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   『ホタル』

         投稿者 : 葵


全ての始まり
ねえ、気づいて。気づいてよ。私はここにいるよ。あなたのすぐ近くにいるよ。
私は今にも死にそうに思いつめた顔をしている彼の周りを必死に動いた。彼の目の前には川が流れている。
「蛍か。綺麗だな」
彼が私をみて泣きそうな顔で笑った。伸ばされた彼の手に私は包まれた。私が大好きだった彼の温もりを今までとは違う方法で感じた。
ねえ、私だよ。気づいてよ。
そんな想いを込めて彼の手の中で動いているとふいに彼の顔がくしゃりと歪んだ。
「美里………っ何で、何で死んだんだよ!」
ごめんね。あなたが今そんなに辛そうなのは私のせいだよね。
「今から、もっともっと長く幸せにいられたはずなのに…」
うん。私もそう思ってた。あなたと結婚して仲良く一生一緒に暮らしてゆけると。でも、私が簡単に死んじゃったからそれもだめになってしまった。
そう、私は数日前に命を落とした。恋人だった彼を残して。今日は私のお葬式の日だった。
「美里……」
彼はついにうずくまって慟哭した。
もっとあなたと一緒にいたかった。でも、私はもうあなたのそばにいられないから。
だから、生きて。
私のことなんて忘れて、もっと幸せな未来を進んでいって。私はあなたが天性を全うしてまた会えるようになる日を待ち続けているから。
ごめんね。ごめんね、玲司ー

八月十三日
また、こんな季節か。そんなことを思いながら俺は自然豊かな風景を眺めていた。目の前の川には現代にしては珍しいほどたくさんの蛍が飛んでいる。
俺は毎年墓参りの後、すぐそばにあるこの川に来ている。なぜかはわからないが葬式の日に辿り着いて以来なんだかこの場所に惹かれるのだ。
あいつが死んで何年になるだろう。四年とかそのくらいだっただろうか。もっと長かったかもしれないし短かったかもしれない。
何にせよ、今の俺には関係ない。生きる意味を失った今の俺は抜け殻も同然だった。時間の流れなど知る由もない。
半ば無意識のように煙草の火をつけた。蛍がいるほど環境がいい場所でそんなことをしていいのかとも思ったがやめられない。
元々ヘビースモーカーだったわけではない。これもあの時からだ。煙草も酒も体に悪いことなら何だって始めた。
早く死にたかった。早くあいつのところへ行きたかった。だから。
美味いとも感じないまま吸い続けていると一匹の蛍が飛んできた。
「また、お前か」
そう言って手を伸ばした。
毎年ここに来るたびに蛍が一匹寄ってくる。それが同じものかはわからないが一匹だけというのもおかしな気がする。
「お前が美里だったらよかったのにな」
故人は蛍になってお盆に帰ってくるという。どんな形でもいいから俺は美里に会いたかったのだ。
それでも蛍は違うと言った風に無情にどこかへ飛んでいった。
アパートに戻ると部屋の前に男が立っていた。
「先生!こんな時間までどこ行ってたんですか!一日中待たされましたよ」
担当の小木だった。
「ああ、すまん。つーか、今日打ち合わせあったか?」
「…締め切りですよ、締め切り!雑誌のコラム!」
小木ははあーーっと大仰にため息をついた。
「ああ、すまん。忘れてた」
「いついただけます?今日書き終えられるのなら待ちますけど」
「明日編集部に書いて持ってくよ。今日は無理だからな」
「今日なんかありましたっけ…ああ、お盆ですね」
少し気まずそうに小木が呟いた。
「ああ、一晩中迎え火を炊くよ」
俺は現代人にしては珍しくお盆の風習を守っている。とはいえ信心深いわけでもない。
ただ、霊魂になってでも美里に戻ってきて欲しいからというだけだ。だから迎え火は炊いても送り火は炊かない。戻らないで欲しいから。
「無理はしないでくださいね。先生、生活感皆無ですから」
「皆無とはなんだ、皆無とは」
「見たままの通りですよ。そんないつ切ったかもわからないようなボサボサの髪に無精髭生やして煙草くわえてたらその辺のホームレスにしか見えませんよ」
「ホームレスは金ねえから煙草吸わないだろ」
「屁理屈はどうでもいいんですよ。とにかく!明日絶対原稿お願いしますよ」
「わかったって。書く書く、書きますよ」
「ところで、まだ新作を書く気にはならないんですか?」
俺は小説家だ。正確に言うと小説家だった。だが、今はまともな小説も書かずに短めのエッセイだとかコラムだとかばかり書いている。
売れなかったわけではない。むしろ、それなりにヒット作を出してきた。
ただ、書く気が起きないのだ。今までの貯金や印税でそれなりに食っていけるから危機感も覚えない。
それ以前の話、あれ以来書けないのだ。何かに心を動かされることも、誰かになりきって多彩な感情を表現することもいつの間にかできなくなっていた。
どれだけ言葉を尽くしても表面だけのものしか書けない。それだけ俺の心はただひたすらに渇いてしまっているのだ。
「……ならねえよ。多分もう一生な」
「そんなこと言わないでくださいよ…相楽玲司の新作を待ってるファンは全国にいるんですから」
「知らねえよ。書く気にならないんだからしょうがないだろ」
長くなると面倒なので適当に小木をあしらって部屋の扉を開けた。
玄関に入ると転ばないのが不思議なくらい微妙なバランスで立っている不器用な形の茄子と胡瓜が俺を出迎えた。
「今晩はちゃんと美里を連れてきてくれよ」
何の気なしにそう声をかけた。

奇跡
また、一日中あの人のいるところが光って見えた。迎え火でもないのにあの人がつけた火は全て私に居場所を知らせる。
どんな些細なものでも煙草の火でさえも。今夜も例年通り迎え火が煌々と炊かれ始めた。
それらが意味することはあの人がまだ私のことをずっと忘れずにいてくれているということ。まだあの人が私の記憶にとらわれ続けているということ。
私はそれを嬉しく思うと同時に心配になった。忘れないでほしい、でも前に進んでほしい。そんな背反した思いが私の中でぐるぐると渦巻いていた。
できることなら生まれ変わりたい。だけどそれは無理だ。せめて、せめて。あの人に再び逢えたら。もう一度話せたら。
そう思った瞬間辺りが眩い光に包まれたー。

八月十四日
翌朝、目が覚めると椅子に座ったまま机の前で寝ていた。目の前には消えかかった火が燃えている。
なんとなく、迎え火なんだろうなということはわかった。だが、俺は近しい人を失ったことはない。一体誰のための迎え火だったのだろうか。
そこまで考えたときにふと違和感を覚えた。昨日まで覚えていた鬱屈とした気持ちが消えているのだ。
何に対してそれを思っていたのかはわからない。それでも昨日までは確実にあったはずの重い感情が跡形もなく消え去っていた。
首をかしげながら部屋を出てリビングに入るとキッチンで美里が朝食を作っていた。
「おはよう、玲司」
俺に気づいた美里がこちらを振り向いて微笑んだ。なんてことない通常の朝の風景。
そのはずだった。なのに、俺はー。
その光景を見てなすすべもなく立ち尽くしていた。頬を熱いものが流れ落ちた。
「玲司?どうしたの?」
美里が首をかしげながらこちらへ来る。俺はその華奢な肩を抱きしめた。
「美里…美里…っ」
何故だかはわからない。ただ、美里がここにいることが奇跡のように思えて涙が溢れ続けた。
「本当どうしたのよ、急に」
美里は微笑みながら俺の背中を撫でていた。この急に出てきたよくわからない感情が落ち着くまで俺たちはずっとそうしていた。

やっと俺が落ち着き、食卓に着くと美里が口を開いた。
「あ、そうだ。私今週ずっと遅番だから先に寝てて」
「ああ、わかった。俺今日は編集部行かないとだから入れ違いになるかも」
「え、そうなの?…ちょっと寂しいね」
残念そうな顔をした美里が可愛くてどうにかして会える時間を増やしたくなった。結婚しているというのにこれでは付き合っている時と大して変わらない。
「じゃあ、その後美里のカフェで仕事しようかな」
「ほんと?じゃあ待ってるね」
一瞬にして美里の顔が輝いた。昔からそうだが、かなり美里は感情が顔に出やすいのだ。
「あ、そうだ。いま新メニューが出ててね、…」
そんな風に他愛のない話を続けられることがとても幸せに感じられた。
朝食を終え、支度を整えてから家を出る時に謎の茄子と胡瓜に気がついた。俺はお盆の行事を完遂するほど信心深くはないし、美里が飾ったのかと首をかしげながら家を出た。
「はぁー。よかった間に合って…」
編集部に行くと、小木に盛大なため息をつかれた。
「すまんな、遅くなって」
「もう、すまんなじゃないですよ…本当最近全然仕事してくれませんし」
「ああ、そういえば朝このデータ持って来るときに気づいたんだが俺って今何も書くものないんだっけ?」
「先生さえ書く気になってくださればいくらでもありますよ。書かないって仰ったのは先生じゃないですか」
「俺?」
「はい、五年くらい前に突然。どんなに言っても書けないの一点張りでしたからスランプか何かかと思ってましたが」
「そんなこと言ったっけな…?」
今はこんなに書く気に溢れているというのに。
「じゃあこんな話とかはどうだ?」
パソコンに一緒に入っていたネタ帳の中から一番気になるものを見せた。
「ネタあるんじゃないですか!すごくいいです!書いてくださるなら是非お願いします」
「じゃあ今週中くらいには大まかに仕上げて持ってくるよ」
「相変わらず仕事早いですね…。今までのは本当に何だったんですか」
「さあ?俺にも全くわからねぇ」
俺はおどけたように肩をすくめて編集部を後にした。
全く今日は訳のわからないことが多すぎる。早くもボケたのだろうか俺は。

美里の職場に着いて中に入る前に自然に脇にそれ、ポケットに手を入れた。クシャクシャになった煙草の箱から一本取り出し火をつけた。
無意識のままに吸おうとしたとき一つ疑問が浮かんだ。俺は煙草などいつから吸い始めたのだろうか。
昔、美里に体に悪いから吸わないでと言われて以来絶対始めないと決めていたのに。やはり今日は不可解なことばかりだ。
吸ってみるとその味は違和感なく俺の口に馴染んだ。首をかしげながら煙草の火をもみ消して店内へ入った。
「いらっしゃい。ああ、相楽くん。美里ちゃーん、来たよ」
「お久しぶりです、マスター」
美里の上司であり、この店の店主であるマスターとは昔ここの常連だったため顔見知り同然だった。
「久しぶりってなんだ、お前この間来たばっかだろう」
「え?そうでしたか?おかしいな」
かなり長い間会っていない気がしたのに。それも一ヶ月やそこらでなく何年もの間。
首をひねっていると美里がぱたぱたと走ってきた。
「玲司。いつもの席でいい?そう思って空けてあるんだけど」
「ああ。じゃあそこで。仕事するからちょうどいい」
「美里ちゃんずっと待ってたぞ。一日中そわそわして」
それは美里の満面の笑みから大体想像がついた。
「マスター!そんなこと言わなくていいですから」
「しっかしお前ら仲良いなぁ。何年も結婚してんのにそんなこと少しも感じれねぇよ」
「ラブラブだもんね」
得意げな表情で美里がすり寄ってくる。
「美里、嬉しいけど後にしような。お前ここ職場だろ」
「えへへ」
恥ずかしそうに誤魔化す美里に反省の色はない。マスターはもう見慣れたようで気にもとめず俺を席に誘導した。
くるくると動き回って仕事をする美里を見ながら執筆をするのもなんだか久しぶりな気がした。
大人になってもどこか子供っぽさが抜けない動きをしている美里が愛おしく、目を細めて見ていると自然と昔のことが思い出された。

あの頃美里はまだ働き始めたばかりの二十歳で俺も二十五と幾ばくかは若かった。
俺は丁度売れ始めたばかりで毎日のようにここで仕事をしていた。書いても書いても書き足りない、そんな日々だった。
愛想も悪く、小綺麗さという言葉を失ったかのような身なりでパソコンを鋭い目つきで眺めている常連客はさぞ不気味だったのだろう。
今でこそ少しはまともになったがあの頃の俺はひどかった。鋭い眼光を隠すほどの長いボサボサの髪に生やしっぱなしの無精髭。
そんな一番隅の席を陣取るみすぼらしい男をマスター以外の店内の人間は全員遠巻きにしていた。そんな中、急に俺に接してくる店員が現れた。
急に俺の接客をするようになったその店員はいつもそわそわしていた。恐らく、俺が何かを書いているのがわかって気になったのだろう。だが、面倒なので気づいたまま知らないふりをしていた。
ある時、運んできたコーヒーを置いても一向に戻らないことがあった。
「なんか用か」
別に怒っていたわけではないがいつもの癖でぶっきらぼうな喋り方で問いかけた。そのせいで俺は人から恐れられることが多かったが珍しくその店員はそんな様子もなく会話に応じた。
「あ、すみません。勝手に覗き込んで失礼でしたよね」
「いや、別に構わないが」
「何書いてらっしゃるんですか?」
あまりの変わり身の早さに少し吹き出した。気になっているのが一つも隠せていない。
誰にでもこんなことをやっていたらそのうちクビになるぞと思いながら答えた。
「小説だよ」
「作家さんなんですか?」
「まあ、一応な」
「え、すごいです!!どんな話書いてるんですか?私読んだことあるかなー」
「気分次第で何でも書くけど基本はミステリだな」
最近のものを何作か挙げていくと、店員の顔はどんどんしかめ面になっていった。
「なんか難しそうなのばっかりですね…」
「いや、そんな難しいのはないぞ。俺の本は一応軽めで銘打たれてるから」
「…でも、あんまりわかんないです」
そもそもこの子は本を読むのだろうか。
次の日。
「相楽さん!昨日教えてもらった本一冊読みました!すっごい面白かったです」
「読んだのか?もう?」
「はい!すごく読みやすくって一気に読んじゃいました」
「嘘つけ、クマできてるぞ。読んでくれるのは嬉しいが接客業やってんだから体調管理はしっかりしろよ」
「相楽さん優しいんですね。もっと怖い人かと思ってました。ありがとうございます」
今の言葉をどうとったら優しくなるのか。そしてもっと怖い人とはなんだ、言葉を選べ。
色々気になるところが多すぎてどこから触れるべきかわからず閉口した。
マスターに呼ばれてパタパタとかけて行く彼女を見ると何故か口元が緩んだ。
それからも彼女は何かにつけて話しかけてきた。俺の本のことや、新作メニュー、ただの日常会話など何から何まで。
しつこいほど付き纏われたが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。俺は気づかぬうちに年に似合わず無邪気に笑う彼女に好意を持っていた。
そして、数ヶ月が経った頃彼女に告白されて俺たちは付き合いだした。それが美里だった。

「玲司、どうしたの?なんかぼーっとしてる?」
いつの間にか美里が目の前に立っていた。
「ん?いや、別に。美里が可愛いなあって思ってただけだよ」
照れる美里の頭を優しく撫で、仕事を再開した。
切りがついた頃パソコンをたたんで家に帰ってすぐに床に着いた。その晩は久しぶりによく眠れた気がした。

八月十五日
吐きそうなくらい気持ちが悪くて目が覚めた。理由は明白だ。頭上から俺を見下ろし叫んでるやつにある。
「玲司ー!起きてー早くー」
美里が俺をゆさゆさと揺さぶっている。
「ん……何美里………今何時?」
「八時。もうとっくに起きる時間だよ」
「まだ早えよ…俺昼まで寝てんだぞいつも」
「それじゃ全然一緒にいられないでしょー」
俺は基本夜型だ。夜中まで仕事をして、昼まで寝る。朝に起きるのは編集部に行く日くらいだ。
それでも俺は起きた。半分だけ。どんなに嫌いな朝でも美里に起こされるなら悪くない。
重い体を起こしながらその反動で美里にベットへ腰を下ろさせた。その肩へ頭を乗せる。
「…眠い」
「じゃあもう少し寝る?」
美里が少し嬉しそうに自分の膝を叩く。本当に一緒に居れさえすればいいらしい。
「十分だけ…」
遠慮なく俺はその膝に身を預けた。
次に起きた時は八時半だった。
「起きた?」
「ん。起こさなかったのか?」
「だってあまりにも寝入ってたから起こすのも忍びなくて」
「起こしてくれてよかったのに。でも、ありがとな」
上方に手を伸ばして美里の髪をくしゃりと撫でてゆっくり身を起こした。
起きてからの支度は早い。飯を食って着替えるくらいしかすることがないからだ。
「美里今日はどうするんだ?遅番だったら夕方まで時間があるだろ?」
「んー…玲司は?仕事あるの?」
「書くだけだから美里が行ってから始めるよ」
「じゃあどっか出かけない?久しぶりに玲司と出かけたい」
「ああ。じゃあ着替えてくるからどこ行きたいか決めててくれ」
適当にカジュアルなシャツにパンツを合わせてリビングへ戻った。
「決めたか?」
「うん、ららぽーと行きたい!何の場所か覚えてる?」
「俺らが初めて出かけた時の場所だろ?忘れねえよそんくらい」
電車で一時間程かかる所にあるショッピングモールだ。確か俺たちが付き合い始めたばかりの時にできた所で話題になっていた。
あの頃はお互いの距離感を図ることに苦労してぎこちなかった。あのもどかしさを思い出すとそれすら懐かしく、愛おしかった。
「あそこ行くの久しぶりだね。初デートの時以来かな?」
「まあ、遠いからな」
着いてしばらくした頃美里の行動がおかしいことに気づいた。
初デートの時と同じ行動ばかり取っているのだ。同じ店に同じ順番で入る。あの頃から何年も経っていて好みも変わっているはずなのに。
事実、美里の好きなブランドは既に変わっているし、今日も何も買っていない。あまりにも不自然な行動だった。
一通り店を回ってあるカフェに入った。それもあの時と同じ店だった。
「チョコブラウニーパフェ一つと、アイスティー一つお願いします」
「サンドイッチとアイスコーヒー」
美里が頼んだのはまたあの時と同じものだった。今は昼食として、あの時はティータイムとしてだったにもかかわらず。
「なあ、美里。本当にそれでいいのか?メニュー」
「ん?うん何で?」
「今昼だぞ?パフェなんて飯じゃねえだろ」
「大丈夫よ。ただ甘いものが食べたかっただけなの」
「お前今日おかしいぞ。何年も来てなかったのに急にこんなとこ来たいとか言い出すし、なんかあったのか?」
「ここに来たかったのはただなんとなく思い出に浸りたかっただけ」
やはり何かがおかしいと確信した。普段の美里なら絶対にこんなことを言わない。どちらかと言えば一瞬一瞬を大事に刹那的に生きる性格だからだ。
もし仮に思い出に浸りたいと思うことがあってもここに来るだけだろう。後は自分のその時好きなものを見て食べる、それで終わりのはずだ。
「やっぱりおかしいって。それならわざわざ同じ行動まで取る必要ないだろ?」
「忘れたくないの!記憶なんて少しずつ薄くなってくでしょ?ずっと一緒に居られればその分長く覚えてるかもしれないけど、そうじゃなかったらぼやけてくでしょ?でも、繰り返せばもう一度新鮮な状態に戻せるから」
そこまで言って美里は一度言葉を切った。
「本当は忘れたくない思い出なんてもっとあるけど、今日一日じゃ足りないからせめて最初のことくらい忘れたくないの」
その言葉を聞き強い不安に襲われた。自分でもわからないくらい深い深い心の奥底を握りつぶされたような大きな不安。
「…そんな今日で時間がなくなるみたいなこと言うなよ」
「わからないじゃない。この時間がいつ失われてもおかしくないのに。いつ失われないなんて言える?明日には、それが無事でも一週間後には失われてるかもしれないのに?あっけなく、なんの跡形もなく消えてしまうかもしれないのに?」
美里が何かに怯えたように、焦ったようにまくし立てる。こんな美里は今までに見たことがなかった。
興奮することはあっても何かが楽しかったり嬉しかったりした時ばかりだった。こんなパニックを起こしたようになることなど無かったのに。
俺は愕然として美里を見つめた。その視線に気づいた美里はハッとして言葉を止めた。
「ごめん、今のは言い過ぎた。冗談」
そう言って微笑んだ美里の顔は俺には何故か泣いているように見えた。

「ねえ、仕事までまだ時間あるし帰りにDVDでも借りて行かない?」
あの時と同じようにカフェを出てすぐ店を後にした。帰りの電車でそう言った美里はいつも通りに戻ったように見えた。
しかし、俺の中にあった不安や違和感は未だに消えてくれなかった。わずかに複雑な思いを残して俺は頷いた。
「玲司何か見たいのある?」
「んー…アクションかミステリ。できれば洋画がいいけど、美里の好きなのに合わせる」
「私恋愛ものがいいなー。洋画には私も賛成」
「またかよ…」
「だめ?」
美里がお願い、というように小首を傾げてこちらを向く。毎度のことながらこれはずるいと思う。
「…いいけど」
俺はそこまで恋愛ものが好きではない。だが、結局美里に負けていつもそうなるのだった。
だが、案の定いつもの通り途中で寝てしまった。嫌いなわけではないのだがまず興味がないのだ。
「ごめんね、玲司…」
深い眠りに落ちる直前、美里の声が聞こえた気がした。
ー夢を見た。俺は暗闇の中で何かを求め続けていた。どんなに必死に腕を伸ばしてもそこには届かない。
俺は大声でその名前を叫んでいる。だがその声はどこにも響かない。ただ耳が痛くなるほどの静寂が続くばかりだった。
泣きたくなるくらい大きな喪失感に押しつぶされそうになって目を覚ました。
目を開けると、暗い部屋の中一人だった。テーブルの上には美里の書き置きが残されていた。
『仕事に行ってます。熟睡中みたいだったから起こさないでおきました』
あんな夢を見た原因はこれかと漠然と思った。ただ仕事に行っただけなのに大袈裟なと苦笑しながら自室で仕事を始めた。
時間を忘れて仕事に没頭しているととっくに日付を越えていた。慌てて飯を食ったり色々しながら疑問を覚えた。
美里はいつもこんなに遅かっただろうか。
あのカフェは夜はバーになっているので帰りが遅いことに関しては不思議ではない。しかし、いつもは美里に声をかけられて時間に気づいていた気がしたのだ。
単に俺が今日早かっただけなのだろう。だが昼間の不安も相まって嫌な予感は残り続けていた。
また、昼間と同じ夢を見た。
俺は何かを求め続けている。叫んで、手を伸ばして、虚空を切る。
しかし、昼間と違うことがただ一つあった。人の話し声が聞こえる。ぼんやりと、不鮮明なノイズのように。
『かわーーーーーだーーーーに』
『こーーーご愁ーーーした』
少しずつノイズが鮮明になってくる。やめろ、そんな言葉聞きたくない。俺は必死で耳を塞ごうとするがこの暗闇の中ではそれもできなかった。
『奥ーーことーーやみーし上げーー』
やめろ。
『まだお若ーーたーに』
やめろ、やめろ、やめてくれ!
『この度はご愁傷様でした。奥様のことお悔やみ申し上げます』
『まだお若かったのにさぞお辛いでしょう』

黄泉がえり
私は今玲司のパソコンを見ている。彼が昔調べ物のために作って、今は存在を忘れているファイル。
彼が現実から逃れるために、精神を守るために調べた昔の伝承が集められている。死者のよみがえりにまつわるものばかり。
目についたものをいくつか開いてみる。
ー妻イザナミに先立たれたイザナギは黄泉の国へ遭いに行く。しかし、黄泉竈食ひをしてしまったイザナミは黄泉の国の住人となっていた。
イザナミは「帰りたいけれど、この国の神々と話をしてくるので、その間はけして私の姿を見てはいけません」そう言って御殿へ入って行った。
しかし、なかなか帰ってこないイザナミに痺れを切らしたイザナギは中を覗いてしまう。そこには腐敗して蛆がたかり、雷を纏ったイザナミの姿があった。
恐れをなして逃げ出したイザナギを怒ったイザナミが追いかける。結局二人は離縁してしまう。

万葉集
ーアポロンとカリオペの息子で竪琴の名手であるオルフェウスはエウリュディケと結婚する。しかし、エウリュディケはある日蛇に噛まれて死んでしまう。
オルフェウスは黄泉の国の支配者ハデスの元へ行き、エウリュディケを連れて行きたいと願い出る。ハデスは地上に着くまで振り向いてはならないという条件で聞き入れた。
とうとう地上へ着くかというところでオルフェウスは彼女がついて来てるのかどうかつい振り返ってしまった。途端、彼女は吸い込まれるように消えてしまった。

ギリシャ神話
そこまで読んで私はパソコンを閉じた。わかったことは一つだけ。とても残酷な真実。
何千何万年の歴史の中、愛する死者を取り戻した人は誰もいないー。

八月十六日
『この度はご愁傷様でした。奥様のことお悔やみ申し上げます』
「やめろーーー!!!!」
叫びながら飛び起きた。心臓がバクバクと鳴っていて全身に冷たい汗をかいていた。
嫌な夢を見た。恐らく。
ー美里が死んだ夢。
最悪だった。早く美里の顔を見てこの重い気持ちを軽減したくて部屋を出た。きっと普通に食事を作っているはずだ。
しかし、予想に反して美里はそこにいなかった。机の上には昨夜と同じように書き置きがあった。
『今日はシフトの変更で日中勤務になりました。二人で行きたい場所が一つあるんだけど仕事終わりに待ち合わせでいい?』
文章の下には地図があった。初めて聞く名前の山奥の川までの道が書かれている。
外を見るととうに日は高く昇っている。今から行ってちょうどいいくらいだろう。
やはり着いたのはちょうど待ち合わせの時間。日が暮れはじめた頃だった。
目の前には今まで見たこともないほど綺麗な川が広がっている。しばらく周囲を歩き回ったり、水の冷たさを楽しんだりしているとあたりはすっかり暗くなった。
蛍がちらほらと飛び出した。俺はその光景に何故か既視感を覚えた。来たことのない場所のはずなのに、何度もこの光景を見たことがある気がした。
美里は一向にやってこない。約束の時間からもう一時間は経っているだろう。一度、電話をしてみようと思った。
長い、長いコール音が響く。そして。
『おかけになった電話番号は現在使われておりません』
何故だ。今まで電話が通じなかったことなんてなかったのに。そこまで考えて、一つ思い出したことがあった。
ここ数日美里が電話を使っているところを見た覚えがない。その前はどうだっただろう。わからない。どれだけ必死に思い出そうとしても何も思い出せないのだ。
何故だ。何故思い出せない。いや、それ以前に美里は今どうしているのか。
同時に二つの疑問が頭の中を駆け巡る。まずは現在のことが優先だ、そう思っても集中できない。
何故だかここ最近以外の美里と過ごした記憶がないのだ。思い出せるのは付き合いはじめたばかりの昔のことだけ。
ー事故。
一瞬嫌な単語が思い浮かんだ。だが、それは最悪の場合の話だ。美里のことだから道に迷ったりしているだけだろう。
どれだけそう言い聞かせても最悪の想像は消えない。それどころかどんどん鮮明になっていく。
病院で包帯を巻かれて眠っている美里の姿。規則正しい電子音。祈りに集中するあまり噛みすぎて血が滲んだ自分の唇。断末魔の叫びのように長く伸びてそれっきり聞こえなくなった電子音。そして。
ー泣きながら抱きしめた美里の冷たい体温。
「うわあぁぁぁぁぁ!違う!違う!」
気がついたら俺は狂ったように叫んでいた。違う、違うとそれしか言葉を知らないかのように。
だが、本当は頭のどこかではわかっていた。これは俺が実際に体験した記憶だということを。
美里にプロポーズをしようと決めた日のことだった。夜、おあつらえ向きな夜景が見える場所で待ち合わせをした。
何時間待っても、美里は来なかった。何度も何度も電話をしたが繋がらなかった。ようやく折り返しがきたとき、電話の相手は美里ではなかった。
「すみません、橘美里さんのご家族の方ですか」
「いえ、違います」
なんだか嫌な予感がした。
「どのようなご関係の方ですか」
「恋人です」
「至急こちらに来ていただいていいですか」
住所とともに告げられたのは市内最大の病院の名前だった。事故に遭って意識不明の重体のまま運ばれたらしい。
病院に着くとすぐ、集中治療室に通された。
「ご家族の方の連絡先はわかりますか」
開口一番医者に尋ねられた。どうも、家族との連絡がつかなくて困っていたらしい。
「先程連絡をしましたが、着くのは明日になると思います」
美里は地元を離れて上京しているためすぐ来られないのだ。夜行に乗ったとしても今日中には間に合わないだろう。
「では、先に状況の説明をしてもよろしいでしょうか」
「はい」
「橘さんは、横断歩道で大型トラックに轢かれたところを救急搬送されて来ました。どうにか命は取り止めましたが、予断はならない状況です。今夜から明日にかけてが峠といったところでしょう」
その日は寝ずに一晩を明かした。一晩中美里に語りかけていた俺はさぞかし不気味な男だっただろう。
夜が明けてすぐくらいに美里の両親が到着した。一度だけ美里の実家に行ったことがあるので面識はあった。
「久しぶりだね、玲司くん」
「お久しぶりです」
「寝ていないだろう。大丈夫か?酷い隈ができている」
「俺は大丈夫です。それより、お父さん。大事な話があるんですが」
「なんだね」
「昨夜、美里さんに結婚の申し込みをしようとしていたんです」
「ああ」
美里の容体はずっと不安定な状態が続いている。美里の両親が着いてすぐ、このまま目を覚まさない可能性もあると聞かされていた。
「美里さんの了承を得ていないのにこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが許していただけないでしょうか」
「玲司くん。意味を分かって言っているのか?もし、このまま……万が一ということがあったら…」
「分かっています。何があってもこの先俺は美里さん以外愛しません。いや、愛せません。たとえ書類の上だけであっても繋がっていたいんです。万が一のことがあってからではもう…」
「分かった。そこまで言ってくれる相手のを美里が拒否しないわけがない。娘をよろしく頼む」
俺はすぐに婚姻届を出しに行った。
戻ってすぐのことだった。美里が息を引き取ったのはー。
霊安室で俺はただひたすらに呆然としていた。涙も出なかった。ただ、心が凍りついたように何も感じなかった。目の前で起こっていることが現実だと思えなかった。
警察が来て事故の様子を説明された。突然突っ込んで来たトラックから子供を庇って自分が轢かれたらしい。
美里らしい理由だった。少し苦笑して、次の瞬間涙が止まらなくなった。
冷たい美里の体に縋って泣き続けた。、もう返事が帰って来ることもない名前を呼び続けた。
俺は見ず知らずの子供なんかよりも美里に生きていて欲しかった。こんなことを言ったら美里に怒られるだろう。分かってはいたが俺には美里がいない世などなんの意味もなさないのだ。
結婚してわずか一時間も経たないうちに俺は寡夫となった。
電話が繋がらなかったのも当たり前だ。もうあの番号は誰も使っていないのだから。
もう何年も前に契約は切れている。ただ、俺が未練がましく応答のない番号を消せずにいただけだった。
じゃあ今の美里はなんなんだ。幽霊なのか。それより、なぜ美里はこれだけ時間が経っても来ないのか。
一つ、思いついたことがあった。俺はできる限り頭の中を美里のことで埋め尽くして煙草を吸った。
迎え火。死者の道しるべとなるもの。美里はここに来ないのではなくて来れないのではないか。
今正規の方法を行うことは出来ないが、火をつけることだけはできた。一か八かの賭けだった。
数十分吸い続けると、目の前に美里が現れた。やはり予想は当たっていた。
だが、どうしたことか美里の体は透けていた。今までははっきりと実体を持っていたというのに。
「玲司。私が死んだ病院に来て。お願い、早く」
「どういうことだ?なあ、美里。訳がわからない。今のお前はなんなんだ?」
「ごめんね、今は説明できない。時間がないのお願い。今日の十二時を超えてしまったら私は二度とあなたに会えなくなってしまう…」
そう言って美里は消えた。

美里が消えてすぐ俺はタクシーに飛び乗った。あと一時間しかない。どれだけ急いでも間に合わないかもしれない。気づくのが遅すぎたのだ。
山を降り、街中に差し掛かったあたりで渋滞が起きていた。近くで事故があったらしい。
これでは間に合うものも間に合わないとタクシーを降りてその辺にあった自転車に飛び乗った。持ち主には申し訳ないが緊急事態なんだ明日には返すからすまない、と心の中で謝った。
全力でペダルを漕いだ。自転車なんて何年ぶりに乗るだろう。引きこもりの中年もやし男にここまでの体力が残っていたことに驚愕した。
漕いで、漕いで漕ぎ続けた。ようやく病院が見えてきた。
敷地内に入るやいなや俺は自転車を乗り捨てて、院内に入った。いや、入ろうとした。
後一歩というところで美里に止められた。
「玲司」
「美里…なんで」
美里は静かに首を振った。死刑宣告を受けたかのような気分だった。
「もう間に合わない…」
「何がだ?なあ、どういうことだよ。今のお前は何なんだ…?」
「え…と、表現するとしたら一時的に生き返った幽霊ってところかな?話したら長くなるから一旦玲司の家に帰ろう。夜明けまでなら私はここにいられるから」
そして、美里はまた俺の前から消えた。家に戻れば会えるのだとわかっていても胸が死にそうなくらい苦しくなる。
家に戻ると暗闇の中美里が一人佇んでいた。やはりどこか気配というか存在そのものが薄くなっている気がする。
「お帰り。玲司」
こちらを振り返り、儚げに笑った美里は今まで見たことがないような雰囲気を纏っていた。恐ろしく妖艶で、凄絶な笑み。一瞬背筋がぞくりとした。
俺の知っている美里のままではないのだと直感した。ただ、明るいだけの美里では。
「美里。これは何なんだ?今起こっていることは。説明してくれ」
「そうだね。最後にゆっくり話そう」
そう言って美里は長い話を始めた。
始まりは私が死んだときだった。
死者の魂は蛍になって帰ってくるという言い伝えの通り私はお盆のたびにこちらへ帰ってくるようになった。
玲司も見覚えがあるでしょう?あの川で。私はいつもあなたの元へ飛んで行った。
私はずっとあなたのことを心配していた。毎年送り火は炊かれるし、煙草の火ですらその役割を果たしてたから。
こちら側からあなたのいる世界を見ると普段は真っ暗で何も見えない。ただ、あなたが何処かもわからないところで取っている行動がなんとなく見えるだけ。
でも、お盆の間だけは違う。送り火があればどこにあなたがいるのかわかった。あなたの元へ飛んで行くとことができた。
でも、送り火は生者が死者のことを想って炊くということが前提で。それはあなたがいつまで経っても私のことを忘れていないという証拠だった。
もちろん、嬉しかった。でも、それよりもあなたに前を向いて欲しかった。あなたがいる場所にはもう私はいないから。私のことなんて放っておいてあなたの人生を進んで欲しかった。
私はそんなあなたがずっとずっと心配で見守っていた。あなたがまえに進むことを願っていた。一度でいいから、あなたとまた話したいと願った。
そうしたら、奇跡が起こった。余りにも私達がお互いを思い続けているから、見かねた神様がもう一度チャンスをくれた。
私はこの世に生き返ることを許された。ある条件のもとで。
それは、毎日あなたに会うこと。そして、お盆最後の日ー今日のことーには家ではない場所、あの川で会うこと。あなたがいつもお盆の時に寄っていた川。
私たちは試されたの。私があなたの家に、あなたのもとに行くためにはあなたがずっと私のことを考えていないといけないから。
この、私が死んでいないことになっている状況でも。私が一時的に生き返ったことによって今までの現実が歪んだ。私の死に関することは全て存在しなくなった。
関わった人全ての記憶も。だから私は普通に働けたし、あなただって私を見ても普通に状況を受け入れた。
最近記憶がおかしいと思うことはなかった?あなたは煙草をやめてもいないし、仕事はしていなかった。
私が死んだせいで起きた変化は何も変わっていないの。ただ、私の死を忘れているだけ。
それでもあなたは私のことを想い続けてくれた。嬉しかった。上手くいくかもしれないと期待もした。
でも、だめだった。いくらあなたが私のことを想ってくれていても火がないと私にはわからないから。
私はずっと家で待っていた。そして、やっとあなたが煙草に火をつけた。急いで行った。でも、途中で事故に遭ってしまった。
次は猫。横断歩道に飛び出した子を助けた。結局私は同じことを繰り返しただけだった。また、同じような理由で同じような事故に遭ってあなたを失うことになった。
事故に遭ったせいで、病院に搬送されてしまったせいであなたの元へ行けなくなった。そして、十二時に間にあわせることは不可能になってしまった。
「じゃあ美里はどうなるんだ?また俺はお前がいない生活に戻らないといけないのか?」
「ごめんね。私は多分夜明けとともに消えてしまう。でも、最初と同じで私が生き返ったという記憶は無くなるから」
「この三日間の記憶もなくなるって言うのか?俺を置いていかないでくれ…頼むから。あんな生活二度とごめんだ。お前がいない人生なんて生きる価値も感じられないんだよ…」
俺は泣きそうな気分で美里を抱き寄せた。どうせすぐに失うのなら一分一秒でも長く近くにいたかった。
「なあ、どうしても無理ならもういっそ俺も連れて行ってくれよ…」
「ごめん。本当にごめん。でも、あなたは生きて」
「何でだよ?あんな地獄の苦しみもう嫌なんだよ」
「あなたはまだ生きられるから。死ななくていいなら生きて。私はあなたがこちら側に来るまでずっと待ってるから。私のことなんて忘れてあなたの人生だけを生きて」
「忘れる?お前のことを?冗談だろ。できるわけがない」
「本当なら私だって忘れて欲しくない。あなたが他の人とまた結婚するところなんて見たくない。でも、あなたが私に縛られ続けることの方が嫌なの」
馬鹿なのかと思った。そんなことあるわけがないのに。
「忘れねぇよ。お前以外の女なんて愛せるわけないだろ。俺はお前との記憶さえあればそれでいい。他の女なんてどうでもいい。興味もない」
「でも、今までのあなたはそうじゃなかった。生きようとなんてしていなかった。私のことをずっと想っていてくれたのは嬉しいけど、他のことなんて何もなかった」
「わかった。努力する、努力するよ。ちゃんと生きるようにする。仕事もする。だから、もう忘れろなんて言うな」
美里が嗚咽を漏らし始めた。
俺はずっと、美里を苦しめていた。死んだ後まで苦しめた。俺があいつのことを思っていることで責任を感じさせてしまっていた。
もっとちゃんと生きないと、そう思った。
「ごめんな、美里」
俺たちは最期の時を惜しむようにずっと寄り添っていた。

八月十七日
俺は誰もいないリビングで目を覚ました。何もない床に寝転んでいた。一体俺は何をしているのだろう。
起きた瞬間からどうしようもない喪失感に襲われた。最近では珍しくも無くなっていた感覚だ。
だが、昨日までとは何かが違う気がした。
今でも美里のことは狂おしいほど求め続けている。だが、一刻も早く死にたいとは思わなくなった。
ちゃんと仕事をして、生きよう。美里に会ったら胸を張って頑張ったと言えるように。今なら何かうわべだけではないものも書ける気がした。
俺はあの記憶さえ、美里と過ごした幸せさえあれば生きていける。
ー私はずっと待ってるから。またね。
ふと、美里の声が聞こえたような気がした。


<作品のテーマ>

神話や伝承を基にした話を書きたくて書きました。
初めてファンタジーらしき要素を入れたので辻褄が合わなく思えるところがたくさんある気がします。
ご指摘頂けると幸いです。
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