのだと。世の中には、色々なものに興味を持つ人間がいる。それでも、宗教よりは方言のほうが、ずっと健康的だ。
 電話する男の隣で、私は千尋のことを思った。「千尋」という名前は、思い出すまでもなく私の中にある。私は彼の名前を失ったりはしない。もちろん、失うわけがない。ブローチだって、ちゃんとかばんの中にある。色んなやつが夢に出ては奪っていこうとするから、私は日に何度もその存在を確かめている。しかし、もう一週間も会っていないことが、私を無性に不安にさせた。妙なものだ。悪夢から逃れるために獏を探していたはずなのに、今では千尋を避けるために男の元へ逃げている。
「だから、それは今度話すって。何なんだよ、こんな時間に」
男が声を荒げた。電話の向こうで、女が何か言っている。
「忙しいって言ってんだろ。切るぞ、もう」
「どうしたの」
興味はなかったが、尋ねないわけにもいかなかった。男はため息をつきながら、電話を置く。
「今の、俺の嫁」
男の顔にうすら笑いが浮かんでいた。地味で平坦な顔が、醜くゆがむ。
「え?」
「子どもできたから、籍だけ入れたんだけどさ。参るよ、もう、大学やめて就職しろって、そればっかり。堕ろさないって言ったのは自分なんだから、一人で何とかしろって」
 父とあの女の笑い声がよみがえる。母の背中が、闇の中の自分が。
 あの女の顔を、私は知らない。でも、あれは私だったのかもしれない。
「帰るわ」
ベッドを抜け出て、私は頭からワンピースを被った。
「ちょっと、待ってよ、どこ行くの」
「帰るの」
「帰りたくないって言ってただろ。大丈夫だって、ばれないよ、絶対」
ヒールをつっかけて、私は扉を開ける。玄関まで来た男は、外までは追いかけて来なかった。
「怖がってんのか。自分で誘ったくせに」
扉を閉める前に、あざけるような声が、背中に浴びせられた。
 真っ暗な街を、ヒールの音を響かせて走る。獏どころじゃない。最低の男だ。今までこんなことはなかった。なかったはずだ。それとも、それも思い込みだったのだろうか。
 駅前でタクシーを拾う。逃げ込むように乗り込んですぐ、千尋の住所を告げる。おとなしそうな白髪の運転手は、「はい」とだけ言い、無言で車を走らせた。私が息を切らせていることや、涙を流していることについては、見ないふりを決めたようだった。
 いっそこの運転手にすべてをさらけだしてしまおうか。誰でもいいのだ。懺悔し、祈り、許してもらえるならば、誰でも。
 私は首を振って、頭から思考を振り払う。そして、千尋の顔だけを思い浮かべた。私は自分の望みを知っている。ただ、それを実行する勇気がないだけだ。

「直子?帰ったの?」
チャイムを鳴らした一分後、玄関のドアが開き、千尋が顔を出した。眠たそうだけれど、迷惑そうではない。青いパジャマ、千尋の匂い。よかった。また、会えた。抱き着きたい、という衝動を抑えたら、泣きそうになってしまう。
「直子?」
「……」
「どうしたの?」
「嘘でもいいから、一回だけ、好きって言ってくれないかな」
それが、千尋にかけることができた、精一杯の言葉だった。驚くかと思ったけれど、千尋は寂しそうに笑った。さっきの夢を否応なく思い出す。それともまだ、夢の中にいるのだろうか。
「中に入りましょう」
言われて、私は薄暗い玄関に足を踏み入れる。ほんの一週間ぶりなのに、ひどく懐かしい感じがした。
 テーブルについて、二人でホットミルクを飲んだ。こっくりとした液体が口の中に広がり、喉を通って胃に落ちる。その濃さを、滑らかさを、私はゆっくりと味わった。体が温まるにつれ、心に刺さった無数のとげが、どんどん取れていく。飲み終わってからしばらく、どちらも何も言わなかった。
 ずいぶん長い間、そうしていた気がする。暗かった窓の外が、だんだん白く、明るくなっていった。
「石、投げにいかない?」
ふいにそう言った千尋は、どこか遠くを見ていた。
「え?」
「川で石投げ。すっきりするわよ。バイクの後ろにのっけてあげるわ」
やったことないけど。少し戸惑っていると、千尋はおかしそうに笑い、経験者が優遇されるやつじゃないわ、と言った。

 六月の夜明けは早い。川辺はもうすみずみまで明るかった。
「降りて」
バイクを止めて、千尋が言う。素直に従って地面に降りると、私のヘルメットを外してくれた。つめたい指がのどに触れ、触れたと思った瞬間に離れてしまう。その一瞬の長さと短さを味わいながら、千尋の後について水際まで歩いた。
「けっこう、いい景色じゃない?ボランティアのおじさんたちが見回ってくれてるから、ごみがないの」
千尋はそう言って、河原の石を一つ拾い、滑らかなフォームでそれを投げた。四回ジャンプして、石は水に沈む。あの石がもう一度地上に出ることはあるのだろうか。
「俺、本当は、いつきって言うんだ」
突然、声色が変わった。作った高い声ではなく、普通の男の声だった。
「いつき?」
「樹木の樹で、いつき。それが俺の名前」
「え……」
「千尋は、姉の名前なんだよ。死んだ姉の」
背を向けているから、千尋の顔は見えない。声からも、何の感情も読めなかった。
「俺よりずっとサックスがうまかったんだけど、そのせいで、いい学校に受かっちゃってさ。ついてけなくなって、ビルから飛び降りた」
千尋はかがんで、もう一つ石を拾う。そして、その石を投げようとしてやめた。
「誰も口にしないけど、俺が死ねばよかったって、みんな思ってる」
「だから、お姉さんの名前を」
「うん。まだ戸籍は変えてないけどね」
「話し方も?」
「いや、これは、なんていうかさ。もう女と関わりたくなかったから」
千尋は笑ったけれど、私は笑えなかった。
「俺、電話に出なかったんだ」
「え」
「死ぬ前に、姉が電話をかけてきたんだけど、何話していいかわかんなかったから、出なかったんだよ。昔は本当に仲が良かったんだけどね。受験の邪魔だからって言われて、遊べなくなって、話すことも」
千尋はそこで話を切って、石を投げた。石は放物線を描いて、今度はジャンプをせずに、そのままなすすべもなく沈んでいった。
「死んだことも含めて、受け入れろって言われたんだ。死んだ、ことも、含めて、受け入れろって。そんなこと、絶対無理だって思ったけど」
樹はこちらを向いた。
「俺がもし、受け入れるって言ったら、直子も受け入れられる?」
 樹の顔を見るのがつらくて、私は俯き目をつむった。静かな水の音が聴こえる。水音は樹の言葉をのせて耳から入り、体のいちばん奥まで届いた。言うべき言葉は、何一つ見つからなかった。
 腰をかがめて、一番小さな白い石を拾い、不格好なフォームで投げる。それが小さな水しぶきをあげて、沈んでいくのを見届けた後、今度は次々と石を拾い、拾ったそばから水面へ投げていった。大きな石、小さな石、黒い石、白い石、重い石、軽い石。
 私は投げ続けた。私が投げているのは、もう石ではなかった。いつしか私は、自分の体中にできたかさぶたを、はがしては投げていた。
 かさぶたはいろいろな形をしていた。祖母の形。父の形。母の形。あの女の形。キリストの形。もう思い出せない幾人もの男の形。それから、千尋だった樹の形。
「俺、思うんだけど、悪夢っていうのは」
獏が――樹が――言った。
「誰かに食べさせたり、燃やしたりするよりか、そのままの姿で解放してあげたほうが、いいんじゃないかな」
 川に落ちたかさぶたは、形を変えて、めだかぐらいの小さな魚になった。解き放たれたものの、どこへ行ってよいかわからず、魚はその場でまごまごしている。
「水に触ってごらん」
樹が言い、私の手を取った。私たちはかがんで、二つの手をそっと水の中に入れる。水は冷たい。手は温かい。空は青い。川は流れる。
 本当は、悲しかった。寂しかった。行かないでほしかった。大切だと言ってほしかった。そして今私は、樹を求めている。
「行って、なすべきことをなして」
私はそう言った。うろうろしていた魚たちは、私を見上げ、瞬きをする。それから、自分の場所を求めて、てんでに泳ぎだして行った。


<作品のテーマ>

 最近他の方の作品に全然コメントできていない身で厚かましいのですが、お気付きの点を御指摘いただければ幸いです。
   投稿者  : 涼格朱銀
 この作品についてはどうコメントしたものか、ものすごく迷います。

 私は作者の作品をいくらか読んでいるので、この作品で何がしたいのかはある程度推測できるのですけど、この作品単体で読むと、書かれてある内容が全部中途半端で、下手をすると自己中女が不幸に酔って不満をまき散らしているだけで、何も反省しないし学ばないし改めもしないだけの話に見えてしまいます。

 この作品が小説賞の最終候補に残らなかった理由はわかるし、その判断は正しいと思うのですけど、書こうとしていることがもっとうまく、正しく読者に伝わるようにすれば、かなりいい作品になる可能性があるだけに、もったいないな、とも思います。

 ただ、この作品のポテンシャルを引き出そうと思ったら、3万字前後の字数では全然足りないです。20万字は欲しい。
 この作品が中途半端になっているのは、作者の技術不足と言うよりも、字数不足の影響の方が大きいと思います。短編で扱い切れる内容ではない。
 この作品を3万字で収めようと思ったら、この作品にかける作者の思い入れを捨てて、もっと冷静な立ち位置から手を入れるほかないと思います。

 私がこの作品のコメントに困るのは、その辺なのです。私は作者の他の作品を知っているから、作者がこの作品に対して思い入れがあるのはわかるんですよ。勘違いかもしれませんけど。
 一方で、約3万字制限の小説賞に応募された作品ということを考えると、これではダメだと言わざるを得ないのです。
 小説賞に応募する作品というのは他者に読ませる作品なわけで、読者に対するサービス業なのですよね。ただ自分が書きたいものを書いているだけではダメで、読者が読んで面白いことが一番重要です。自分の趣味も両立できたらなおいいですけど、それは二次的な問題に過ぎない。
 そしてこの作品は、趣味とサービスの両立が難しい構想だと思うのです。20万字使えるなら両立した作品を作れると思いますけど、短編でやるなら、サービス業に徹しないとうまく行きそうにない。ただ、この作品から伝わる思い入れの強さを考えると、それを薦めるのはどうも野暮な気もするのです。

 私は基本的に、作者のことよりも作品のことを考えていて、作品が一番いい形になるにはどうしたらいいだろう、というのを優先しています。だから本来なら、作品のために作者の思い入れは捨ててしまえというところなんですけど、ただ、この作品は作者の思い入れと不可分に結びついていると思うので、割り切って書くのが本当にいいのか、わからないんですよね。と同時に、このままではもったいないとも思う。

 根本的な作品の質の向上には繋がりませんが、一応細かい点についてもいくらか。

 この作品に登場する男で一番重要なのは千尋ですけど、千尋はゆうじろうの後に登場し、かつ、獏その1やゆうじろうと同じ分量と形式で描かれているため、読者は千尋が他の男と違うということを認識できません。男その1、その2、その3にしか見えないわけです。
 しかし実際には、獏その1とゆうじろうと千尋は、作中でそれぞれ別の役割を持っています。一度読んだらそれに気づきますけど、初読では区別が付かないことが読みにくさの原因になっています。
 役割の違う登場人物については、その違いについて、読者が理解しやすいように書き分ける必要があります。特に千尋は最重要人物ですから、本来なら夢と同じくらい字数を取って、登場時に人物描写してもいいくらいです(小説では、描写に字数を取ったものほど重要だと感じる。獏その1のシーンは1500字、千尋初登場シーンは1200字。ほぼ同等なので、同等程度の重要度だと読者は認識してしまう)。

 夢のシーンについてはほとんどは問題ないのですけど、冒頭のものは気になりました。
 まず、これは作品全体に言えることで作者のクセなのでしょうけど、祖母がどこでどうして窓からビスケットを投げているか、という基本的な情報が欠けています。たぶん縁側に座っているか何かしていると思われますけど、「縁側に座って、庭に向かってフィンガービスケットを投げている」みたいに、シーン構成に必要最低限の情報は、削らないでちゃんと書いた方がいいです。
 汽車の夢みたいに、舞台を詳細に描く必要の無いシーンでは省略してもいいですけど、冒頭の夢では構図が必要で、こういう場合は「常識でわかるだろう」と思われるような基本的な舞台の情報についても削らない方がいいです。
 次に、「意識が混濁して〜三十二歳の女にでもなった気分になる」は、夢のシーンとしての雰囲気を損ないますし、「私、施設に行くんでしょう」の台詞の印象を薄めてしまいますから、カットした方がいいと思います。
 この次の「干からびたビスケットは干からびた祖母の指そのものみたいで」は、何もここで次の展開をモロに教えなくてもいいと思います。受け取ったビスケットは干からびていて、いかにもまずそうだったとか、その程度でいい。でまあ、口に含むと、見た目に反して思ったより水気があったんだけど、なんかどうもねちゃねちゃして変な塩味がする。で、指で舌を拭ってみると、指には血と肉の破片が付着していたとか、そんな感じの書き方の方が雰囲気が出ると思います。

 作品の途中で千尋の視点に変わるシーンがありますが、この作品で視点人物を二人にするなら、直子と千尋の分量は半々にした方がいいと思います。現状の分量だったら、千尋からの視点のシーンは効果が薄くて、ない方がいい感じになっています。
   投稿日 : 2017/02/15 05:59
   投稿者  : 正宗友理子
読んでいただいて、本当にありがとうございます。
返信、勝手ながら、少しお時間を頂きますね。
よろしくお願いいたします。
   投稿日 : 2017/02/16 20:30
   投稿者  : ひつじ使い
読ませていただきました。
読み応えがあり、すごく良かったです。
少し誰のセリフなのかがすっと入ってこない箇所があったように思います。冒頭の「ねえ、私、施設に行くんでしょう」の辺りや、中盤の「――来たければ、来たら。きっともっと嫌われちゃうけど」といったところです。もし手が加えられそうであれば、そうした方がいいようにも感じました。

二回読ませていただきましたが、二回目のほうがいろいろと理解できて集中して読むことができました。この原因はといいますと、千尋さんのキャラ設定に慣れるまでに多少時間がかかったといったところでしょうか。とても興味の持てる設定だったと思います。

全体を通して作者さんの素晴らしい感性が反映されているように思いました。すごく羨ましく思いました。
これからも頑張ってください。
   投稿日 : 2017/02/18 15:54
   投稿者  : 正宗友理子
涼格朱銀様

 返信が遅くなって失礼いたしました。やっぱり……ダメですよね。どの作品よりも一生懸命書きはしましたが、今となってはどの作品よりも自分の良さが(あるとすればですが)出せなかったように思います。
 書いていただいたとおり、この作品は、わたしの思い入れと不可分なものだと感じています。よいところがあるとすれば、それはきっとわたしの思い入れに由来するものです。そして、この作品がまずいのは、単にわたしに筆力がないからです。自分の作品を卑下するのは読者に失礼な気もしますが、今回ばかりは書きたいものが書けない自分自身にがっかりしています。
 「作者自身の技術不足というよりも、字数不足の影響が大きい」とのことですが、実際のところ、この作品はわたしが書いた中で最長のものでして、この程度ですら構成に悩んで五里霧中でした。というわけで、字数が足りないのも、つまるところはわたしの技術不足のためです。
 しかし、もう手の入れようがないと思っていたこの作品ですが、ご指摘をいただいて、もう一度書き直してみようと思いました。本作のテーマほど自分が書きたいと思うものはないですから、新たな作品にとりかかる必要性も感じていませんし、再度この作品に納得するまで向き合ってみようと思います。
 その他のご指摘についても、ありがとうございます。特に描写不足などは、自分ではなかなか気づけませんので、大変参考になります。
 このような作品ですが、丁寧なアドバイス、とてもうれしかったです。また、過去の作品においても、色々お言葉をいただき、本当にありがとうございました(また投稿できるかどうか分からないので、今申し上げておきます。)。
   投稿日 : 2017/02/19 22:09
   投稿者  : 正宗友理子
ひつじ使い様

 いつも読んで下さり、本当にありがとうございます。読者がいてくれるということは、ものを書く身にとって、本当に幸せなことです。
 わたしは、一度何かの賞をとってみたいという不純な動機(?)でものを書いていて、この作品もスタートはそうだったのですが、小手先だけではだめだと感じ、自分なりのテーマと向き合いながら一生懸命書きました。ですから、読み応えがあると言っていただき、とてもうれしかったです。
 御指摘についても、ありがとうございます。わたしは文章のリズムを意識するあまり、内容への意識がおろそかになりがちなのですが、必要な描写まで切り捨てるのは本末転倒ですよね。自分ではなかなか気づきにくかったところです。
 千尋については、すごく難しかったです。男性視点でものを書くのは初めてなのに、難易度を高く設定してしまいました。実は「Ib」というフリーゲームの、男前なのにオネエの「ギャリー」というキャラクターが好きで、ついこんな風にしてしまいました。それから、恋愛関係とは少し違う関係というものも、書いてみたかったところです(ご存じなければ読み飛ばしていただきたいのですが、大島弓子の『バナナブレッドのプディング』という名作少女漫画のような雰囲気を出したかったのです。全然出せていませんが。)。
 このような作品を二回も読んでくださったなんて、感激しています。頂いたアドバイスを踏まえて、もっとよくなるように書き直してみたいと思います。また新たな作品を投稿できるかどうかわからないので、今申し上げますが、これまで本当にありがとうございました。でも、ひつじ使い様の作品は絶対に読ませていただきますので、また是非投稿なさってくださいね。
   投稿日 : 2017/02/19 22:40
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