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   『素面の男』

         投稿者 : momonga


『素面の男』

眩いフラッシュが一斉にたかれる。
 鮮やかな金屏風を背景に、二人は指輪がはめられた互いの薬指を擦り合わせて、とびっきりの笑みを浮かべる。
 『旦那様を選ばれた理由は?』
 記者の質問に、新婦は待っていましたと言わんばかりに、白いドレスから今にもこぼれ落ちそうな鮮やか豊満ボディを乗り出して、
 『彼の優しく、そして一緒に居て楽しい性格に惹かれました!』
 人気グラビアアイドルはキュートな笑みを浮かべて、遥か昔からすっかり使い古された決め台詞を、さも凄い事のように大きな胸を張って言ってのける。隣で新郎は、大きな鼻の穴を膨らませて、まるで「カバ」のような不細工な笑みを浮かべている。「カバ」とは至って平凡で、センスの無い例えに思えるが、実際、彼の容姿は本当に「カバ」なのだ。とても、ジョニーデップとか、ディカプリオとは言えない。俳優界の名脇役だと云う「カバ」は、不揃いな前歯をそろりとマイクに近づけて、やはりオチも何もない、綺麗な水平線をなぞる様な台詞を述べる。それでも、披露宴の会場は何かが爆ぜたような拍手喝采に包まれて、二人の夫婦は確と互いの手を握り締め、真っ赤なカーペットが導く未来へと退いて行く。きっと、彼女のファンたちはテレビの前でハンカチか、服の袖でも噛みしめて地団太を踏んでいるに違いない。

玉の輿か、あるいは女の気が狂っているのか。

 「彼、同い年だろう?あんたと」
 テレビの様子をかじりつくように見つめながら、年老いた俺の母は、丸い背中を微かに揺らして、まるで独り言のようにつぶやく。俺はわざと聞こえないフリをして、天井に付いた小さなシミを見つめている。すっかり小さくなった母の背後で、伸びた無精ひげを濡らしオレンジ色のアイスキャンディーを頬張りながら、俺は己の細長い目の端を、より一層つり上げて卑屈に笑った。



1

 銀行勤めの父と、週三日のパートに出かける母との間に生まれた俺は、一人っ子であったこともあり、両親から愛情を注がれ、耳元で「お前はいい子」と繰り返しつぶやかれ、幼少期は少なくとも、人並みに自分は特別で、いい子なのだという意識を持つ、至って普通の子供だった。


それが壊れたのはある日、小学校での授業中に起きた出来事だった。

算数の授業中。俺は皆と同じように、真っ白いノートに細いミミズのようなつたない文字を懸命に書き記していく。算数は苦手だったが、それでも目の前の問題に対して必死で取り組む。その時、俺の小さな脳みそはフル回転していたので、意識ははっきりとしていた。
そんな俺の頭に、先生の足音が近付いて来た。パタパタと鳴るサンダルの音がうるさかったが、集中したいのでうつむいたままでいると、突然、左の頬に衝撃が走り、気付いた時、俺の身体はイスから弾き飛ばされ、次の瞬間にはシミのついた天井を見上げていた。
先生の高揚した顔がこちらを覗き込む。
「寝るな!」
先生は眉間にめい一杯深いしわを寄せると、雷の如く俺を一喝し、そして何事も無かったかのようにその場を去って行く。突然の出来事に、俺は皆の注目を一身に浴びながら何が何だかわからず、その場に座り込んだまま呆然としている。と、今度は背中の辺りに鋭い衝撃が走って
「ふざけやがって!」
俺はひっくり返った亀のように、降り注ぐ罵声と堅い拳を前に為す術が無く、ただ、顔だけは打たれまいと必死に両手をかざすことしか出来なかった。なされるがまま、俺は皆の怯える視線のど真ん中で、怠惰な奴隷のようにひたすら打たれ転がされる。


「お前が悪いよ」
休み時間になり、血がにじむ口元を洗っていると、俺は数人の生徒たちに囲まれる。
「授業中に寝るなんて!」
俺は訳が分からず、四肢が痙攣したように何度も首を横に振る。そんな筈はない。あの時、俺は確かに算数の問題に取り組んでいたのだ。だが誰も俺の言葉を信じていないようで、皆は訝しげな視線を向けると、
「しかも、怒られて先生にあんな態度を取るなんて」
全く身に覚えがない。俺は未だ夢の中に居るようで、目の前に薄い膜が張ったみたいに意識はぼんやりとしている。
「とにかく、先生には謝った方がいいよ」
皆は、あたかも悪を糾弾するかの如くきっぱりと言ってのける。俺は納得がいかず、むしろ俺の方が被害者だという本音を、未だ痛む喉の奥に飲み干して、渋々了解する。
皆が去ると、俺は言い知れぬ屈辱感と鉄の味を舐め、鈍く光るアルミ製の縁に両手をつく。緩んだ蛇口から、滴がぼたぼたと零れ落ちる。ふと、目の前の鏡に映る己の顔を見つめる。

一筋、彫刻刀で切り付けたような細い目。その奥で、小さな黒目が鈍く、不気味に光っている。俺は気づいた。能面のように白い顔面は、節々をのりで貼りつけられたみたいに固まって上手く動かない。湿ったタオルを押し付けられたような息苦しさすら感じる。自分の面だから知ってはいたが、現にこうなって見て、俺は改めて衝撃を受ける。
俺は、先生には謝らずに学校を後にした。

 「一体、どういう事?健二」
 家に帰ると、先生からは既に連絡が入っていたらしく、母は目の端に薄ら涙すら浮かべて、失態を犯した俺を叱る。そう言えば、俺の細い目や能面のような顔立ちは、母のそれにそっくりだった。そんな事を考えてぼんやりしていると、今度は仕事から帰ってきた父の堅い拳が俺の脳天にヒットする。
 「先生にきちんと謝りなさい」

 後日、俺は母に伴われて学校へ行き、先生に頭を下げた。先生はすっかり猫なで声で、今回は許しますからと、尻込みする俺たちに頭を上げさせた。

 俺はこの屈辱を今でも忘れない。



 それからというもの、俺は鏡を見ることに苦痛を感じるようになった。
例えばトイレを済まして手を洗う時、俺はうつむいたまま行う。たまにちらと視線を上げては、あのビリケン様が現れたような薄気味悪い己の表情とぶつかり、俺はすぐ怯えたように目をそらせてしまう。また、修学旅行などで撮った写真を見ると、皆が満面の笑みを浮かべている中で、俺だけがふて腐れた様に口をつぐみ、顔をこわばらせている。目の前に立つシカですら、あまりの不様にそっぽを向いている。俺自身そんなつもりはないのだが、現にそのように映ってしまっているのだから仕方がない。
 決して他人から不細工と言われた訳でもないのだが、かと言って、俺が美男子でない事は、学生時代から俺が一切、女にモテなかった事実が確と証明している。

 女子連中が俺とすれ違う時、向こうはまるで道端に転がる石ころでも見るみたいに、一瞥しただけで、それからは特に何の感動も無く去ってしまう。悪く思われていないならそれでいいのだが、中学生にもなると、やはり異性というものを意識する歳頃で、女子連中から相手にされない苦痛は、少なからず多感な時期に在る俺の胸をジリジリと焼いた。
 俺は、この時期の学生連中が陥る、所謂ナルシシズムとは無縁の生活を送るようになっていた。女子連中に相手にされないのなら、せめて暗くじめじめとした木陰にじっと身を潜めて、己の存在をここから綺麗さっぱり消してしまいたい。そんな淡い希望を抱くようになった。
 生徒指導の目を掻い潜ってワックスやら、ピアスをあける連中が居る傍らで、俺はシャツの第一ボタンまできちんと締め、勿論、腰パンなどはしなかった。月に一度回ってくる日直も、放課後の掃除も怠ったことは無い。一見すれば優等生なのだが、肝心の成績の方はあまりぱっとせず、むしろワックスで髪をツンツンに立たせている輩にも劣る様な有様なので、クラスで俺は、ちょっとした変わり者のような扱いを受けるようになった。
 「岩井君って、ちょっと変わってるよね。」
 特に女子連中から突然、抑えきれない好奇心をぎらつかせて話しかけられたときなどには、もう俺は今にも逃げ出したい衝動を抑え、冷や汗を拭いながらシドロモドロになり、どうにか差しさわりの無い答えを見つけようと思案しているうちに、顔は緩いコンクリートが固まるみたいにどんどん硬直していき、結局、ろくに応えられもせず、仕舞いにはかの女子連中に怪訝な表情を浮かべられてしまう。

 その手の脅迫的な観念は、気にすればするほど、かえって拍車がかかっていき、まるで延々と続く穴の奥底に突き落とされたような浮遊感、絶望感を、震える歯と歯で噛みしめる事となる。

 ときに背後で、甲高い笑い声を聞くと、俺は無意識に四肢をこわばらせ、まるで撃たれたように動けなくなってしまう。悪魔の囁き。彼らがこちらを指さし嘲笑っているのではないかと思うと、気が気ではなくなるのだ。単なる俺の思い込みかもしれないが、この目で確かめてみない限り、その可能性を否定することは出来ない。決心して下っ腹に力を込め、恐る恐る振り返ると、うちの一人と目が合い、両者の間に気まずい空気が流れる。やはり、俺の勘違いだったようだ。そんな時、俺は己の細長い目の端を、より一層つり上げて卑屈に笑った。考えるよりも先に、俺の中にある防衛本能が顔の筋肉に信号を送る。それで果たして正しいのかどうか、分からないが、とりあえずその場はどうにか収まる。
 
 目が細いから、相手に視線の動きを悟られることは無いだろうけれど、例えば女子連中の胸元やスカートの隙間に目が行くと、途端、俺は弾かれたように目を逸らせてしまう。では、どこを見ていればいいのか。あれこれ考え、シミのついたタイルの床を眺めながら歩いているうちに、向かって来た肩とぶつかって
 「大丈夫?」
 大きな瞳がこちらを覗き込む。相手の白い肌がまぶしくて、俺は光を遮るようにぎこちなく首を傾ける。
 「久しぶりだね。元気?」
 「うん……。」
 早くその場をやり過ごしたい俺は、手と手をもじもじとして落ち着かない。逃げ場を求めて、薄汚い窓の外に広がる、これまた灰を敷き詰めたように薄暗い曇り空を見つめる。   
「今度またボウリングにでも行こうよ。」
 「ああ……。」
 しかし彼女は、美咲は、俺を逃してはくれない。
たった一年間クラスが違っただけで、彼女は旧友と久方ぶりの再会を果たしたみたいに喜び、思い出話に花を咲かせる。横を通り過ぎて行く生徒たちの視線が苦しくて、俺はうつむいたまま黙っている。それでも嬉しそうに話し続ける彼女に、だからこそ、彼女は彼女たる所以なのだろうと、俺は心底感心してしまう。
確かに、二人は市内の同じ病院で生まれ、幼稚園から中学校まで同じ進路を歩んできた。でも、幼馴染でありながら、樹海に生えるキノコみたいにじめじめとした俺とは違って、昔から彼女の周りにはいつも笑いが絶えず、彼女自身がまるで草木を照らす陽だまりの様な存在だった。そして、彼女はとても美しかった。


いつか、俺が美咲に気があるという噂を立てられたことがある。
まさか、俺にそんな気は毛頭なかった。幼馴染の彼女に対してそのような感情を抱くのは、例えば姉か妹の身体的成長に直面して戸惑ってしまう時の様なこそばゆさ、罪悪感があった。ただ、女にモテない俺が唯一、彼女とは話す機会があるというだけで、その手の連中はすぐ自分の良いように解釈し、からかってくる。
俺がそんな根も葉もない噂をかき消そうと躍起になっている時も、彼女の方はまるで気にせず、平然と俺に笑みを向け話しかけてくる。それで俺が顔を真っ赤にしてうつむくので、連中の腹黒い楽しみはより一層助長されることとなる。

お前如きが。

分かっているさ。俺にとって、彼女が如何に「高嶺の花」であるかは、俺自身がよくよく理解している。背は高く、整った目鼻立ち。そして、何より犬のように人懐っこい性格が、多くの男子の心をくすぐる。これまで長く傍に居た俺だからこそ、彼女が持つ魅力は重々承知しているつもりだ。彼女に心惹かれる連中を、俺は傍で退屈な映画でも眺めるみたいに見つめていた。ずっと自分には関係ないと思っていた。
そんな噂は全く無視してしまえばいいのだが、それ以来、彼女の存在は、今さら俺の中で喉の奥に引っかかる小骨のように、時として俺の身をチクチクと刺すようになった。

 例えば美咲が、他のクラスの男子と廊下で立ち話をしている時、俺の中に何かめらめらと燃えるものが感じられてどうにも抑えきれなくなる。彼女は連中に笑みを向け、小鳥のように愛らしく首を傾げる。どんな奴に対しても彼女は他と同等の笑みを授ける。額に落ちた前髪を、そっとかき分ける指の白さを、美しさを、俺は見逃さない。そんな時、胸の奥に何かが詰まったような息苦しさすら感じられる。
 どうしてだろうか。俺はそのような幻想、妄想を頭の中から振り払おうともがく。自分にはまるで関係の無かった存在が、突如、物凄い勢いで眼前に迫ってきて、あまりの急激な変化に俺は戸惑う。彼女が振り向くと、まるでサイダーの様に爽やかな、仄かに甘酸っぱい香りが鼻をつく。そして、俺の中には、腹の底からむらむらと沸き立つ熱い何かが感じられる。馬鹿馬鹿しいと頭ではわかっていても、俺の中で急激に変化し、組み替えられていく何かが、理性と云う名のたがを今にも吹っ飛ばしてしまいそうになる。
 恐ろしかった。いつかそれが爆発してしまう日が来ることを、俺はこの頃から密かに予感していた。そして、その事を確信することになる、ある「事件」があったことを、俺はよく覚えている。
 
 
 
2

 美咲についてある噂が立った。彼女が、2組に居る「坂口」と云う男子生徒と付き合っているというのだ。
才色兼備な彼女に、彼氏の一人や二人居たところで、今さら何の不思議もない。以前にも男が居るという噂が、男子同士の下らぬ会話の一部で持ち上がっていたので決して驚くべきことではないのだが、今回の件については誰もが首を傾げていた。
と云うのも、その「坂口」という男子生徒が、特段イケメンでもなければ、頭が良い訳でもなく、むしろ授業中に突然、席を立って歩き回ったり、急に大声を張り上げたりするような所謂「問題児」だったのだ。これにはさすがの俺もあきれて肩をすくめる他なかった。

俺は以前、その坂口と清掃委員会の仕事で一緒になったことがある。
奴はいつもどこか視線が定まらない上に、何かぶつぶつとつぶやいていて正直、俺は気持ちが悪いと思った。常に低姿勢を保ち続けてきた俺ですら、こいつは自分以下だと即座に烙印を押し、校内クリーン活動の際には、後ろから軽くケツを小突いたりして扱き使ったものだ。
こんな乞食か気違い同然の男に、まさか美咲が心惹かれるとは思えない。俺はどうせかの連中が仕掛けた下らぬ噂だと、すっかり高をくくっていた。


「美咲と付き合っているんだって?」
俺は醜く腰をかがめる坂口の、猫背の後を手ぶらのまま歩きながら馬鹿みたいに問う。
「だから、何さ。」
坂口はおどおどとして、不器用な手つきで長いトングを使いゴミを拾い集めていく。彼が手にした塵取りからは、先ほどから中身がボロボロと零れ落ちているが、あえて何も言わない。どうせまた拾うのはこいつ自身だし、俺は両手をポケットに突っ込み、まるで犬の散歩気分で口笛など吹きながら放課後の薄暗い校庭を歩いていく。
「あぁっ」
グランドの隅にある部室棟の裏辺りで、ようやくゴミが零れている事に気づいたらしく、彼は愚かな悲鳴を上げ、肩までつく程の長い髪を手でバリバリと掻く。すると白い粉のようなものが飛び散るので俺は「汚い」と思った。まさか、その汚い手で美咲と手を繋いでいるなんて信じられなかったし、考えるだけアホらしいと思った。
プール裏のじめじめとした細道を歩いていると、塩素の匂いと一緒に、遠くの方から心地よい打球音が聞こえてくる。サッカー部や陸上部の小気味よい掛け声も響いてくる。さらに吹奏楽部の演奏が、焼けつくような夕焼け空と相まって、辺りに切ない雰囲気を醸し出す。俺はおぼつかない坂口の背中をつけながら、何だか息が詰まる様な思いがした。俺は部活には所属しなかった。中学生の部活特有の上下関係というものが煩わしく思えたのだ。俺を殴ったかの教師のような、理不尽な仕打ちをする連中に対しても、ただ一、二歳上と云うだけで、こちらはなくなく涙をのみ頭を下げなくてはならない。
坂口も同じであろう。
あらゆる不幸、理不尽から目を逸らせている。この挙動不審と不潔な身なりが、その事をよく表している。教室で事務連絡を交わす以外ろくに友達の居ない彼だが、特に不自由している様子も無く、ただ気味の悪い独り言をつぶやいている。いくら後ろ指を指されたって、無視すればいいし、自分が納得すればそれでいいのだ。

「俺は帰るから、後ちゃんとやっとけよ。」
俺はそう告げるとその場に坂口を打ち捨てる。唯一見下すことの出来る男の前で、俺はめい一杯胸を張る。去り際、奴は何か言いたげに口を開いたが、別にどうでも良かった。


やはり、美咲があの坂口と付き合っているとは思えなかった。
俺はすっかり確信を得て、下らぬ噂には一切耳を貸さなかった。現に、美咲は今日も皆に笑顔を振りまいて、いつもと変わらぬ様子だった。前から奴と付き合っていたとすれば、昨日今日で急に態度が変わる訳もないのだが、それにしても、彼女は今日もごく自然に、平等に、皆にささやかな幸せを授けていた。

 ぼんやりしていた俺は突然、激しく肩を叩かれる。
 「聞いてんのかよ」
 目の前に、憎たらしげに唇を尖がらせたクラスメイトのニキビ面が映る。途端、俺はぶっとばしてやりたいような気がした。俺を含む五、六人でつるんだ野郎共は、互いに脂ぎったニキビ面を突き合わせ、昨日やっていた「月9」の話題に没頭する。出演する女優や、ストーリーの展開について、皆があまりに熱く議論しているので、俺は何だか可笑しくて、何とか笑いを堪えようと口元を抑え、さも同意を示すようにうなずいた。俺にとっては、「月9ドラマ」が生み出す美男美女の世界などは所詮、夢に過ぎない。美男美女がじゃれ合い、乳繰り合う展開は、俺の人生には存在しない。そんな世界には一切、感情移入などできないし、至極綺麗な水が、かえって腹に合わぬように、見ていると何だか胃の辺りがむかむかとしてきてどうにも耐えられなくなる。
 「あの可愛い娘。誰だっけ?」
 「沙里ちゃん」
 「そうだ!」
 目じりを情けない程に下げて、奴らは二言目には可愛い娘、可愛い娘と、馬鹿の一つ覚えみたいに連呼する。だがこのグループに属する限り、俺は彼らに同意する義務があった。彼らだけでなく、近頃の中学生にとっての「月9」は、充実した学生生活を送るためのバイブルであり、欠かすことの出来ぬ至上命題であった。だから例え興味が無かったとしても、俺は来週もまた酷い悪臭に鼻を押さえながら「月9」を見るだろう。


 ひび割れた溶鉱炉の隙間から粘り気のあるマグマが垂れ込めたように、あまりに赤い空を見上げて俺は息を飲む。輪郭のはっきりとした雲が、目に見える速さで左から右へと流れていく。もうすぐ雨が降るだろうか。俺は持っていたほうきと塵取りを、端が錆びついたロッカーの中に放り込む。ほうきの柄がぶつかり弾ける音が俺の耳を通り抜け、放課後のがらんとした廊下に響き渡る。
 遠くの方で心地よい打球音がする。連中は汗水たらして打球を追いかける。それに比べて、俺が行く緑色の廊下は、もう春先だというのに少しヒンヤリとしていて、あまりに静かだった。坂口は来ない。奴は今日、委員会の掃除当番をすっぽかしたのだ。明日会ったらたっぷり叱りつけてやろう。俺は待ち疲れてだるくなった肩を回しながら固く決意する。
 俺は自分のバックを取りに教室へ戻る。上履きが床を叩く乾いた音が辺りに反響する。注意深く聞いていると、それがまるで自分のものではないかのように思えてくる。昼間は人が行き交う煩雑な校舎が、こうも静かであると、まるですべてが己の手中に収まってしまったかのような優越感と興奮を得ることが出来る。
目的の教室に近づいた時、俺は何かの気配を感じた。教室の扉が少しだけ空いている。いつもなら気にならない程の隙間が、今日は妙に不自然に感じられて、俺はいつの間に息を潜めていた。心臓の生々しい鼓動が耳の奥で響く。口がからからに乾いていたが、つばを飲み込む音さえ相手に悟られてしまいそうな気がした。俺は直感的に、それが誰であるかを理解していた。俺の中でけたたましいアラーム音が鳴る。足も小刻みに震えだした。それでも、言い知れぬ「恐怖」と「衝動」に駆られて、俺は冷たい窓縁にそっと指をかける。
 
 
 薄いカーテンが音も無くはためく。それは重なった二人のシルエットを、より一層際立たせるかの如く、教室に細い光の筋を浮かび上がらせる。美咲は、自らの服従を示すように坂口の前にひざまずき、彼のだらしなくほどけた靴ひもを懸命に結んでいる。しわくちゃのズボンを整え、崩れた襟を正し、長い髪にこびりついた汚い粉を、彼女は何のためらいも無く一つ一つ指でつまんで取り除く。眼前で撃たれたように動けない坂口の前髪を、細い指で除け、そして、彼女はそっと背伸びをする。刹那の幸福を授ける美咲の横顔はあまりに白く美しかった。

俺は、口内に染みだした生唾を飲み込む。今の美咲は「月9」に出る人気女優や、壁画に描かれる女神でも敵わない、ずっと洗練された存在だった。彼女の上気した頬が、接して少しつぶれた唇が、あまりに美しい。俺は眩暈がした。受け止めきれない。彼女の存在は、俺にとってまさに「腹に合わぬ水」だった。俺の中で激しい嫉妬の炎が燃え上がる。彼女がその身に宿すものは、俺が一生を駆けても決して得ることの出来ぬものだ。この世に生まれた瞬間それぞれに定められる運命。あまりに残酷な理不尽。俺は汗ばんだ手のひらを爪が喰い込むほどに強く握りしめる。この時ほど、この世にはびこる理不尽を思い知らされた瞬間は無い。一生と云うドラマの中で、俺や坂口のように醜く汚い脇役は、永遠に授けられる存在なのか。俺は叫びたかった。


駆けこんだ男子トイレの、湿った洗面台の縁に両手をつく。軽い眩暈とともに、酷く酸っぱいものが喉元からせり上がってくる。ひんやりとした汗が一粒、こめかみから顎にかけて滴り落ちていく。目の前の鏡に映るのっぺりとしていて、そのクセ細長い目には鋭い光を宿した己の面を、俺は心底「醜い」と思った。

 
 
俺は翌日の昼休みに美咲を呼び出した。一緒に飯を食おうと告げ、誰にも見られぬよう弁当を手に二人で屋上に上がった。
俺が、扉に張り付けられた「立ち入り禁止」の張り紙を容赦なく引き剥がすと、
「ばれたら先生に怒られるかな?」
そう言って美咲は、好奇心むき出しの笑みさえ浮かべて、二人の小さな悪戯を楽しんでいる模様。張りつめた気分を害されて俺は不機嫌に黙っている。
「ばれたら健二のせいにするから」
それでも美咲は執拗に俺の肩をつついてからかう。その指で昨日、奴のフケを取り除いたのだと思うと軽い悪寒が全身を襲う。
「健二は昔から悪い奴だったよねぇ」
そう言って彼女は、俺たちが初めて出会った児童公園の砂場での出来事を語り出す。当時3歳くらいだった俺は、後から親に伴われて来た美咲に砂場を取られてしまうと恐れたのか、互いの親が居る目の前で、あろうことか彼女の顔目がけて思い切り砂をぶちまけたのだ。
「何度も同じ話すんな。じいさんかよ」
俺が突っ込むと、美咲は無邪気に足をバタバタとさせて笑う。ぬるい風が頬を撫で、頭上の空を、小さな鳥が羽を広げたままゆっくりと旋回する。
「あの後、健二お母さんにすごい怒られて泣いてたよね。懐かしいなぁ」
「だから、じいさんかよ!」
イケない。ちょっと気を緩めればすぐ彼女のペースに引き込まれてしまう。ペットを遊ばせているつもりが、いつの間に自分の方が振り回されてしまう感じ。彼女の笑みは、どんな者の波長にもぴったりと合い、向き合う相手の気持ちを掴んで離さない。彼女はそういう奴だ。俺が砂をぶっかけた翌日、彼女は平気な顔して砂場にやってくると、嫌がるどころかむしろ馴れ馴れしく話しかけてきた。「昨日の事は許してあげる」だなんて言って、白い頬には無邪気な笑みさえ浮かべて……。
「見たんだよ。俺」
俺は突き放すように隠し持っていた刃を突きつける。美咲はとぼけて赤いウィンナーを頬張ったまま目を丸くしていたが、これで引いていては埒が明かなかった。
声は微かに震えていた。口は乾いて、舌が上手く回らない。肝心な時に限ってあがってしまう自分が情けない。美咲のガラスのように純粋無垢な瞳が、じっと答えを待っている。俺は決心し下腹のあたりに力を込めると、
「坂口と付き合っているんだろう。」
一気に告げ、そして、ようやく酸素を得たかのように大きく息を吸う。美咲は黙っている。告げたは良いものの、彼女の引きつった表情を見るのが怖くて俺は振り向くことが出来ない。
「彼はね」
しかし彼女は傷つくどころか、如何にも落ち着いた声で、
「みんなに比べてちょっと不器用なだけ。そう、それだけなの」
そんな事は聞いていない。俺は叫びたい気持ちを堪えて振り向くが、彼女は薄桃色の唇に優しげな笑みさえ浮かべていた。世界にはびこる、あらゆる不幸や理不尽をも全て包み込むような柔らかい笑み。
「坂口君だけじゃない。私はみんなの事が好き。勿論、健二の事も」
俺は陶器のように透き通った彼女の横顔を見つめる。
「みんな愛してる。」
一瞬、時が止まってしまったかのような感覚に陥る。旋回していた鳥が、今は錆びた柵のヘリに止まって羽を休めている。羽毛の一本たりとも動かさず、彼の視線の先に広がる晴天もまた、雲は青いキャンバスの上にべっとり張り付いて止まっている。刹那に訪れた白昼夢。バサバサと無遠慮な音を立てて鳥が飛び去った時、ようやく俺たちは長い金縛りから解放される。悔しかった。こんなにも臭い台詞を、一切の恥も外見も無く述べて見せる彼女が、述べてみたところで全く違和感を生じさせない彼女の美しさが、悔しい。こんな筈じゃなかった。俺が期待していた「絶望」は、今の彼女の横顔には微塵も感じられない。空は濃いインクを投げつけたみたいに青く澄んでいて、雲はどこまでも流れていく。銀色に光るアンテナの先が、澄んだ青空を虚しく刺す。
「お前には分からないさ」
俺は叩きつけるように叫ぶ。
「お前に、俺たちの気持ちなぞ分からない。分かる筈が無い」
「そんなことない!」
美咲は微かに瞳を潤ませて食い下がる。その清廉な表情が恨めしい。お前に分かる筈が無い。理不尽に虐げられる苦しみが、女子連中に石ころみたいに見つめられ、あしらわれる苦しみが、お前には理解できる筈が無い。お前はいつも砕けた笑声に包まれて、ぬくぬくと心地よい湯の中に浸かっている。寄り添っているつもりで居ても結局、俺たちの間には決定的に埋めがたい深い溝がどこまでも広がっている。
「じゃあな」
俺は食い下がる犬をいとも簡単にうち捨てるかの如く、美咲を棄ててその場を後にする。屋上の扉が閉まる軋んだ音を聞くまで、俺は一切後ろを振り返らない。はがした紙を元に戻し、薄ら埃を被った階段を下りていくと、生徒たちが行き交う雑踏が徐々に息を吹き返す。そこでようやく、俺は弁当箱を屋上に忘れてきたことに気付く。だが、今さら戻れるはずも無かった。

 
翌朝。机上には綺麗になった弁当箱と、ルーズリーフの切れ端に走り書きされた手紙が置いてあった。
『ご馳走様!by美咲』



激しい興奮を伴う、艶めかしい衝動が視界の隅にチラつく。俺の足に組み敷かれて、坂口の極めて不細工な面は、ひび割れた皿みたいに虚しく凹んでいる。
「てめぇ、昨日は掃除ばっくれやがって……。」
坂口の擦れた悲鳴をかき消すように、俺は熱くなった拳を振り下ろす。奴の骨を撲つ鈍い音が、二人しか居ない教室に響く。芋虫のように動き回る奴の骨ばった身体を、俺は両太ももに力を込めてロックする。まさか、掃除当番を一度さぼった如きで、口の端から血をふく程の制裁を加えるなんて、誰もが正気の沙汰ではないと思うだろう。今の俺にとっては理由なんてどうでも良かった。坂口の、白いシャツの襟にこびりついた一滴の血痕が、さらに俺の興奮を煽る。
「止めて!」
美咲の華奢な身体が後ろから覆いかぶさってきて、必死に制止しようとする。彼女の柔らかい両胸が、熱くなった俺の背筋に押し当てられる。艶のある髪が頬を撫で、爽やかな香りが鼻をつく。俺はいとも簡単に坂口の身体を解放し、奴は死にかけのゴキブリみたい不様に四肢をバタつかせて、ようやく悪魔の手から逃れる。餓鬼みたいにむしゃぶりつく坂口の醜い身体を抱きながら、美咲はうるんだ瞳でじっとこちらを凝視する。
「どうして……?」
彼女は、俺の拳が自らに向けられていたことを、よく理解していた。
「うるせぇっ!」
まるで自分が撲たれたみたいに彼女は肩をひくつかせる。未知の恐怖に対して、彼女は目の端から大粒の涙を流すが、その細い両腕は、坂口の哀れに震える身体を確と掴んで離さない。恐怖にすくむ身体を必死に支え堪えている。結局、俺は勝てなかった。このまま二人まとめて葬り去ることも出来たが、そんな体力は今の俺にはもう残されていない。今はただ、長いこと浸かっていた水面から這い出た時の様な怠さだけが、冷めた俺の身体を支配していた……。




3

あれから、俺の中に暗い衝動が影を落としたようだ。皮肉なことに、それは清廉崇高な筈の美咲の手によって生み出された気がしてならない。中学を卒業し、互いに違う道を歩み始めた今でも尚、俺はその虚しい夢想を拭い去ることが出来ない。
「それじゃあ、今から健二君が一気します!」
伸也は、辛いサワーがなみなみ注がれたジョッキを持ち上げると、俺の赤い鼻先に向かって半ば強引に突きつける。俺は暑苦しいシャツを脱ぎ捨てて、低いオレンジ灯のもとに自らの上半身を曝け出す。俺の貧弱な裸体を目撃して刹那、歪んだ女子連中の表情を、俺は決して見逃さなかった。
「よく見とけ!」
俺は濡れた居酒屋のテーブルに飛び乗ると、フロア中の注目を一身に浴びながら、ジョッキの中身を瞬く間に喉の奥に流し込む。せきを切ったような拍手喝采、俺は皆の前で両掌を広げ馬鹿みたいにおどけて見せる。
「健二君ってお酒強いんだねぇ。」
女子連中の羨望の眼差しが向けられるのも束の間、
「さすがだ健二。俺には無理だよォ」
伸也は腑抜けた情けない声を上げて、そばに座る女子大生の、豊満な胸元にわざとらしくもたれかかる。すると、俺に向けられていた女子連中の注目は一瞬にして潮が引いていくみたいに冷めてしまい
「まったく、しょうがない子ねぇ……。」
困りながらも実はまんざらでもない様子で、連中は甘える伸也の背中をさすったり、ペットボトルに入れた水を飲ませたりして奉仕する。嘘こけ。一転、すっかりうち捨てられた俺は、海岸に揚った小枝みたいに惨めな思いを噛みしめながら、そばに脱ぎ捨てたシャツをそっと着る。
「やばい。マジでダメかもしれない。」
伸也は今にも吐きそうなフリをして、両手で口元を抑えトイレに駆け込む。その背中を二、三人の女子たちが心配そうに追いかける。俺は残った女子と二人で席に取り残される。
「これおいしい」
女子はピンク色のカクテルをすすると、呼び出しボタンを押し、やって来た店員に注文を告げる。伸也と他の女子連中が戻ってくるまで、彼女は手元のスマホとぶっきらぼうににらみ合い、決して視線を上げることはしなかった。俺はテーブルの隅の方で極力彼女の邪魔にならぬよう自らの存在感を消す。ここで酒の勢いを借りて、冗談や誘い文句の一つでも言えたら良いのだが、困ったことに俺は、目の前の彼女の眉間による不快なしわの一つ一つまで見て取れるほどに、意識は隅の隅まですっかり覚め切っていた。
「カクテル来たよ」
それが唯一、二人の間に交わされた会話だった。


「気にするなよ」
伸也はほろ酔い気分で俺の肩に馴れ馴れしく寄りかかってくる。生ぬるい息が耳の穴にかかり、俺は露骨に舌を打つ。
「何だよ。折角お前の為に、今日は一緒に帰ってやるというのに!」
先ほどはあんな嘘まで演じて、良い手ごたえを掴んだというのに、敢えて女を棄て、こうして俺の自尊心をチクチクと刺すような彼の根性はさすがと言わざるを得ない。
「まだ間に合うぞ。あの二人はお前に気があるらしい」
そう言って俺は、ホームのベンチに腰かけていつまでもこちらを見つめている女子の方に向かって顎をしゃくる。
「タイプじゃないなぁ。お前にやるよ」
「馬鹿な」
俺は鼻で笑い飛ばすともう一度後ろを振り返る。彼女らは未だこちらを心配そうに見つめている。その目にはもはや俺の姿など映ってはいない。隣に居るこの最低最悪のペテン師が、まるで年下の純粋無垢な青年のように映っている、あまりに馬鹿な女の目だ。
「なぁ、もっと肩の力を抜いて楽しめよ。」
伸也は熱い手のひらで俺の頬を弄る。彼は相手を弄ぶ術をよくよく心得ている。男である俺ですら、時に甘え、時に蛇の如く唆す彼の妖艶な雰囲気には微かな興奮を覚える。無論、彼には持って生まれた彫の深い凛々しい顔つきがあったが、それが一転、主人の足元にすり寄る子猫みたいに甘い表情を見せられては、大抵の女たちがオチてしまうのも無理はない。こうして幾度も下らぬ女遊びを繰り返すうちに、俺は、彼が女性連中の前で実に器用にそれらのギャップを使い分けている事に気が付いた。

錆びついたガートの向こう、蛍火のように暗闇を流れていくネオンが眩しい。俺は胸をくすぐられるような興奮を覚える。弱冠16歳。俺たちはちょっと背伸びをして、下らぬ遊びに現を抜かしている。退屈な午後の授業をサボり、鮮やかなオレンジ色に染まる校舎を抜け出す時、それだけで、胸の奥底から突き上げてくる様な快感が全身を痺れさせた。遠くに六限目開始のチャイムを聞きながら、素早く小道を抜け、駅前広場で女子連中と落ち合う。相手のほとんどが年上だ。俺たちは授業の途中に抜け出したこともあって、しわくちゃのブレザー姿のまま登場する。伸也曰く、その方が女子たちに可愛がってもらえるそうだ。
「まだ16かぁ。若いなぁ〜」
集合場所から店まで移動しながら、俺たちはそれとなく会話を交わす。彼女らはまるで可愛い子供とでも話すみたいに高い声を上げ、俺たちのしわくちゃになった襟を優しく直してくれる。掴みはいい感じだ。しかし、
「うまく結べないんです」
伸也は持ち前のテクで、わざと下手くそに結んだネクタイを、あたかも困ったような顔して彼女らに見せびらかす。すると、やはりいつもの如く連中は吸い寄せられるみたいに伸也の周りに寄ってたかって、
「こうして旦那さんのを直して上げたいなぁ」
無駄に恍惚とした表情を浮かべて、伸也のとぼけた顔を見つめる。全く、こいつは何と巧妙な策士であろうか。連中の輪の中でわが成功を見せびらかすように一瞬、得意げなウィンクまで俺に投げかけてくる。

「ブスッとしとるなぁ」
それが初めて、伸也が俺に掛けた言葉だった。教室の隅の方で、いつものように居住まいを正し、極力目立たぬよう心掛けていた俺は、一瞬にして穴倉から引きずり出されたモグラのように、生まれつきの細目をより一層細めて振り向く。
 「お前、女にモテないだろう?」
 伸也は美しい絵画の一部に汚いシミを浮かび上がらせるように、口の端をひん曲げて、まるでこちらの反応を楽しむかのように問う。俺は初対面にしてあまりに直球すぎる彼の発言に言葉を失う。
 「そんな仏頂面じゃ女にモテないのも当然だ。クールキャラ気取っているのか知らんが、もしそのままのつもりならお前は一生童貞のままだぜ。」
 伸也はあまりに失礼な言葉を、まるで鼻歌でも口ずさむみたい次々に繰り出す。他人の机に長財布の飛び出た尻で上がり、全く悪びれる様子も無い彼の態度に、むしろ俺は清々しさすら感じ始める。一クラス40人ほど居るクラスメイトの中で、彼はなぜ俺に興味を持ったのか。偏差値最下位と、女子のスカート丈の短さでは県内一、二位を争う我が高において、シャツの第一ボタンまで締め、肝心の成績の方は別として、真面目に授業に参加する俺の様な生徒はかえって奇異に見えるのかもしれない。ともかく、俺の深部に一切の遠慮も無く土足で立ち入ってきた彼に、俺は羨望と、微かな親近感を抱くようになった。

 会が始まってからも、伸也の巧みな戦術は留まる事を知らない。
 「ワギナってなんですか?」
 彼は素っ頓狂に二重まぶたを見開いて問う。あまりに突拍子も無い発言に、俺は飲んでいたサワーをズボンの股間辺りにこぼしてしまう。
 「伸也君、それってすごい失礼な質問よ!」
 彼女らは黄色い悲鳴を上げる。伸也は心底不可思議といった感じで、とぼけたように首を傾げている。全く彼のお遊戯は見事なもので、俺の股間部分についた楕円状のシミもまた結構、面白いものだが、注目は自称・天然男の伸也に集まるばかりで、俺は一人寂しくテーブルクロスの端っこで濡れた股間を拭わなくてはならなかった。
いや、彼女らが伸也の肩をつついたりチヤホヤしている中、端の方で一人つまらなそうにストローをくわえている女子が居る。ノースリーブからむき出しになった白い二の腕が眩しい。
「なるほど、そう言う事か!」
ようやく理解したと言わんばかりに伸也が手を叩く。すると女子たちの歓声が起こるが、端の方で女は細い眉毛の一つも動かさず、挑むようにそちらの方を見つめている。恐らく彼女は、彼の巧妙な嘘を見抜いているに違いない。彼女は自分の優位を主張するかの如く、赤い口紅の端をつり上げて俺に目配せをした。

「まったく、下らない子たちよねぇ。」
 狭いエレベーターホール。消えかけの蛍光灯が俺の目をチカチカとさせる。
 「あの子たち、本気で彼の嘘を信じているのかしらね?」
 女は細い指に挟んだ煙草を得意げに吸って見せる。彼女の呼吸に合わせてついては消える火を俺は黙って見つめている。暗闇から吹き抜けてくる冷風が、火照った頬を心地よく撫でる。派遣社員をしているという彼女。短いタイトスカートの裾を手のひらでしきりに摩る。
 「別に構わないよ」
 何が?俺は問いたかった。黒い笑いが腹の底から突き上げてくる。彼女は俺の手を取り、濡れた己の局部へと誘う。彼女の不自然に尖った鼻先が近づくと、濃い化粧と煙草のきつい香りが俺の鼻をつく。
 「初めて?」
 俺がうなずくと、彼女は満足そうに赤い唇の隙間から白い歯をのぞかせる。香水のきつい香りも相まって俺は軽い吐き気すら覚える。実際、俺はこれまでに何度か他の女と交わった経験がある。その誰もが皆、目の前に居る俺を純粋無垢で幼稚な童貞であると勘違いし、俺の貧弱な身体を愛撫しながら、自らの母性に芯まで酔いしれている。貴方は伸也の嘘を見抜けて、俺の嘘は見抜けないのですか?俺は女の肩越しに密かにほくそ笑む。今この女を痺れさせるものは、俺の貧弱な身体ではなく、他の連中に対する優越感、そして、弱者を救う正義感か、或いは、うち捨てられた赤子を抱く美しい母性……。
 
 「知ってるか?メス鳥は、より美しい歌声のオス鳥を選ぶ。」
 伸也は食べ終えたアイスの棒を挑むように突き立てる。
 「メスのライオンはより強いオスの群れにつく。親馬は、生まれてすぐに立ち上がれない子馬を見捨てる。でも、人間は違う。」
 彼は得意げに、食べ終えたアイスの棒を指揮棒みたいに振って見せる。背後で授業開始のチャイムが鳴り、けだるい午後の空気が両瞼を重くさせる。
「人類は皆、平等なのさ。」
 伸也は、人類史上最も美しい言葉を、卑屈にゆがめた口の端から唾でも吐き出すみたいに言ってのける。彼は人類愛というものをよくよく心得ていた。現に、彼が連れ出してくれたことで、俺は何人かの女性と関係を持つことが出来た。だが、彼女らの腕に抱かれる時、俺は耐え難い苦痛を感じる。醜い獣のように貪りながら、俺は彼女らの美しい表情を、身体を、心の底から憎んだ。そんな時、俺は美咲と坂口の影が重なったあの瞬間の光景を思い出す。いつだって俺たちは恵みを授けられる側だった。そして、それを受け入れる為に、俺はあまりにも覚めていた。



 暗闇にキリで開けた様な星々がきらめく。まるで向こう側にある真っ白い世界がこちらを覗き見ているようだと、俺はぼんやりした意識下で思う。火照った身体は瞬く間に冷めていき、額に押し当てられたタオルから、ぬるい滴が頬をなぞり滴り落ちる。
 「ねぇ大丈夫?」
 女は口の端に意地の悪い笑みを浮かべながら、火照った俺の背中をさする。
 「まったく、お子様が粋がって飲むもんじゃないよ。」
 お前が飲ませたのだろう。俺はさも可笑しそうに笑っている女に向かって一人ごちる。黒いアスファルトに飛び散った吐しゃ物が、さらなる吐き気を煽る。今日は都内にある看護系学校の女学生たちが相手だというから、さぞかし優しく手ほどき奉仕してくれるだろうと俺も伸也も期待に胸を膨らませていたのだが、いざフタを開けてみれば、一気飲みを強要され、酷いタイミングでの一発芸無茶振り、挙句の果てには疲れ切った俺たちを打ち捨てて、連中は陽気に歌なぞ歌いながら二次会に出かけてしまう始末。彼女一人がどうにか残ってくれなければ、俺たちは今頃アスファルトにうち伏して喉を詰まらせ窒息死か、或いは警察の厄介になっていたかもしれない。よく考えてみれば、人の命がときに生まれ、ときに気まぐれな風にさらわれるかの如く消え去る過酷な現場で働く彼女たち程、強い生命力を持った女性は居ないのかもしれない。白衣の天使とか、優しく看病してくれるとか看護婦に対する可笑しな期待を寄せている世の男子たちに向かって俺は今、訴えたい。
それでも、俺は最後の気力を振り絞って、よろめくふりをして彼女のはだけたスカートの隙間からのぞくむっちりとした太ももにそっと触れてみる。と、すかさず振り下ろされる平手打ちによって、俺の手の甲は真っ赤に晴れ上がり、決死の悪あがきはけんもほろろに拒絶されてしまう。
「そんなにしたいなら、そう云う子を紹介してあげるよ。」
 彼女はすぐそばで力尽きている伸也の口に水をあてがいながら言う。俺は、彼女の母性と軽蔑の入り混じった緩い口元をじっと見つめている。
 「同じ学校生?」
 「ええ」
 「頼むよ」
 この期に及んで俺は言うと、卑屈に笑って見せる。我が醜さを表す鏡のように、女は口元を歪めてうなずく。目を覚ましたばかりであろうカエルが、不気味な低い声を上げて鳴いている。もう良いだろうと言わんばかりに、彼女はペットボトルを俺の胸元に押し付けると、白い電灯が導く夜道の方へそそくさと去ってしまう。別に構わないさ。俺は小さくなっていく女の背中を見つめながら、必死に自分に言い聞かせる。澄み渡る銀世界下、酔いつぶれた男と二人うち捨てられ、皮の剥けたささくれ如き小さな傷にいつまでもうじうじとして立ち直れない自分が今はとても哀れに思えた。

 「まぁこういう事もあるさ。」
 翌日。伸也はそう言って明るく振る舞ってみせるが、そのアゴには昨日の帰り道ですっころんで出来た傷が今も生々しく残っている。
 「あのメス豚どもめ!」
俺は唐突に言ってのけるが所詮、負け犬の遠吠えに過ぎず、近くに居た女子に非難めいた視線を送られるだけで、胸が焼けつくような痛みは深まる一方であった。もはや昨夜の出来事は俺たちの中で一生の傷跡となって残るのではないかとすら思えた。俺はポケットでやかましく震える携帯を机上に無造作に放り出す。昨日、俺たちを介抱してくれた女からのメールだった。
まさかの事態に一転、俺たちは傷が目立つ携帯画面にかじりつく。どうやら、彼女は昨日交わした約束を果たすというのだ。会合は明日の夜七時から。場所も既にセッティングしてあると云う。どういう風の吹き回しなのか分からないが、俺たちはもう今から期待に胸を膨らませ、放課後は資金繰りの為に、給料即日手渡しの日雇いアルバイトへ意気揚々と出かけた。


 「人生数撃てば当たるってものだ。」
 伸也は昨日より多少厚くなった財布を握り締め、前後に揺れる吊り革のリズムに身を任せる。山脈のように連なる家々の隙間へ、夕日が生々しい輝きを放ちながら落ちていく。連日の肉体労働はほとんど運動経験の無い俺にとっては身に堪えるが、若さとは恐ろしいもので、全身を刺すような筋肉痛も、今はサウナを出た後のように心地よいとすら感じられる。今日こそ手ぶらでは帰るまい。女は先日、そう云う子を用意すると約束したのだ。俺は並々ならぬ決意を固めていた。家を出る時、母には友達の家に泊まると告げてきた。もう何度そのような嘘をついたか分からないが、母は、俺が酒臭い息を漂わせながら帰ってきても、敢えて素知らぬフリをして、口元には無理に作った笑みさえ浮かべて俺を迎えてくれる。窓から差し込む鋭い朝日に晒され、母がいれたお茶をすすりながら俺は、叫びたい程の衝動に駆られる。父とはすっかり口もきいていない。父の事はもはやどうでも良かった。この世でただ一人、母だけは悲しませたくなかった。女と一夜を共にするとき、俺は母を犯すような罪悪感に苛まれる。そんな時、相手の女が浮かべる満ち足りたような笑みは、あまりに安っぽく見えて無性に腹立たしかった。俺に一時の幸福を授けていると勘違いをしている彼女らの恍惚とした表情を、俺は思い切りぶち壊してやりたいと思った。
電車が長いトンネルに入り、俺は目の前のガラスに浮かび上がる己の表情から目を逸らせる。電車には仕事に疲れたサラリーマンや、参考書を読みふける学生、買い物を終えた主婦らが、奇妙な無表情を浮かべてじっとしている。不意に、俺は自分の存在がそれら輪の中から弾き出されているような気がした。本人たちが無意識のうちに連なっていく日々の中で、俺だけが妙に覚めていて、激しい濁流を前に、あと一歩を踏み出すことが出来ない。母を騙して下らぬ遊びに呆けている罪悪感からか?いや、隣に居る伸也ですら、今は同じ世界に居るとは思えなかった。いつまでも続くトンネルに、俺は一刻も早く抜けてくれと、汗ばんだ手のひらを握り締めて切に願った。


 待ち合わせ場所で待っても、女は一向にやって来ない。下らぬ遊びに呆けた連中が奔流のように集まっては流れていく。夕日の名残を湛えて白む空も、背後から迫る暗闇に徐々に覆われつつある。不意にあの女の非難めいた笑みを思い出し、してやられたかと頭を抱えたその時、
 「健二?」
 場に合わぬ高い声に呼ばれて振り向く。透き通るような白にペンキで擦ったような赤い唇が優雅に微笑む。美咲は俺の手を取ると、そばで伸也が呆気にとられるのもお構いなしに、久方ぶりの再会の喜びを全身で表現する。
 「小1の頃、私が毎日健二の迎えに行ってた事まだ覚えてる?」
 一体、何時の時代まで遡る気だろうか。美咲は二人の思い出について一通り喋った後、辺りを見回して、今日の相手が俺であることに気付いて驚愕する。そして、身を守るように半歩ほど後ずさりすると、哀れな泣き笑いを浮かべる。俺もまさかと思うと気まずくて、どうすることも出来なかった。その時、彼女の携帯が鳴り、
 「絵里加から」
 美咲はそう言って、俺に携帯を差し出す。
 『あ〜私だけど』
 電話の向こうからあの女の声が聞こえる。
 「あんたは来ないのか」
 『ええ、急に用事が入っちゃってねぇ。』
 女は見え透いた嘘を隠す気も無く、声を上げて笑う。
 『それよりその子、可愛いでしょう?』
 俺はちらと美咲の方を見る。彼女は自らの過ちを恥じるように視線を逸らせている。
 『その子ねぇ、彼氏がいっぱい居るのよ。相手は誰だって良いらしいからさぁ、ちょっとご飯でも奢ってあげれば、3Pでも何でもやらせてくれると思うよ?』
 女は終始可笑しくて仕方がないという風に笑っている。俺はあの一件以来、美咲と接する機会は無かったし、増してあの連中と同じ看護学校に通っているなんて知る由も無かった。なるほど、美咲はハメられたという訳だ。女の悪意に満ちた声は、目の前に居る美咲の耳にも届いているに違いない。俺の顔をちらと見ては、赤い唇にどうにか笑みを浮かべようと試みるも虚しく、口の端が微かに歪むだけで、むしろ彼女の哀れな境遇をより一層深めているように思えた。
 「何で来たんだ?」
 俺は切れた携帯を放って凄む。
 「呼ばれているって」
 「は?」
 自分でも思いのほか大きな声が出る。頭の隅の方が妙に熱くなっていた。手のひらが汗でべとつく。美咲は追いつめられた小動物みたい上目使いにこちらを見やると、
 「私に会いたい人が居るって……。」
 美咲はまた哀れな泣き笑いを浮かべる。それは過ちを犯して刹那、自らの境遇を憂える小さな子供の如く虚しく、愛らしかった。腹の底から熱い感情がこみあげてくる。
 「お前はハメられたんだよ!」
 俺は真実の刃を、美咲の無垢な笑みに向かって突き立てる。
 「絵里加は来るって言ってたから、今日はたまたま体調が悪かっただけで……。」
 美咲は手のひらをしきりに揉みながら、未だ自分がハメられたことを信じられず悪戦苦闘している。しかし必死の弁解も虚しく、やはり彼女はハメられたのだ。彼女は飼い主にうち捨てられても尚、無邪気にしっぽを振っている哀れな犬。そう、彼女はまさにそういう女だ。
 「まぁ事情はともかく、折角の機会だし、とりあえず店に入りましょうか。」
 俺たちの険悪な雰囲気をかき消すように、伸也は馬鹿に明るい声で割って入る。俺は正直、助かったと思った。そばでショックのあまり、目の端には薄ら涙まで浮かべているかつての幼馴染に、俺は憎悪と微かな興奮さえ覚えていた。
 
 
 「やっぱりお前はハメられたんだよ。」
 俺は美咲の前に、チューハイのなみなみ注がれたコップを並べていく。美咲は飲み慣れていないのか、コップ二、三杯飲んだだけで表情はすっかり青ざめていたが、俺は一切手を緩めなかった。
 「何人も男を作っているらしいな。不埒な女め!」
 俺は辛いチューハイを一口含むと、美咲の胸に押し付ける。隣から伸也が制そうとするが、美咲は首を振ると、自らの身に十字架を課す様に、辛い液体を一気に喉の奥に流し込む。虚ろな視線はふらふらとして定まらず、こみ上げる吐き気で赤い唇が歪む。端正な顔つきに似合わぬ鮮烈な赤は、今付き合っている男たちの趣味なのだろうか。その一筋が、彼女の無垢で美しい表情を汚しているように思えた。例え自分の趣味で無かろうと、相手に迫られれば首を縦に振らざるを得ない。彼女の犬のように従順な姿勢は男たちの胸を心地よくくすぐり、或いは俺の自尊心を少なからず傷つけた。
 「焼酎ロック三つ」
 俺は店員に向かって指を突き立てる。ひたすら不味い酒を煽ったところで、何が変わる訳でもないのに、美咲の虚ろな目にはある種の強情な光が宿って見えた。俺はその意志をへし折ってやろうと躍起になる。
 「お前がやっている事は、俺や坂口みたいな奴らに対する冒涜だ。」
美咲は痛みに耐えるように黙っている。醜い男たちの手垢にまみれても尚、彼女はその瑞々しさを失わない。むしろ、彼女の美しさは、俺や坂口の手によって高められているとすら思えた。俺は、聖母マリアが処女にしてキリストを生んだとする逸話を思い出す。初めて聞いた時は、そんなバカな話があるモノかと高をくくっていたが、今ならば分かる気がする。美咲はまさにその身を汚しながらも、その精神は純粋無垢な「処女」そのものなのだ。穢れることでむしろ高められていく美の存在を確と証明している。しかし、それは俺にとってあまりに受け入れがたい真実だった。
 「飲め」
 俺に言われるがまま、美咲は辛い液体を煽る。そうすることで十字架を背負っているつもりなのだと思うと虫唾が走った。この世のあらゆる理不尽を、その華奢な身一つで背負うことが出来るとお前は本気で思っているのか?遂に折れた美咲は、細い身体を九の字に曲げてトイレに駆け込む。
 「一体、彼女と何があったんだ?」
 隣で伸也は不審そうに眉をひそめる。確かに、自分がどうしてそこまで意地になるのか分からなかった。ただ言える事は、彼女は確かに今、吐きに行ったという事だ。伸也のように下らぬ演技をするでもなく、俺みたい卑屈になる訳でもなく。テーブルには飲みかけのチューハイがいくつも並び、彼女は結局、俺の責め苦に耐えられなかったのだけれども、やはり、俺は負けたのだと思う。天井からぶら下がるオレンジ色の電灯が微かに揺れていた。


 電車が長いトンネルに入る。外は既に暗いので見分けはつかないが、耳にフタをされたような不快感がそれを知らせていた。ガラスには不気味な己の表情と、その横で赤ん坊みたい心地よさそうに眠っている美咲の無垢な表情が映し出される。それは残酷な比喩の様に思えた。彼女のスカートのポケットの中で、携帯が二度震える感触がしたので、俺はそっと抜き取ってみる。伸也からだった。いつの間にアドレスを交換したのだろうか。かなり体調を壊しているようで心配しているという旨の文面が、餌に群がる蟻のように際限無く連なっている。全く、彼の図太い根性には脱帽する。俺はせめてもの仕返しに、そのメールを削除してやり、気付かれぬよう携帯を元あった場所に戻す。
 窓外の景色はいくら目を凝らしてみても黒。行きに通った筈なのに、もっともっと長く深いトンネルに入ってしまったかのような錯覚に陥る。黒い何かが腹の底から突き上げてきて、不意に息苦しさを感じる。美咲の微かな息遣いを首筋の辺りに感じて俺は振り向く。この女は、先ほど苦しめられた男の肩にもたれて、すやすやと気持ち良さそうに寝呆けているのだ。程よく持ち上がった胸。そして、短いスカートの先に伸びる細く白い太もも。俺は眩暈がした。彼女の身体から発せられる熱が俺の頭をぼんやりとさせる。俺の手は無意識に、彼女の淡い膝頭を撫でていた。指は生餌に忍び寄る蛇のように艶のある太ももの上を這い回り、そして、絹のように柔らかいスカートの中をまさぐる。この世で最も美しいものを汚す興奮と罪悪感とで、俺の身体は情けない程に震えだす。目の前のガラスに映る自分の姿を、俺は直視することが出来ない。それは己の醜さを映し出す鏡だった。周りに居る数少ない客たちはこちらを見向きもしない。だが、俺はそれ以上先に進むことが出来ない。息遣いが変わった。今の俺はその僅かな差を敏感に感じ取ることが出来る。美咲は眠っているように見えて、実は隅の隅まで覚めているようだった。血のように赤く染まった唇が微かに震える。今にも逃げ出しそうになる身体を彼女は必死に支えている。彼女は今、坂口にそうしたように、その華奢な身で俺を優しく抱擁しようとしている。俺は肉欲と嫌悪感との狭間で溺れもがき苦しむ。彼女を汚すことで、同時に俺は自らの存在をも否定してしまうような気がした。俺の指はもはや行き場をなくして、母体のように生暖かい彼女の中に留まっている。窓の外を未だ果てしない黒が覆い尽くしている。


「その口紅、似合ってないぜ。」
 別れ際、俺は溜まった熱いものを吐き出すように告げる。美咲は一切の疲れを振り払うように、白い頬にえくぼさえ浮かべて笑った。むしろ疲れているのは俺の方だった。未だ暗い夜道に去って行く彼女の背中を、俺は虚ろな目で見つめていた。



 くすんだ教室の窓を、春の嵐が音も無く叩く。舞い上がった葉は我を失い、汚れた窓の縁に虚しくへばり付いている。もう半分以上の生徒が居ない教室は、午後の温かい日に照らされている。一方通行的な国語教師の声でさえ、今は子守唄のように心地よく感じられた。隣で伸也は携帯画面とにらみ合い指を忙しなく動かしている。メールの相手は恐らく美咲だろう。ここ一週間くらいは続いているようだ。何時でも美咲は、送られてきたメールに対して素早く返信するから、伸也はすっかり熱を上げているようだった。
 「お前、美咲さんとどう云う関係だったんだ?」
 伸也はいつにも増してしつこく問いただしてくる。俺はだるい首を回しながら、ただの幼馴染だと改めて念を押す。
 「そりゃあそうだ。美咲さんがまさかお前みたいなブスと付き合う筈が無いさ。」
 無邪気に喜ぶ伸也を、俺は馬鹿な子供でも見つめるみたいに眺めている。伸也が誘えば、美咲は哀れな犬みたいにのこのことついて来るだろう。彼が望むどんなプレイでも、笑みさえ浮かべて受け入れるだろう。でも、それで彼女のすべてを知った気になってはならない。伸也には分からないだろう。彼女のあまりに深い慈悲を、深すぎる故に相手や、自分をも傷つけてしまう可憐さを、彼は一生をかけても知ることが出来ない筈だ。その点において、俺は伸也よりも優位に立っていた。
 何かを引きずるだらしの無い気配が、廊下の方から聞こえてくる。授業中にしてあまりに無遠慮な足音。伸也は突然、机に上げていた足を下ろし慌てて居住まいを正す。他の者も各々の動きを止め、のどかだった教室の空気が急に慌ただしくなる。それを見計らったかのように、三人の男子生徒が、己の存在を誇示するみたいに大きな音を立てて教室に入ってくる。
 「遅刻だぞ……。」
 教師は一応の役目を果たすかのように注意を与えるが、一人がピアスの付いた耳に手を当てて聞き返すと、もう手元の教科書に視線を落として黙り込んでしまう。この学校においての力関係をまざまざと示している光景だ。そのあまりの獰猛さに、芯まで萎縮してしまった飼育員。中年教師の禿げ上がった額に浮かぶ汗の粒が、その怯えを確とあらわしていた。男たちは適当な席に腰掛けると、組んだ両足を机上に持ち上げ柄パンツの飛び出しただらしの無い制服ズボンをまさぐる。何をするにもいちいち音を立てることで、彼らは自らの存在を周囲に顕示していた。俺は馬鹿馬鹿しいと密かに笑いつつも、獰猛な彼らの目に留まらぬようそっと息を潜めている。
 奴らは臆面も無く細い煙草を口にくわえると、不意に高々と指を突き立てる。
 「さぁん」
 くぐもった声が、静まり返った教室に反響する。
 「にぃ……。」
 伸也は蛇のように聡く、素早く彼らのそばに寄り、いつの間に用意していたのか胸ポケットからライターを差し出す。三本の紫煙がシミの付いた天井に向かって立ち上り、奴らの指一本の動きを見て、伸也は瞬く間に教室を飛び出す。そしてモノの五分もしないうちに、伸也は露で濡れた500ミリ入り缶ジュースを抱えて帰ってくるとやはり奴らの前に差し出す。
 「よし!」
 犬に餌を与える時の様な掛け声に、伸也は下僕みたいぺこぺこと頭を下げながら後ずさりする。どうやら彼は奴らの御眼鏡にかなったようだ。周囲の生徒から、羨望と軽蔑の入り混じった視線が向けられる中、伸也は平然と授業に取り組む。全く、彼の頭の良さにはいつも感嘆の息を漏らさざるを得ない。彼は齢16にして既に世を渡る術を身に付けていた。それは、俺がどんなに望んでも得られぬものだった。
 終了の鐘が鳴る。それを合図に三人の男たちは立ち上がると、前方に座る一人の男子生徒の首根っこを掴んで立たせた。
 「俺はさっきお前を呼んでいたんだよ。」
「何シカトこいてんだ?」
 男たちの低い声に、彼は哀れに痩せた肩をひくつかせる。直感的に、俺はこれから私刑が行われるのだなと思った。さっきまで彼を包んでいた温かい午後の光は今、彼を恐ろしい斬首台へと導く一筋のスポットライトに取って代わる。俺は抑え難い興奮を感じた。二十余人は居るこのクラスで刹那、恐怖は彼一人の身に降り注いだ。確率で言えば、二十余分の一。チョコボールや、ガリガリ君のクジだってもっと当たるだろう。教師は逃れるように資料を抱え教室を後にする。休み時間だというのに他の誰もがうつむいたまま身じろぎ一つしない。ここでは教科書に書かれたどんな名言、綺麗事も通用しない。艶めかしい興奮に満ちた連中の恫喝と、餌食となった男子の虚しい断末魔だけが、静まり返った教室に響く。このとき程、残酷な運命を嘆き或いは歓喜する瞬間は無い。俺は、連中の手によって引きずり出されていく彼のすっかり腑抜けた背中を見送りながら密かにほくそ笑んだ。窓の外で小鳥たちは愛らしく首を傾げさえずっている。空はある意味、無表情かと思える程に青く澄み渡っていた。
 そして刑を終えて戻ってきた囚人たちは皆、酷い暴行を受けて口の端は切れ、制服ズボンはもうズタボロになっているというのに、教室では毅然とした態度で用を済ませ、日直の仕事まできちんとこなしているのだ。まるで厳しい通過儀礼をやってのけた自信を誇示する若者のように。次の日も、またその次の日も。アトランダムに呼び出される彼らは、醜く擦り切れた手でクリーナーを握り締め、黒板の同じ部分を何度も擦っている。そして俺は気づいた。一見すると無作為に対象を選び出しているように見えた不良連中は、実は日ごとに替わる日直当番を基準にしていたのだ。それが女子のときは、一回千円を納めることで不問に付すという「慣習」の様なものまで出来上がるほどに、彼らの刑は実に綿密にこのクラスに根付いていった。
 「岩井ぃ〜」
 そして遂に、俺にもその番が回ってくると、生まれたての小鹿みたいに四肢は震え出し、何か大きな玉のようなものが腹の底から突き上げてきて、俺の胸を詰まらせる。既に儀礼を終えた連中は、まるでそう有るべきとでも言わんばかりに、口を一の字に結んで黙っている。誰一人として声を上げようとはしない。昼休み。俺は連中に両脇を抱えられ、斬首台へと続く階段を昇りながら想う。例えこの仕打ちが残虐なものであったとしても、かつて小学校教師が俺に加えたような理不尽極まりないものではなく、皆に平等に与えられる苦痛であると思うと、俺はやはり耐えなければならないと思った。

 人の不幸など何のその、空は目が染みる程の青で澄み渡り、汗がにじんだつむじを真上から円盤のようにまん丸い太陽の光がジリジリと焼く。他の連中が処された昨日も、一昨日も、こうして太陽は照り付け、鳥たちは気持ち良さそうにさえずっていたのだと思うと、俺は何だか馬鹿馬鹿しくて笑えてきた。うちの一人に背を小突かれて、俺はぼろ屑みたい呆気なく地面に崩れ落ちる。屋上の汚いタイルに制服ズボンの膝をつき、いよいよ執行の時が近づくと、俺は覚悟を決めて奥歯を強く噛みしめる。
拳を振り上げた連中の隙間から、こちらを覗き見る一人の女子の姿を見つける。連中の仲間なのだろう、金髪を肩まで垂らした彼女は感情の無い目でこちらを見下ろしている。美人と言えば美人だが、額が広く、顔のパーツも所々おかしい感じがする。きちんと結ばれた薄い唇が一瞬、氷が解けだすように綻ぶと、俺ははっとしてしまい、そのタイミングで連中の堅いローファーのつま先が見事みぞおちの辺りにヒットして、俺は思わず情けない悲鳴を上げる。
 「てめぇ女の子かよ!」
 連中はイカれた奇声を発しながら、不様に転げまわる俺を追い回し痛めつける。一度解けてしまったしまった緊張は戻ることが無く、俺は撲たれる度に醜い悲鳴を上げる。白い円盤みたい宙に浮かんでいる太陽の光が、あまりに熱い。肉を撲つ鈍い音が耳の奥で反響する。全身の穴と云う穴から信じられない量の汗が噴き出してきて、俺はまるで水中で溺れたみたいにもがき苦しむ。肉体的な苦痛とは裏腹に、撲たれながらにして俺は、未だめくれたことの無い皮を無理やり引き剥がされる時の様な興奮を覚える。
 「死ぬぅっ」
 血反吐が俺の口元を醜く汚す。
 「ははっ、死にゃあしねぇよ」
 「チビってんのかぁ?」
撲つ者、撲たれる者の悲鳴が、妖艶な踊り子のように怪しく複雑に絡み合う。教室では毅然としていた生徒たちが、実はこんな変態的な興奮を得ていたのだと思うと、俺は口内に溢れだす鉄の味を舐めながら不意に黒い笑いが込み上げてきた。

身体の節々が軋んだように悲鳴を上げる。ちょっとでも動けば、たちまち壊れてしまいそうな気がして、俺は焼けたタイルに仰向けになったままじっとしている。太陽の光が腫れたまぶたにしみる。綿飴みたいな雲はゆっくりと、水色の大海原を左から右へと流れていく。屋根に設置されたアンテナは飛び立つことも出来ず恨めしそうに青い空を刺している。二羽の鳥が音も無くまるでからかうように同じ空を執拗に旋回している。今、俺の胸を満たしているのは、役目を果たした後の達成感みたいに清々しいものだった。
擦り切れた頬に、冷たい濡れ雑巾のようなものを押し当てられて、俺は身じろぐ。
 「動くな」
 女の低い声に、俺はピタリと動きを止める。生ぬるい吐息が頬から首筋にかけて撫で、四肢を否応なく縛り付ける。
 「よく耐えられたわねぇ」
 一転、女は妙に高い声で囁く。ひび割れた心の隙間に染み込んでくるような瑞々しい声色。後頭部には女のむっちりとした太ももを感じる。ヒリヒリ痛むまぶたを剥くと、女は困った子供でもあやすみたいな笑みでこちらを見下ろしていた。
 「アンタ、そんなにブスッとしているからこんな目に遭うのよ。」
 そう言って女は笑う。金髪の先っぽが頬に触れて痒い。俺は負けまいとして、切れて痛む唇を堅く閉ざしている。すると、女は感心したように手を叩いて
 「いい根性してるわねぇ」
 俺の脂汗にまみれた頬を掴んで揺さぶる。そう言えばこんな事、幼稚園の先生にしてもらったかなと不意に思い出す。馬鹿みたいにはしゃぎまわって怪我をして、切れた頬にマキロンと絆創膏を貼ってもらった。相手のペースに乗せられまいと歯を食いしばるも、頬の筋肉は揺られて情けない程に緩んでしまい、結局、俺は女の白くて柔らかい二の腕に抱かれて目をつむる。
 「よしよし、よく頑張ったぞ〜」
 下らないプレイだと、俺は心地よい揺れに身を委ねながら想った。女は絶えず口の端には満ち足りたような笑みを浮かべている。それは下らぬお遊戯に酔い痴れ、下らぬ自分の性に酔い痴れている女の笑みだ。連中の仲間でありながら、女は俺を庇うスリルを、ドロッとしたはちみつでも舐めるみたいに味わう。それは喉が痛むほどに甘くて、俺は眩暈すら感じる。こみ上げる醜い嗚咽さえも、今は妖艶な微睡の彼方、灰色の深い溝へと落ち込んでいく。頭上の白い太陽は、まるで生気を失ったように動かない。五限目開始のチャイムが鳴る。俺一人いなかったところで、クラスメイトは誰も気にしないし、教師は平然と授業を進めるだろう。そして白い太陽の光は、半分以上の席が空いた午後の教室を心地よく照らすのだ。日直当番は替り、明日も、明後日も、囚人たちは哀れに首を垂れて斬首台への階段を昇る。そう思うと、俺は女の爽やかな髪の匂いを嗅ぎながら何だか腹立たしく思えてならなかった。


 翌日。俺は昨日の勤めを終えた充実感で、意気揚々と教室に入る。今日もよく晴れた日の光に照らされ、こんがり焼けた机の木目をなぞる。重いカバンを持ち上げながら、今日の犠牲者は誰かなどと悪趣味な快感に胸をうずかせながら、薄ら白く汚れた黒板を見る。
 
 岩井 健二。

 「おい」
 肩を叩かれ振り向くと、伸也は唇をひん曲げ弄る様な笑みを浮かべている。
 「黒板掃除ちゃんとやれよ。日直当番」
 途端、小さいクシャミでもするような笑いがちらほらと明るい教室に木霊する。手には白く汚れたクリーナー。俺は何が何だかわからずに黙っていると、遠くからあの無遠慮な足音が三つ聞こえてきた。俺は何か言おうと口を開くが、乾いた喉から声は発せず、僅かな空気だけが虚しく宙を舞った。全身の毛穴と云う毛穴が開き、冷たい汗がシャツを気持ち悪くする。膝は情けない程に震えだし、もう二度とイスから立ち上がることは出来ないとさえ思った。自らの存在を誇示するような、呆れるほどに大きな音を立てて連中は教室に入ってくる。
 「待って……。」
 俺に弁解の暇も与えず、俺の貧弱な身体は連中の屈強な腕力によって捕われた小動物みたいあっさりと宙に持ち上げられる。
 「き、今日は、俺の番じゃない……。」
 声は情けない程に裏返り、静まり返った教室の壁に虚しく反響する。連中の鋭い目の端は血走り、ただ事ではない殺気が満ちていた。
 「てめぇ、いい度胸しとるなぁ。」
 地を這うような低音に、俺の身体は芯まで縮み上がる。
 「ヒトの女に手を出すとはなぁ。」
 「違う……。」
 「何が!」
 みぞおちに一閃、堅い拳が鋭く喰い込む。俺は九の字に折れ曲がり、倒れ掛かった重い頭を連中の手が無理やり引き上げる。
 「こいつで間違いないだろう?」
 俺は背後に居る女の存在に気が付かなかった。女はむき出しの白い腕を組み、忌々しげにこちらを見つめている。それは悪しき罪を断ずる真実の眼だった。
 「そいつは私に、いやらしい事をしたのさ。」
 「嘘だぁっ!」
 俺は首根っこを掴まれ、踏み込んだ位置から戻される。いや、嘘ではないな。確かに、俺は女にいやらしい事をした。だが、それは同意の上だったはずだ。彼女の瑞々しかった声色は今、怪しく唆す悪魔の囁きにすり替わる。
罠。その残酷な一文字が、俺の胸に怪しく浮かび上がる。
 「破廉恥!」
 女は俺に向かって叫んだ。そして、堅い膝頭をやはりみぞおちに見舞われて、連中の手に確とロックされた俺は抗うことも出来ず骨に響くような苦痛に喘ぐほかなかった。
 その時、眼前に迫ってきた彼女の口の端に一瞬、まるで不意に現れた奇跡のように、白い歯がこぼれた。激烈な嗜虐に悶え歓喜する笑み。俺は、乾いた舌に一滴の水が滴り落ちたような瑞々しい感動を覚える。次の瞬間にはもう彼女は全くもって自分は被害者だとでも主張するかの如く腕を組み、忌々しげにこちらを睨みつけていた。その変わり様はもう見事という他ない。俺は意味の分からぬ奇声を発しながら、連中の手によって斬首台へと続く道を引きずられていく。俺を見送るクラスメイト達の視線には、俺を憐れむ者、蔑む者も居て、されど、誰一人として声を上げる者はいなかった。女はドアの前で仁王立ちし、偽りの怒りに身を震わせている。俺は身を焼き尽くされるような怒りに悶えながらも、一方では、これこそが真実だと思った。この理不尽な世界に置いて、俺は紛れも無く「悪」そのもので、どんな母性も正義感も、今の俺を救うことは出来ない。ただ俺に残されているのは、斬首の時を待つ者の虚しい叫びだけだった……。



4

 高校を卒業後、俺は学校の紹介で、近所にある製品工場に就職した。経理として、画面に映る無機質な数字の羅列と向き合う毎日。別に、好き好んでこんな生活を望んだわけではない。卒業後は大学へ行く選択肢もあったが、両親に対する理由なき反抗心も手伝ってか結局、俺は大学へは進学しなかった。特に学びたい分野が無かったせいもあるが、何より後四年間も下らぬ遊びを繰り返したくはなかった。都内の大学に進学した伸也とは時々、メールであいさつ程度のやり取りを交わすが、向こうは相も変わらず下らぬ遊びに呆けているようだ。
 『サークル勧誘で女一人ゲッツ!』
 時折送られてくるメールの内容からして、すっかり緩く楽しい学生ライフを満喫している模様。勉強など二の次、三の次。それで四年生にもなると焦って就職活動して、結果、社会の枠から溢れて、ろくに反省もせず、すべて世間のせいだと馬鹿の一つ覚えみたいに連呼する連中がこの世には五万といるのだ。だが、伸也はそんな連中とは違って、それなりに生きていくだろうなと俺は思う。彼の人生は、不良連中の腰巾着として動き回ったあの後ろ姿に凝縮されているのだと思う。
連中の手先として素早く動き回り、時には虎の威を借る狐の如く、俺ら平民に対して傲慢な態度を取った。彼にハメられて何度、俺は不良連中の手に落ちたことか!日直当番が一週間も変わらないという異常事態にも拘らず、その間も不良連中は俺を執拗にいたぶり弄んだ。加えてかの女との一件もあり、あれから俺は不良連中からすっかり目をつけられてしまった。
散々な目に遭った今でも尚、俺が伸也と付き合い続けるのは、自分が絶対に持ちえないものを、彼が所有している事への激しい嫉妬からであろう。努力して手に入るものであれば努力すれば良いし、或いは、敢えて努力しないという事も出来る。しかし、いくら努力しても得られぬものには、広大な砂漠に一人取り残されたような焦燥感が激しく胸を貫くのだ。無い物をねだり虚しく親指を加えている。「自分らしく生きよう!」だなんて、そんな臭い台詞の一つでも鼻歌交じりに口ずさめたのなら、どんなに気持ちが楽になる事か。俺は今日も給与計算のミスを犯して、上司に叩かれた手の甲は割れた無花果みたい真っ赤に腫れあがった。
「何度言われたら分かるんだ!」
 烈火の如き罵声を頭から浴びせられると、俺は皆の視線を一身に浴びながらしどろもどろになり、額や脇から吹き出す汗を拭き拭き作業を続けるも、また下らぬミスを犯してしまう。俺の場合、ただ相手を怒らせるのではない。一度点いた火にさらに油を注いでしまうのだ。
 もうダメだ。俺は震えの止まらない指先を無理やりキーボードに押し当て、上司の執拗な仕打ちに首を垂れ、嵐が去るまでじっと耐えている。幾つになろうが、いくら環境が変わろうが、人の本質は変わらないのだ。灰に埋もれても未だくすぶっている炎のように、俺の本質は、小学校教師に撲たれたあの時から、少しも変わってはいない。脳天に上司の細かいつばが飛んできても、俺は固く重い石のように頑として動かない。酷い嵐の日には雨宿りをする屋根も見つけられず、骨の折れてろくに使えない傘を虚しく握りしめている。それが俺の人生だった。そして、そんな俺に手を差し伸べる者が現れる点についても。
 俺が撲たれるのを、まるで自分が撲たれているみたいに肩を震わせてこちらを覗き見ている女が居る。嵐が止むように上司が去って行くと、彼女は急に俺のそばに現れて血のにじんだ口の端を湿ったハンカチで優しく拭ってくれる。
 「新人だもの。仕方がないわ」
 狭い休憩室で、幸子は冷たい露の浮いた缶コーヒーを差し出しながら言う。俺がかの上司に撲たれる度に、彼女は小休止と銘打って俺をこの場所まで連れ出してくれる。互いに歳は同じだが、彼女の方が一年先輩という事もあって、自販機の前ではいつも俺がおごってもらう流れとなっている。
 「信じられないわあの男。」
 彼女はだぶだぶの作業服の袖を組んで、元彼氏の悪口を、さも俺を慰める為とでも言わんばかりにまくしたてる。俺は冷たい缶にかじりつきながら心底アホらしいと思った。幸子が俺を助けることで、元彼である上司の俺に対する怒りは一層煽られるのだ。俺はこれからも標的になり続けるだろう。彼女は、俺を助けることで己の復讐心を満たしている事実に気が付いていない。むしろ、得意げにこちらの肩など馴れ馴れしく叩いてくる。その点で、彼女の母性や正義感といったものは、美咲よりは遥かに弱く、俺は彼女の事をよっぽど容易い女だと思った。

 「とても辛いんです」
 俺は下らぬまきびしを彼女の足元に撒いてみた。薄暗いカラオケボックスで二人きり、俺たちは至近距離で互いの顔を見つめ合う。あまりに下らない演技に、俺は吹き出してしまいそうになって口をつぐむ。微かに響くコマーシャルソングが誤魔化してくれたのかもしれない。幸子は何か考え事でもするみたいにうなずくと、俺の顔をじっと見つめている。どんな表情を浮かべて居れば良いのか分からない。そもそも、巧みに操る技術など持ち合わせてはいなかった。ただ、この子供のお遊戯の如き下らぬ演技に吹き出してしまわぬよう俺は神経をとがらせている。彼女は、獲物を狙って身を屈める猫の如く注意深くこちらの真意を探っている。大画面上では駆け出しのアーティストが上機嫌に喋っている。壁に掛けられた電話は一向に鳴らないが、随分長く時間が経ったような気がした。彼女の美人とも不細工とも言えぬ凡庸な顔立ちは微動だにせず、まるで頑なに何かを主張しているかのようだ。
 「分かった」
 途端、雪解け水が滴るみたいに、彼女の表情は鮮やかなピンクに彩られていく。その様は、薄暗い照明下であってもよく分かった。
 「大丈夫よ」
彼女は、俺の少し汗ばんだうなじを撫でながら囁く。あの男のうなじもまた、こうして撫でていたのだろうか。俺の胸の鼓動が早まると、彼女は執拗に耳元でつぶやいてくる。彼女の柔らかい髪をまさぐりながら、俺は確信した。その時、俺は心地よい優越感に浸っている彼女の後頭部を思い切り殴ってやりたいような気がした。彼女は俺を助けているつもりで居て、実は己の崇高な母性に酔い痴れている事実を、一向に理解していないのだ。それは例えば、生まれながらにして足の無い子の腕を無理やり掴んで、その子が周囲の視線を感じてうつむいているのにも拘らず、笑顔で自分の肩を貸すような、あまりに無知で、理不尽な行いだ。或いは、かつて日本が拒絶しているにも拘らず、無理やりキリストの教えを説こうとした哀れな宣教師たちの心境にも似ている。水と油は相まみえないし、激しく燃える火に向かってむやみに真水を掛ければかえって参事を招くことになるだろう。そんな事も分からずに、子供をあやすみたい優しく背中を撫でてくる彼女を、俺はやはり哀れな女だと思った。

「貴様ぁっ!」
鋭い罵声を浴び、俺の貧弱な身体はピンポン玉みたいにあっけなく弾け飛んで、三重に積まれた段ボールの山に頭から突っ込む。上司の男はもはや抗う気力を無くした俺の胸ぐらを掴んで揺り起こすと、さらに拳を振りかざしてくる。確かに俺はミスを犯したが、まさかたった一つの入力ミスでここまで怒るとは思えなかった。男の目には明らかに、幸子を奪われたことへの激しい嫉妬が鈍い光となって宿っていた。欲しいのならくれてやるさ。口には無精ひげを湛えた眼前の男に向かって俺は小さくつぶやく。もう三十過ぎの男が、年下の幸子に振られて女々しい嫉妬心を恥も外見も無く曝け出す様は甚だ可笑しかった。
「絶対に許さないからな。」
遂には本心を吐露してしまう始末。まったく、どこまで幼稚な男であろうか。これでは、おもちゃを取られて暴力を振るう問題児と何の変りも無い。もしこの場に先生たる者が居れば、彼には俺が受けたのと同じ理不尽な鉄槌が下される事だろう。感情は出すものではなく押し殺すものであるという事が、彼には全く持って理解できないらしい。俺が血が混じって黒ずんだ唾を床に吐き捨てると、去りかけた男は振り向き、もう殺さんばかりの凄まじい勢いで眼前に迫ってきて
「いい加減にして」
 横から幸子が男の前に立ち塞がる。
「うるせぇ!社員教育だ」
男は細かいつばを飛ばしながら威嚇する。それでも幸子は程よく膨らんだ胸を張り、一向に怯む様子はない。
二人は軽く額を突き合わせて話をする。二人の間にはたった一度であろうと、男女の仲になった者同士の独特の息遣いが感じられた。周りの者はそれぞれの作業に戻るが、どこか集中しきれない様子。ひび割れた壁を、一匹のハエがうるさく這いまわっている。そばで手持無沙汰になった俺は、崩れた段ボールの隙間に埋もれてじっとしている。先ほどとは打って変わって、男は手なずけられた猛獣みたいに幸子の言うことにうなずいては、注意深く耳を傾けていた。背後で男の鼻をすするような音が聞こえた気がしたが、俺は振り向かなかった。

「一度頭に血が昇ると抑えられないみたいなの。」
幸子は手の平で缶を弄びながら言う。彼女が振り向くと、襟足がなびく怠慢な動きを、俺は詰まらなく見つめている。
「でもわかって欲しいの。ああ見えて悪い人じゃないから。」
彼女はカーテンの隙間からこちらを覗くような細やかな笑みを浮かべる。そして、ある区切りをつけるみたいに手を叩くと、もう帰るよう俺に促す。オレンジ色の光が窓から差し込み、終業のベルが鳴る。今日は愛し合えないらしい。あまりに勝手だと俺は思った。俺は飲みかけのコーヒー缶をそばのゴミ箱目がけて投げ捨てる。乾いた音が狭い休憩室内に木霊する。それを駄々をこねているとでも勘違いしたのか、幸子は困った笑みを見せたかと思うと、何かの印でも与えるみたいに優しく俺の貧弱な身体を抱き寄せる。
「大丈夫」
私はどこにも行かない。得意げに吊り上った彼女の唇からは、微かにコーヒーの苦い香りがした。純白に包まれた物語は、もはや彼女の中で既に完結している。俺らが口をはさむ余地はない。俺は、あの上司もまた被害者なのだと思った。彼女が振りかざす身勝手な正義感に、彼もまた振り回される一人なのだ。今なら俺はあの男を許すことが出来るかもしれない。
それでも、次の日もまた上司は相も変わらず俺に理不尽な仕打ちを加える。男は今日も狂ったように声を荒げ、元来臆病な俺は芯まで震えあがり、固まった十本の指はまるで自分の物ではなくなってしまったみたいに言う事を聞かない。俺は男が吐く細かいつばを頭に浴びながら、これはプレイなのだと思った。後少し耐えれば幸子が、正義のマントを翻してやってくる。上司の男はまた野獣が檻へ押し込められていくみたい哀れに首を垂れ、幸子の放つ一語一句に肯く。かくして俺は救われる。そういうプレイなのだ。
幸子を前にして180センチ近くはある上杖を丸めた上司の後ろ姿は、さながら繋がれた奴隷のようで余計に惨めたらしく映った。幸子に対しては抗えないもどかしさを、男はヤニで黄ばんだ歯と歯で噛みしめているに違いない。幸子の言葉に、説教される子供みたいにうんうんと肯く男の姿を見て、俺は、彼の方がよっぽど幸子の事を愛していると思った。暴力、暴言癖はさておき、彼女の傲慢な悦楽を満たすが為に、大の大人がこうも卑屈にうなだれ耐えているのだ。それを未練たらしいと捉えることも出来るが、では俺の方はどうなのかと言えば、幸子の善意に漬け込んでとろける様な快楽を享受しながらも、一方では、まるで善人気取りの幸子を憎み密かに見下している。優しく抱擁されていながら、標的の深部にまで入り込み、いつの間に中身を喰い尽くす卑しい寄生虫。そうやって生きていくしかない哀れな虫ケラ。いや、そんな格好の良い表現をしてはいけない。偽善であるにせよ、俺はこれまでに自分を助けてくれた人々を憎み、こうも裏切り続けてきたのだ。その罪は深い。勿論、幸子もまた俺の様な脆く卑しい人間を食い物にする寄生虫のような存在に違いないのだが、それにしても俺の存在は世間には受け入れられないだろう。それは例えば、皆が見る月9ドラマのような世界に置いて、不細工や劣等生は、美人や優等生が差し伸べる手を喜んで受け入れなくてはならないし、それで素直に助けを求めないならば、いずれは世間が求める道徳に従わなければ、俺たち不良品はたちまち地の底へと突き落とされるだろう。ならば一層の事突き落とされた方がマシなのかもしれないと思う時もあるが、無駄に高校まで進学し培われた常識と云う名のタガが、俺の中から激しい衝動が溢れだす寸前で、どうにか堰き止めてしまうのだ。それに加え元来の臆病な性格も手伝って、良い意味でも悪い意味でも、俺はそれ以上先に進むことが出来ない。所詮、俺はその程度の人間だ。数日もすれば、俺は幸子の善意を豚みたいに醜く貪っている。幸子の自信に満ちた笑みを、滑らかな愛撫を、俺は火照った身体と、冷めた心とで受け止める。嘆いた所で所詮、何も変わりはしない。

俺は、男が吐き出す紫煙が分厚い雲と混じりあい消えていく彼方の景色をぼんやり見つめている。すすけた作業服のポケットから、男は煙草を一本取り出して俺に勧めたが、吸えないので断ると、男は疲れた笑みをやや血色の悪い唇に浮かべた。俺は、今まで散々下らぬ遊びを繰り返してきたくせに、煙草だけは吸えない自分を情けなく思う。その一本によって、俺はすぐにでも彼と心を通わすことが出来たかもしれないのだ。俺は男の手から半ばふんだくるようにして煙草を受け取る。
「無理するな」
トーンは低いが労わる様な彼の声色は、妙に俺の中でじんときた。今まで彼から受けたあらゆる仕打ちさえ、この瞬間には泡と化してしまいそうな気がした。俺はたばこのフィルターを咥えてみるも結局、火を点ける事は出来なかった。段々と雨でも降りそうな怪しい空色となってきたが、俺たちは屋上の錆びた手すりに肘をついて、両者とも一向に動く気配はない。まるで互いに我慢比べでもしているようで、生ぬるい風が空を切る細やかな音を除いて辺りには奇妙なほどの沈黙が意固地な老人みたいに佇んでいた。
「幸子を」
男は突然、何の前触れも無く独り言のようにつぶやいた。
「幸子の事を、よろしく頼むよ。」
頭上に浮かぶ雲は、驚くほどの速さで現れては消えていく。俺はひどく狼狽した。恐らく今、彼は一生に一度、抜くか抜かないかの大刀を、決死の想いで引き抜いたに違いない。それ以上、彼はもう何も言わない。佇む余韻の意味を問い掛けるかのように、燃え尽きた煙草を咥えたままいつまでも押し黙っている。無理だなんて言えなかった。俺は開きかけた唇を堅く結び直す。彼が決死の想いで曝け出したものを、この薄汚い足の裏で容易く踏みにじりたくは無かった。それだけの権利が、今の自分にあるとは思えない。不意に、俺は幸子に問いただしたくなった。もしこれで彼が捨てられて、俺が救われるのならば、それはあまりに愚かな結末だ。下らぬドラマのオチにもなりはしない。幸子は勘違いをしているのだ。喉元までせり上がってきた言葉も、俺の乾いた唇をかすかに震わせるだけで、果てしない沈黙の中に吸い込まれていく。今はどんな言葉も、口先だけの容易い台詞になってしまうような気がした。肝心な時に俺は何も出来やしない。ただ片方の口の端が痙攣したように卑屈な笑みを浮かべるだけ。そして、男はもはや翻すことの無い決意を示すように、黒ずんだ彼方の景色をじっと見つめていた。



夕日が淡い光を放ちながら、水平線に押し潰され沈んでいく。やがてオレンジ色の線となり消えゆく刹那、無数のダイヤのように煌めく水面を眺めながら、俺は己の長い爪を悔しく噛みしめる。俺と幸子が乗る観覧車は、もう頂上付近を過ぎて黒いアスファルトの地面は眼下に迫りつつある。目の前で幸子は、やや不満そうに細い眉の端をつり上げて遠くの景色を見つめている。その横顔には決して突出してはいないけれど、岩の隙間から染みだす湧水のように透明な美しさがあった。俺は、様々な店やアトラクションを満喫した最後に、彼女を観覧車に誘った。あまりにベタなシチュエーションではあるけれど、不器用な俺なりに腹をくくったのだし、彼女もまた快く応じてくれた。それでちょっと互いに目でも合わせれば良かったものを、俺は車体が軋む嫌な音と、時々尻が浮き上がる様な浮遊感を感じながら結局、指先一つ彼女の肩に掛ける事が出来なかった。ただただ意気地の無い自分を恥じ、湿った手のひらでジーパンの太もも部分を強く握り締める。
誰かが、降りてくる観覧車の方を見上げていた。その黒いゴマ粒のような影が視界の隅に過り、俺はそちらの方を恐る恐る見つめる。男だ。つば付きの帽子を被っていてその表情は分からないが、恐らく三十歳くらいで中肉中背。ジーパンのポケットに両手を突っ込み、不機嫌そうに押し黙っている。息子か、娘が乗っている車体が降りてくるのを、辛抱強く待っているのかもしれない。なぜ、俺はそんな事を気にするのか?
「どうして?」
外の景色を見つめていた彼女は突然、挑むようにこちらを見つめる。何が?俺はとぼけたように首を少し傾げて見せる。
「あの人の事はもう関係ない。私と、貴方の問題なの」
確かにあの人は、上司の男はあれ以来、俺に対して執拗な暴言や暴力を振るうことは無くなった。むしろ、俺たち二人を黙殺するみたいに、職場ですれ違っても視線すら合わせずに去ってしまう。彼女はその事を素直じゃないと言ったが、恐らくそうではないと俺は思う。
「別に気にしていないよ。」
「じゃあなぜよ。どうして」
どうしてと言って、彼女はそれっきり薄い唇を固く閉ざす。その意味を問い掛けるように、彼女は真剣なまなざしでこちらを見つめてくる。俺は恨めしかった。俺と上司との間に立ち、振り回されることで、一種の悲観と優越感に浸る彼女の表情が恨めしかった。これ以上、今は何を言っても彼女を得意にするだけだと思ったので、俺は係員の指示に従って観覧車を降りると、彼女を置き去りにして一人出口に向かう。出口の冷たいバーを押すと、子供のはしゃぐ声とともに、先ほどの男が子供二人を抱き上げて去って行く。子供の手に握られた風船がぬるい風に揺られてなびく。うち捨てられても尚、繋がれた犬みたいについて来る幸子の気配が急に気怠く鬱陶しく思えてきた。母親らしき女性も混じって、家族は四つの黒いシルエットとなり消えていく。遠くに手でちぎったような羊雲を見上げながら、俺は深い疲れを感じた。


それからと云うもの、二人の間にはいさかいが耐えなくなった。普段なら何でもない事でさえ、いちいち取り上げては互いに火花を散らす。俺は、彼女が作ってきた弁当のおかずに文句をつけ、彼女の方は、俺の箸の上げ下げ一つを取って厳しく叱責する。
「あなたのご両親の顔が見てみたいわ!」
思わず叫んだ幸子は、振り向いた周囲の空気に気付いて恥ずかしそうにうつむく。今、自分が最も卑劣な手を使ったことに、彼女自身が一番反省しているようで、頭こそ下げないものの、辛そうに湿った窓の景色を見つめている。だが、俺はその中にさえ彼女自身も気付かぬ奢りを見出していた。俺は、彼女が俺との関係について職場の同僚に相談している事も知っていたし、俺が甘い卵焼きは嫌だと文句を垂れると、彼女は不満そうにぶつぶつ言いながらも、翌日の弁当箱の隅には、塩味の効いた卵焼きがさりげなく入っていた。
それでも、今度は味がしょっぱ過ぎるなどと俺が因縁をつけると、いよいよ収拾がつかなくなってきて
「もういいわ」
彼女は作ってきた弁当箱の中身をそばのゴミ箱目がけて放り込むと、狭い肩幅をめい一杯怒らせて去って行く。去り際に、目の端には薄ら涙が浮かんでいたと見え、さすがに可哀そうに思えてきた。それから数日が経ち、俺が何の手を打つ訳でもなくグズグズしていると、幸子の使者らしき女性社員が、休憩室で突っ立っていた俺のそばに素早く近寄ってきて
「ああ見えて幸子さんは繊細なの」
俺より三つほど年上の彼女は、さも自分が傷つけられたみたい恨めしそうに大きな目を見開いて
「貴方がまたあの男に苛められないかって、彼女すごく心配しているのよ。」
「へぇ」
俺はわざとらしく興味の無い素振りを見せて、自費で買い求めた100円缶コーヒーの甘ったるい味を舐める。唇がべとついて気持ちが悪く、俺が舌を打つと、女はそれが自分に向けられたと思い、心外だという風に厚い唇の端を歪めて
「彼女はねぇ、本気で貴方の事を想っているのよ!?」
なら、どうしてそう言わないのさ。俺は言いかけて口をつぐむ。女とはなぜ、行き場に困ると、自分の本音を他人に代弁させようとするのだろうか。この女も含めて、彼女たちは俺と云う鏡を通して自らの献身ぶりに酔い痴れているだけではないのか?乞食を前にして床に小銭をばらまく傲慢な偽善者のように、彼女たちもまた奉仕はしても、それがもたらす意味までを考えようとはしない。死にかけの者に少しの恵みを与えることが、かえってその者の苦しみを長引かせることに、彼女たちは全く気が付いていないのだ。俺がこれまでに散々味わってきたあらゆる苦みと、甘ったるさの入り混じったこのぬるい缶コーヒーの如く糞マズイ味を、彼女たちは今も平然と俺の舌に押し付けてくる。
「すみません」
俺がおざなりに頭を下げると、女の平たい顔には急に日が差したような笑みがこぼれ、そして「まぁ頑張りなさい」などと言って急に歳上ぶり、無遠慮にこちらの肩を叩いてくる。自分の功績を誇示する子供の様に、平たい胸を張る女の背中を見送りながら、恐らく彼女は幸子に向かって自分の武勇伝を、盛りに盛り立てて語るだろうなと思った。俺たちを再び結びつけたという偽りの功績を、彼女は生涯その胸に刻みつけることだろう。だが、彼女の意に反して、俺の中で急速に冷めていく何かが感じられた。休憩所のすすけた窓を雨粒が微かな音を立てて叩く。どす黒い雲から針のようになって降り注ぐ雨は、一向に止む気配はない。飲み終えた缶を放ると、缶はゴミ箱の中で何度か乾いた音を立てて収まった。その時、俺は不意に引き際が来たと思った。


幸子を振る日。今日もぶ厚い雲が空一面を覆う。俺の胸が鈍く疼いたのは、これから彼女を傷つける為ではなく、むしろあの上司の男を裏切る罪悪感からであった。隣で携帯を弄っている幸子の後ろから、背後霊のようにあの男がこちらをじっと見つめているような気がして何だか息苦しかった。
「ご飯は何にしようか?」
すっかり仲直りしたと思っているようで、幸子は朝焼けのように頬を赤らめ無邪気に白い歯を見せる。なぜだろうか。こんな時に限って、彼女はこんな愛らしい笑顔を浮かべる。不覚にも俺の心は揺さぶられた。彼女は無意識のうちにこちらの意志を挫こうとしてくる。何でもいいよと、俺はまるで興味が無い風に応える。
「不味いなぁ」
俺はフレンチトーストの甘ったるい味に顔をしかめる。この薄い生地のように淡く繊細な雰囲気をぶち壊してやろうと思った。不味いコーヒーをすすりながら露骨に舌を打つ。穏やかな曲調のBGMが妙に心地よく染み込んできて、俺は慌てて首を振る。こんな店に入るんじゃなかったと、俺はべとつく口周りを拭きながらつぶやく。それでも、今日の幸子は妙に機嫌が良くて、不機嫌な俺を叱責するどころかむしろ同調するように何度もうなずいて見せる。久々のデートを楽しもうと、必死に笑みを浮かべる彼女の姿が哀れに思えた。かじりかけのトーストを皿に置くと、もう出ようと言って俺の手を引く。
空は上から蓋をされたみたいに暗く空気はむんとしている。額からにじみ出てくる嫌な汗を拭いながら、急に手持無沙汰になったので、とりあえず映画でも見ることにする。別に何が見たいわけでもないが、近くの映画館を目指して歩き出すと、不意に幸子の手が軽く触れてきて、俺は反射的に身を引いたが、これが最後だという寂寞と、そんなことはつゆ知らず恥ずかしそうにうつむいている彼女に対する憐憫とで、俺は彼女の手を握ってみる。と、彼女のほうも顔を上げる訳でもなくただ、少し汗ばんだ手で握り返してくるので、こうして温もりを通しても互いの心は通じないのだと思うと何だか空しかった。
歩いて十分ほどの道程。ここらではベターなスポットだったから、俺たちは何組かのカップルとすれ違ったが、誰も奇異な目でこちらを見る訳でもなくただ過ぎ去っていく。どうやら俺たちは、この街の雰囲気にすっかり馴染んでいるらしい。道の両脇に植えられた並木の葉が音もなく揺れ、小鳥たちは愛らしくさえずる。だが、店先のショーウィンドウに自分の姿が怪しげな陽炎の如く浮かび上がったとき、俺は思い知らされる。狐のように細長い眼をした男が、古来の仏像のように不気味な無表情を浮かべてこちらを見つめている。その瞬間、俺はこの華やかな街の雰囲気に溶け込んでなどいなかった。すれ違った人々は、こちらを気にしなかったのではなく、むしろこの場に不釣り合いな俺たちを軽蔑し、目を伏せていたのかもしれない。目の前で幸子は、ウィンドウに並ぶ可愛らしい雑貨を見るのに夢中になっていてこちらの様子には気づいていない。このまま彼女を置き去りにして帰ってしまいたかった。立ち止まっている俺たちの背後を、過ぎ去っていく人々が、車が、街の風景が、俺に真実を突き付ける。
「行こう」
思わず彼女の手を引く。何も知らない彼女は白い頬に幸せな笑みさえ浮かべて従った。


照明が徐々にフェードアウトしていく。暗い館内に波が砂をさらう淡い音が、まるで地響きのように不自然に木霊する。詰まらない映画だった。芽の出ないニート同然の舞台俳優を、ヒロインの女が必死に支えると云う愛情物語。男は無謀な夢を追い求めるあまりに屈辱を受け続ける毎日。この結末がバットであれハッピーであれ、その物語は全く俺の興味をそそらなかった。むしろ俺は微かな苛立ちさえ覚えた。隣で幸子は食い入るようにスクリーンを見つめている。ろくに食えなかった昼飯の代わりに、俺は入る前に買ったポップコーンをやたらと口に運ぶ。しょっぱい味にのどが焼け付くように渇いて、俺は350ミリ入りファンタの蓋を開け音を立てて一気に飲み干す。隣に座る三十代くらいの男が、露骨に嫌な視線を向けるが気にしない。と、微かに尿意を催して、もうそろそろトイレに立とうかとぼんやり考えているうちに……。

「お客さん」
警備員の男が帽子のつばをつまみながら、不機嫌にこちらをのぞき込む。気付くと、周りには俺たち以外に誰も居ない。すっかり寝入ってしまったようだ。あんなに食い入るように見つめていた幸子もまた、俺の肩に寄り掛かって静かな寝息を立てていた。俺は彼女を揺り起こすと警備員の男に軽く頭を下げて足早に場内を後にする。
「詰まらなかったわねぇ。」
あれほど食い入るように見詰めていたくせに、映画館を出ると彼女はわざとらしく大きな欠伸をこきながら言って見せる。馬鹿なオウムのように繰り返す彼女を、俺は幼稚な妹でも眺めるように見下ろす。そして
「もう辞めようぜ」
俺は区切りの杭を打ち立てる。それはごく自然に、俺の口をついて出た。来るべき時が来た。ただそれだけだ。幸子のほうも俄かに感じ取っていたようで、一端は歩き出そうと試みるも結局、黒いアスファルトの上に留まり諦めたようにこちらを振り向く。
「もう俺たち無理だろう。」
こんな時、月並みな台詞しか思い浮かばない自分の乏しいセンスを恨む。かと言って、口当たりの良いセリフを吐けばそれも嘘である。少し呂律の回らない不器用な物言いこそ、むしろ自分の中ではしっくりくる。
「どうして」
「誤魔化すな」
まだ食い下がろうとする幸子を俺は振り払う。捨て犬みたいにうるんだ彼女の瞳が、最後の抵抗を試みる。俺は憐憫と微かな興奮とを覚えながら、その湿り気のある表情に歩み寄る。そして、俺の中で未だ垂れ下がる未練の鎖を断ち切るように、彼女の狭い肩にそっと手を置く。最後なんてこんなものさ。俺は自分にそう言い聞かせる。
「素直になりなよ」
幸子は短く叫んだ。俺は不意を突かれて黙り込む。彼女の潤んだ瞳の奥には、挑むような強い意志が地中に眠る鉱石の如く鈍く光っていた。いや、これが真実さ。俺は心の中で反駁してみるも、何処か心もとない。むしろ、彼女の言葉は海中に沈んだ碇のように重く、妙に胸の奥の方まで食い込んできた。俺は急に自信が無くなった。
「さよなら」
俺は最後の言葉を、痛む腹の底からどうにか絞り出す。なぜだろう、声は微かに震えていた。幸子もまた泣いているからだろうか。意味もなく、これが俺にとって本当の最後になるような気がして、妙に悲しかった。吹き抜ける生ぬるい風が、遠くに聞こえる低い雷鳴が、俺にとって大事な何かを囁いているような気がした。低空に佇むやけに立体的な雲の下を、幾羽のものカラスが黒い羽根をはためかせて横切っていく。足早に過ぎ去っていく流れの中で、俺だけが取り残されたようにピタリと動きを止めている。幸子はこちらを焦らすような、あまりにゆっくりとした動きで、華奢な背を向け、濁流のように流れる喧騒にその身を浸していく。冗談さ。その一言さえ言えたなら、すべてが楽になるというのに、俺の体は足の指一本動かせずに、ただ小さくなっていく彼女の背中を見つめている。もはやすべてが手遅れだった。


それから、彼女が上司の男と寄りを戻したと云う知らせが届くのは、もう随分後になる。
写真の中で幸せそうに腕を取り合う二人を見て、俺は只、彼らの愛情劇に巻き込まれたのだなと思った。二人の世界と今は遠くかけ離れた己の現実を想うと、俺は無精ひげの生えた顎を撫ぜながら卑屈に笑った。



5
 工場を辞めてからは、文字通り職を転々とする日々。ろくな経験や学歴もなく、ほとんど素っ裸の身で社会の荒波に放り出されることの厳しさを、俺は20歳そこそこにして改めて思い知らされた。
 「貴方は出来る子よ」
 ここ数年で目じりにはめっきりしわの増えた母が、出来ない子供をあやすときの常套句を、しょぼくれた俺に向かって執拗に唱えてくる。母が浮かべる哀れな笑みが、かえって俺の自尊心を深く傷つけた。ろくな進歩もしていないくせに、時々目にする父の背中がやけに小さく見えると、俺はいよいよ自虐的な感情に耽った。
 スーパーマーケット、カラオケボックス、ガソリンスタンド、ファーストフード店。あらゆる仕事に手を付けてみるも、上手くいかない。手先が不器用なうえに、元来の仏頂面が余計に悪い方へ拍車をかける。弁当屋でレジを打っていた時には、客に小銭を投げつけられたこともある。コンビニでは発注ミスを繰り返した。時には、大した失敗を犯した訳でもないのに、上司から執拗な叱責を受けることもしばしば。そうして、ようやく嵐が去ったと思い一息ついていると、
 「根性あるねぇ」
 避難していた連中は寄ってたかって、怒られても平然としている俺を褒め称える。いや、慣れているとは言え俺だって傷つくのだ。辛くて涙がにじむときもある。なのに、そんな感情をうまく表現できないこの沈鬱で醜い器を、俺はひどく憎んだ。例えば空気の無い透明な檻の中で、俺が発する声の一切は反響せず、外から見物客たちは、物珍しそうにこちらを眺め指さしている。やがて息が詰まり、俺の体は内部から朽ち果てていく。聖女たちの甘い囁きも決して俺の心を癒すことはない。いや、近頃はそんな彼女たちでさえ、井戸の水が尽きるように俺の前に現れなくなっていた。職場で知り合う女子たちも皆、道端の小石でも見つけたかのような感動のない目で一瞥するだけ。今ではあの幸子との関係ですら懐かしく、まるであまじょっぱいポップコーンのように香ばしく感じられる。俺は彼女たちの存在すらも失ったのだと思うと、突然、言い知れぬ恐怖に駆られた。

 夜。俺は分厚い布団を頭から被って、体の芯から湧き水のように染み出してくる寒さに耐える。今までに経験したことのない本物の静寂が、静かに全身を覆う。本物の静寂とは実際、まったく沈黙しているというよりかは、外で枝同士が擦れ合う微かな音が、フクロウが低く怪しげに鳴く声が、じわじわと迫ってきて、そんな時、人間は初めて自分の中にある目を凝らしても見えぬほどの暗闇に気づかされる。そんな夜こそが、まさに本物の静寂であると、俺は今更になって気付かされた。
 俺は叫んだ。遠くの方で唸る声は、まるで群れから逸れた獣のように醜く掠れていて、とても自分のものとは思えなかった。見開いた目に、まばゆい光が鋭く差し込んでくる。
「健二!」
俺は、すっかり緩んだ母の体に恥もなく縋り付く。母は泣きながら、大丈夫よと、俺の貧弱な背中を撫でながら繰り返しつぶやく。それは、俺に言っているというよりかは、まるで自分自身に言い聞かせているようだった。身体に染み付いた醜いアザを、必死に隠すように、母は俺の体を強く抱き寄せる。おそらく俺の声は近所中に響き渡った筈だが、父は寝室から出てこなかった。彼もまた俺というアザから目を逸らそうとしていた。

最近始めた居酒屋のアルバイトもきつくて、今日も店まで向かう足取りが酷く重い。俄かに腹も痛くなってきて、今すぐ店長に欠勤の一報を入れようか本気で迷う。
そんな俺の弱気を見透かしたかのように、一本の電話が入る。
『元気にしてるか?』
無遠慮なほどに明るい声が、子機を通してこちらの鼓膜を震わす。煩わしいが、今は泣いて縋りたいほどに懐かしい声。
『相変わらずしょぼくれてやがるなぁ』
「まぁな」
信也の言葉に、俺は弾みそうになる声をどうにか抑えながら答える。溺れる者が藁をも掴むように、俺は冷たい子機に耳を強く押し当てて信也が発する言葉の一つ一つを聞き漏らすまいと神経を集中させる。今でも年に一度、年賀状のやり取りくらいはする仲だったが、相も変わらず信也が話すのは、最近彼が付き合っている女の事、初ボーナスでローンを組んで買った車の事など、世間的に見れば俗っぽいと一蹴されてしまいそうな欲望を、彼は平然と見せびらかしてくる。大学卒業後は、某大手証券会社に就職したという信也。営業職は毎日ノルマ、ノルマできついと嘆く彼の声の中には、未だ社会に飛び出したばかりの瑞々しさが、熟れたトマトのように煌いていた。
「で、お前の方はどうなんだよ」
俺は言葉に詰まる。一方で、世間の穢いおできみたいになった自分の境遇を素直に語る勇気はなかった。例え内部は瓦解しても、周囲を取り囲む城壁は妙に高く頑丈に出来上がっていて、こんな身分のくせに彼の失笑を買うのが許せない自分が居た。彼もまたそんな気配を感じ取ったのであろう、急に話題を切り替えたかと思うと、自分が担当している商品の売り込みをしてくるあたりは図々しいと思いつつも、やはり感嘆の息を漏らさざるを得ない。
「人生楽しまなきゃ損だぜ。」
そして、別にこちらは何も言っていないのに、彼は妙な励まし方をしてくる。いや、俺とお前は違う。俺は心の中で反駁する。俺とお前では、もともと内に秘めている熱量が違うのだ。コオロギが、その姿は似ていたとしても蛍のように光ることが出来ないように、俺はただ、信也が発する眩いほどの光を目の当たりにして途方に暮れる他ない。彼は常に俺の手の届かない蛍であり続けた。
「そういえば」
信也は突然、思い出したように
「美咲とはもう連絡とっていないのか?」
「ああ」
「へぇ。お前とは仲良かったのになぁ」
俺は妙な違和感を覚える。在るべきところに無く、無い筈の場所に在るような感覚。俺は喉元までこみ上げてきた声を飲み干す。
「彼女、看護学校を卒業して、今は県立医大病院に勤めているそうだ。ほら、あの駅前にあるやつ」
「随分詳しいじゃないか」
俺は思わず口を挟む。一瞬、引きつったような笑いがこちらにまで響いてくる。信也は生徒に注意を与える教師のように軽く咳払いをすると
「ガールフレンドの一人さ。別に彼女はお前だけのものじゃないだろう?」
その通りだ。俺は心の中で幾度もうなずく。受話器越しに信也は、こちらの反応を伺うように黙っている。こちらの感情を逆なでし、痛ぶってくるあたりは何も変わっていない。彼はいつも針穴に糸を通すように、実に的確にこちらの急所を突いてくる。
「いいか健二。人生とは椅子取りゲームみたいなもんだ。座るか、座れないかだ。」
座るか、座れないかだ。彼は特にその部分を強調する。おそらく、彼にはその座るべき椅子に座るための感覚が生まれながらにして備わっているのだろう。たった一度や二度の逢引如きでうじうじしている俺とは違って、彼はどんな不可思議な果実であろうと喜んでかじり、不味ければいとも簡単に捨てるだろう。
まぁ今度二人で飲もうや。そんな月並みな決め台詞を置いて、彼はこちらの返事も待たずに切ってしまう。何か応えようとしたときにはもう通信は途絶えている。まったく、まるでこちらの境遇を見透かして、からかう為にかけてきたとしか思えない。俺は薄暗い部屋の辺りを見回す。読みかけの雑誌が散乱し、もう久しく向き合っていない勉強机には、かつて使っていた筈の教科書がうず高く積みあがっている。カビ臭い布団と枕。本棚には薄ら埃が被り、カーテンの隙間から差し込むオレンジ色の光が宙に舞う細かい粉を儚げに浮かび上がらせる。もう時間だ。そう頭では分かっても、尻は水を含んだように重くピクリとも動かない。まるで地面に杭を打ち込まれたように、もはや立ち上がることも、その場に這いつくばることさえ物憂い。この部屋で唯一つ生々しく鼓動する秒針の音を黙って聞いていた。


俺は店長の荒れ狂う罵声を頭に浴びながら、稲穂のように首を垂れじっと耐えている。先日は無断欠勤をしたのだから、俺は怒られて当然だろう。周囲の怯えたような視線が苦しいが、ここは嵐が過ぎ去るのを待つ方が得策だ。この20数年間の人生で培った感覚がそう告げていた。
なかなか店長の怒りは収まらなかったが、それでも、俺は自分がクビにならないことを知っていた。俺は重い盆を片手に熱気のこもったホールへと繰り出す。今日は金曜日。仕事を終えたサラリーマンの疲れた表情が在る一方で、どんちゃん騒ぎを繰り広げる大学生。急に気分を悪くしてトイレへ駆け出すも、間に合わず床にゲロをぶちまける若者。俺はこみ上げる酸味の混じった吐き気を抑えながら、この混沌として熱気を帯びた吐瀉物を、床に這いつくばって黙々と片づける。
「ビールまだかよ!」
女子を前にして粋がった男が、店員に罵声を浴びせる。店長も含めてあちこちの狭い十字路を店員たちが盆片手に右往左往する。まさに猫の手も借りたいこの状況で、アルバイト一人のクビを切っている余裕など無かった。
ようやく片づけを終え立ち上がった俺の尻を、男の堅い靴底が蹴とばす。
「ビール来てないけど一体、何時までかかるの?」
「申訳ありません」
自分は悪くない。そう考える前に、自然と体はくの字に傾いていた。こんな身でも、感情を排し卑屈になるだけの精神はすっかり骨の髄にまで染み込んでいた。かと言って、では思いの丈をぶつけてみろと言われたところで、確固たる自信も無い俺は、怯えたように唇を震わせるだけで何も言えないだろう。俺はもう一度、男に服従を誓うように深々と頭を下げる。
「うちでは毎朝、患者についてのプレゼンをやるんだけど、下手な奴は上司に散々虐められてなぁ。でもコツさえ掴めばチョロいものさ。内気なガリ勉じゃあ実際この仕事は務まらないね。同じ患者に対するムンテラだって、喋る奴によって相手の反応には雲泥の差が出るものさ。」
研修医らしき男は、もはや俺の方には目もくれず、女子たちを前にして自分の知識を披露している。この傲岸な男が多くの命を救う一方で、俺は客に対して卑屈に首を垂れ、下僕のように無我夢中でホールを右往左往するのだと思うと、濡れた床のせいで少し湿ったズボンの端を擦りながら、不意に、この仕事を辞めようと思った。その先のことは何があるわけでもないが、この決意だけは、なぜか俺の中で最後のピースが収まるかのようにしっくりときた。男の甲高い笑い声を聞きながら、俺は男の饒舌を更に促す潤滑油が入ったジョッキを音をたてぬようテーブルに置く。
去ろうとした俺の尻に、またしても男の堅いつま先が食い込んでくる。
「泡がほとんど無いじゃないか!」
「止めなよ」
「だってよ、泡が無いビールなんて聞いたことあるか?」
男女の会話を、俺は繋がれた犬みたいうつむき加減に聞いている。一人の女が食って掛かり、もう一人は奥で気まずく押し黙っているようだ。
「別に泡が無くたって味は変わらないでしょう?」
「馬鹿言え。ビールに泡が無くてどうする」
「下らないこだわりねぇ」
「何を!」
健二?
俺は汗ばんだ顔を上げる。それは風に吹かれて舞う羽毛の如く儚く、俺の鼓膜を微かに震わせた。本当に自分の名が呼ばれたのか、最初は信じられない気がした。
「健二」
今度は確かに、その声は俺の耳にまで届いた。呆気にとられる二人の男女を他所に、美咲は歳に似合わぬ人懐っこい笑みを浮かべて俺の名を叫んだ。
「久しぶりだね。ここで働いていたなんて知らなかったよ。工場はもう辞めたの?」
まるで憑かれたようにしゃべり続ける美咲に、俺はどうして良いか分からず困惑した。言い争っていた方は以前、俺と信也を騙したエリカとか言う女だった。彼女は少し驚いたような表情を見せただけで、居づらそうにグラスに刺さったストローを齧っている。
「何?二人は知り合いだったの?」
「ええ!」
研修医の男が割って入ってくるも、美咲は目もくれずに喋り続ける。勤務中なのでとりあえず、俺は興奮気味の美咲をなだめると席を後にする。背中には男の嫉妬に満ちた視線を感じて、俺は突っかかってきた仮を返してやったような気がして得意だった。


立ち並ぶ街灯は蛍のように白く灯り、俺たちを先の見えない暗闇へと誘う。不思議な気分だった。美咲は下した髪を微かに棚引かせながら、白い頬には相変わらずの笑みを浮かべている。数年の時を経て、彼女は艶のあるリンゴのようにその輝きを増し、眩しくて、俺は思わず顔をそむけてしまう。円熟した美しさが、その華奢な身を薄いベールのように包み込んでいた。かと思えば、不意に見せる人懐っこい笑みは以前とちっとも変わっておらず、何時の間にこちらの内側にまで心地よく染み込んでくる。
「あんな男に構うことないわ。」
エリカは、自分を出汁にして美咲を誘おうとした研修医の男にひどくご立腹の様子で、
「店に入って、やたらと貴方の傍に座りたがった辺りからおかしいと思っていたのよ。どうせ貴方、私が居なければまたあんな馬鹿男の誘いにのこのことついて行ったんでしょうね。」
彼女はさも自分の手柄と言わんばかりに主張する。数年前には美咲をハメて俺と信也の元によこした彼女が、今度は救ったのだと胸を張っている。どうして女とは、こうもあっさり主張を翻すことが出来るのか分からない。美咲はただ隣で少し困ったような笑みを浮かべている。
「大体ねぇ、貴方は優しすぎるのよ。」
エリカの声色は徐々に重く説教じみてきて
「婦長も言っていたわ。健診の日の事、覚えてる?あの泣いて暴れた男の子」
健診の日。親に連れられてやってきた一人の男児が、採血を酷く嫌がった。彼は臆病で、親は途中で逃げ出さないよう採血のことを内緒にして来たのだと言う。注射器を前にして顔面蒼白、子猿のように親の腕にしがみついて離れない男児を、美咲はどうすることも出来ず、あろうことかその場で泣き出してしまったのだと言う。まさか、泣いている子を見て自分まで泣き出す看護婦が何処にいるだろうか。結局、その場は別の者が代わって事なきを得たが、その間、彼女は隅の方で何もできずにうな垂れていたと言う。
「あの子が可哀想なのは分かるわ。でも、やらなくちゃいけないの。」
エリカはそう言って忌々しげに顔を歪めたが、俺はむしろ如何にも美咲らしいエピソードだと思った。彼女の根幹を為すものは今でも何一つ変わっていないのだと思うと、俺は漆黒が埋め尽くす空を見上げながら軽い眩暈すら覚えた。美咲は苦しげに口元には微笑を浮かべるも、何も言い返せずに黙っている。恐らく、この美咲よりもエリカや、あの偉そうな研修医の方が、これから先よっぽど多くの患者を救うだろう。目には強情な光を湛えるエリカなら、泣いている子どもをなだめつつも、一定の強制力でもって実に手際よく事を運んだであろう。その点において彼女はプロフェッショナルである。医療の現場において美咲が抱く憐憫は、患者を救うどころか糞の役にも立たないであろう。その点で彼女は、檻に押し込められた猛獣を、外から見て悲観する無知な見物客と変わりない。しかし、俺は美咲ほど心優しい人をこれまでに見たことがない。まるで彼女は、荒れ狂う二本の濁流のど真ん中に立ち、体の芯まで震える哀れな小動物のようだ。彼女はたたきつける濁流の痛さを、冷たさをよく知っている。しかし、それを乗り越えなくては、世間はその他の落伍者たちと同様の烙印を彼女の白い背中に焼き付けるだろう。美咲は遣るかたなく爪の先を噛みしめている。やがて時計の針が狂いだすように、彼女の中でもまた何かのズレが生じつつあった。それは長年、俺が願い続けてきた筈の真実だった。
「そう言えば、健二は仕事を抜け出してきて大丈夫なの?」
美咲は無理に話題を変えようと明るく振る舞うが、あまりに不自然で、隣でエリカは不機嫌に押し黙っている。
「ああ、どうせ今日で辞めるから平気さ。」
俺はそう言って自分の携帯を取り出すと、美咲の目の前で店長の番号とアドレスを消去して見せる。けれど、残ったのは何もかも失ったような虚しさだけだった。虫たちの鳴き声がうるさい。切れかけの街灯が点いては消える。引きつった笑みを浮かべる美咲の表情を見つめて、不意に、俺は何とも言えぬ不安に駆られた。


自室の湿っぽいベッドで時折、俺は悪い夢にうなされて跳ね起きる事がある。目を開けても閉じても分からない、夜中の黒い天井をじっと凝視していると、不意に、俺は叫びたいほどの衝動に駆られる。同世代の若者たちが社会に出て活躍する中、俺だけが一人このじめじめとした部屋に取り残されているような気がしてひどく気が滅入った。確固たる意志も自信もある訳ではないが、誰でも良い、自分を認めてくれる存在が居て欲しかった。それが最も醜く浅ましい欲望であると云うことは百も承知していたが、この底冷えのする夜の孤独に耐えられぬ俺は、自らの脆さを痛感しつつも、震える指をすり合わせてそう祈るほかなかった。日に三回、侍従のように飯を運んでくる母も、ほとんど顔を合わせることのない父も、決して俺の心を癒すことはない。信也は月に一度ほど近況を報告してくるようになった。相変わらず車や女の話ばかりで、眼前にそびえ立つあらゆる壁を物ともせず平然と飛び越えていける彼の溢れんばかりのエネルギーが羨ましかった。
美咲ともあれからちょくちょく連絡を取り合うようになった。
「何だよ」
俺がわざとぶっきら棒に応えても、美咲は受話器の向こう側で軽やかな笑い声さえ上げて
『うん、今日は天気が良いなって。』
「だから?」
『それだけ』
「じゃあもういいか?お前も夜勤とかあって忙しいだろう。」
『ええ……。』
 他愛の無い美咲との会話は、ささくれた俺の心を優しく洗った。澄み渡る晴天の空を、銀色のアンテナが心地よく差していた屋上の光景を不意に思い出す。
 『じゃあね』
俺たちの会話は突然、不自然な形で途切れる。俺は美咲の中で起きつつある僅かな綻びのようなものを感じていた。美咲は何か言いたげな沈黙を続けている。瞬間、俺はエリカが浮かべたあの忌々しげな表情を思い出す。美咲もまた社会の壁にぶち当たりもがき苦しんでいた。
「信也は元気か?」
俺はわざといたぶる様に問うてみる。図星を突かれて狼狽えている彼女の様子が、受話器を通してこちらにまで伝わってくる。
『うん、相変わらず面白い人だよ』
「鬱陶しいだろう」
『そんな事は……。』
心優しい彼女の事だ。恐らく、信也に関係を迫られて断り切れなかったに違いない。でも、例え彼とそれなりの関係を持とうとも、彼女は決して本心を許すようなことはしないだろう。だって、信也のような満たされた人間を彼女は求めてはいないのだから。彼女は俺や坂口のような脆く醜い人間たちを慰め、或いは食らうことによって肥え太ってきたのだ。
涼しい店内に、誰が聞くでもないラジオ放送が小さく木霊する。BGMのポップソングに加えて、DJのラップのようにリズミカルな口調が、深夜の落ち窪んだ様な雰囲気に合わず鬱陶しい。ここでメールが一件。有名演技派俳優と、人気アイドルのスキャンダルが報じられる。男の方はよくドラマの被害者とか脇役で出演する正直あまり冴えない奴で、かたや相手の女は、男たちの目を釘付けにする豊満ボディに、厚い唇には魅惑的な笑みを浮かべる美女、と男の方はまさに野獣といった感じで、別にどうだっていいのだが、俺はひんやりとしたアイスボックスの中身を、腹を空かしたクマのように漁りながらそれとなく聞いている。悩んだ末に、俺は最安値のガリガリ君ソーダ味を手にする。万年プー太郎の身にとって一本60円の爽やかな味は、どんな聖女たちの囁きよりも甘く、体の芯にまで心地よく染み込んでくる。続いて最近流行りのお笑い芸人がネタを披露するも、漫画を立ち読みする客も、レジで欠伸をこいている店員も誰一人笑わない。先日やっていた番組ではみんな結構ウケていたというのに何だか可笑しかった。
俺は目的の品を手に会計を済ませたが、このまま家に帰る気にもなれず店内をうろついている。どうせ両親は寝ているし、例え起きていたとしても、俺が帰ってくる音を聞けばきっと狸寝入りを決め込むに違いない。上から降ってくるエアコンの冷気が気持ち良い。一方で、俺の中に宿る何かを吸い取ってしまう様な気がして、人差し指にはコンビニ袋をぶら下げたまま意識はぼんやりとしてくる。ふと、眠そうに目を擦っている店員と目が合う。不審に思われるのも嫌なので、俺は髭剃りや携帯用充電器の入ったパッケージ裏の説明文を買う気もないのに読んでみる。なるほど近頃はソーラー型の充電器もあるのだ。髭剃りの刃はチタン製が丈夫で良いらしい。こんな事に気づき発明する人たちは立派だ。俺らの世代からもまたすごい発明をする者たちが、植えたばかりの種のようにやがてすくすくと育っていくのかもしれない。そんな輝かしい光景を、俺はあのじめじめとした部屋から一人ただ指をくわえて見ていることしかできない。俺は慌ててだる重い首を横に振る。
臨時ニュースが入る。近くのコンビニに若者が運転する乗用車が突っ込んだらしい。アナウンサーの演じる沈鬱な口調にも、店内に居る者たちはまったく動じない。場所はここから2キロほど離れた場所に在るコンビニだ。また、店員が大あくびをこいている。客のページをめくる指は、先ほどから一定のリズムを刻み続けている。どうやら運転手の他にも何人か負傷者が出たらしい。もしかすると、一歩間違えばこちらが被害に遭ったかもしれない。こんな平穏は突然、何の前触れもなく壊されたかもしれないと云うのに、深夜のコンビニには依然として寝ぼけたような雰囲気が漂っている。誰もが、この綺麗な水平線をなぞるが如き均整の取れた時間が、いつまでも続くと無意識に思い込んでいる。それは死期を目前にして、むしろ空元気を振りまく病人のように虚しく儚い。最後の客が、折り目のついた漫画を棚に戻して消えると、遂に客は俺だけになる。また店員の男と目が合う。これ以上、誤魔化し続けることは出来ないようだ。俺は仕方なく溶けて露を帯びたアイスの袋をだらしなくぶら下げながら店を後にする。
 湿っぽい夜。軽やかな音を立てて自動ドアが開くと、途端にうだるような熱気と虫たちの鳴き声が一斉に両耳を圧迫してくる。大量の汗が吹き出し、シャツを気持ち悪くへばりつかせる。薄暗い夜道の淵を歩いていると、昼間の喧騒とは打って変わって、俺以外に誰も通らない夜道の端っこを歩いていくのが急に馬鹿馬鹿しく思えてきて、俺は消えかけのセンターライン上を擦り切れたスニーカーの裏でなぞる様に踏みしめる。この道は普段、駅前に出る為の抜け道になっているから、昼間はこんな風に人が道のど真ん中を歩くことなんて出来ない。俺は黒いアスファルトの地面を踏みしめながら、腹の底から隙間風のように突き抜けてくる快感を噛みしめる。月は暗雲に齧られ、爪の先ほどまでにみるみる小さくなっていく。溶けたアイスの露がぼたぼたと垂れ、路上に黒く濃いしシミを作っていく。目を凝らしても見えないほどの真っ暗闇が、俺の中に暗い影を落とす。俺は不意に胸がうずくのを感じたが、だからと言って、決して叫んだりはしなかった。もしそうすれば、俺は紛れもなく変質者だ。深夜の道を意味もなく徘徊し、訳の分からぬ声を上げる変人。俺が過ぎ去る刹那、こちらを警戒するかのように一件の窓に明かりが灯る。俺はドキリとして思わず足を止めた。俺は何もしていない。そう言い聞かせながらも、足先が微かに震えるのを感じた。体中を滴る汗が、一瞬にして凍り付く。音もなく揺れる黒い木々が、俺を責めているような気がした。



 鼻をつく微かなアルコール臭は、小さいころ親に連れていかれた予防接種のときの事を不意に思い起こさせる。端が擦り切れた長椅子の柄を確と握り締め、未知の恐怖に打ち震えていた俺の事など構う様子もなく、街角にある病院の待合室は妙に整然としていた。このやけに白く清潔感の溢れる場所で、診療が行われ、ときには命のやり取りが、まるでコンベアーに載った荷物を次々とあるべき場所へと移すかのように、ごく当たり前に行われていく。それが病院という場所だ。
 茶色く変色した葉が今、まさに細い枝先から零れ落ちようとしている。四隅まで綺麗に拭かれた病室の窓から、俺はそんな風景をぼんやり眺めている。葉は緩い風に煽られ遂に剥がれたかと思えば、もう次の瞬間には視界から消えて無くなってしまった。眼下にそびえる灰色の景色は、まるで何事もなかったかのように静止している。カラスが黒い点になって数羽、のんびりと旋回している。まぁ、大丈夫でしょう。そう感情の籠らない感じでつぶやいた担当医の低い声を思い出す。まるで何かの器具みたい無感動に動き回る医師の指や視線の前では、人の命などは所詮、風に煽られて飛び去る一枚の葉に過ぎない。それが医療というものだし、そうしなければ、医師などという大それた仕事をやっていけないことは百も承知していたが、それでも、俺は胸の内から俄かに湧き出てくる苛立ちを抑えることが出来なかった。
 「まるで他人事だな。」
 俺は一人ごちる。いや、俺は目の前の信也に言ったつもりだったが、彼はベッドに身を横たえたまま何も言わなかったので、結果的にそうなっただけだ。医師や俺などに言われなくとも、自分の身の事は本人が一番よく分かっているだろう。絶望からくる嗚咽を噛み殺すように、信也はらしくもなく口を一の字に結んで押し黙っている。そんな湿気た表情さえ様になってしまうこの男が恨めしい。俺が土産に買ってきたリンゴは、もう何時間もそこにあったかのように机上で水分を失いつつある。そもそも、別に信也は腹を壊した訳でもないのに、なぜ見舞いの品にリンゴを買ってきたのか。自分のセンスの無さに呆れてくる。そういえば俺は、自分が今日までろくに人の見舞いに訪れたことが無かった事実に気が付く。ここへ来る途中、俺はふと思い出して八百屋の店先で立ち止まり、あたかもそれしかないかの如くごく自然に、この生々しいほどの輝きを放つリンゴを手にレジに向かっていた。まるで地平線に押しつぶされていく真っ赤な夕日のように、リンゴは机上で水分を失いながらも、最後の主張をしているかのように見えた。失敗したな。そう思ってリンゴをかばんにしまいかけた時、信也の、やけに白い手が俺の腕を掴んだ。
 「頂くぜ」
 そう言って見せたあたかも健康そうな白い歯で、彼は真っ赤なリンゴの横っ腹を思い切り齧って見せる。すっかり干からびたと思っていたリンゴの断面からは幾つもの滴がぼたぼたと零れ落ちて、彼が腰かけるシーツを濡らす。空元気を振りまくも、さすがに狼狽の色は隠せないようで、無理やり作った笑みはやがて建物の壁が劣化していくみたいに引きつり、みるみる壊れていく。木から落ちた猿みたいに、湿っぽいベッドの上にだらしなく両足を投げ出してうつむく信也の、らしくもない表情を見ていると、さすがに胸の辺りがチクチクと痛むような感じがした。
 「女の方からちょっかい出してきて、運転中だから止めろって言ったのに、それでハンドルを切り間違えてこの様さ。しかも、あの女の方はほとんど無傷で、そのくせただの一度も見舞いにも来やしない。メールだって何通も送ったのに。きっと俺は捨てられたのさ。全く女ってのは都合が悪くなるとすぐしっぽ巻いて逃げるから叶わないぜ。なあ?お前もそう思うだろう?」
 まくし立てる様に口の端からはつばを飛ばしながらしゃべり続ける信也の、小刻みに震える手のひらを俺はじっと見つめている。俺は今、一人の男の人生における分水嶺に立ち会っているのだと、不意に思った。彼は喜劇俳優のように両手を一杯に広げておどけて見せるが、ベッドにだらしなく投げ出した両足は、まるでもう彼のものではなくなってしまったみたいに力なく横たわっていた。

 もう、動かないみたい。

俺は美咲のやけに低い声を思い出す。それは声というよりかは、僅かな風が薄い唇の間をかすめたような儚い音だった。一足先に病室を訪れた彼女は、そう言って受話器越しにしばらく沈黙していた。泣いていたのかもしれない。俺もまた受話器越しに息をひそめて相手の様子を伺っている。もしそうだとすれば、単に言い寄られていた男を見舞い、その男の為に涙を流せるなんて、まったく彼女らしいと思った。
 信也はもはや動くことのない両足を引きずり、ベッドの上を芋虫のようにもぞもぞと動き回る。雑誌のページを意味もなくめくってみたり、普段なら見ることのない昼間のワイドショーをぼんやり眺めたりしている。本来なら仕事の顧客が居る家と家との間を忙しなく動き回っていたであろう信也は、今はまるでガラス細工のように生気のない目で、次々に移り変わる画面をじっと見つめている。イギリス国民は、EU離脱の道を選んだようだ。政治資金の私的利用で辞任した知事は結局、辞めてからは無言を貫いた。無数のフラッシュをその広い額に浴びながら、庁舎内を闊歩していく知事の不貞腐れたような無表情は、世間の反感を買ったが、しかし、俺には何だか気持ちがわかるような気がした。また、信者の信仰心を逆手に取って女性を犯す新手の宗教集団が現れたらしい。画面にはその教団の教祖らしきスキンヘッドの中年小太り男の不愛想な顔が映し出される。もし俺が女なら、こんな魅力のないジャガイモみたいなおっさんと寝るなんてまっぴらごめんだが、そんな感情さえ乗り越えてしまう女たちの信仰心を、巧みに利用するこの不細工な男の人生に対して、俺は嫌悪を覚えるよりかは、むしろ胸のうずくような興奮を覚える。信也はやはり何も言わない。時々、思い出したように首筋の辺りを指で掻いたりしている。正午を告げる物憂い鐘が鳴る。看護師たちの手によって如何にも薄味そうな昼食が運ばれてきて、そろそろ帰ろうかと重い腰を上げた時、
「健二」
信也は低く唸るような声で、
「俺は腐らんぞ。絶対に」
俺は、まるで生まれたばかりの小鹿みたいに、震える両腕で必死に己の不自由な体を支えている信也の四肢を見下ろす。その眼には怯えと、醜い執念とが入り混じった光が宿っている。齢二十幾つにして、彼は下半身の自由を失った。それが彼の人生にどんな意味を与えるかは、おぼろげながら俺にも想像することが出来た。彼が順調に歩んできた、順調であると信じて疑わなかった道は今、まさに音を立てて崩れ去ったのだ。さよなら。俺は微かな優越感を噛みしめながらつぶやく。俺が生まれながら傷を負っていたように、そんな不幸とは全く無縁と思われていた彼にもまた、このような深い傷が刻まれたのだ。それは神か、それとも仏の仕業なのか、俺には分からない。いずれにせよ、彼は深い傷を負った。恐らく、彼にとって初めての経験になるだろう。それはもう二度と立ち直れないほどの致命傷になるかもしれない。彼はもう分厚い枕に顔をうずめて動かない。もうだめだな。俺は不意にそう思った。そこには、女を侍らせ、世の荒波を涼しい顔で闊歩していたあの瑞々しい面影はもう無い。クーラーの冷風が、彼の長い襟足をそっと煽る。冷たい病室の空気もまた死んだように押し黙っている。それは、かつてここに居て苦しんだ先住者たちの静かなるメッセージのような気がした。他のどのベッドも、まるでこちらとは関わりを持ちたくないかのように堅くカーテンを閉ざしている。深い沈黙の中で、信也は時間が止まってしまったみたいに身じろがなかった。



あれから俺が信也を見舞うことはなかった。行けば嫌味になってしまうだろうし、それに、彼の苦しむ姿を見て喜ぶほど俺も悪趣味ではなかった。同じ男としての憐憫を、彼に対して感じない筈がなかったし、彼にとって俺は、多く居る友人の一人に過ぎないかもしれないが、俺にとっては数少ない友人の中で最も深く付き合った間柄だったから、時々、あの不運がなぜ俺ではなく彼に降りかかったのか等と云う無意味な妄想に耽ってみたりもした。
こうも時間を持て余すと、意味のないことを色々と考えてしまうものだ。俺は自室の薄ら汚れた天井をじっと見つめている。ベッドのスプリングが悲鳴に似たあまりに情けない声を上げて軋む。信也の事故は不運であったと思う。彼の人生は志半ばで、枝が障害によってあらぬ方向へ折れ曲がる様に、まったく予期せぬ様相を呈してきた。下半身の自由が利かないと云うことは、特に、外回りの多い営業職にとっては致命的だ。恐らく、彼はいくばくかの退職金を受け取るのみで、早々に会社を去らなければならないだろう。同僚や上司たちの無責任な憐憫も決して彼の心を癒すことはないだろう。周囲の人間たちは時間が経てば忘れてしまうだろうが、信也はその身に受けた傷と一生顔を突き合わせていかなくてはならないのだ。これから彼は、身体障害者というフィルターを通して人々に見つめられ、例え何の気なしに向き合おうとしても、彼は無責任な善人たちの奉仕を半ば強引に押し付けられて嫌な思いをすることもあるだろう。でも、彼は社会にとって紛れもなく奉仕されるべき対象であるし、そのような行為を一切拒否すれば、彼は薄暗い自室から一歩たりとも出ることは出来なくなるだろう。善人たちのある意味で自己満足的な奉仕に縋らなければ生きられない屈辱を、これから彼は嫌というほどに噛みしめなくてはならない。そんな彼の事が可哀想であると思う一方で、彼がこの状況をどのように打破していくのか興味があった。こんなじめじめとした部屋で一人いつまでも動けないでいる俺と違って、彼なら何かやってのけるであろう。いや、何も出来ない筈がない。そんな確信に近いものがあった。



ビルの合間に夕日が沈み押しつぶされていく。たばこ臭い袖と袖が触れ合い、誰もが無機質な画面に視線を落したまま、狭い車内では無言の争いが繰り広げられる。生暖かいつり革につかまりながら、俺はまるで人里離れた山奥から降りてきた修行僧のような気分であった。最後のアルバイトを辞めてから数か月、すっかり引きこもっていた俺は、世界は確かに動いているのだということを今更ながらに実感した。工場勤めの頃によく使っていた駅前のコンビニが潰れていた。ぬるい風に煽られ棚引くテナント募集の広告を見つめながら、俺は程よい寂寞の味を舐める。幸子や嫌な上司との思い出も、今では懐かしく胸にこみ上げてくるものがあった。どんな痛みも、時間が経てば和らぐものなのかもしれない。今日俺が受けた傷も、やがては癒されるだろう。問題は時間だ。俺は自分に言い聞かせる。俺は薄暗い自室で、パソコン画面に向き合っていた時、雑然としたサイトの中に『やる気のある人材求ム!』の文字を見て、もうほとんど即決で今日の面接を受けに行くことを決めた。それは人材派遣業を営む新進気鋭の企業だったが、別にそんなことはどうでも良かった。その熱っぽい台詞が、長らく一人で居た俺の心に妙に心地よく染み込んできて、その企業についてまだろくに調べもしないうちから、自分が在るべき場所を見つけたかのような充実感さえ抱き始めて、意気揚々と今日の面接に出かけてみたものの、結果はご覧の通り、相手方はつけあがった俺の愚かな心中をすっかり見抜いていた。面接官はさすが人材派遣業のプロといった感じで、ろくに準備もせず人生の積み上げもない俺の弱点を的確についてきて、俺は開始から10分も経たないうちに早々と引き上げなくてはならなかった。俺は常日頃から、何だかんだ上手くいくだろう、このままでは終わらないだろうという根拠のない自信を密かに抱いていたが、それも見事に叩き潰されて、すっかり意気消沈していた。今思えば、このままでは居られない焦りがあったのかもしれない。これから家に帰る足取りが重い。出かける間際、俺が企業の面接を受けに行くと聞いて喜んだ母の、哀れな泣き笑いを思い出す。こんな様になっても尚、母は自分の息子に対する希望を棄てない。それは、近頃はパートも辞めて、皺も白髪もめっきり増えた母の、終を臨む最後の煌きのように思えて虚しかった。母の盲目的な期待は、今の俺にはひどく重く感じられた。恐らくこれから俺の人生は、堕ちることはあっても、再び浮き上がることはないだろう。底が見えないほどに深く暗い穴に堕ちていく浮遊感が、俺を無限の恐怖に陥れる。苦しくて叫んだところで、誰もが自業自得だと俺を指さして笑うだろう。今、背を向けている乗客たちのすべてが、実はこちらをじっと凝視しているような気がして、急に嫌な汗が全身から噴出してくる。眼下に座る女性が、目の前の俺を見上げる。俺は決して目が合わぬよう釣り広告を見たり、じっと目を閉じたりして耐える。それでも、女性のあざ笑う様な視線がこちらの動揺を見透かしているような気がして、俺はもう耐えきれずに目を開く。
「健二くんじゃない」
女は大きな口の端を釣り上げて悪戯っぽく笑う。どうして無視したの?しつこく問い詰めてくるエリカに、俺は錆びついた機械みたいぎこちなく首をひねる。俺たちの間には、器に入った氷の上から熱いコーヒーを注ぐときのような温度差があった。そもそも、彼女に「健二くん」などと下の名で呼ばれる筋合いはなかったし、それに、すべて自分主導で会話を推し進めてくる彼女の勝気な態度が気に食わなかった。
「私、今日は遅番なの。日勤に比べたら比較的に楽だけど、やたらとナースコールを押す患者が居たりして結構面倒なのね。それに、みんなが帰っているときに出勤するのって、すごく憂鬱になるのよねぇ。」
別に何も聞いていないのに、彼女はため息交じりに看護師の苦労話を連ねる。実は結構、俺たち仲良かったのかとさえ錯覚するほどに、彼女は他にも今付き合っている男の事などべらべらと身の上話を述べてくる。突出した美人ではないが、さり気なくこちらに寄り添ってくるような彼女の雰囲気に惚れる男は案外多いのかもしれない。俺は彼女のペースに乗せられまいと腹に力を籠め、
「そう言えば、美咲は元気?」
急に関係のない話題を振ってくさびを打ち込む。エリカは面食らったように黙り込むので、俺はしてやったりと思いきや、むしろ、彼女の口元には待ってましたと言わんばかり余裕の笑みがありありと浮かび上がって、
「辞めちゃったわよ」
彼女はわざと気のない声で言ってのける。しかし、彼女の表情からして、初めからこの機会をうかがっていたことは明らかだった。俺は動揺を悟られぬよう黙っている。
「どうにも耐えられなかったみたいね。前から思っていたけどあの子、看護師に向いていなかったのよ。甘いのよね。でも頭は良いし、それに可愛いから、他でもきっと上手くいくでしょう」
きっと上手くいくでしょう。まるでよく知る先生のような口ぶりに、俺は怒りを覚える。が、一方では特別に驚きもないと言うか、こうなることは最初から分かっていたような気さえする。美咲は心優しい女性だ。だが、優しいことと、現に人を救うこととは両立しない。エリカはそうとでも言いたげな微笑を口元に湛えている。俺もまた、そのことは重々承知しているつもりだが、ではなぜ、美咲本人からそんな重要な話を聞くことが出来なかったのか。俺は昨日も彼女と電話で話をしていたから(或いは辞めたからそんな時間があったのかもしれない)、そのことがやけに俺の胸に引っかかっていた。
俺は、家に帰ってすぐさま期待に胸膨らませて近寄ってきた母の問いかけを適当に受け流し、湿っぽい自室のベッドに仰向けになる。久方ぶりの疲労感が熱っぽく全身を覆う感覚を味わいながら、俺はまだ美咲の事が意識の奥底で引っかかっていることに気が付く。
「どうだったのよ?健二」
ドア越しに語り掛けてくる母の声がうるさい。察してくれよ。俺はかび臭いタオルケットを頭から被る。耳も塞いだが、それでも憑かれたようにしゃべり続ける母の声が、妙にはっきりと耳にまで届いてくる。どんな会社だった?面接は出来たの?ダメだったの?どうだったの?母は執拗に問いただしてくる。その声の響きには、息子である俺を心配してというよりかは、自らの過ちをどうにか正そうとするときのような愚かさがあった。もはや、扉の向こうに居るのは俺の母親ではない。一人の社会人として、母らしき人物は、執拗に扉をたたくことで、自らを正当化している。息子である俺を心配するふりをして。俺の頭は酷く混乱した。美咲は看護師を辞め、そのことを俺には告げなかった。でも、そのことはもしかすると俺の人生に何の関係もないかもしれない。ならば無視してしまえばいい。そう頭では分かっても、彼女の存在が電線に絡まった凧みたいに意識にこびりついて離れない。母は執拗に扉をたたく。それは静かだけれども、身体の芯にまでに響く重さがあった。遂にベッドも小刻みに揺れだす。うるさい。俺はもうタオルケットを握り締めて必死に目をつむる。そのとき、俺は携帯が鳴っていることに気付く。揺れはそのせいで、扉をたたく音はもう止んでいた。部屋は妙に静まり返っている。俺はおもむろに携帯の画面を開く。信也からだった。



 新緑の隙間から幾筋もの光が差し込んで、土の地面をまだらに染める。むっとした空気を他所に、風は心地よく俺たちの頬を撫でる。信也は眩しそうに目を細めながらも、その口元には、何者かをあざ笑うかのような微笑が浮かんでいた。こんな様さ。彼はそう言って己の足となったホイールを撫でて見せる。短パンからむき出しになった二本の足は、まるで女のそれみたい細く哀れだった。頬も幾分そげ、首はだらしなく傾いていたが、しかし、その目には挑むような光が宿っていた。もうだめだと思った彼の目は、確かに、まだ生きていた。少し歩こうか。信也は掠れた声で言う。俺はうなずく。俺が踏みしめる乾いた地面を、彼は不器用にホイールを軋ませながら進んでいく。葉っぱや小石が転がる公園の地面は不安定で、彼が漕ぐホイールは小刻みに揺れ出し、そして突然、詰まったかと思うと、反動で信也の身体は前に弾き出され、俺が手を出す暇もなく派手に転倒する。顔を打ったかもしれない。一瞬躊躇した俺よりも先に、美咲の細い体が弾かれたように伏した信也の身体に寄り添う。彼女は何も言わずポケットから取り出したハンカチで、信也の擦り切れた頬を優しく拭う。彼のズボンについた汚れを払い、脇に自分の腕を通してそっと抱き起す。それはさすが元看護師と言うべきてきぱきとした動きで、俺はそんな光景を、どうして良いか分からない子供のように傍でただぼんやり見つめている。美咲は持ち上げた信也の身体を、さらに良いポジションをとる様に脇を支えて微調整する。その間、信也は抜け殻のようにされるがままになっていた。そんな彼の耳元に、美咲はそっと何かを囁く。これでいいかと問うたのかもしれない。いずれにせよ、彼女の淡い口元には何とも言えぬ美しい微笑が浮かんでいた。ようやく自分の居場所を見つけたような、安堵に満ちた笑み。
 突然、信也は声を震わせて泣き出した。あまりに急な出来事だったので、俺は何が何だか分からなかった。彼は両腕で頭を抱え、苦しそうに声を絞り出す。
 「こんな筈じゃなかった……。」
 それはきっと心からの叫びなのだろう。俺が今の彼と同じ立場に立ったなら、きっと同じ台詞を吐いたに違いない。気持ちは痛いほどに分かる。でも、俺の心にはそれほど響いては来なかった。堅いコンクリートを叩いたみたいに、ただ吸い込まれていくだけ。小刻みに震える信也の身体を、後ろから美咲の白く美しい二の腕が抱擁する。大丈夫。長い髪が垂れてその表情を伺うことは出来ないが、彼女はそう言っているような気がした。大丈夫、私がついているから。通りすがる人々がこちらを見つめても、二人の抱擁は解けない。むしろ、傍に立って居る俺の方が不審な目で見られた。何をやっているのだ。俺は二人に向かって問うてみたかった。
刹那、美咲の白い腕の隙間から、信也の挑むような笑みが覗いた。昔と何も変わらない、誇示するような笑み。それは暗闇に煌く一筋の彗星の如く、俺の胸に生々しい程の感動を植え付けた。彼は、美咲が感じるところをよくよく知っていたのだ。知っていながら、彼は自らの障害さえ糧にして美咲の心を手に入れたのだ。何も言えない。俺には、彼を批判する権利はなかった。二人の存在を称える様に、新緑はささやかな音を立てて揺れる。俺はただ、一つの塊と化した彼らの抱擁を、傍で指をくわえてみていることしかできなかった。



6
 最近、二人は遂に同棲を始めたらしい。別に、俺には関係のないことだったが、時々、駅前の飲食店で働く美咲の姿を見つけると、不意に胸が鈍くうずくのを感じる。仕事で挫折を味わった彼女は結局、信也を救うことで自らの欲望を満たす道を選んだ。所詮、彼女もまた奉仕する自分に酔い痴れるその他大勢の女たちと何の変りもなかったのだ。
昼も夜も働き詰めで、合間に信也の世話をしているのであろう彼女は、前より幾分痩せたように見える。それでも彼女は相変わらず美しいのだが、そこには、坂口を抱擁したあの透き通るような美しさは無く、ただ、世間に揉まれ擦り切れた者の疲れがあるだけであった。



 ある日、俺は美咲に誘われて食事に出かけた。どうせ信也がついてくるかと思いきや、彼女は一人で俺の前に現れた。俺に紹介したい人が居るのだという。
 「きっと健二も気に入ると思うわ!」
 そう言う彼女は妙に上機嫌で、俺は何だか気後れした。彼女の白い首元には、何か不思議な形をしたペンダントが光っている。イガイガとしたウ二みたいな飾りがついていて、正直、それが彼女の趣味とは思えなかった。俺は言いようの無い不安に駆られる。
俺たちは駅前にあるレストランに入った。
 「この人がねぇ、私の願いを叶えてくれるの。」
 そう言って、彼女が俺に紹介したのは、中年小太りでスキンヘッドのおっさん。目には鈍い光を宿している正直、どこにでも居るおっさんなのだが、空手の胴着みたいな黄土色の服を着ている妙な出で立ちが周囲の目を引いた。
 「この人と身も心も一つになることで、どんな願いも叶えられるの。それは女性にしか出来ない儀式で、私たちが持つエネルギーみたいなものを、この人が引き出してくれるの。」
 「嘘だ!」
 彼女が言い終える前に俺は叫んだ。すると、隣からおっさんが不愛想に唇を尖らせて、
 「信じるか信じないかは君次第だ。だが彼女は……。」
 俺は飲んでいたアイスコーヒーを、スキンヘッドの頭めがけてぶちまける。周囲の驚く視線のど真ん中で、俺は黒い汁が滴る男の襟を掴んで引き起こすと、
 「こいつは宗教を語って、寄ってきた女を騙してレイプする犯罪者だ!誰か警察を呼んでくれ!」
 俺の必死の訴えも虚しく、周囲の目にはむしろ、俺の方がイカれた人間に映ったようだ。怯えたような目で見上げるだけで誰も近づこうとしない。異常事態に店員たちは奥の方であたふたしている。俺はもう覚悟を決めて、力づくでも交番に連行しようと男の重い体を無理やり引きずっていく。と、美咲の華奢な体が飛びついてきて必死に制止する。
 「ふざけるな!お前、騙されているのが分からないのか?」
 「信也君の」
 美咲は男の分厚い肩を抱きながら、
 「直してくれるの。信也君の足を……。」
 そういうことか。俺はすべてを理解した。この男は美咲の弱みに付け込んだのだ。逃げ場の無い彼女を唆して、自分のいいように弄んだのだ。俺は、怯えたように見上げるこの男に向かって増々、激しい憤りを覚える。こんな醜い男に、美咲が、犯された。俺が更に男の身体を引きずろうとすると、美咲が俺の足元に縋り付く。
 「いい加減にしろ」
 「じゃあ、どうしたらいいの?」
 美咲は俺のズボンの裾に顔を埋める。すぐにズボンが濡れて生暖かい感触が太ももの辺りを伝う。美咲は餓鬼のように掴んで離れなかった。どうしたらいいの?そんな事、俺だって分からないさ。でも恐らく、俺よりは後ろで呆気に取られているこの不細工な中年男の方が、今は彼女の痛んだ心を救ってくれるのだろう。何もできない無力感を噛みしめるよりかは、騙された方がよっぽどマシなのだろう。だが、こんな理不尽はない。俺は叫びたかった。誰に?それとも何に向かって?それも、今は分からなかった……。


<作品のテーマ>

 他人の善意や優しさを、素直に受け取ることのできない男の話です。
 宜しくお願い致します。
   投稿者  : 涼格朱銀
 この作品は読解するのが大変でした。読んでいて論点がよくわからなかったからです。どうでもいい話が延々書かれているようで、余計な話はいいから本題に入って欲しいとばかり思いながら読んでいました。しかし結局、読んでもどこが肝心な部分なのかさっぱりわからないという。
 人間ドラマを描いている割には人物描写や心理描写が薄いですし、こんなの読んで感想を付ける意味があるのかと、何度も思いました。

 ただ、3日かけて何度も読み返している内に、ふと、この作品は「顔コンプレックスの男の話」なんだと気づきました。それに気づけば、それを中心に作品を回そうとしていることも理解できましたし、作品の構成や意図がようやく掴めてきました。

 顔コンプレックスの話だとわかって読めば、確かに、この作品はそういう構成になっているのですけど、なぜそれに気づくのに3日もかかったのかというと、顔コンプレックスにしては、それに対する執着が薄いからです。鏡のエピソードや、顔の美醜に関する描写は確かに書かれているのですけど、それよりも、教師やクラスメイト、両親に裏切られ、幼なじみに見捨てられたことの方が重要そうに見えるのですよね。もしくは誰のせいでもなく、生まれつき根性が腐っているだけか。

 現状の書き方だと、主人公の根性が腐ったのは、顔コンプレックスよりも家庭環境の影響の方が大きいように見えます。つまり、いい子でなければ愛されないという強迫観念を植え付けられて育ち、ある日、悪い子と見做されて見放されたという、典型的なタイプに見えるのですね。で、母性を幼なじみに求めたけど失敗するという。
 そういう作品として読んだときに問題なのは、主人公の問題の根本である家庭環境や美咲についてさほど掘り下げて書かれていない点です。主人公の問題の根本は家庭環境にあるのに、家庭環境のことを書かないで他のことばかり書いても意味ないだろうと思えてしまうのです。また、両親に見捨てられた後に美咲にも見捨てられるくだりも絶対に重要なはずなのに、そこをあっさり済ませて、別の話に比重が偏っているのです。それで、この作品は一体何が書きたいんだと混乱するわけですね。

 しかしよく読んでみると、この作品では、主人公の問題を、どちらかというと顔コンプレックスに求めているようなのですよね。実際、作者が何を重視して書いたのか、あるいは構成など何も考えずに書いたのかは知りませんけど、少なくとも、顔の問題を作品の中に組み込もうとしたことは間違いないでしょう。

 この作品は、単に「他人の善意や優しさを、素直に受け取ることのできない男の話」にするなら、どういじってもあまり良くなりそうにないと思います。ありきたりな話を上質な作品にするには総合的に高い技術が必要になり、並大抵のことではうまくいきません。
 しかし、「自分の顔にコンプレックスがあるから」「他人の善意や優しさを、素直に受け取ることのできない男の話」にすれば、十分にいい作品に仕上げられる可能性が広がるのではないかと思います。
 つまり、主人公の審美眼や美醜に関する価値観、醜いモノに対する嫌悪などをもっとたくさん書いていって、だからこそ醜男にすごく手厳しいのだけど、自分も醜男だという、根性のねじ曲がった精神をもっと強調して書くわけです。
 この手の作品は三島由紀夫がよく書いているので、彼の作品は参考になるかと思います。あとは大江健三郎の初期の作品など。

 たとえば鏡を見るシーンは、もっと長めに描写して、自分の目が細いから寝ているように見られたり、にらみつけているように勘違いされたことに気づくに至るまでの過程はもっとしっかり描くべきですし、それがさらに、醜男だからクラスメイトも(親も)信用してくれないのだ、と悟るに至るまではもっと強調して書くといいでしょう。
 その上で、登場人物の顔の描写については、毎回いちいち力を入れて長めに書くようにする。普通、モブの表情などはそんなに詳しく書かないですけど、そこをあえて単なる警備員などまで、顔に関してだけは細かく書くようにすれば、偏執的な雰囲気が出るはずです。
 また、重要な判断の際には、常に美醜に関する価値観が絡んでくるようにする。これも、今でもある程度はやっているのですけど、徹底されていません。
 あと、この主人公は自分が醜男のくせに他の醜男にも厳しいわけですけど、今のところ、自分を棚に上げて他の醜男を批判しているだけに見えるんですよね。それはそれで人間的に腐っていていいんですけど、それよりは、自虐的な含みを持たせた批判にした方が、作品としては深みが出るだろうと思います。つまり、他の醜男をぶん殴ったり批判したりするときは、自分に対する怒りや批判を他者にぶつけているような感じにする。自傷行為が行き着くと他人を傷つけるようになっていくわけですけど、そういう感じにした方が末期的でいいんじゃないかと思います。そういうわけで、坂口をいじめるまでに、自己批判を繰り返すようなシーンを入れておくとかするといいんじゃないかと思います。で、自分をいじめるように、坂口もいじめる。小説の主人公は、単純に自分のことを棚上げにするクズよりも、自己も他者も批判するけど結局自分には甘いという根性のねじれた果てに腐っているクズの方がいいです。

 あとは、この作品では美咲が重要な要素になってくるのですけど、顔の件と同じで、そのわりにはあまり分量を割かれていません。表面上、主人公にとって美咲は大事だと書かれているのですけど、実際にはたいして書かれていないので、うわべだけの話に見えてしまうんですよね。本当はどうでもいいんだろうと思えてしまう。
 人は、どうでもいいことは一言で済ませられますけど、本当に大事なことはいくら言葉にしても足りないくらいなはずなのです。究極的には「言葉にならない」となるわけですけど、小説を書く時にそれでは困るので(それを文章化するのが小説なので)、基本的にはたくさん字数を使って書くほど、その事柄は重要だ、と見えます。
 なので、美咲と主人公との付き合いについては、もっと深く書く必要があるでしょう。

 また、この作品は美咲がゲスい醜男の宗教に入信するところで終わっていますけど、美咲は恋人ですらないですし、主人公にとっては実質的には被害のないことなのですよね。むしろ主人公の罪を美咲が負わされているようで、それはないだろと思います。
 これに限らず、実のところこの作品では、主人公自身はさして傷ついていないんですよね。不当な扱いを受けたのは冒頭だけで、あとは自業自得か、むしろ被害者面した加害者の立場にいることが多い。しかしそれでは読者としては面白くないので、もっと酷い目に遭わせてやったほうがいいと思います。
 この主人公は、ある程度作者の分身としての側面もあると思いますけど、自分の悪の部分を披露したなら、それに対する罰も作者として与えておかなければ作品としての調和が取れません。自分に対して甘い、独りよがりな作品になってしまいます。
   投稿日 : 2017/03/14 00:51
   投稿者  : momonga
涼格朱銀さま
貴重なご意見をいただきありがとうございます。

このような作品に対して具体的なアドバイスまで頂くことが出来、とても参考になります。
この作品は私自身の思いを率直に描いた結果、支離滅裂で辻褄の合わない部分が多々出てきてしまっていたように思います。また、私自身が描きたいことを上手く読者様方に伝える技術が未だ足りていませんでした。
頂いたご意見を参考にさせていただき、この題材を基に次回は読んでいただける方々にご理解いただける様な構成を練り直して再チャレンジしたいと考えております。

このたびは貴重なご意見をありがとうございました。
   投稿日 : 2017/03/15 23:24
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