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   『しらふな夜』

         投稿者 : 月見


 ウーロン茶が入ったグラスを掴むと、指先が冷たく濡れた。テーブルの上に水滴の輪っかができているのを、近くのおしぼりで何気なく拭く。
「でねー、そんでそのとき、みうらさんがねえ?」
 横に座る有芽が、聞いて聞いて、と子供のように私のセーターを引っ張る。
「みうらさんが、こうやって肩抱いてきてー、こうやって!」
 がばっと勢いよく肩を引き寄せられて、「うわっ」と体勢を崩した。ふわふわした状態の有芽がそんな私を支えられるわけもなく、二人してぐだぐだと倒れこむ。掘りごたつのお店で良かった。テーブル席だったら椅子から転げ落ちるところだった。
もー、と上半身を起こす。有芽は倒れこんだまま、「やばいっ!」と手のひらで自分の顔を覆っている。
「もー有芽、酔い過ぎだよ」
 なんて小言じみたことを言いながら、明るすぎる照明の中、私は笑う。
「酔ってませえん、浮かれてるだけだもん」
「浮かれて飲み過ぎて酔っぱらってるんでしょ」
 有芽の華奢な手首をつかんでひっぱり起こすと、今度はくたっと私にもたれかかってきた。
「だってー、みうらさんがかっこいいんだもん。あの人とならぶっちゃけ一回くらいあり」
「ちょっとー、こらこら」
「ふふ、会社楽しみ。早く来週にならないかなあ」
 ね、なんて笑われて、同じように「ねっ」と可愛く返せない私は、「ほんと飲みすぎ」と中途半端な笑みを浮かべるしかない。こういう時、私は自分をまだまだガキだなと思う。こんな貼り付けたみたいな笑い方、相手が酔ってなくちゃ一発で見抜かれてしまいそうな気がして。
 酔っ払いは怖い。こっちの常識がびっくりするくらい通用しないから。私は有芽が言う「みうらさん」のことを存じ上げていない。最近出向で有芽の職場に来た新しい上司らしい。アラフォーで、専業主婦の奥さんがいて、子供は小学五年生の双子と小学二年生の子がいて、池袋の近くに住んでいる、らしい。
 奥さんと子供がいる人に、肩を抱かれて「一回くらいあり」なんて、私はどこかおかしいんじゃないかと思う。でもこの明るく乾いた、だけどどこかべとついた、「飲み会」っていう雰囲気の中でそれを言うのはそれこそおかしい。
「おーっす、飲んでるか?」
 頭上から声をかけられて振り向くと、ビールジョッキを片手に持った田所くんがいた。
 私にぴったりくっついていた有芽もワンテンポ遅れて振り返り、「飲んでまーす! ね、穂波!」と言いながら自分のジョッキを持ち上げる。乾杯。私もグラスを掴む。テーブルに再び浮かぶ水の円。
「牧田さんウーロンかよー」
 飲めよー! という田所くんは顔が赤くて、心なしか目も赤い。私は苦笑して「弱いんだもん」と言う。飲み会になると、いつも以上に私の声は通らない。というか、なんだか浮いている感じがする。
「確かに牧田さんってなんか酒弱そう。つっても全然飲めないわけじゃないっしょ?」
「穂波は明日も仕事なんだもんね?」
「そう、今日飲んじゃうと明日起きられないから」
 うわー大変! と顔をしかめた後、田所くんは「いいじゃん明日休んじゃおうぜ!」と笑う。笑うと右頬にえくぼができるのが、卒業アルバムの個人写真と変わらない。
 変わらないのはえくぼだけで、他はずいぶん変わった。まず背が伸びた。声が低くなった。髪も、なんていうか、あの頃の柔らかい天然ものとは違ってなんだか固い。まくったワイシャツから伸びる腕が逞しい。ビールジョッキを傾けるのが様になっている。
 田所くんだけじゃない。みんなずいぶん変わった。ほとんどの人が最後に会ったのは成人式の時で、まあその時からはあんまり変わっていない気がするけれど、中学生だったあの時の記憶をほじくり返すと、時の流れを感じずにはいられない。
「秋山さんって変わんないよね、中学生のころから」
 私たちの近くに腰を下ろした田所くんが、有芽に向き合って言った。有芽は枝豆を可愛らしく口に運びながら、「えー? どういう意味?」なんて首を傾げる。
「なんかちっちゃくてー、みんなの妹って感じ」
「ちょっと田所くんそれバカにしてるでしょー!」
 けらけらと有芽が笑う。私は手にしたままのウーロン茶をちびちび飲んで、二人から目線を外した。今日集まったかつての同級生たちは二十人ちょっと。中学を卒業してからちょうど十年になる、ということで、当時クラス委員だった田所くんの呼びかけで同窓会が開かれた。
 有芽とはちょくちょく、と言っても半年に一回くらいのペースだけど、それでもそれなりに会っていたから彼女が当時の「男子」から見て変わったのか変わらないのか私にはいまいち分からない。本当は田所くん的にもそんなことどうでもいいんだろうな、と思う。
「そー俺今バリバリの営業マン。三組だった明石って知ってる? あいつとこの前仕事でばったり会ってさー、懐かしー! って」
「えっ、そうなの? すっごーい。でも中学の同級生に仕事で会うってなんか気まずいかも」
「えー俺仕事で秋山さんに会えたらテンションめっちゃ上がるけど」
 ウーロン茶をテーブルに置く。田所くんのうなじが目に入る。彼の半身は完全に有芽の方を向いていて、私からは彼女の華奢な体はほとんど見えない。投げ出した有芽のストッキングの足が、強い照明を受けて遠慮がちにきらめく。こんな真冬にストッキングで仕事しなくちゃいけないなんて大変だ。枝豆に手を伸ばす。お酒が飲めないせいなのか、居酒屋のコースっていつもお腹いっぱいになれない。セーターの袖をまくってちらりと腕時計を見る。八時過ぎ。
 ――帰りたい、かも。
 明日も普通に仕事だし。今日はお客さんからクレームが入って、その対応をしていたらいつのまにか一日が終わっていた。みんなが残業している週末に六時半で上がるのは相当気が引けたし、その分明日は早出して色々片付けなくちゃいけない。
 金曜の夜に、たまに思う。就職前は週休二日なら土日休みのところじゃなくてもいっか、なんて思っていたけれど、やっぱり土日がきちんと休みのところに勤めればよかったかな、なんて。こんなところで一人だけ明日の現実のことを考えているのは、辛いというより、直感的に、なんかダサい。
 枝豆の抜け殻をお皿に置いて立ち上がる。田所くんはそんな私をちらりとも見ない。人の間を縫って座敷を出る。とりあえずトイレに行こう。そう思って店内用の大きいスリッパに足を入れると、背後で「あれ」と声が聞こえた。
 振り向くと、スーツ姿で、コートを着た男の人がいた。
「帰るの?」
「瀬尾くんこそ」
 瀬尾くん。下の名前、なんだっけ。コウキだっけ。ていうか瀬尾くんで合ってたっけ。そんなレベルで、中学生のころからあまり話したことがない、でも確かにいたいたこの人、って感じの同級生が、「うん」と困ったように笑った。
「俺明日も仕事なんだ」
 そう言って、靴箱を開け、「どこ入れたっけ」と身を屈めている。
「酒飲めないし、まあ久しぶりにみんなの顔見られたし、お先にってことで」
 そして私の足元に視線を落とし、スリッパを履いてるのを見て、帰るわけではないのと判断したのだろう。「じゃあね」と、かつての同級生にふさわしいなんとも言えない距離感で微笑み、靴探しに意識を戻していく――
「私も」
 コートを着て、鞄を脇に抱えて、今にもここから出ていきますという風貌の彼に、ついていかなければ、と思った。
「私も明日仕事なんだ」
「お、そうなの?」
「うん、しかもお酒も飲めない」
「マジ? 一緒一緒」
 人懐っこく笑う瀬尾くんに、「牧田さんってお酒飲めなさそうだもんね」と言われて、この人もなんとなく私の苗字を探っている感じがした。
「私も帰ろうかな」
 そう言うと、彼は探し当てた自分の靴を持って、一瞬、ちらりと座敷の方を振り返る。
そして、「帰っちゃえば?」といたずらっ子みたいに笑った。
「荷物とか持って来なよ、俺店の前にいるから」
「あ、うん、ごめんちょっと待ってて」
スリッパを脱いで、再び座敷に戻る。お金が集金済みで良かった。有芽たちのところに戻り、コートと鞄をそっととる。田所くんはさっきよりももっと前のめりに有芽に向き合って、楽しそうにビールを飲んでいた。一声かけておこうか、と有芽に視線を向けると、ごちゃごちゃしたテーブルの上の料理たちが目に入った。半分ほど残ったままの私のウーロン茶のグラスが二人からはじかれたみたいにぽつんと佇んでいる。
 開きかけた口を閉じて、コートをかかえ直した。
 誰にも何も言わずに、自分の靴を履き、座敷を出る。背後で男女の混ざり合った笑い声が聞こえる。
 すれ違う店員さんに「ありがとうございましたー」と言われながら、店の入り口に行くと、瀬尾くんが携帯をいじって待っていてくれた。
 私に気づいた彼が、「お」と顔を上げる。
「ごめんお待たせ」
「いいよ、早いね」
 早く帰りたかったから。
 出かけた言葉を飲み込んで、店のドアを開ける。背後から「あーざっしたー」という声だけが追いかけてくる。外に一歩踏み出した瞬間、冷たい空気が鼻に、頬に、耳に触れて、コートの下の体の表面が震えた。それと同時に、なんだかすごくすがすがしい。
「さむ」
隣で瀬尾くんが、そう言って腕組みをする。吐く息は白く、風は凶器みたいに冷たい。イルミネーション風情の安っぽい電灯が、店の前でちかちか光っていた。
駅に向かって歩き出す瀬尾くんを、一歩遅れて追いかける。瀬尾くん。って、確か一回くらい同じ掃除の班になったことがある気がする。あの頃は私たちみんな自意識過剰で、男子と話すだけですぐに冷やかされるような時代だった。だからなのか、瀬尾くんが誰と仲が良かったとか、何部だったとか、そういう記憶が掘り起こせない。
「なんかさ」
目の前の男の人が突然振り向いて、どきりとした。
「久しぶりに会うと、みんなの中学の頃の感じ全然思い出せないんだよな、特に女子って」
じょし、という響きが懐かしく耳を掠めて、思わず笑ってしまった。
少し広い歩道に出たから、私は大股で瀬尾くんの横に並ぶ。瀬尾くんはそんな私を歩を緩めて待っていてくれた。横に並ぶと、彼はマフラーで口元を隠しながら言う。
「成人式でギャルになってたヤツとかがさ、今回いきなり大人しくなってたりとか」
「ああ、サオリちゃんはお母さんになったらしいから」
「聞いた。すげーよな、同い年が親ってさ、結婚も考えられないのに」
だよね、と吐いた息が、夜の中に白く浮かんだ。さっき見た田所くんの横顔を思いだす。確かにもう男子っていう風貌ではなかったな、なんてぼんやり思う。全力で侑芽の方を向く彼は、あの頃の自意識過剰さなんてこれっぽっちも体の中に残していないようだった。
俺、今度初めて結婚式行くんだ、会社の先輩の。と、マフラーでくぐもった声で瀬尾くんが言う。
「へえー、いいね。結婚式って楽しいよ」
「でも会社の人だよ。上司もいるって普通に楽しめなくない?」
「……確かに。それはただの会社の飲み会だわ」
「いい酒出てきてもどうせ飲めないし」
「料理に全力注いでいこう」
 それいいね、と瀬尾くんが笑う。私も彼を見上げて笑う。瀬尾くんって、こんな喋りやすい感じのいい人だったっけ。中学生の頃は、「いい男子」っていったらクラス委員の田所くんだった。男子から見ても、女子から見ても、先生から見ても。でも、二十五歳になった私の「いい」は、あの頃とは遠く離れたところにあるような気がする。
私たちは、同級生っていうパイプでしか繋がっていないくせに、何の思い出もない。思い出がないから、今のことを話すしかなくて、なのに「今」では何のつながりもないから、その空気がやたら気楽で心地いい。
「お」
 突然瀬尾くんが足を止めた。私も驚いて立ち止まると、彼は道沿いのお蕎麦チェーン店を振り返っている。原色の緑の看板。自動ドアが開いて二人組のサラリーマンが出てくる。暖かい空気と懐かしい匂いが、冷たい風に紛れて触れた。
 瀬尾君が私を振り返る。
「俺蕎麦食べて帰るわ」
 なんかちゃんと食えなかったし、と言ってはにかむ。
 自動ドアから中を覗くと、そこは辛うじて立ち食いではない、一応座って食べられる雰囲気のお蕎麦屋さんだった。カウンターに並ぶ丸まった背中はほとんどが、っていうかぱっと見たところ全員男の人。
「……私も食べて行こうかな」
 ぼんやり店内を見ながら言うと、瀬尾くんは少し驚いたように目を開いた。
「牧田さんも食ってく?」
「うん、いい? 私もちょっとお腹すいた」
「いいよ、じゃあ行こ」
 瀬尾くんが、さっき居酒屋で「帰っちゃえば?」と言ったときと同じ顔で笑う。私は彼のスーツの背中に続いて店内に足を踏み入れた。
 瀬尾くんと一緒に券売機でかけそばを買い、空いていたカウンターの席に腰掛ける。コートを脱いで、マフラーを外し、鞄を膝の上に置いて両手で抱えなおした瞬間、ちょっと自分でも意外なくらい、力が抜けた。
「疲れた」
 思わず口から洩れた声が想像以上におばさんくさくて、慌てて唇を噛む。
 「疲れた」だなんて言葉、自分の声が口にするのを久しぶりに聞いた気がした。
 そうして、この言葉を勝手にNGワードにしていた自分に気が付く。
 こんな声をかつての同級生に聞かれたことが恥ずかしくて、思わず瀬尾くんの方を横目で見ると、彼は何も聞こえていなかったのか足元に鞄を上手に置こうと奮闘していた。
「牧田さんってさ」
 上半身を起こした瀬尾くんが、カウンターに置いてあった水を汲みながら言う。
「吹奏楽部だったっけ、中学」
「うん、そうだよ」
 よく覚えてるね、と言うと、彼は恥ずかしそうに笑った。
「中三の時の新歓で、なんか踊りながら弾いてたよね。俺らの部の発表吹奏楽の後でさあ、袖から見てたんだけど、そういえば牧田さんいたなあって」
「あー、踊った踊った。なるべく楽し気に吹けって言われて、なんで楽しさ強要されなきゃいけないのって思ってた」
「もうやってないの? 吹奏楽」
「うん」
 やってない、高校入る時にはやめちゃったから。そう言うと、「ふーん」と瀬尾くんは頷いた。
「高校入ると、部活って本格的になるもんな」
「そうそう」
 瀬尾くんって何部だったんだっけ? 俺? 俺は陸上部。あ、そうだったかも。思い出した、卒アルでユニフォーム着て写ってたよね、めっちゃ目立つオレンジのやつ。そうそうアレ撮影のためだけに着てさー。
 ドン、と目の前にかけそばの器が降ってきた。わ、早い、と思ってる間に瀬尾くんの前にも蕎麦が置かれる。
「いただきます」
 瀬尾くんが箸を手にとるのに倣い、私も箸に手を伸ばして湯気の中を覗き込んだ。器に手を添えると、手のひらがじんわりと熱い。箸を突っ込んで麺をほぐすと、もわもわと湧き上がる湯気が揺れた。
 蕎麦をずるずるとすする隙間で、私たちはお互いの思い出が重なる部分を探すみたいに、中学時代の話をした。理科担当だった担任の立花先生が、三者面談の場で瀬尾くんを「瀬戸くん」と呼んだ話。中二のとき、田所くんと女子バスケ部の青木さんが付き合って二週間で別れた話。修学旅行でハメを外した隣のクラスの男子のせいで、夜の自由時間が説教時間に変わった話。立花先生の結婚式に、皆でビデオレターを撮らされて、なるべく映らないように後ろの方でコソコソしていた話――。
「懐かしいね」
 話が一段落するころには、瀬尾くんの器にはもうほとんど麺がなくなっているようだった。
「あれからもう……十年か。十年ってやばくない? あと十年経ったら私たち三十五だよ?」
 やめろやめろー、と瀬尾くんが笑う。
「あの頃ってさ、俺、二十五ってもっと大人だと思ってたよ」
「私も」
「思春期らしく、大人ってうぜーって思ってたし」
「でも私、今でも上司とか見て大人ってってうぜーって思ってる」
「俺も」
 ははは、と笑ったあとで、瀬尾くんが背もたれに寄りかかり、ぽつんと言った。
「俺の職場ってさ、冷たいんだよ」
 もう麺が入っていない器を見ながら、「冷たいっていうか、なんというか」と呟く。
「私の職場も冷たいよ」
「牧田さんって仕事何してんの?」
「リフォーム会社の事務。今日も変なクレーム入ってさ、私の担当外だったんだけど、事務のメンバーって派遣の人が多いから、お前が処理しろって回ってきちゃって。みんな自分の仕事でいっぱいいっぱいだし、うちの会社って時短の人多いんだよね。それに」
 私なに愚痴ってるんだろう。
 唐突に我にかえって、ぱっと口をつぐむと、瀬尾くんが「ん?」と横で首を傾げた気配がした。
「それに?」
「いや、それに……なんていうか、難しいよね、会社って」
 ふんわりと適当に話を収めると、瀬尾くんが「だよなあ」とこれまたふんわりと返事をして、ふう、と息をついた。
「大変だよな。うちの会社だけじゃないのかな、どこもそうなだよな、きっと」
 私に言うというより、自分に言い聞かせるように呟いて、瀬尾くんはうつむいた。
 ――そうだよね。働くんだもん、どこも大変だよね。と当たり前のことを言おうと瀬尾くんの横顔を見て、開きかけた口を閉じた。
 そんなこと言いたくない、と思った。
 そんな上っ面だけをなぞるような、顔も見えないどこかの誰かに遠慮するみたいな言い方、したくない。
 私たちは大人で、働かなくちゃまっとうになんか生きていけなくて、自分のケツは自分で拭かなきゃいけなくて、でもそんなこと、赤ちゃんが泣くように、小学生が放課後に公園で遊ぶように、びっくりするくらい当たり前なことだ。みんな大変だ。みんな疲れてる。こんな当たり前なこと、誰も褒めてくれない。慰めてくれない。
「わたし」
 なぜか泣きたくなるような衝動に駆られて、瀬尾くんの横顔に向かって口を開いていた。
「私の会社のね、更衣室ってすごく狭いの。ロッカーも小さいからコートとか入らなくて、みんな共用のラックにかけるのね。そしたらこの前帰る時、私のコートが床に落ちてたの。みんなその横、お疲れ様でーすって通り過ぎていくんだよ。踏まないように跨いで。なんかさ、そういうの、冷たいっていうか、なんていうか、寂しいっていうか」
 話の着地点を見つけられずに、私はもごもごと口の中で「そんな感じ」と無理やり呟く。勢いこんでどうでもいい話をしたことが恥ずかしくて、箸で蕎麦を適当につまんで口に運んだ。こっちをじっと見て私の話を聞いていた瀬尾くんが、「うん」と眉毛を下げて頷く。
「分かるかも」
「……え、分かる?」
 思わず顔を上げると、瀬尾くんがうん、と再び頷いた。
「俺もあるよそういうこと」
 たとえば、と瀬尾くんが箸を置いて、プラスチックのコップに手を伸ばす。
「たとえば、……俺ちょっと前まで残業が続いてて。疲れとか関係あるか分かんないけど、目が突然痒くなって、すげー充血しちゃってさ」
「え、それ大丈夫だったの?」
「うん、結局何ともなかったんだけど、でもその時は、片目だけ真っ赤でブヨブヨになってキモかった。これは病院行けとか言われるなー忙しいのにやばいなーって思ってたら、誰にも何も言われなかったんだよ」
 瀬尾くんが苦笑する。
「みんな、別に意地悪なわけじゃないんだよな。あの人たちだって、たぶん家族とか友達とか、自分の周りの人たちの目が赤かったら心配すると思うんだよ。俺だって隣に座ってる人の目が赤いこと、気が付かないかもしれない。気づいても何も言わないかもしれない」
 水を飲み干す瀬尾くんの喉ぼとけを見ながら、今度は私が「うん」と頷く番だった。
 分かるかも。分かるかもしれない。
「大人になるって悲しいよなあ」
 ビールの一気飲みみたいに勢いよくコップをテーブルに置いた瀬尾くんは、「悲しいっていうか、なあ。うん」とさっきの私みたいに口ごもった。なんというかそういうところが、私たちはしらふだ。勢いがない。
 悲しいとか、寂しいとか、虚しいとか。そんな言葉たちはやっぱり空々しくて、他人行儀で、きちんと手のひらで触ることができない。でも、今日までやってきたことを思い出しても、明日やらなきゃいけないことを考えても、私の胸のあたりは小さく竦んでしまう。どこからが「大人」だったのかは分からないのに、そんな自分はやっぱり子供のときとは違うのだと思う。
 私はプラスチックの地味な箸で、これまた地味な色の麺をつまみ、口に運ぶ。暖かい蕎麦って、なぜかこたつを思い出す。こたつの温もりと、石油ファンヒーターの人工的な熱と、紅白歌合戦。……紅白歌合戦?そうだ、年越し蕎麦。年越し蕎麦を思い出すんだ。鳴門とかまぼこと天ぷら。つまらない演歌。向かいにはお父さん、左にはお母さん、右にはバラエティが見たいとごねる弟。海老天争奪戦。懐かしい匂いとあたたかさ――。
 最後の一口をすすって、咀嚼して、飲み込んだ。垂れてきそうになる鼻水をティッシュで押さえる。入り口の自動ドアが開き、二人組のサラリーマンが入ってきて、冷たい空気が足に触れた。
「食べ終わった?」
 瀬尾くんが、空になった私のコップに水を入れてくれる。
「うん」
 そのお酌をありがたく受け取り、一気に飲んで、私もさっきの瀬尾くんのように勢いよくコップを置いた。
「お待たせ。行きますか」
「もういいの? ごめん急かして」
「全然。明日もあるもんね、お互い」
 笑いながら腰を上げると、嫌なこと思い出した、と言いながら瀬尾くんも立ち上がった。
 年末と呼ぶにはまだ早い。けれど今年はあとひと月しか残っていない。
 店を出ると、浮かれた金曜の夜が広がっていた。
 中学生みたいな下ネタを叫びながら、割といい年したスーツの軍団が通り過ぎていく。
「酔っ払ってんなあ」
 瀬尾くんが、嫌そうでもなく、笑いながらでもなく、しみじみそんなことを言うから笑ってしまった。
「なに?」
 そんな私を不思議そうに瀬尾くんが見下ろす。
「いや、本当に酔っ払いだなあと思って。金曜の夜の電車とかってお酒臭いよね」
「んー、でも機嫌よく酔えるならいいよな。うちの部長とか酔うと自分の武勇伝延々と話してくるし、課長はやたらひっついてくるし」
「え、課長がひっついてくるの?」
「女課長だからね、女なのがむしろキツいから」
 瀬尾くんが口を歪める。いい年した中間管理職が男性社員にべたべたするって、確かにそれは生々しい。
「うちにもいるよ、セクハラ上司。可愛い子のこと飲み会の後に誘ったりしてるし、平気でネックレスとか押し付けてるし」
「へえー、今時いるんだな。そういう古き良きセクハラオヤジ」
「良きではないでしょ」
「うん、良きではないか」
 瀬尾くんが笑う。白い息が夜に溶けていく。私たちはご機嫌な道を歩く。九時。帰ったら十時前。お腹はいっぱいだから、シャワー浴びれば十一時にはベッドに入れる。そんなことを冴えた頭で考える。
「じゃ、俺ここで」
 瀬尾くんが唐突に足を止めた。急に立ち止まれなかった私は二歩先を行き、「え」と振り返る。
「地下鉄なんだ、帰り」
 瀬尾くんが立ち止まったのは地下鉄につながる小さな入り口だった。私は納得してああ、と頷く。
「そうなんだ。銀座線?」
「うん。牧田さんJRでしょ。気を付けて帰ってね」
 瀬尾くんの、ざっくり編まれた暖かそうなマフラーが寒風に揺れる。その上の顔は、明日も仕事だという当たり前の現実を当たり前に受け止める、ただの大人の人だった。
「うん」
 知っている人のようで、やっぱりよく知らないような彼の顔を二歩分離れたところから眺める。
 オレンジのユニフォームを着ていたアルバムの中の瀬尾くん。あの頃の男の子は、写真の中で、どんな顔をしていたんだっけ。
「瀬尾くんも気を付けて」
 ――卒業アルバムの中の私は、どんな顔をして明日を迎えていたんだろう?
 じゃ、とコートのポケットから手を出すより早く、瀬尾くんは笑って「あのさ」と切り出した。
「あのさ、明日、更衣室で誰かのコートが落ちてたら、俺絶対に拾うよ」
 ぎゃはは。バカ笑いをする若者の集団が通り過ぎる。腕を組んで歩くカップルが、瀬尾くんの後ろを通って地下鉄の階段をゆっくりと降りていく。ふわふわの茶髪を覆うようなピンクのマフラー。一日の終わりを否定するみたいに輝く街の明かり。
 その中に佇む瀬尾くんの赤い鼻の頭を見て、私はさっきと同じ、なんでか泣きたい気持ちになった。
 こんな浮かれた夜の街で、瀬尾くんはしらふだから。大真面目に、両手で、現実をまるごと受け止めているように見えたから。
「うん」
 だから私も、冷たい空気を吸い込んで言った。
「私も、もし誰かの目が充血してたら病院に引っ張ってくよ」
 泣きたいのをごまかすみたいに笑うと、瀬尾くんもはは、と笑った。
「じゃあね」
「うん」
 何の名残も感じさせずに、瀬尾くんが背を向ける。男の人のコートって、全部同じに作られているようにしか見えない。その背中がしっかりとした足取りで、地下鉄の階段を降りていく。
 全部見えなくなる前に、私も歩き出した。瀬尾くんと次に会うのはいつになるのだろうと思いながら。もう彼とは二度と会うことなんてないのかもしれないと思いながら。
 何気なくポケットから携帯を取り出す。二件の新着メッセージ。有芽から電話とメッセージが来ている。「ほなみいまどこにいるの?」「田所くんがしつこくてやばい。このあと二人で飲むかも。笑」――。
 冷たい風に負けそうになる指で既読だけつけて、返事は電車でしよう、と再び手のひらを携帯ごとポケットに突っ込む。
 大人なんてみんな大変だ。みんな疲れてる。こんな当たり前のこと、誰も褒めてくれない。慰めてくれない。頑張れ頑張れって背中を押されて、人ごみの濁流を流されるだけで精一杯の日々。何もかもうまくいかないと思っているくせに、そんな日常を選んでいる自分自身。
「あーもう飲まなきゃやってらんないー!」
 前を歩く白いコートの女の人が、そう言って隣の友達と思しき人の腕にしがみつく。よろけて、二人で大爆笑している。
 その脇を通り過ぎて、硬い歩道を踏みしめながら、私は思った。
 飲まなきゃやってられない。
 酔わなきゃやってられない。
 みんなそうなんだ。既婚者と一線を越えてみたがること。久しぶりに会った同級生とワンチャンスを狙うこと。自分の武勇伝を部下に延々と語ること。年下の男の子に体を引っ付けること。みんな何かにしがみつきたくて、でもそんなみっともないこと誰にも悟られたくなくて、何かに、自分のことを満たしてくれる何かに酔っ払っていなければ元気に明日を迎えることすらままならない。
 JR駅前の長い信号を待ちながら、私は瀬尾くんの夜みたいな瞳を思い出していた。
 彼のしらふな視線と声を、思い出していた。
 ――更衣室で誰かのコートが落ちてたら、絶対に拾うよ。
 信号が青になる。人々の見えない波に押されるように、私は歩き出す。たとえばこの寒風にやられて風邪をひいても、薬局で薬を買って部屋を暖めて早めに寝て、明日も自分で起きなければならない。もし今回のクレームの件で、「古き良き」しょうもない上司に怒鳴られても、人前で泣くなんてことしたくない。負けちゃうかもしれない。もう歩けない日が来るかもしれない。でも、それでも。私も両手で受け止めなければならない。問答無用のしらふな寂しさを抱えながら。
 年末の空気は、風も凍てつくほど冷たい。眩しすぎる明かりがよく映える。そんな雑多な道を背にして、私は明日に向かっていく。
 明日もきっと、今日と同じくらいは、頑張れる気がした。


<作品のテーマ>

テーマは一応、いつまでも子供ではいらないことへのストレスです。ストレスとどう向き合うかという話かもしれません。
書きたいシーンから書いてしまったものなので、そことそれ以外がなんだか噛み合っていない感じになってしまった気がします。。
何かご感想・ご指摘いただけると嬉しいです。
読んでくださった方ありがとうございました。
   投稿者  : 古事記のリテナ
初めまして。
...最後の穂波、決まってましたね☆ 私はまだまだ子供ですが、何となく穂波の言っている事とか、考え方とか、読んでいて共感できる気もしました。
文章の中で一番良かったと思えた所はやっぱり最初のシーンですね。二人でのやり取りなのに女子会感があまり無い...!(個人的な意見です。)凄くセンスを感じさせる文章で、楽しく読ませて頂きました(v^-゚)
   投稿日 : 2017/05/19 23:15
   投稿者  : 弥生 灯火
むむ、月見さんの新作だ。しかもタイトルから推測するに私が好むアルコール系等のお話ではないか!
これは喜び勇んで読まなければなるまい。な、なにぃ!? 同窓会のシチュエーションだとぉ!
いま手がけてる作品と同じじゃないか! 途中で上手く展開出来ず二ヶ月ぐらい放置している私の(爆)
よぉし、これを読了して参考とまでにそのまま写そう(人はそれを盗作と言う 再爆)

さて、読書実況はここら辺にしてと、感想書きますね。
文章は読み易いですし、シチュエーションも想像し易いので、すぐ作中に没入することが出来ました。
今作に限らずですけど、安定した文体ですよね。不安定な私とは大違い。なのでストーリーもすんなり入ってきました。
掲げられたテーマのこともあり、相変わらず現実味のあるお話でした。特に構成面で不自然さは感じませんでしたよ。このまま瀬尾くんとの恋愛作にでも出来そうな仕上がりです。

ただ気になったのは、一応テーマとした、と書かれている「子供ではいられないストレス」ですかね。
職場でのエピソードを絡めて、表そうとはしてるんですが、今ひとつ弱いというか、少し違うような・・・
読んでて感じたのは、大人としての責任感(大げさに言えば)にまつわるもので、それに慣れなくてストレスを感じているような気がしたんですよね。そしてエピソード自体は、子供ではいられない感じを象徴してるわけでもなく、責任感の有無でもない(瀬尾くん側だけ少しあるぐらい?) 世間の無情さのおもむきの方が強く出されていた気が。
子供ではいられない、とするからには、学生時代はこうだったね、ああだったね。でも大人になるとこんなだよね、というようなエピソードにした方が、テーマという点に限って言えば良かったと思います。
テーマ関係ない単体のエピソードとしては、良い具合なんですけどね、恋愛の始まりって感じで(笑)

ではでは、これからも創作、頑張って下さい。拙い感想失礼しました
   投稿日 : 2017/05/20 00:54
   投稿者  : てこてこ
読ませて頂きました。
噛みあってない感じと仰っていますが、個人的にはそんな風に思えませんでした。自己投影してしまう様なリアリティのある人物像や空気感がとても良かったです。
私もテーマに関しては少し引っ掛かりました。子供ではいられないというより、理想と現実とのギャップや、社会の理不尽さという方が読んでいて感じられました。
きっと主人公がとても大人びているからなのかも知れません。子供らしさが抜けない大人はもっといい加減な人が多いと思いますので。
話の内容自体はとても良くまとまっていますので、気になったのはそこぐらいですね。
あ、瀬尾くんとの別れのシーンで若者の集団が通り過ぎた部分などの、些細な周囲の風景の描写を入れるのが上手いなぁと思いました。盛り上がるシーンですと主役にカメラが向きがちになりますが、上手く俯瞰を捉えられているといいますか、現実味も感じてとても良かったです。
それでは長々と失礼しました。
   投稿日 : 2017/05/20 13:49
   投稿者  : 涼格朱銀
 一定のレベルで仕上がっている作品で、おそらく普通の読者ならこの作品の苦しい部分は気にならないんじゃないかと思います。
 ただ、見る人が見れば、飲めない人が飲み会に行く居心地の悪さみたいなものを書いてみたものの、それに対する作品としての決着の付け方がうまくできていないのは見破られるだろうとは思います。

 冒頭のシーンで問題になっているのは、結局のところ主人公が飲めないということなのですよね。飲めるんだったらどうあれ居心地の悪さを感じることはなかったはずですから。ストレスの問題や子供か大人かという問題はサブテーマで、この作品の本題は飲めないことのはずです。タイトルからしてもそうですし。
 しかし、そのことに作者が気づいていないのか、もしくはわかっているけど処理に困ったかで、飲めないことが問題だったはずなのに、ストレスの問題に話がすり替わっているのです。わりとうまくやっているので気付かれない可能性も高いんですけど。

 大人はみんな大変で、飲める人が飲まなきゃやってられないというのは最初からわかっていることで、ここで問題になるのは、飲めない人はどうすればいいのか、ということなんです。それについての洞察や答えが弱いのが問題なわけです。
 大人が一様に抱えるストレスにプラスして、飲める人がストレスを発散している時に、飲めない人はさらなるストレスを抱えることになるわけですけど、それを甘受する、という結論に一応は見えるものの、そこまで言い切るだけの強さや覚悟を主人公がこの作中で獲得したのか、というと、そんなことはないはずです。
 どちらかというと主人公は、瀬尾とそば屋で「飲み会」をすることでストレスを発散したから、明日からも頑張ろうという気になった、というのが自然だと思うのです。飲む人がやっていることを飲まない人でもできる、ということに気付くことで希望が見える、また、「飲み会」をやることで飲む人の気持ちが理解できて、酔っ払いから受けるストレスが薄れる、というのが、この作品の自然な流れなんじゃないのかな、と。そこに焦点を当てることで、作品のブレを解消することができるのではないかと思います。
   投稿日 : 2017/05/21 14:42
   投稿者  : 月見
みなさま、ご感想、ご指摘本当にありがとうございます。
私情でしかありませんが現在少しばたついておりまして、じっくり読み、きちんとご返信させていただきたいのでしばらくお時間いただけますでしょうか。
せっかくいただいたご感想に申し訳ございませんが、よろしくお願いします。
   投稿日 : 2017/05/22 07:58
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